(二)


月が高い内にグランドールを渡り、林の入り口に到達した時には、既に空は白らんじていた。

 更地の砂に足を取られ、馬はひどく疲れてい る。アレクが馬から降り、背後を見やった。馬上でぐったりうつ伏せて、ネイジェスが瞼を閉じている。

 ――砂漠の中まで来た時だ。重いものが落ちる 音がして振り返ると、ネイジェスが砂の上に倒れていた。どこで気を失ったのか。慣れない砂地の足取りと、アレクの速さについてくるのに精一杯だったよう だ。所在無げに彼の馬が立ち竦んでいた。

 勝手にしろと言ったものの、放っておけば確実 に命を落とす。仕方なく彼を馬に戻し手綱も預かった。お陰で、大幅に時間がかかった。誰にも見咎められずに、砂漠を渡ることができたのは幸運である。

さ て、不運な文官をどうするか。思案を始めたことを知ってか知らずか、彼が呻き声を上げた。

「……あれ。アレク様……おはようございます」

「何がおはようだ。しっかりしろ。――水だ。飲 めるか」

 革水筒の口を差し出す。ネイジェスが、一口、 二口と水を飲んでいく。やっと人心地ついたという顔で、改めて上官を見上げた。

「死ぬまで走り続けるつもりか。馬鹿が。辛いと 思ったら引き返せばよかったろう」

「引き返したら、たぶん、もうアレク様のお傍に はいられないだろうなと思って……。私を信用していないと仰いましたよね。――あれは、胸に痛かったです」

 彼が思う理想の武官、文官の関係では有り得な い。アレクはそんなものを求めてもいない。

「確かに私は不器用だし、仕事はできないし、ア レク様の足手纏いにしかならないかもしれません。――ですが、私は私ができる精一杯のことで、アレク様をお助けしたいのです。この気持ちに偽りはありませ ん」

「恥ずかしい。無闇に口にすることじゃない」

「だって、アレク様が私を信用していない、なん て仰るからっ」

「――それだけ元気なら、大丈夫だろ」

 ちょうど、茂みからイリニエが姿を現した。

「お待ちしておりました」

「イリニエ、まさか夜通し待っていたのか」

「目が覚めてしまいまして。少し調べ物をしてお りました」

「すまない。気に掛けてもらって」

「いえ」

 アレクは軍服ではなかった。見慣れない姿のせ いか、目の遣り場に困ったイリニエは、その後ろでまだ虚ろな目をした男を見やった。

「そちらは……?」

「私の文官だ」

「国軍宰領付文官、ネイジェスです。よろしくお 願いします」

「こちらこそ。学官のイリニエです」

 簡単に自己紹介を済ませる。話し込んでいる暇 はない。アレクはもう一度、タトゥの写しを差し出した。

「どうだ」

「やはり、似ていると思います。ご覧になります か」

 問いに、ネイジェスが顔色を変えた。

「ちょっと待ってください。この先は禁地です よっ。これ以上踏み入れば、命がありません」

「もちろん、イリニエひとりに危険な真似をさせ ることはしない。共に行くと言っているのだ」

「そうじゃありません。冷静になってください。 例え一軍の宰領といえど、下手をすると首が飛びます」

「そんなへまをするものか」

「アレク様っ」

 なんとか止めようと試みるも、徒労に終わっ た。脅しても賺しても駄目と知ると、ネイジェスはひとつ長い息を吐き出す。

「……分かりました。私もお供いたします」

「別にお前になどついてきてほしくはない。ここ で休んでいろ。無理をして体を壊されでもしたら、目覚めが悪い」

「そんなに、柔にはできておりません」

 ――気を失っていたのは誰だ。

だ が、結局はここまで縋り付いてきた。それに対する熱意は買ってもいいかと思う。

「ではひとつ約束してほしい。イリニエもネイ ジェスも、この件は一切他言しないと」

「初めから、そのつもりでございます。王宮付学 官の紋章にかけて」

「いいや。王宮付ではまずい。イリニエ、君自身 に誓ってほしいのだが」

 それだけで、聡明な彼女は察した。今からする ことは、王の利になるものではない。むしろ、王を裏切る行為になるかもしれない、と。

「だが、私もこれだけは約束しよう。決して国害 になることではない。私を信じてもらうしかないが」

 学官がふと視線を彷徨わせる。

こ の宰領は、ともすれば不誠実と思われがちな男だ。だが、彼の目には強い意志の光が宿っている。どんなに不誠実を装っていても、それが真ではないことは、彼 を慕う者には分かるのだ。

イ リニエが、ほんわり、笑った。

「では、誓いましょう。――学査学官、イリニエ の名にかけて。アレク・フィアード様の言う通りにいたします」

「私も、ネイジェス・バックネルの名にかけて」

 アレクが強く頷く。

か くして三人は、ライエメトの森を奥へと進んだ。先を行くのはイリニエで、その後にアレク、おっかなびっくりのネイジェスと続く。

「ここの警備って、上衛なんですよね。……命は 風前の灯火だあ」

冗 談めかしてネイジェスが言う。笑えない冗談だと誰もが思う。上衛は下衛と違い法に従うものの、自分たちが違法者に変わりはない。

「大丈夫です。復旧作業に多くの武官が借り出さ れましたから、警備にも穴があるんです」

「すまなかった。君を、こんな形で利用しようと は思っていなかったんだ」

 アレクが周囲を憚り、小声で謝った。と、立ち 止まったイリニエが振り返る。それは坂道の途中で、彼女が上から見下ろす姿になった。

「……許しを請うなら、失礼と承知しつつ、伺い たいことがあります」

 夜が明ける。朝靄が睫を濡らし、闇を白く染め てゆく。

 彼女は頬の赤みも失った顔を向けていた。顎の 線は際立ち、頬の肉も落ちた表情には精練された美しさだけが残っている。眼鏡の奥の瞳は、どこまでも深い色をしていた。

「あの文様を、どこで見たのですか」

 一研究者としての問いだった。知りたいと思う 気持ちを抑えることができなかったのだ。純粋な気持ちのまま。それが彼女を美しく見せていた。

「知りたいのなら、もう少し協力してもらおう。 もちろん無償とは言わない。何もかもが済んだら、この文字の在り処を教える。これで、どうだ」

「……まだ、わたくしをこき遣うおつもりなんで すね」

「駄目か?」

 その膨大な知識では学査官に敵う者はない。そ して、彼女は常に素直な心で手を貸してくれる。しなやかに伸びゆく樹木を見ているようだった。

「是非、お手伝いさせてください」

 改めて首を垂れた。敬礼ではないところが、ま たアレクには好ましい。

「それで、あれはなんの模様だったんだ?」

「あれは……文字、でした」

「どこの」

「いえ、すでに無くなった文字なのです」

話 が見えないながら、ネイジェスも首を傾げる。

「無くなった、というと、滅んだ民族の文字です か」

「いいえ。あれの場合、文字を使う民族は正確に は滅んでいません」

「すまない。判りやすく言ってくれないか」

 指先で枝葉を寄せる。左右に首を廻らせた。気 を張って見渡すが、辺りに衛兵の姿はない。彼女は、兵がいない場所をよく調べているようだ。

 いや、と疑念が過ぎる。ただの学官に、ここま でのことができるのか。

不 意に下衛のことが頭に浮かんだ。姿も性別も一切知られない者たち。その中には、普段から他部署の官として生活している者もあると聞く。

―― 彼女がそれならば……?

 自問に自嘲する。初め、彼女に手を借りたのは アレクからだった。疑うのは筋違いだ。グレーの外套を羽織った背は、とても細い。武術にも富んだ下衛とも見えなかった。 

「フィアード様は、こんな昔話をご存知でしょう か。――古の時代、悪魔に魅入られた男が生まれたといいます。彼は地底より悪魔を召喚し、親兄弟を殺し、周囲の人間を殺した。人々は恐れるあまり、彼を崇 め、その力の前に屈服した。彼はこの大陸で神になった。でも、民にとっては決して安穏としたものではありませんでした。常に死への恐怖に怯える暗黒の時 代。人々は救世主が現れることを切に願った。そして、願った通り現れるのです。救世主は武官でも、文官でもなく――」

「若い女だった、という話だろう。有する不思議 な力で、悪魔を滅した。……そんなのは、根拠のない伝説だと思っていたが」

「少し誇張があるのかもしれません。ですが、そ の力にあやかりたいと真似をする者が多くあったといいます。言葉はもちろん、書く文字も真似たと。それぞれの国が建つ際、それは少しずつ形を変えて、今の 原型に至りました。あれは、その文字だったのです」

「今もその文字を使う民が?」

「まさか。一千年以上前にできた語の、更に起源 となった文字です。自在に使える者などありません」

 彼女の横顔に汗が光る。息が上がっていた。人 の手が極端に入っていない場所だけに、足場も相当悪い。通る道も、差し詰め獣道といったほうが正しいくらいだ。

 と、ゆるい陽光が辺りを包み込んだ。坂の上に 開けた場所が見える。右手の斜面に、泥が流れた跡が残っていた。陽光が眩しいと感じたのは、そこだけ木々がなかったからだ。すべて土砂と一緒に流れてし まっている。土を晒し、大きな石の塊が転がっていた。自然の石ではない。きちんと人の手で成形されたものだ。

霧 の露を纏って石群が光り輝く。鉱石に何かの金属が混じっていると思わせるほど、キラキラと美しい。

「最初、フィアード様からあの文様を見せていた だいた時、知らないと言ったのは嘘ではございませんでした。この文字は、発見されているものが非常に少ないのです。ですからメモを見せていただいた時も、 それが文字とは思いませんでした。わたくしの力不足です」

「そんなことはない。君は期待以上のことをして くれている。本当に感謝しているんだ」

「そう言っていただけただけで、すべてが報われ ます」

 後ろを行く二人には分からないが、彼女の目元 が初々しく赤らんでいた。

 石群の間を歩む。元は建物だったのか、窓のよ うな四角の穴が空いたものもあった。細く長い石が何本も突き刺さっている所もある。どうやら一帯に何かが建っていたようだ。

 目の前に、洞窟が口を開けている。ぽっかり空 いた空間は広く、大人が両手を広げてもまだ余裕がある。その先は真っ暗で何も見えない。

「これも、土砂が崩れたお陰で地表に顔を出した ものです。この奥で文字を見つけました」

こ こは、アレクが先頭を歩いた。手には夜駆けで使ったランプを灯す。

「埋まっていた時は、ただの山だったのか」

「はい。土を掻き出して、ようやく入れるように なったのです。警備兵も、存在を知りませんでした。元々、王家直轄地でしたから。誰も入ろうなどと考えなかったのでしょう。その大岩を曲がってください」

 通路の半分以上を遮る岩は、遥か昔の落盤で落 ちてきたものらしい。ごつごつした岩肌の横を慎重に進む。淡い光が、差し込んでいた。風が流れ込む。外に繋がった。

「……すごい」

 ネイジェスが唸る。

 小さな村なら悠々と入るであろう、広大な土地 が広がっている。見渡す限りをぐるりと山肌が取り囲んでいた。崩れた場所もあるようで、元が更に広い土地だったことを示している。

地 面には細い枝の樹が密生しており、火山で抉れた盆地の底に、もうひとつの森が出来上がっているようだ。微風にも流れるその樹を、アレクはどこかで見たこと があると思う。だが思い出すことができなかった。神秘的な光景に、一瞬心を奪われていた。

静 けさの中に、神々しいまでの気を感じた。瑞々しい枝葉は微かな陽光さえ透かし、風に靡いては頬を撫でる。優しい。母の面差しを呼び起こす、暖かい場所だっ た。

 アレクが枝を掻き分ける。手の甲でやんわりと 押し退けられ、微妙な撓りを見せた。呆然としていたネイジェスもやっと我に返る。こちらは幾分乱暴に枝を退けた。

 先へ先へと進んでも、周囲のものは何ひとつ変 わらない。生えている樹に種別はなく、ただ一種類の樹のみが群生していた。方向感覚がおかしくなる。頭上を見る。先へ行くほど枝を広げているのに、光を遮 ることはない。それほどに葉が薄い。

イ リニエが立ち止った。だいぶ奥まで進んできたように思う。

 彼女の横に並んだアレクは、瞬間、息を詰め た。

 無造作に落ちた、朽ちかけの石碑。中央に刻ま れているものに思わず身を乗り出す。この大陸、最古の文字だ。似ている。まったく同じというのではない。だが、ケイのタトゥと確かに通じるものがあった。

「城の書庫にあるものだけが歴史のすべてではあ りません。消失した文献もあります。ですが、手繰る糸の発端を掴むことはできる。物事は単独では在り得ません。人が命を繋ぐように、そこに起きる様々な出 来事もまた、繋がっているのです。糸の端を見付けることができれば、手繰る法はあります」

 イリニエの声は静かだった。

「民を救ったという女は、どこの誰と明確な記述 はありません。昔語りにある、『勇者、いづこよりか来たらん』といったものです。違うのは、勇者はまた旅へ出るのに対し、女は国へ留まったということ」

 文字や言葉を教え、皆に慕われていたはずなの に、文献の中でその存在の記述自体があまりに不鮮明だった。だが、全く別の資料で、女は形を変えて現れるという。

「これを」

 彼女が差し出したのは、一枚の絵だった。アレ クとネイジェスは同時に眉を寄せる。

柵 牢にしがみ付く女たち。怨み篭った目を吊り上げ、誰かの首を捻り上げる勢いで腕を伸ばしている。

「女の怨みの顔っていうのは、いつ見ても気持ち いいもんじゃないな」

 思わず口にしていた。

学 官の唇がわずかに綻んだが、すぐに引き結ばれる。

「女が起源となっている怪奇絵です。国を救った 女は、ここに行き着きます」

「民を救った者とは……到底思えんが」

「これが他の怪奇ものと大きく違う点があるので す。この者達は、人に恐れ遠ざけられながらも、同時に乞われてもいました」

「どういうことだ」

 アレクは意味を掴み損ねて、首を傾げた。

「――悪魔に魅入られた男は崇め奉られていまし たが、その残虐性から常に恐怖の象徴でもありました。その悪魔を抹消した女に、いつまでも感謝の念だけでいられたとは思いません。強く不思議な力を恐れる あまり、女もいつ豹変するかもしれないと怯えていたと考えられます。でも、下手に手を出して、皆殺しにされても堪らない」

「そこで、隔離を図った?」

「彼女の血に通ずる者はことごとく一所に集めら れたと。それが、ここ」

 辺りを見回した。広い地。四方を山肌に遮ら れ、唯一の外路はあの洞窟のみだ。

「だが、この文字があるというだけで、ここを囚 われの場とするのは性急ではないのか」

 何事にも慎重なのが学官だ。彼女が遺跡を見つ けてから、文を寄越すまでの間がひどく短かったのが気になっていた。

 イリニエは目顔で石碑を示す。

「確証はこの文字が示唆している意味です。女が 使っていた文字で現在残っているものの中でも、特に意味深いとされるもの。――『ダーダ・ヴェルニ』。贄の一族、という意味です」

「贄、とは……生贄のことか」

「文字通りの意味を示しているのか、それとも何 かの隠喩なのか分かりません。ですが、民が力を信じていたのは事実。ですから、畏怖の念と共に隔離し、力を乞うていた。……このような美しい地で、自由を 奪われて命を終えていくのは、どんな気持ちなのでしょうか」

 顔を覗き込むようにイリニエが首を傾げる。滑 らかな髪が胸に落ちた。決して動じない学者の顔を見せたかと思えば、時折、少女のような表情も見せる。

ア レクは手を伸ばした。指先で、髪の毛を梳きやる。彼女は頬を紅潮させた。

「そ、そうやってからかわないでくださいっ」

「別にからかってなどいないが」

 彼にとって、女に触れるのは無意識である。平 然とした男にときめいたと知り、イリニエは無性に腹が立った。しかし、己の勝手な怒りをぶつけることもできない。そっぽを向く。

「やれやれ。なんだか、気に障ることをしたよう で」

「アレク様。誤解を与える行動はお慎みくださ い。それでなくても、日々の伝書の中にアレク様宛の個人的な文が混じっていて、仕事にならないのですから」

「……いえ。わたくしが勝手に怒っているだけな のです。お気になさらずに」

「そう言われてはますます気になるが……いや、 何も聞かない。聞かないから、そう睨むのは止めてくれ」

「意地悪な方ですのね」

「今頃気が付いたのか」

「いいえ。とっくに気が付いておりました。―― フィアード様。わたくしはお役に立ちましたでしょうか」

「充分に、学官としての主約を果たしてくれた。 ありがとう、イリニエ」

「――勿体無いお言葉でございます」

 ゆるり頭を垂れる。肩を流れる髪が、一束落ち た。

 と、俄かにアレクの表情が険しくなる。ネイ ジェスも気配に気付き、慌しく首を廻らす。

 枝葉を掻き分ける音。前方から後方から、左右 からも靴音が近くなる。ひとりふたりの数ではない。地を這う音が不安を煽る。

 上衛に、見付かったのだ。

「アレク様」

 蒼い顔でネイジェスが見上げる。その表情が言 わんとしていることは、手に取るように分かった。

だ からといって、回避できるとは思っていない。隠れる場所もない。出口がひとつきりなら、逃げ切ることはできまい。それでも、頭の中ではどうにかして危機を 逃れようと模索する。本能が警告を告げていた。息を殺す。上衛はすぐそこまで来ている。

 ――どちらにしろ同じなら、やってやろうか。

 アレクが剣の柄に手をやる。ほんの少し引き抜 いたところで、強い力で剣は押し戻された。手の上から、誰かがそれを押し留めている。隣を見た。ネイジェスが小さく首を振った。脂汗が額を伝う。

 なぜ、と目で問う。彼は再び、否を表した。必 死に顔を歪める。

 彼も、とことん運のない男だ。アレクを見掛け てついてさえこなければ、こんな危険に遭うこともなかったろうに。彼が宰領付の文官でなかったならば――。

 アレクは苦笑を漏らしていた。それこそ、彼自 身が選んだことだ。アレクにはなんの責もない。

だ が、イリニエは別だ。彼女だけは罪から逃さなければならない。

「――来ます」

 イリニエの声が震えていた。

 顔を上げる。一際、乱暴にネイジェスの手を避 けた。剣を引き抜く。

流 れる刀身は、ひたりとイリニエの喉元に添えられた。

 深緑のマント を肩に跳ね上 げた男たち が、木立の間からその姿を現した。



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