ようやく上体を起こせるまで、二日もかかって しまった。粥を腹に収め、再びうつらとし、午後に目覚めると存外動けるようになっていた。ベッドを降りる。鈍い痛みはあるが、我慢できる程度である。

 主の服を用意していたヨーダは、

「昨日まで、死にそうだったのに」

 と、アレクをベッドに寝かせようとした。縄を 持ち出してベッドに括りつけかねない勢いに、鍛え方が違うのだと言い繕って、そそくさと着替えを済ます。ふと、鏡の中の自分に目を留めた。頬がこけ、目と 口の周りには痣がくっきり残っている。彼を拷問した衛官は、容赦という言葉を知らなかった。顔ははっきり覚えているから、次に会った時には容赦ある顔の殴 り方でも教えてやろう。

 身支度を整える。さすがに、痣が残る顔を晒す のは憚られた。鍔付の帽子を目深に被る。

「本当にお出掛けになるんですか」

 外套を肩に掛けながら、心配顔でヨーダが言 う。苦笑して、呼んだ辻馬車に乗り込んだ。窓を開ける。ヨーダを傍に手招いた。

「ケイの傍を離れるなよ」

「言われなくても。本当に、あの子は優秀な弟子 ですから」

「花帽子の、な。では、行ってくる」

 カナシュの、向かうは月の輪である。まだ陽が 高いうちから行く場所ではないが、静かな時に話しておきたいことがあった。

 昼間はひと気がない。うち寂れた印象が濃い街 の入り口で、馬車を降りる。あちこち痛む体で娼館の前まで辿り着くと、なんの前触れもなしに扉が開いた。

リ アートが立っている。

「そろそろ、来る頃だと思ってた」

「……随分と察しがいいな」

「こんな真昼間に、街の外れで馬車を降りるよう な無粋な人、ひとりしか知らないもの」

 彼女の頬に触れる。ひんやりと冷たい。彼女の 部屋の窓を思い浮かべた。そこからなら街の入り口が見える。更に言えば、アレクの屋敷の方角でもあった。

自 意識過剰かもしれない。だが、自ら出迎えてくれたことには、少しくらい期待してもいいと思う。

「お帰りなさい。隊長さん」

「ただいま」

 リアートに手を引かれ、二階の部屋へと通され る。正直、馬車の振動も体には負担だった。ソファに腰掛ける。リアートが差し出すものを受け取って、思わず顔を綻ばせた。

「ホットミルクだね」

「ええ。体にいいのよ。残しちゃダメ」

 麻酔代わりにウィスキーを――そう思っていた がアテが外れた。ブランデーもウィスキーも山と用意されていながら、怪我人は一滴も呑ませてもらえないらしい。この部屋の主には、とんと逆らえない。

 カップを傾けた。隣を横目で一瞥する。

「聞いているんだろう」

 何を、とは言わなかった。しかし、彼女は微笑 で云と頷いた。

「緘口令が布かれていたけど……人の口に戸は立 てられないでしょ。ここに来る軍の士官さんが、漏らしていくの。貴方が地下牢にいるらしいって」

 士官でさえ、「らしい」ということしか知らな かったのだ。

 リアートが爪の先で、アレクの髪を梳いた。こ めかみの傷が露わになる。思わず眉を顰める。

「痛い?」

「ああ。思い切り踏み付けられた」

「日頃の行いが悪いからだわ。これを機に、改心 するのね」

「生憎と、別に有り難がるような説教じゃなかっ たもんでね。むしろ、自分がしてきたことが可愛らしくさえ思えたよ」

「懲りない人」

 緩くウェーブした髪が肩から滑り落ちる。ふう わりと、香水の匂いがした。アレクが好きな香りだ。

 一口、二口と、腹の具合を確かめるようにミル クを含む。人肌ほどの液温も有り難い。胃も食道も、刺激には敏感になっている。

「なぜ捕らえられたのか、聞かないのか」

 当然、聞いてくるものと思った。軍宰領が牢に 入れられた理由も、なんの咎めもなく釈放された理由も、一切公にはなっていない。少しでも事情を知る者なら、裏に意図があると分かるはずだった。

「そんなの、必要ないわ」

 美しい微笑を浮かべる。

「私と貴方との間で共有できたものがあった?  一緒に過ごした時間くらいよ、そんなの」

「言ってくれるね」

「でも、私にとってはそれだけで充分。だから気 兼ねすることもないの。――私にできることなら、なんでもしてあげるわ」

 無条件で手を貸そうという。瞳には、深い慈し みの情が滲んでいる。

彼 女の心は広い。だから、彼女を繋ぎ止めることができなかった。最良の手は別れることと、どちらも気が付いていた。別れた後も、こうして手を差し伸べてくれ る。友として、同じ時を共有した仲間として、惜しみない愛情を向けてくれた。

互 いに愛しいと、今でも思う。口が裂けても、言葉にはしないだろうが。

「俺に何かあったら、屋敷にいるケイという子を 匿ってほしい」

「何か、あったら?」

「何もなければ、それはそれでよし。ただ、俺が 長いこと身動きできない時がくるかもしれない。そうなった時、君にその子を頼みたい」

「私に子守をしろってことかしら」

「そうだな。そうとってもらって、構わない」

「まさか、貴方の子供じゃないでしょうね」

「自分に隠し子がいたという話は、まだ聞いたこ とがないが」

「時間の問題よ」

 ちょっと頬を膨らませ、髪を掻き揚げた。アレ クの体がゆっくり傾ぐ。リアートの膝に頭を置いた。

「眠い?」

「いいや。……少しだけ、疲れた」

「ベッドで休んだら」

「ここがいい」

 目を閉じた。ほのかな温もりが懐かしい。彼女 が髪を梳く仕草も、どれも心地良くアレクを深い眠りに誘う。

「リア、信じている。心から」

「アレク」

 ふわり。香水の薫りが強くなった。こめかみの 辺りに、彼女の柔らかい唇が触れた。

「私もよ、アレク」

 季節外れの、花の香りがした。

 

 

 

 

 ミルマのデスクには、オーレストの地図が広げ られている。幾つかの地区に、赤いバツ印が記されていた。

そ れを囲んで、統帥、宰領、文官の三人が頭をつき合わせている。傍から見たら、戦場の風景である。

「ボィアには、鍵らしい情報はありませんでし た。ピアナには行き方知れずになった者がいましたが、身元が知れない者が入り込んでいる形跡はありません」

 ネイジェスの言葉と共に、地図にバツ印が増え る。

「東のナジヴ、西のクエリードにもそういう情報 は入っていませんでした」

 アレクも自ら印をつけた。王城を中心とした円 状に、赤のマークがいっぱいになる。

「ダインスタール周辺の街で、それらしい目撃情 報がないというのは、おかしくない?」

 デスクに足を上げ、椅子を揺らすミルマは、不 謹慎にも欠伸をして言った。

「ちゃんと、シュケフトの足取りを追っているん だろうね? カナシュでシュケフトが殺されたとして、その時、鍵はなかった。ということは、城からカナシュまでの間でどこかに隠したか、或いは逃げられた かだ。どちらにしても、何か痕跡が残るもの。こんな長い間、噂にならないのも変だ」

「どういうことでしょうか」

「俺を試そうなんて、無礼な副官だな」

「失礼いたしました。……十中八九、誰かが匿っ ているのでしょうね」

「でも、アレク様。それは、ちょっと妙な気がし ます。用途を知っていればまだしも、単に誰かを保護したということであれば、早々に届出があってもいいはず。それさえないとなると、一体誰がどんな意図 で、という謎が増えてしまいます」

 彼らは、王城を中心にして、外側へ外側へと探 索網を広げていた。既にダインスタールから逃げていたとしても、必ずどこかでその形跡が見付かるはずだった。しかし、その足取りは一向に掴めず、王側も捜 索の手を砂漠地帯にまで伸ばしたと聞く。

 アレクは内心、安堵していた。ケイを拾った 日、深夜とはいえ誰にも目撃されていなかったのは幸運だった。しかも、一度衛隊がフィアード家を家捜しし、“鍵”がなかったと判断している。それ故、懐疑 の目を誤魔化すことができた。

「表立ってなんの形跡もないというのなら、 『鍵』を持っている奴はまともな奴じゃないんだろう。ネイジェス、この街は」

「ざ、ザンディですっ。ここが何か?」

 まるで先生と生徒である。

「鈍いな。国内一の精鋭部隊相手に、文官のジジ イが無傷で逃げられた? 共にいた鍵も、怪我をしているかもしれない。今のところ公医官から報告はないから、ザンディの違法医の世話になっている可能性も ある」

「さすがミルマ統帥っ」

 本心から関心しているネイジェスの隣で、アレ クがわずかに目を細めた。

こ の王子――侮っていると、簡単に彼の術中に引き込まれる。こんなに早く、その可能性に気付くとは。

 思案を悟られまいと、額に手を当てた。

「アレク様、どうなさいました? まだ傷が痛み ますか」

「いいや。ザンディの塵を一掃することができれ ば、一石二鳥だと思ってな」

「本当に、そう思っているのかい」

 ミルマが、探る目つきで顔を覗き込んだ。

「もちろんです」

 ちょうど、ヌクテにも会いに行かねばならない と思っていたところ。一石二鳥とは、こういう時に使うのだ。

 

 

 

 帰りがけに、ランプも灯していない廊下の隅か ら、アレクを呼び止める声がする。気配を隠していたわけでもないだろうが、少なからずアレクは驚いた。視界の届く範囲まで出てきたのは、イリニエだった。

 どうしていたものか。あの一件以来、顔を見る ことさえなかった女だ。

「久しぶりだな、イリニエ」

 素直に笑いかける。一足近付くと、しかし、彼 女は半歩後ろへ下がった。

「フィアード様に申し訳なくて。……あの時、逃 がしていただいたのに。何もできませんでした」

「まだ、そんなことを?」

「衛隊にひどい目にあったと」

「しかし、今はピンピンしている」

「わたくしが迂闊だったのです」

暗 がりの中で目頭を押さえる。アレクが手を伸ばし、その頬に触れた。イリニエが瞼を閉じる。

ア レクの手が離れた。

「わざわざ謝ることなんてない。結局、あれはミ ルマ様の命ということで話がついたんだから」

「でも――」

「イリニエ。聞きたいことがあるんだろう」

 彼女は口を噤んだ。すうと、息を呑む気配があ る。

「フィアード様はあの時、既に贄の一族の手掛か りを掴んでいらっしゃった。どこで、お知りになったのです?」

「全てが終わったら話すと、約束したはずだ」

「贄の一族……生きているのなら、わたくしも 会ってみたいのです」

「それは、国に仕える者としてか。それとも学査 官としてか」

「もちろん、両方です」

「……そうか」

 アレクの頬に、冷笑が浮かんだ。

 ――こう来たか。

思 う。

 グレーの学衣を羽織った女を見下ろして、彼は 言った。

「イリニエ――ではあるまい?」

 瞬間。

 女の雰囲気が一変した。見上げる眼が鋭さを増 す。常人の気配だったのが、圧倒されそうな強い気に変わった。仮面を取ったわけでも、化粧を落としたわけでもないのに、少し前までのイリニエの面影はな い。見知らぬ女が、そこにいた。

「どうして分かったの」

 微動だにしないアレクを睨みつける。口調は穏 やかだが、本性を隠せはしない。

 アレクは静かに腕を組んだ。

「肌が違うんだよ」

「まあ、デリカシーのない男」

「イリニエは、頬に触れられてじっとしている女 じゃない。なりきれなかったな、下衛」

「貴方の女に対する観察眼には、お見それするわ ね。――で、質問に答えてないわよ。贄の一族の印を、どこで見たのか」

「そちらも必死だな。そのうち見付かるんじゃな いのか」 

「茶化すんじゃないわよ。なんなら、また牢獄へ 戻してもいいのよ」

「生憎と、いたぶられるのは趣味じゃないんで ね」

「女をいたぶるほうが趣味だっていうんなら、本 当、悪趣味だわ」

「男をいたぶる女よりマシだと思うが」

「答える気は?」

「ない」

 一体、どちらの動きが早かったのか。

ピ リっと、窓が振動した。手を伸ばせば顔に触れられる位置で、動いたのはほんの少しだ。

 女は、アレクの剣を鞘に押し戻すように柄に左 手を置き、右手で自身の背中から短刀を引き抜こうとしている。その腕を、アレクの左手が掴んでいた。右手には小刀を持ち、女の首筋に添えている。

「……呆れた。袖にも隠してたの」

「日々、鍛錬を怠れなくてね。いつ何時でも、訓 練できるようにしているだけさ」

「これも、訓練のうち?」

「そうだな。下衛の首なんて滅多にとれるもの じゃないし。話の種に頂いてもいいんだが」

「ってことは、逃がしてくれるの」

「取引しだいだ。――イリニエはどこにいる」

 女の言葉の端々に、アレクとイリニエしか知り えないことが垣間見えた。彼女が話した以外考えられない。 

無 事ならばいい。もしも、無理やり彼女に何かしていたら――、

「素直に答えなければ、この場で首を斬る」

 小刀を押し付けた。青白い肌に刃紋が映りこ む。

 女が目を眇めた。右手を背の短刀から放す。 ゆっくり、上体を戻した。

「こんなもので、わたしの首を斬れると思ってい るの?」

「息の根を止めるのなら、これで充分だ」

「女には優しいって聞いたけれど、そうでもない わね」

「寝首を掻く女なんて、怖くてならないね」

「イリニエという学官……貴方のなんなのかし ら」

「ただの知り合いだよ」

「あんなに強情だと、何かあると思うのが普通だ けど」

「彼女はどこにいる」

「……ザンディの外れに転がってるわ」

「殺したのか」

 常人なら、身動きできなくなるほどの殺気で詰 め寄った。だが、女は平然と笑う。まるで負けてなどいない、とでも言っているように。

「殺してなんていないわ。ただ、眠っている女を 介抱してくれるほど、ザンディは治安がいい土地じゃないことは確かね。早く助けに行ったほうがいいんじゃない」

「――ああ。そうしよう」

 視線に険が増す。

女 が、流れる仕草で半身を引いた。小刀の間合いから逃れる。軽い足取りで闇へ消え行くのを、

「ッ――」

 アレクが手を伸ばした。女の髪の毛を一束掴 む。小刀が閃く。

「――イリニエに何かあれば、こんなものじゃ済 まない」

 闇の中、女の姿が溶けた。足音も気配もなく なっていた。

 アレクの手の中に、髪の房だけが残っている。 手の中で握り潰して、そこに打ち捨てた。

 その深夜。

ザ ンディの外れにある空き家で、三人のならず者が半死半生で見付かった。

 

 

 

 質の悪い傾きかけた酒屋の脇に、細い階段があ る。それを下り、アレクは突き当りのドアを蹴り開けた。

「ヌクテっ。いるか」

狭 い部屋の奥に、老人が腰掛けている。パイプを燻らせ、ジロリ、訪問者を睨み付けた。

「足で開けるとは乱暴者め」

「仕方がないだろう。両手は塞がっている」

「その女、死んでいるのか」

「気を失っているだけだ。怪我の手当てを」

「隣の台に乗せろ」

 カーテンで仕切られただけの隣部屋が、診察室 だった。硬いベッドに彼女を横たえる。額にかかる髪を上げた。頬に色がない。閉じられた瞼からは、明らかに嫌悪の表情が見て取れる。

 ――可哀相に。

イ リニエの長かった髪は、乱雑に切られていた。服から覗くあちこちに、抵抗したらしい痕も見える。

「どれ」

 薄汚れてはいるがきちんと白衣を着、ヌクテが ざっと検分を始めた。

「気を失っておるが……薬も飲まされたようじゃ な」

「毒か?」

「いいや。体の自由を奪うものじゃ。放っておけ ばその内抜けるだろうて。問題は外傷だ。――おい。あっちの部屋へ行っておれ」

「ん? ……ああ」

 許可もなく裸を見るのは、良心に悖る。すごす ごと部屋を出た。

椅 子を引き寄せる。ジャケットから煙草を取り出した。一本を抜き取り、火をつける。二口吸って、すぐに潰した。険しい顔を俯ける。

 すべて己が招いたことだ。安易に、イリニエに 力を借りたのが間違いだったのだ。ライエメトの一件で彼女がお咎めなしとしても、それで何も知らないということにはならない。相手が下衛なら尚更、聞き出 すためには手段を選ばないだろう。薬を投与し、あまつさえ、それがどんな結果になるか分かっていて、意識が無い彼女を危険な場所へ放り出した。アレクが来 なければ今頃――。

「あの女……同じ目にあわせてやればよかった」

 拳を握る。指が震えていた。髪一束では、イリ ニエの気持ちを晴らしてやることもできない。

女 は始めから、イリニエの所在と引き換えに逃げるつもりでいた。その手口に吐き気を覚える。目的のためなら、人の一生がどうなろうと構わない。王という盾を 武器に、何をしてもいいと思っている。心なんて持ち合わせていない。あれは、武官ではない。

「今度、俺の前に現れたら」

 覚悟しておけよ、と心で呟いた。

「おぅい。もういいぞ」

 イリニエの身体は、洗い立ての袷服に包まれて いた。どこにそんな綺麗な布があったのかと、疑ったくらいだ。汚れた服は隅に丸まっている。

「診たところ、打撲数箇所、腕と足に切り傷。内 臓に別状ないから、命の危険はないだろう。ただな、心の傷ってやつは目には見えん。お前さんだって分かるよな」

「元はといえば俺が原因だ。償いはする」

「償うって、どうしてやるつもりだ。まさかお前 が、一緒になるっていうんじゃないだろ」

「俺みたいな遊び人と暮らしても、苦労するだけ だ」

「ほう。ちゃんと分かってるじゃねえか」

「彼女をこんな目にした奴のあたりはある。手で も足でも首でも頂いて、償ってもらうさ」

「……物騒な……お話、です……ね」

 微かな声が、イリニエの唇を震わせた。薄く瞼 が開く。

「イリニエ」

「……フィアード、様」

 一言発し、大きく咳き込んだ。ヌクテが水を汲 んで、彼女の口に宛がう。少し喉に流し込み、やっと息を吐き出した。

「大丈夫かい、アンタ。痛いところだらけだろう が、心配いらん。命に関わるような怪我は、ひとつもありゃしねえよ」

「はい……。フィアード様が、助けてくれたんで すよね。途切れ、途切れに。お声を、聞きました」

「――すまない」

 深く頭を下げる。が、イリニエはゆっくりと首 を振った。

「力を貸したのは、自分の勝手。フィアード様が 気になさることではありません。わたくしこそ、謝らなければならないのに……話してしまいましたもの」

 下衛に、アレクとの関わりを話した一件だ。

「それでいい。命を懸けてまで守ることではな い。私なら、どうとでもなる。もし、万が一、この先同じ目にあったら、その時は私になんか構うな。君が笑えていることが、何より大切なんだ。命を懸けて守 るものは、それだけでいい」

 彼女の眦から涙が伝う。そっと、指先で拭っ た。

「君に手を借りたのは、私の失敗だ。今後こう いったことがないよう、護衛をつける。暫く不自由になると思うが、許してくれ」

「それは……フィアード様が?」

「いや、私では仲間だと公言しているようなもの だ。士官の中から選りすぐりの者を、護衛につけよう」

「……嫌です」

「イリニエ?」

「わたくし、元々武官なんて大嫌いなんです。ガ サツで乱暴で、家名を鼻にかけるし、学官なんて国益にならないと切り捨てる。役目とあれば、人を傷つけることも厭わない……今日みたいに」

 彼女の言うことの後半部は、まったくその通り だった。アレクでさえ、斬りかかってきた男を返り討ちにしたことがある。役目だからと言えばそれで済むが、傍から見ればただの人殺しだ。そも、武官とはそ ういうものなのである。

 侮辱されても反論しないアレクの手を、イリニ エが柔らかく包んだ。

「でも、フィアード様は違いました。わたくしを 信頼し、託してくれました。何より――『イリニエ』と呼んでくれます」

 学官は武官に比べ、目に見えて大きな功績を上 げる機会がない。武官が、一朝一夕の雄姿で讃えられるなら、学官は効果が現れる数年後になって、やっと認められるものだ。故に多くの武官は学官を蔑ろにす る。名前を覚えられないのが常だった。

し かし、アレクは違う。「おい」とも「のろま」とも言わずに、必ず「イリニエ」と名前で呼んだ。

「それに、ライエメトで庇ってくださいましたで しょう。わたくしが協力を惜しまない理由など、あれで充分です」

「好かれたもんだねえ。宰領さん」

「ジジイ、黙ってろ」

 ギっと睨む。女との仲をからかわれるのは好き ではない。相手が真摯な目を向けてくるなら、尚のこと。

「私は、女を呼ぶ時は名前で呼ぶことにしてい る。君だけが特別じゃない」

「分かっております。付け加えるなら、女性に触 れるのも特別な意味があるわけではないのですよね」

「ああ」

「分かっていて、フィアード様に力をお貸しした いと思ったのです。幾ら護衛をつけていただいても、あの人たちが諦めるとは思いません。護衛を見れば必ず、わたくしがフィアード様と意を同じくしていると 考えるでしょう。どちらに転んでも、わたくしは協力するしかないようです」

「随分、乱暴な論法だ」

「殴られたお陰で、効率良く結果に到達する力が 身についたみたいですね」

「いいのかい?」

「償ってくださるのでしょう?」

 ふわり、笑む。力ない、それでも決然たる光が あった。

「最後まで、お供いたします」

そ こまで言われて、アレクが言える言葉はない。負けた、と思う。

「じゃが、実際問題、どうするつもりだ? お前 には役目があろう? 女の守ができるのか」

 ミルマとネイジェスの目を掻い潜り、探索を続 けながら、しかもケイまでも気に掛けねばならない。とてもひとりでは手が足りなかった。

 ――いや。何も、相手の目の前で彼女を守らな くてもいいのだ。

「木を隠すには、森の中、か」

「は?」

「いいや。それはこちらでなんとかなる。残る問 題は、ヌクテ。アンタのことだ」

「俺?」

 目を点にする。

 イリニエの件がなくても、今夜中にここへは足 を運ぶつもりだった。もちろん、違法医一掃と称した鍵探索があると伝えるためである。

「そうきたかい。ま、いずれはそうなると思って いたが」

 生粋の違法医であるヌクテは、真っ先に捕まる 対象だった。

「捕縛は明日か明後日にも開始になるだろう。お 前には捕まってほしくない、というのが俺の正直な意見だ」

「ほう、珍しいこともあるもんだね。軍宰領が、 俺みたいなもんを気にかけてくれるのか」

「お前がいなくなったら、俺が暴れた後始末を任 せる者がいなくなる。それだけだ」

「……まったく、この宰領さんは加減ってえのを 覚えにゃならん」

「ヌクテがいると思うから、手加減なしなんだ。 骨一本折ってやっても、お前は綺麗に繋げちまうし。少しは手を抜けよ」

「馬鹿者。医者に言うことか」

「ま、色々世話になったからな。――何がなんで も、捕まるな」

 軽い調子の中に、一点、深刻な色が混じる。ヌ クテが眉を顰めた。

「逃げてもいいのか」

 問い返す。

ア レクははっきり、頷いた。

「できれば、一生捕まらないでもらいたい」

「捕まったら、アンタのしてきたこと喋っちまい かねないもんなあ」

「命の危険もあることを、承知していろよ」

「お前さんが、俺を捕まえなければいい」

「現場で動く士官に『ヌクテは藪医者だから放っ ておけ』と? それはできない相談だ」

「ならば?」

「アンタには、消えてもらう」

 これにはヌクテも、黙って話を聞いていたイリ ニエさえも二の句を次げなかった。

無 言で腰の剣を抜く。

「ちょ、と待てよ。逃げてもいいんじゃなかった か?」

「ああ」

「その同じ口で消えろとは、どういう了見だっ」

「いなくなれば捕まえることはできない。だから そう言った」

「馬鹿か、お前は。死んじまったらお前の後始末 は誰がするっ」

「だから、こうするのさ」

 風塵が舞った。狭い室内で、風圧が相手の髪を 掠めた。

 我に返ったのは、剣が鞘に納まってからだ。は らりと白衣が落ちる。

「な……んて、危ねえことをっ。殺す気か」

「そうだ。ヌクテは殺された」

 落ちた白衣を手に取る。剣先で切り裂いて、更 にみすぼらしいことこの上ない。

「これに血を着けて、浜へ捨てておく。ヌクテは 死んだ。今日からはフィアード家の執事だ」

「執事! この俺がっ」

「灯台下暗し。それに、屋敷に医者がいたほうが 何かと心強い」

「……おいおい。本当に、死ぬまでコキ使う気 じゃないだろうな」

「大丈夫だ。時が来れば、放免してやる」

「牢獄に入れられるか、屋敷に監禁されるか。 どっちにしろ自由は望めねえなあ」

「命と自由と、どっちが大事だ」

「そりゃあ――命さ」

 医者らしく、だが、笑った表情は凄みのあるも のだった。すっと、袖を捲くる。

「やるなら早いほうがいいだろう」

 メスで自ら腕を切った。赤いものが滴る。乱暴 に白衣に擦りつけた。

「……俺は、別の動物の血をつけておくつもり だったんだが」

「こっちのほうが手っ取り早い。何、切り口が綺 麗ならくっ付くのも早いからな」

「そういう問題じゃない。……イリニエが気を 失った」

 配慮ない行為に、アレクは深い溜め息をつい た。


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