七(一)
夜半になり、公務を終えたアレクは実に久々に 月の輪に出向いた。カウンターでは館主が穏やかな笑みを見せる。
「いらっしゃいませ、フィアード様。随分とお見 限りでしたね」
「そうだったな。で、これを持ってきたのはお前 か」
外套の下から差し出す封筒を見、ええ、と頷 く。
「直接お渡ししたかったのですが、ただの娼館の 主が、まさか宰領室まで出向くことはできませんから。お手元に届いて、何よりでございました」
館主から城内出入りの商家の手に託された封書 は、多くの女官の手を渡ってアレクの手に落ち着いた。差出人の名はないものの、封を開けた瞬間薫った香水に、すぐに思い至る。来い――と、一言だけ書かれ た文字も見慣れたものだった。
「娼婦に顎で遣われる館主など、聞いたことがな い」
「いいではありませんか。この館は彼女で持って いるようなものです。それより、上でお待ちですよ」
緩い傾斜の階段を上がる。娼婦は各々部屋与え られ、客の相手をする。廊下に並ぶドアには思い思いの装飾が施されていた。贔屓の客が娼婦に贈ったものだと分かる。
奥の角部屋。ドアに薔薇の模様が複雑に彫り込 まれた一際美しい部屋が、リアートの自室であった。ちなみに、この細工をさせたのは、他ならぬアレクである。
彼 が足を止めるのと、ドアが開くのは同時だった。
「待ってたのよ、隊長さん」
悠然と微笑むリアートはいつにも増して艶っぽ い。頬に軽くキスすると、ふんわり花の匂いが薫った。
「リアから恋文を受け取ってトンズラするほど、 臆病者ではないからね」
「あら、その割に随分遅かったものね」
「邪魔をされたくなくて、仕事をすべて片付けて きたんだ」
どこまでも甘い恋人同士のような会話である。 こっそり二人の様子を窺っていた他の娼婦は、顔を見合わせて頬を染めた。
「ほら、やっぱりリア姐さんとフィアード様は、 まだお付き合いなさっているでしょ」
「そうねそうね。ああ、でも残念。リア姐さんの 代わりに、私がお相手して差し上げようと思っていたのに」
「あんたじゃ無理よぅ」
「何よぅ」
若い娼婦の会話をドアで遮る。途端、リアート は苦笑した。
「あの子たち、また覗き見して。あとでよく言っ ておくから、気を悪くしないでね」
「別に構わないさ。それより、この封書の真意を 聞こうか。まさか逢瀬の誘いじゃないんだろう」
彼女は、例え客がなくても客引きなどしない。 カナシュ一の娼婦としての矜持でもあった。
「貴方に用があるって人が来てるの」
続き部屋に案内される。瞬間、アレクは目を 瞠った。敷物があるとはいえ床に直に据わり、ブランデー瓶を何本も転がしている男は、闇医者のヌクテである。高級娼館で会うとは思わない人物に、アレクの 眉根が寄った。
「俺になんの用だ。この前の謝礼なら、充分な額 を払ったと思ったが」
「それが、わざわざザンディから出てきた奴に言 う言葉かよ」
「五月蠅い、この酔っ払いが。単に、いい酒が飲 みたかっただけじゃないのか。用があるなら直接屋敷に来ればよかったものを」
「俺みたいなモンが出入りしたんじゃ、アンタの 評判に傷が付く。金蔓は大事にせにゃ」
「だったら、こっちに出入りする時は、もっとマ シな格好してきてくださいな」
酒を注ぎながら、リアートがさり気にヌクテを 窘める。擦り切れ継ぎ接ぎだらけの薄いジャケットに、底が抜けそうなブーツ。館主も、彼がアレクの名を出さなければ追い返していたろう。
外套を預け、グラスを受け取る。壁際のソファ に腰掛けた。
「女を目の前にしてお預け喰らった気分だが、ま あいい。呼び出した理由を聞こう」
リアートが席を外そうとするのを、アレクが止 めた。魅惑的な部屋に野郎二人きりにしないでくれと、目で訴える。肩を竦め、彼女はベッドの端に腰掛けた。娼婦は部屋で聞いたことは、絶対に他言しない。 軍人よりも遥かに信用が置けた。
「この前連れてきた子のことだが、な」
赤ら顔の医師は思い出すような目をした。
「お前さんも気付いていたと思うが、あの足…… 生えてたもんをすっぱり斬った痕だ。まあ、それだけなら別にどうってことないが、ありゃあ、いよいよ手術を施すって時だった。大人しく寝台に横たわってい た奴が、ひきつけ起こしたみたいに身体震わせてな。真っ白な顔で、怖い怖いってさ。とり憑かれたみたいに」
必死の形相だった。逃げるように身体を縮め て、震える唇で小さく呟いていたという。「助けてとか、やめてとか、そんな言葉ばっかりだ。無理矢理薬で眠らすしかなかった。それまでやけに時がかかった が」
眠ることにも怖がる様子を見せるケイだ。薬が 効き始めても、それに抵抗しようとしていたのかもしれない。
「手術中、足を検分したよ。切断面は相当昔のも んだったが、ありゃひでえ。足を切った道具は切れ味の悪いもんだし、傷が塞がればいいみたいな縫合の仕方にも目を疑ったね。ド素人でも、もっとまともに縫 える。何があったか知らねえが可哀相に」
それに、と一瞬口を噤む。微かに俯いた。
「それによお、あの細ッこい身体は長いこと動い てねえ体付きだ。筋肉もない。幾ら足を切られたって、普通に生活してたらもうちっとまともに筋力はあるもんだ。それが全くないってことは……」
動けない状況にあったということ。つまり、
「足を切断し、監禁していたってことか」
リアートが、どことなく蒼い顔を逸らした。ア レクも口を引き結ぶ。
あ んな小さな子に、そこまでする何があったというのだ。思い出されるのは無邪気な笑顔を見せる顔と、儚さを漂わせ月を見上げた姿だった。
湧き上がる怒り抑え込む。強く閉じた瞼を開け た時には、冷静な目をしていた。
「要らぬお節介かとも思ったんだが、一応教えて おいてやる。割り増しの金代くらいにはいい情報だったろう」
グラスの酒を一気に仰いだ。
「――やっぱり、タダ酒を飲みに来たとしか思え ん」
アレクのグラスは一向に減っていない。丸く溶 けた氷が縁に当たり、硬質の音を鳴らす。
「おかえりなさい。アレク」
ケイはいつものように、覚束ない足取りで迎え てくれる。ぐっとこちらを見上げる顔には、大分赤みが差していた。当初の消え入りそうな雰囲気も薄れている。一緒に食卓を囲む機会も増え、無に近かった表 情も豊かになった。
「ヨーダ、また花の作り方を教えてね」
し かし、ヨーダは首を横に振った。
「今日は止めておきましょう」
「やだよ、やだっ。もう少しで一個目ができるの に」
「いけませんよ。――熱があるようです」
最後は主を見て言う。どれ、と額に手を当て た。微かに熱い。頬が赤かったのは微熱のせいであったようだ。
「食欲もありますし大したことはないと思います が、念のために早く寝かせましょう」
「遅くまで縫い物をしているからじゃないのか」
「でしたら、坊ちゃまが早くお帰りください」
ケイは、アレクが帰るまで寝ないのだと粘るら しい。眠い目を擦って待つも、月が高くなる頃にはすっかり夢の中だ。
プリプリ怒る乳母に、主は苦い顔を見せた。
「女の所にも行けやしない」
「坊ちゃまっ。なんて下品なっ」
「主に向かって、ひどいじゃないか」
「子供の教育にはよくありません。これからは 真っ直ぐ帰宅してくださいませ」
「ケイは俺の子供じゃない」
「当たり前ですっ」
なんだかよく分からない掛け合いをした後、ア レクはケイを部屋まで運んだ。窓際の椅子に座らせ寝巻きを放り投げる。着替えている間に、暖炉の薪を足した。
「そんな薄着でいると、風邪を拗らすぞ」
薄い寝巻き一枚の身体を、毛布でグルグルに包 み込んだ。抱き上げベッドへ下ろす。毛布から目元だけを覗かせ、アレクを見上げた。
「ヨーダ、僕が風邪引いたの、怒ってる?」
恐る恐る、消え入るような声で問う。
「怒っていないさ。あれは心配をしているんだ」
「アレクも?」
わずか、片目を眇める。口を噤んだ。
黙 したのはほんの一瞬。掌で頭を軽く叩いた。
「当たり前だろう」
笑う。
少年が目を閉じた。
「皆、一緒にいてくれる。皆、優しい」
心からの安堵の声に、アレクは訝しげに眉を寄 せた。
「……僕、ずうっと、寂しかった」
「ずっと?」
「うん。ずっと、ずうっと」
「何か、思い出したか」
ゆるく、否と言う。
「そんな気がする。……もう独りぽっちは嫌だ よ。暗いのも、嫌い」
「灯りは消さないから。……明日も、ヨーダは来 る。花帽子は明日教えてもらえばいい」
「うん……うん」
頷きは小さくなり、やがて消えた。規則正しい 寝息が聞こえるばかりである。
一瞬答えに窮したのは、自分に、鍵の在り処を 探るために利用しようという気持ちがあったからだ。記憶がない今の段階で、手掛かりがあるとすれば、耳の裏のタトゥだけ。可能性を探るならば……。
懐に仕舞った紙を取り出した。小さく畳まれた 紙には、女の手で文字が書かれている。わずかに寄った眉を見れば、それがラブレターでないことが知れる。
ラ ンプの灯りを心持ち弱め、部屋を出た。階下へ戻る。夕餉の後片付けを終えたヨーダがブランデーを用意していた。深いグラスに、濃い琥珀色が揺れる。含む と、その芳醇な香りが鼻を抜けた。
「ヨーダも、一口やらないか」
暖炉脇で外套の繕いをしている彼女は、若い主 を横目で一瞥する。
「結構でございます」
「まだ怒っているのか」
「怒ってなどおりません。わたくしは、坊ちゃま を心配しているのです」
ふと縫う針を止めた。片肘をついてグラスを揺 らすアレクを見つめる。目が切なげな色を湛えていた。
「坊ちゃまは、お優しい。過ぎるくらいに、お優 しい方です」
「……突然、何を言う」
「前から思っておりました。今の地位にいらっ しゃれば、必ずお心が辛くなる日が来ます」
「国軍宰領は、俺には過ぎた役官と?」
「そうではありません。坊ちゃまなら、立派にお 努めになりますでしょう。それは旦那様とは違う形でだと、わたくしは思います。旦那様は力で他を従えておりました。軍宰領として、力を誇示する必要もあっ たのでしょう。ですが、坊ちゃまは――そうなる必要はないのですよ」
「俺に力が足りないと言われているようだ」
からかい半分、茶化して言う。怒ると思った が、反して悲しげに目元を歪めた。
「坊ちゃまは、人を愛しておられる」
愛、という単語に、思わずむせた。目に涙が浮 かぶ。武官にはあまりに似つかわしくない言葉だ。
「何を言うんだ、ヨーダ。殺す気か」
「本気で言っております。坊ちゃまが一番に考え ているのは、民のことでしょう?」
「それが国軍の主約だからだ」
ヨーダはゆるゆると首を振った。幼い頃、駄々 をこねた時と同じ、言い含めるような口調で言う。
「幾らそうであったとしても、民は坊ちゃまを 慕っています。坊ちゃまが想うように皆が思っていなくても、その想いは確かに伝わるはずですから。あの子の面倒を看ているのも、坊ちゃまの優しさです」
グラスで弧を描く。ランプの灯りが反射して、 白いクロスに模様を落とした。ヨーダの顔を直視できなくなっている。
「旦那様なら、お役目と関係ないのなら問答無用 で追い出しています。冷酷になれない坊ちゃまを、わたくしは誇りに思いますよ」
「……国軍宰領としては、失格だな」
「人としては立派でございます。ですから」
外套をパンと広げる。柔らかく畳み、アレクに 差し出した。
「どうぞ、お行き下さい」
顔を上げる。そこに、母の顔をしたヨーダが 立っていた。彼女は何もかもを知っているのか。酒屋か娼館に行くのと同じように言われては、言われたほうが目を丸くしてしまう。
「……しかし」
「大丈夫でございます。坊ちゃまがお帰りになる まで、わたくしがあの子を見張っております。決して逃がしはいたしません」
――そういうことではないのだが……。
体 から力が抜けた。元より、頭で考えるのは武官の役目ではない。幸い明日は休日である。
ブランデーを干す。喉が焼け、次に腹の中が火 を飲んだように熱くなる。外に出ることを思えば、暖の代わりになっていい。外套を受け取る。
「ありがとう」
「素直にお育ちくださって、嬉しゅうございます よ」
腰に剣を佩びた。
騎 馬なら闇に紛れられる。赤毛の馬は飼葉の中で休んでいたが、足音に身体を起こした。
「すまないな。もう少し、頑張ってくれ」
首を撫でる。小さく一声鳴いて、笑ったよう だった。
冴え冴えとした月が周囲を照らす。冷えれば冷 えるほど、霧は晴れ、空気は冴える。
馬の腹を蹴った。身体がリズムを刻む。しだい に風が頬を切った。革の手袋に手綱が食い込む。真っ直ぐにガヌーウ山脈の東の地、ライエメトへ向かった。鬱蒼とした樹林が茂り、人の手が入っていない地域 である。
ケ イにあるタトゥと似た文様を見たと、イリニエから文を貰ったのは帰り際のことだった。
三 日ほど、オーレストには珍しく豪雨が降り注いだ日があった。雨煙で前が見えないくらいの勢いで降った雨は、ライエメトに手痛い傷跡を残したのである。山脈 の裾野で大規模な土砂崩れが起きたのだ。その復旧作業中、古い遺跡のようなものが発見された。本当に遺跡ならば保存と調査が必要になる。学査から何人かの 学官が赴いた。イリニエもそのひとりだ。
やっ との手掛かりに、しかし、アレクの表情は硬い。
遺 跡らしきものが発見された場所は、古くからの王家直轄地に差し掛かった場所だった。王家の直轄地は、国軍も近付くことを許されていない所だ。故に誰も近付 けず、手付かずの森林が南の要塞をより確かなものとしている。イリニエたちの元にも、その地を汚すことならず、すぐに帰還せよと、王城から達しが来たとい う。学査官は準備が整いしだい、ライエメトを去ることに決まった。彼女はその前に文をくれたのだ。
深夜に紛れるうちにできるだけ近付いていた い。逸る想いで馬を駆る。遠乗りはよくするが、このような強行突破は初めてだ。
人が多い道には出ず、農道を選んで駆ける。カ ナシュを迂回しダインスタールを過ぎた。木々の数が少なくなる。もうすぐグランドール砂漠が見える頃だ。砂漠を越える前に馬を休ませようと、手綱を引い た。道を外れた場所に井戸がある。小さな東屋もあった。
馬上から降りた。愛馬が勢いよく水を飲み干し ていく。簡易水筒にも水をたっぷり淹れる。
不 意に動きを止めた。馬の耳が左右に動く。警戒するように首を上げた。
ガザザ。ザ。草が揺れる。
素早く視線を這わせる。茂みの中、何かがこち らを見ている気配があった。嘶く馬の喉元を撫ぜる。睨み付ける目は茂みから外さない。
「誰だ」
低く問う。反応はない。軽く、剣柄に手をかけ る。
「出て来い。出てこなければ、斬る」
柄が鞘から浮いた。カンと高い音がする。闇の 中、波紋が閃いた。と、――。
「わー、ちょ、と、待って下さいっ」
叫び声と同時に茂みが割れる。灯りの中に現れ た男に、アレクは目を瞠った。
「ネイジェスっ」
頭に葉を付け、両手を地面に付いて命乞いをす るのは、なんと自分の文官ではないか。
「こんな所で、何をしているっ」
「カナシュで飲んだ帰りでして」
「お前の屋敷は、反対方向と思っていたが」
「いえ、その帰り際に、アレク様をお見かけした ものですから。こんな夜更けに早馬なんて、何かあったのかと」
「それでつけてきたと?」
ぶんぶん首を振る。頭がどこかへ飛んでいきそ うだ。
「アレク様が緊急であれば、それに付き従うのが 文官としての役目です。例えどんな危険が待ち受けていようと、どこまでも共にあるのが、国軍宰領付文官ですっ」
「なら、なぜ隠れていた。堂々と声を掛ければよ かっただろう」
アレクはまだ剣を納めていなかった。見据える 目は、恐ろしく冷ややかだ。ネイジェスも、容易に見返すことができない。身体が震えている。額が冷たい地面に擦れて、皮膚を傷付けた。一声発した時点で、 首と胴が離れてしまいそうな殺気が辺りに漂う。
「……馬鹿がっ」
アレクが呟く。ネイジェスの腕を引っ張り上げ た。剣を納めた右手で馬の手綱を引く。
そ のまま、東屋の裏に引っ張り込んだ。
「アレク様、何が――」
「静かに」
口を塞いだ。
静 寂が落ちる。風の音と、夜鳥の声。遠くでは獣が獲物を見付けて吼え立てている。
その中に、何人かの足音が紛れた。最初は小さ く、徐々にこちらへ近付く。
「――居たか?」
男の声だ。
「いいや。だが、確かにこちらから声がしたと 思ったんだが」
「お前の勘違いじゃないのか」
木陰に遮られてよく見えないが、どうやら三人 組みらしい。道沿いの茂みを棒か何かで払っては進み、払っては進みをして進行していた。
「ここから先はグランドールの砂漠だぜ。こんな 夜中に、砂を渡る酔狂者がいるもんか」
「気のせいだったのかなあ」
やがて引き返す三人の会話を、アレクもネイ ジェスも、息を殺して聞いていた。ちらりと見えた彼らのマントの色は、深い紺。月光を含んだ夜空を表す色だ。“月闇の群れ”と呼ばれる所以である。
三人の士官が遠く歩み去ったのを確認し、ネイ ジェスを開放した。大きく息を吐き出す。
「どうして、隠れなければ、ならないのです」
息継ぎ、ネイジェスは宰領を見上げる。注意深 く、視線を士官が去ったほうへと向けていた。戻って来る気配はない。その目が真っ赤に腫れていることに、アレクは気が付いた。
「泣くなよ」
いい大人が、と呆れる。
「アレク様が悪いんですよっ」
緊張と恐怖から立ち直るや、普段よりも幾分砕 けた調子だ。
アレクはそれ以上、彼を責めはしなかった。黙 々と鞍を絞めなおす。
「……アレク様。何か、危険を冒そうとしている のではありませんか」
「なぜ」
「軍人が軍人から隠れる時、それは相手を敵と見 なしているということ。彼らは国軍の士官達でした。アレク様の足となり手となって働く者達です。それを敢えて避けるのは、そういうことなのかと」
なかなか鋭い。腐っても文官である。が、禁地 へ赴くというのに、面倒はご免被るところだ。
「生憎と、今の俺は国軍宰領じゃない。任務時間 はとうに過ぎている。お前が従うべきは国軍宰領で、ただの俺に用はないはずだ」
軽く手を振った。帰れという合図に、若き文官 は憮然とした表情をする。アレクの外套を引き、無理やり自分へ顔を向けさせた。
「心外です。私をそんな薄情な男と見ていたので すかっ。武官と文官は、互いに足りないところを補い、励まし合い、ひとつのことに向かうのが本来の姿。役目はもちろんですが、私はアレク様のお役に立ちた いのですっ」
「だったら早くここから立ち去れ。そして、何も 見なかったことにしろ。足手纏いはいらん」
きつい言い方だが、本心だった。この夜更け に、グランドール砂漠を駆け抜けるだけでも危険なのだ。それに、
「俺は、お前を信用しちゃいない」
言い放つその一言で、ネイジェスの顔から色が 引いた。指先から外套が落ちる。瞠った目は、大きく揺れた。
「だから帰れと言ったんだ。つけてきたことには 目を瞑る。お前もすべてを忘れろ」
返事を待つまでもない。さっさと騎乗した。
我に返ったネイジェスがその足に縋り付く。
「だ、駄目ですっ。私も一緒に行きます」
「ネイジェス――」
「だって――アレク様だけなんですっ。私を、文 官として認めてくれたの。私は誰のためでもなく、ただアレク様のためだけに力を尽くしたいんですっ」
蒼い顔だが強い目をしている。上官の冷たい眼 も真っ向から見返してくる。彼がそんなふうに思っていたことなど知らなかった。奥歯を噛み締め唇を引き結ぶ姿は、何がなんでも手を離すまいと必死だった。
このままでは馬の腹を蹴ることもできない。蹴 り放すのも気が引けた。深い溜め息が漏れる。
「――勝手にしろ。付いて来れなかったら置いて いく」
途端、ネイジェスの顔が華やいだ。
「はいっ」
飛ぶ勢いで、茂みの中に繋いでいた馬を引いて くる。
「さあ、行きましょう。アレク様っ」
意気揚々とネイジェスは言った。