どこかで水が落ちている。一定のリズムで落ち るそれが、覚醒する意識を再び深遠の淵に引き戻そうとした。

―― 眠い。

自 覚した瞬間、身体の痛みに眉を寄せる。瞼をそっと開けた。

目 の前の石床に、四角の日溜りができている。それだけが、今の時を示していた。

 指先は既に感覚を失っていた。頭よりも、更に 高い位置で繋がれた両手に石の壁は冷たい。胸の辺りを見る。シャツに血が滲んでいる。ああ、こんなにして、ヨーダはなんというだろう。あんなに辟易として いた小言が懐かしい。アレクは頬を少し歪めた。笑おうとし、唇が切れた痛みに我に返る。

 気を失っていたのは、どれくらいだったのか。 目を閉じる前、辺りは暗かったように思う。相当の時間、意識を無くしていたらしい。国軍宰領ともあろう者が、と自嘲する。

 ライエメトで上衛に捕らえられ、即刻王城へと 護送された。共に柵付の馬車に乗せられたのはネイジェスひとりである。イリニエは、先に調査団として来ていた学官であったことと、アレクが彼女を脅してい たと認めたために、すぐに開放された。

護 送される時、こともあろうに姿を見せたイリニエに、アレクは内心驚いた。声を掛ければ嘘がばれる。来るな、来るんじゃない――。

 心配をよそに、彼女はそれ以上近付こうとしな かった。歯を食い縛って、見つめることしかしなかった。それが泣いているように見え、アレクは目を逸らした。今となっては、もっとよく見ておくべきだった と後悔する。これから長く、女の顔を見ることは許されないだろうから。

 妙な後悔をして、首を動かす。王城の地下牢 に、まさか自分が入ろうとは夢にも思わなかった。

 学官を脅してまで、なぜ禁地へ足を踏み入れた のか。理由を明かすのを拒み続けたアレクは、言葉にできないほどの拷問を受けた。殺されたほうがマシだと思いもしたが、生憎とそんな優しいことを衛隊はし てくれない。三日までは意識も保っていたが、それ以降、うつらうつらとした闇の中で殴られては覚醒し、腹を蹴られては気を失う。そんな日々を繰り返した。 与えられるのは水だけ。空腹かどうかさえ判然としない状況下では、別段、大したことではない。

 蹴られて胃を潰された際、腹の中のものはすべ て出してしまったにも関わらず、ひどい吐き気に襲われた。力ない咳き込みと同時にせり上がってくる胃液に喉を焼かれる。必死に顔を上げようとした。

主 が捕らえられれば、家人も責めを負う場合がある。ヨーダと少年は無事だろうか。どうか逃げていてほしい。そうして、静かな場所で暮らしていくのだ。思い出 したくないことは忘れてしまえっ――。

 胃液を吐き出すのも限界になった。顔を上げる 力もない。指先ひとつ動かせはしなかった。

ま た、ゆらゆらと意識が途切れた。

 

 

 

 牢に繋がれ、七日が過ぎた。

 漂う意識の中ほどで、誰かの靴音を聞いてい た。軽い足取り。まるでスキップでもしているのかと思う。それは目の前で止まった。

「無様だねえ。国軍宰領ともあろう男が」

 笑んでいるのが分かる。久方ぶりに聞く声だ。 薄く瞼を開ける。霞む視界の先で、やはりミルマは笑っていた。

「おや、ちゃんと生きているね。まあ、それだけ しぶとくないと、俺の副官は務まらないからな」

「……このような所へ来てはいけません。私は罪 人です。……宰領ではありません」

 捕らえられた時に覚悟はできていた。

ミ ルマは、さもつまらなそうに言葉を次ぐ。

「何、戯けたこと言ってるのさ。そう易々と取り 上げられるほど、軍宰領の地位は軽かないよ。禁地へ足を入れたことは極刑に値するが、俺の指示となれば話は別。だろう?」

 確かに、王家直轄の地に王家の者の命で入るの ならば、なんの咎めもない。

「けどさ、何か知っちゃならないことを知った ね。それでなかなか開放を許されなかったんだ。ああ、俺の副官に、なんてことをしてくれたんだろう」

 その目は、自分の玩具を壊された子供だ。ミル マの手が牢の扉を押す。鍵が外れた。耳障りな音に顔を背ける。

「アレク様っ」

 駆け寄り、手の縛りを解いてくれたのはネイ ジェスだった。少しやつれているが、元気そうである。

「私は、何も知らなかったので早々に開放しても らえたのです。立てますか?」

 ひとりだけ申し訳ないと眉を垂れる彼に、目顔 で頷く。右手を彼の肩に廻し、引き上げられる。久々に膝に力が加わった。縺れる足をどうにか動かし、牢の外へと出る。その様子をじっと眺めていたミルマ は、

「本当に、無様だねえ。こんな牢獄ひとつ抜け出 せなくて、国軍宰領だなんて呆れ果てる」

「……お言葉ながら、脱獄をすれば、それこそ命 を縮めることではありませんか」

「まあ殺されなかったのはさ、ひとえに俺のお陰 だと思うから感謝してよ」

「ええ。感謝しておりますとも」

「なんだか心がこもっていないけど、今だけは許 してやる。ネイジェス、俺の執務室へ」

「はい」

 引き摺られる形ながら、アレクはやっと牢獄か ら出た。

地 下から上がる狭い階段は円を描いている。朦朧とした頭は、それが永遠に続くと思わせた。

地 上へ抜ける。牢番の男がちらりと視線を寄越したが、すぐに見て見ぬふりをした。鉄の門扉が開き、霧を含んだ風が優しく頬を撫でる。

「お寒いでしょう」

 ネイジェスが自身の外套をアレクの肩に掛け た。正直、寒いという感覚もなかった。牢獄のほうが遥かに寒かった。

 ミルマが足を止める。彼の目前にグレーの着衣 が見えた。ドゥイだ。王子を認めて略礼する。

「副官に手荒い真似をしてくれたな」

 ミルマは横目で、鋭く睨みつけた。対する私官 はその表情を変えない。

「恐れながら、この程度では到底償える罪ではな いと思いますが。それに、彼の牢置きは私の関知するところではありません」

「へえ? でも私官に従う衛官は多いんだろ。特 に下衛なんてのは、実質、私官が動かしているっていうし。この機に邪魔者を消せず、残念だったね」

「私はフィアード宰領を買っています。彼は最高 の武官です」

「だが、そちらに付かなければ、邪魔者以外の何 者でもない。違う?」

 微笑を貼り付けたまま、ドゥイは黙した。沈黙 が、言葉にならない答えを雄弁に語っている。

「アレクは王には付かない――国軍宰領である限 り」

 国軍宰領の紋章は、三日月に剣を交えたもの。 三日月は“欠け月”に通じる。王には私官、王子には国軍宰領が補佐となる。国が成り立った時代から定められていたことだ。

 ドゥイがちらりとアレクを見る。腫れた目を見 ても、眉ひとつ動かさなかった。

「その気になれば、宰領という地位を解くことも できたのです。そうすれば、彼をこちらへ引き取ることもできた。しかし、王はそうはなさらなかった。全く、優しいお方です」

「今度これに何か仕掛けるつもりなら、もっと精 巧な落とし穴を掘るんだな。一発で仕留められるような。じゃないと、いつか痛い目をみるよ。私官」

 ミルマが笑った。平然とドゥイの前を横切る。 アレクとネイジェスもそれに続いた。

「アレク」

 過ぎ様、ドゥイが囁くように言う。

「何を知ったとしても、君たちにはどうすること もできない。命が惜しければ、子守に専念することだ」

「……ご忠告、どうも」

「身体は大事にしろ」

 白々しい言葉を吐き捨てる。ネイジェスが緩く 唇を噛んだ気配がある。だが、現段階で勝てるだけのものは、何ひとつ持っていない。ここで言い合っても解決はしない。

 ネイジェスがそっと振り返ると、ドゥイがその 場を離れるところだった。

 

 

 

 軍統帥執務室には重湯が用意されていた。ネイ ジェスに傷の手当てをしてもらい、柔らかいソファに座る。重湯を口に運んだ。幾日も食べていなかった喉は飲み込むことも重労働だといわんばかりで、身体が 悲鳴を上げた。ふた口で、トレイを脇へと押しやる。

「それで、君はライエメトで何を見た?」

 椅子ではなく、デスクに座るといういつもの姿 勢で、ミルマが問うた。この数日、彼が最も興味を惹かれたのはそれだったろう。 

 唾を飲み込む。傷が疼いた。

「……ライエメトで、ダーダ・ヴェルニが隔離さ れていたであろう場所を、見せてもらったのです」

「贄の一族、ね。神話だと思っていたけどねえ。 まさかその証が残っていたとは」

 苦々しげにミルマが言う。眉間には不快感が色 濃く表れている。

反 応が薄いと思った。

「……ミルマ様は、ダーダ・ヴェルニを知ってい たのですか」

「まあね。これでも王族の直系だし。ライエメト の地についても、あの一族を匿っていたから禁地としたと、話には聞いている。ただ、大昔に一族の者は絶えたはず。だから、南の護りのための禁地だと教えら れてもいたが」

「滅んだ一族の住処を見ただけなのに、アレク様 にこんな仕打ちをするなんて、ひどいですよ」

 頬を膨らませるネイジェスの目が赤い。

俺 のほうが泣きたい気分だと、アレクは苦笑する。

「確かに、王側の動きはやり過ぎだ。アレクが見 たものが本当にそれだけなら、なぜあんなにもいたぶる必要があったんだろう。現に、ネイジェスはすぐに解き放たれているんだし」

「私が気に入らなかったんでしょう。そもそも、 衛兵と軍兵とは相容れぬものです」

「だからって、宰領クラスを牢へなんてさ。陰険 で粗暴な衛兵を使った、明らかに、あの私官の仕業じゃないか。奴の大事は鍵を探すことのはず。その責務を放ってまで仕返しされるようなことを、君はしたの かい」

「いいえ……思い当たりませんが」

「ふん、奴の女をとったなんて言ったら褒めて やったのに。――もしかしたら、なくなった鍵と贄の一族は、一線の上にあるのかもしれないねえ」

 デスクを指で叩きながら、ミルマが微笑した。

「ミルマ様、ひとつお聞きしたいのですが」

 少し上体を動かしただけで、至る所に激痛が走 る。

苦 痛に歪む顔を面白そうに見下ろし、ミルマは首を傾げた。

「何?」

「アジャルテ国を牽制するための方法、ミルマ様 はご存じですか」

「……それ、誰に聞いた?」

「ドゥイ私官です」

「あの鳩……手の内を見せるとは余裕じゃない か」

 苦々しく言い捨てる。

「それは恐らく、歴代の王しか手にすることがで きない力のことだ。玉座を譲り受ける時に伝えられる秘密の力。俺も話だけで、どんなものかは知らないけど、なるほど、王はそれを使ってアジャルテを牽制す る気なのか」

「ミルマ様は、そのことを知らなかったのです ね」

「軍とは関わりのないことだ。そも、あのお方が 信頼しているのは己の私官のみ。俺のことなんか、国を安泰に続けるための道具としか見ちゃいないさ。それに、俺にそんなことを言ったら、必ず邪魔をすると 分かっているんだろうよ」

 苛立ち、踵でデスクを蹴った。あまりの音に、 ネイジェスが体をビクつかせる。

「なんの手も打たず、ただ力を誇示したいから と、力を使うのは性急だ。あれは、そう簡単に使っていいもんじゃない。代々そう言われてきたはずだ」

「なぜですか。他国を牽制できるのなら、それを 使ったほうが手っ取り早いじゃないですか」

 ネイジェスの言に、ミルマは冷たい一瞥をくれ る。耐え切れず、ネイジェスがアレクの後ろに顔を隠した。

「強すぎるんだよ、力がさ。あれは敵だけじゃな く、自国までも巻き込む力だ。――歴代の王だけが受け継ぎ、乱用を禁じてきた理由はそれだ。それを使おうなどと……あれが父かと思うと、ぞっとする」

 後半部は、ほとんど呟きに近かった。敢えて聞 かなかったふりを決め込む。

「しかし、そう言い伝えられているだけで、実際 にオーレストに害をなすものなのですか」

「建国以前に、その力を使ったとされる初代オー レスト王の話を聞いたことがある。強く、激しい光が空を駆け巡ったかと思うと、敵は滅んでいた。そして、地が動き出し、南の要塞を作ったのだと。またある 王は、光で他国を焼き払ったが、その際オーレストの森も焼失してしまったということだ。以来、手を尽くしても緑は蘇らず、砂漠が広がってしまった。王が願 うことを叶える代わりに、必ず国土にも影響が出る――それが、光の波紋と呼ばれる力だ」

 ――光の波紋。

 聞いた途端、アレクはイリニエに聞いた話だと 分かった。

 シュケフトが生涯をかけて調べていた、オーレ ストの歴史変遷。その中にあった、月信仰を紐解く史実。

 ドゥイは、鍵は光の波紋に必要なものだと言っ た。

 鍵を探しているはずの者たちが、ダーダ・ヴェ ルニを知ったアレクに過剰な反応を見せた。

 言いようのないものが、体内を駆け巡ってい る。不安や恐れに似た衝動を抑えるのに、アレクは全神経を集中させなければならなかった。

「お前は、ダーダ・ヴェルニに繋がるものをどこ で知った」

 黙りこくった副官に、ミルマが探る視線を寄越 す。

「シュケフトの亡骸の傍に……彼らが使っていた 文字を、記すものがありました」

「なあんでそういう大事なことを、早く言わない かな」

 咄嗟に、ケイの存在を隠していた。本能がそう させた。

「申し訳ございません。あの文様が何を意味する のか、分からなかったものですから」

「まあ、その結果、相手の手にあるものを垣間見 れたから、いいんだけどさ」

 軽い音を立てて、デスクを下りる。手が伸び た。アレクの顎を掴み上げる。

 一寸、アレクは眉を顰めたものの呻き声を上げ るのだけは堪えた。

「――今までの話で、何か気が付いたことがあ るって顔だな」

「……何をなさいます」

「俺に隠し事ができると思っているのかい。言っ ておくが、現王よりも人を見定める目は持っているつもりだ」

 相手を見、誰が敵で誰が見方と成り得るかを 謀ってきた男だ。普段と少しでも違う気配を感じただけで、信頼を翻すこともある。そもそも、心から信じられる人間がいなかったのも一因であろう。近付く者 すべてを疑ってかかることで、どうにか今の地位を守っている。

ア レクについても同様だった。ミルマは口で言うほど、彼を信用していない。

そ んな者を相手にできるほど、今のアレクには余裕がなかった。

「……光の力に必要な鍵の喪失と、ダーダ・ヴェ ルニに関わる一件を見て――ダーダ・ヴェルニこそが、彼らが探す鍵なのではないか、と」

「ふうん」

 乱暴に顎を放す。倒れそうになるアレクの上体 を、ネイジェスが支えた。

「そこまで推察できながら黙っていようなんて、 百年早いよ、アレク」

「……ミルマ様も、そうお考えだったのではあり ませんか」

「まあねえ。鳩が、君に力の話をしたことも気に 食わなかったし。鍵、力、贄の一族と続けば、答えはひとつ。鍵は、ダーダ・ヴェルニの一族だ。鳩は、それを俺たちに報せるために、お前に手の内を明かした んだろうさ」

「ですが、邪見に思う者に、易々と手の内を見せ るのもおかしい話です」

 敵に塩を送るとは、まさにこのこと。敵に情報 を与えるなど、ドゥイが最もしそうにないことだった。

 解せない顔の部下に、ミルマが呆れた顔を向け る。

「おいおい。それで、本当に月闇の宰領?」

「……こちらに分からせて、鍵の在り処を探らせ る魂胆かと」

「まったく、やられたよ」

 バンッ。両手で力いっぱいにデスクを叩いた。 苛立ち濃く、今度は拳で壁を叩く。

「鍵を持ち出されて時間が経ってるのに、未だ見 つかっていないからな。奴ら、切羽詰ってやがるんだ。だから、目障りなはずの俺たちにまで情報を流し、手掛かりを掴もうってことなんだろう」

「王側は、鍵を見つけ出して力を使うつもりなん ですねよ」

 怯えつつ、ネイジェスが顔だけをアレクの背か ら覗かせる。

「だからっ、こっちで鍵を押さえる必要があるっ て話じゃないか。何を聞いてるんだろ、この文官」

 冷ややかな視線で見下され、ネイジェス青年は 閉口するしかなかった。

 アレクが、ゆるりと目を閉じる。

 シュケフトが鍵を持ち出した理由。本当に力を 使うというのなら――、

 目を焼くほどの光の波紋と、月信仰。自国にも 災をもたらすその力。

そ んなものを使わせないために、彼は鍵を城外へと運んだ。ダーダ・ヴェルニの一族となる者を。

「――ミルマ様。これからの指示をお願いいたし ます」

 毅然と顔を上げる。

 ミルマが微かに訝る目を寄越した。こちらの真 意を見極めんとしていたが、何も読み取れないと分かるのは早かった。

「いちいち指示しなくても、上官の意図くらい察 してほしいもんだね」

と、 苦笑を作る。

「頭が働かないもので。どうやら血が足らないよ うです」

「では二日だけ休養をやろう。その後は引き続 き、鍵の探索を命じる」

「鍵を見つけて、保護せよと?」

「いいや。殺せ」

 あっさりと、ミルマは言ってのけた。

 ネイジェスが息を飲む。

「保護してどうしようって言うんだい。今回は上 手く先に手にすることができたとしても、またいつ何時、不埒者に狙われるか分からないだろう。なら、鍵を壊してしまえばいい。そしたら、力は使えない」

「ですが――、人、なのですよ」

「だから? 君は武官だろう。まさか、誰一人殺 めていないなんて温いこと、言わないよね」

「だからといって――」

「それにねえ。ダーダ・ヴェルニは滅んだって、 歴史書には記されてる。もはや伝説の域だし。そんな者がのこのこ現れて、一族が繁栄しちゃったらどうするのさ。俺はこれ以上、国内に爆弾を抱えるつもりは ないよ」

 一理ある答えにも聞こえる。だが、アレクには 到底頷けるものではなかった。

ダー ダ・ヴェルニは国を危険に晒そうとは考えてもいない。望むことといったら、花帽子を作ることくらいだ。それを、ミルマは問答無用で切捨てよと言う。

「何がなんでも、誰よりも早く鍵を見つけろ。そ して壊せ。いいな」

 凄惨とした笑みを直視することができなかっ た。静かに、項垂れる。

「畏まりました」

 そう言う道しか残されていなかった。

 

 

 

 ネイジェスに付き添われ、アレクは久方ぶりに 屋敷に戻ってきた。

「坊ちゃまっ」

 ひとりで歩くこともままならない姿を見、ヨー ダは半分泣いている。

右 手をネイジェスに、左手をヨーダに抱えられ、自室への階段を上った。アレクをベッドに横たえると、文官はすぐ退室する。血の気の引いた顔に、必死に笑顔を 貼り付けていた。

横 になると頭に血が廻ってくる。鈍い痛みもあった。

 ネイジェスを見送って戻ったヨーダが、服を代 えてくれた。珍しい。無言である。いつものように、宰領としての誇りや旦那様を持ち出すものと思っていただけに、肩透かしをくった感じだ。それだけ心配し てくれていたのだと判る。

毛 布を引き上げる彼女の顔を見た。

「すまない、ヨーダ」

「坊ちゃま。ご無事で、ようございました」

 目が腫れている。寝ていないのだろう。要らぬ 心労をかけてしまった。

も う一度、謝る。彼女の掌が、アレクの手に重なった。

「送り出したのはわたくしです。ある程度の覚悟 はしておりました」

「どこに行くか、分からないのに、か?」

「ええ。主が屋敷をお出になる時、わたくしはい つも覚悟をしております。いつ何時、戦場へ行くか分かりません。屋敷を出られてそのまま帰ってこないかもしれない。それでもわたくしは、このお屋敷を守ら なければなりません」

「強いな」

「当たり前です。母は強いのです」

 分かっているよ、とアレクはやっと笑った。

「あの子も、ちゃんとおりますから。安心なさっ てください」

 眉が跳ね上がる。体を起こしかけて、痛みに呻 いた。

「坊ちゃま。大人しくなさってくださいっ」

「俺が捕らえられている間……誰も来なかったの か?」

「いらっしゃいましたよ。無粋な人たちが。あっ ちこっちを引っ掻き回した挙句、食器を何枚も割られました」

「ケイに目を留めたりしなかったか」

「一瞬見たようですけれど。でも、そう気にした ふうでもありませんでしたよ」

 衛隊は、まず間違いなくケイを捜しに来たは ず。それを目の前にして、引き下がるなど考えられなかった。

 コンコンと、控えめなノックがする。顔だけを 出してケイが様子を覗いた。たどたどしい足取りでベッドに近付く。

ア レクは納得した。

  衛隊が捜しているのは、“両足を失くした少年――KEY”だ。ケイは、ふわり広がるスカートにしっかり両足まである。一見すれば普通の少女であった。

「アレク、大丈夫?」

 毛布から出るアレクの腕を撫でた。

「顔、蒼い傷ができてる」

「衛隊相手にこの程度で済んだのは、奇跡だな」

「坊ちゃまは無茶をなさるんですから」

「普段やる気がない分、無茶もしようさ。……ヨーダ。屋敷とケイを守ってくれたことに、礼を言うよ」

「坊ちゃま。どうなすったんです? 今日は素直ですねえ」

「ああ。少し血が抜けて、落ち着いたんだろうさ。だからもうひとつ、馬鹿な頼みがある。ケイに服を作ってやってく れ。――もっと、今の女の子が着るような服をさ」

「本当に、大丈夫ですか」

 額に手を当てる。ヨーダの掌は冷たく、火照った頭に心地良い。自然、瞼を閉じた。

「拷問で頭を殴られたことはなかったから、頭が可笑しくなったんじゃない。ケイにはそういう格好のほうが、似合う と思うだけだ」

「そりゃ、そうですけどねえ」

「……頼むよ。ヨーダ……」

 深く、息を吸い込む。夢の入り口で、乳母の苦笑めいた溜め息が聞こえた。

 

 

 

 ヨーダに見送られ待たせていた馬車に乗り込んだネイジェスは、いるはずのない女が乗っていても驚かなかった。

「早かったのね」

 馬が走り出してから、女は言った。じっと外を見やっている。斜向かいに座したネイジェスも、彼女と目を合わせよ うとはしなかった。両手を組み、それに視線を落とす。

 車輪が小石を踏んだ。車体が小刻みに右へ左へと傾く。それと呼応して、女の長い髪もふありと揺れた。今日は髪を 結っていない。長いまま、無造作に垂らしている。そういえば今日は文官衣でもなかった。丈の長い外套の下から覗くのは、男性もののズボンに包まれた足だ。 細い体でそうしていると、男というより少年に見える。

彼 女はネイジェスよりも年上だった。確かな歳を知っているわけではないが、自分が王城に上がった時には既に彼女がいたのだから間違いない。

「バックネル」

 女の、形のいい口唇が開いた。馬鹿な男が目の前にいれば、甘い言葉でも幻聴に聞いたかもしれない。

 ネイジェスの肩が震えた。名前を呼ばれただけでこれだ。恐ろしくて、顔も上げられない。

「フィアード宰領をライエメトへ行かせてしまったのは、ひとえに貴方の力不足。まったく、とんだ失態をしてくれた わね。でもまあ、それもドゥイ様には見通せたことでしょうけれど」

「申し訳……ございません」

 囁く声は車輪の音に掻き消えた。女は謝罪など求めていないと、ネイジェスを一瞥する。「それで、ミルマ様はどう せよと」

「鍵を見つけ出して、殺せ、と」

「ほう。殺せ、か。確かに、それが確実ね。で、フィアード宰領は?」

「鍵は人だと仰いました。……本心は、殺すことを躊躇っておられます」

「甘いお人。でも――嫌いじゃない。そうでしょ、バックネル」

 云と、頷けなかった。身体が竦む。まるで、周囲に地雷を仕掛けられた気分だ。一歩でも動けば、その瞬間に命が消 える。

 女の探る眼つき。隠し事が不得手なネイジェスに、それを回避するのは至難の業だった。身を縮めて遣り過ごす。い つだってそうしてきた。目立たぬよう。己の一番大事な心だけは、誰にも見せないように。

「つまらないわね」

 女が苛立つ声音で吐き棄てた。

「フィアード宰領も、ミルマ様の横槍がなければ私が始末したのにっ。あんな好機、滅多になかった」

「……しかし、やはり国軍宰領が牢獄内で不審死すれば問題になります。クォーレン様も、それは望んでいないと」

「私なら上手く病死にでも見せかけてやるわ。殺すには惜しい相手だけど……こちらにつかないなら、なんの意味もな いもの」

「……国損だと、思いますが」

「彼にそこまでの価値があるとは思えない。安い正義も何もない。女と酒さえあればプライドなんてなくても生きてい ける――そういう男が武官なんて、なんて恥知らずなの」

 ――違うっ。

 ネイジェスは心内で叫んだ。

 アレクは、プライドがいかに無益かを分かっている。腹も膨れない、飢餓もなくならない。そんなものにどれほどの 意味があると問われた時、ネイジェスは何も言えなかった。

 あの人は真摯な人だ。他人に対しても、自分に対しても。そんな者が上にいれば、部下は幸せだ。

―― 自分も、そう、幸せだった。

 口を噤んだネイジェスを見、女が冷ややかに笑む。

「貴方は、自分の立場を分かっているわよねえ」

 すべての答えを押さえ込む冷笑。

ネ イジェスは最後まで、顔を上げることができなかった。


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