馬 屋番が引いてきた鮮やかな赤毛の馬に、鞍を乗せる。付け方が不快なのか一声嘶いた。撫でてやると、すぐに落ち着きを取り戻す。マントを脱ぎ、代わりに馬屋 に掛けてあった、埃除けの黒い外套を羽織る。裾を翻して馬に飛び乗った。

 海へと出る手前に、海風から街を守る石積みの 垣がある。相当昔に造られたもので、腐食が進み、高さも人間の肩程まで崩れている。

ア レクは馬を操り石垣を飛び越えた。手綱を左手へ引く。

 海備兵が集まっているのが見えた。馬を残し、 岩場を歩く。月明かりだけでは足元が覚束ないが、不安定な足場でランプを持つことも難しい。強い風に足を踏み外さないようブーツで踏ん張り、白浜に下り 立った。月光できらきら輝く一面の白は、塩の結晶が固まったものだ。波打ち際には、自然と小さな結晶が堆積している。

ザ リ、ザリ、という塩を踏む感触が伝わる。見慣れた景色も、時が違えばこんなに幻想的に見えるのかと、感慨深くなる。

「宰領」

 海備兵のひとりがこちらへ灯りを向けた。

「ご苦労」

 駆け寄り、下を見る。老人の遺体が転がってい た。顔を一瞥する。

「ご存じで?」

「……いいや」

「身元を特定するのに時間がかかります。腐敗も 進んでいますし。……軍で弔いを出しますか」

「ああ、そうしてくれ」

 その場に膝をついた。手を合わせ、静かに瞼を 閉じる。周りを囲む士官たちが、息を飲む気配があった。黒は死を悼む色である。それを纏ったアレクは、白い浜にひとり、濃い哀しみの色を落としていた。

 目を開ける。来た浜辺を颯爽と戻った。白浜に 足跡が残るそばから、強い海風が掻き消した。塩辛い風が強く吹きつける。外套の裾が巻き上がった。襟を掻き合わせ、空を見上げた。月が、輝いている。

 浜に男性の遺体が忽然と現れた――報せを受け たのは、下衛を追い払った日から五日ほどが過ぎた頃だった。男の特徴を聞いて、シュケフト・オゥルの亡骸とすぐに分かった。

 カナシュからの帰りに見た姿と同じ。ただ、体 は波に洗われ、朽ちて骨を見せている部分もあった。

 シュケフトが鍵を持ち去ったと、ミルマに知れ ている。ならば彼の遺体を隠しても意味をなさぬと、相手方は考えたのだろう。

 何もかも筒抜けだな、と思った。

 亡骸が学査最高位の学官と告げるのは容易い。 だが、隙をつくることだけは避けなくてはならない。誇張なく、国一の男を相手にするならば、慎重に慎重を重ねなければ駄目だ。あちらにはドゥイがいる。ど こで足を引っ張られるか分かったものではない。職務に忠実なのが、彼の美点のひとつだった。自分とはまるで正反対だ。

 城へは戻らず、屋敷へ返した。エントランスま できてわずかに目を細める。ヨーダのはしゃいだ声が聞こえた。主の前では小言ばかりなのに、相手が変わると口調も変わるらしい。居間に顔を出すと、

「あら、おかえりなさいまし」

 振り返ったヨーダはご機嫌だ。

「アレク」

 満面の笑みを向ける少年も、すっかり寛いだ様 子である。

 少年の世話を任されたのをいいことに、ヨーダ は様々な着せ替えを楽しんでいた。幾らなんでも、と口を出すと、

「だって、わたくしの子供も孫も、男ばかりでつ まらないったらないんですよ。それでも坊ちゃまが小さかった頃は、女の子の格好もよぉくお似合いでしたけど、今は、ねえ……」

 ちょっと値踏みするように上から下まで見る。 武術で鍛えた体に、ギャザーたっぷりのスカートなんて、似合わないどころか犯罪である。

「なんで、こんなに大きくなってしまったんで しょうねえ」

 お前が沢山食べさせるからだ、という突っ込み を聞き流し、「いいじゃあ、ありませんか。似合ううちが花ですよ」とのたまう始末。

 少年はといえば、掴み所がないだけにどう思っ ているのか理解できない。初めは呆気にとられていた少年も、今ではそのフリフリ姿がしっくりくる、とでも言いたげで、これからの人生が少し気懸かりになっ た。

そ んな、祖母と孫娘のような二人の手元を覗き込む。

「何を作っているんだ」

「花帽子でございますよ」

 小さな取り取りの布を縫い合わせて花を作り、 これまた小さな帽子に幾つも縫いつけていく。オーレストに、花の種類は驚くほど少ない。せめて造り物でも色鮮やかな花を纏いたいと思うのは、女性の性分で もある。花帽子作りは、母から子へと受け継がれる民族衣装のひとつだった。

「自分のか」

 聞くと、少年は笑顔を見せた。純粋な表情に、 更に幼さを感じる。

外 套を脱いだアレクに、ヨーダがブランデーを差し出した。ちびりと喉に通す。少年は眉間に皺を寄せ必死に縫い物をしている。さも、重大事でもあるような真剣 さである。その横顔へ、

「ケイ」

 呼びかける。パッと顔を上げた。嬉しげな表情 に、アレクも微かに口元を綻ばせる。

 彼は自分のことを、一切覚えていなかった。目 を見ていれば容易に知れる。どこか捉え難い雰囲気もそれが所以であれば納得がいく。ただ名無しでは不便という理由で、アレクが命名した名は“ケイ”とい う。耳裏のタトゥ。そこに、辛うじてそう読めそうな文様が入っていたからだ。

ス カートに隠れている足を見る。

「足の調子はどうだ」

「うん、だいじょうぶ」

 ニコニコと微笑む少年の足には、膝から下に足 が生えていた。色も触感も生身と大差ない義足である。コツを掴めば、普段の生活に支障がない位の歩行も可能になる。

特 注のこの義足は、軍宰領でさえ、軽く三年分の俸給を覚悟しなくてはならない、高価な代物だった。

ダ インスタールの西に位置する街、ザンディ。ごろつきが闊歩しスリ、強盗は当たり前の治安がすこぶる悪い場所。カナシュは一夜夢を見る街であるが、ザンディ は一夜ですべてが夢と消えてしまう。

ま だ宰領補佐だった頃、アレクがこの街を訪れた時も、絡んでくるならず者を何人も返り討ちにした。その中にヌクテという男がいた。六十を越え、嗄れ声は聴き 取り辛く、見据える目は鋭い刃物のようで、近付く者も遠ざける。そんななりをしていながら、彼は医者だった。昔、高名な医師の弟子となり、最高基準の医学 を学んだものの、酒に溺れ破門。食うや食わずの生活で、荒んだ生活をし、アレクを見付け……寝込みを襲って金を奪おうとした。アレクはと言えば剣を使うこ とも飽いてきた頃で、疲れていたことも事実。でなければ、メスで切りかかってくる男を伸して、金を恵んでやるはずがない。

 それを恩義に感じ、以来、公医に連れて行けな い事情の者(大抵、アレクが伸したごろつき)を破格の治療費で看てくれる。

腕 は一流の闇医者は、ケイの足を見ても眉ひとつ動かさなかった。それどころか、普通の義足でいいと言ったアレクに、

「こっんな子供に、あんな重くて硬いもの着けさ せる気かっ。俺に任せろ。体に負担がなくて軽いのを造ってやるっ」

 ――数日後、出来上がったものは、紛れもなく 人の足としか見えなかった。しかも単なる着装型の義足ではなかったのだ。

「足にくっ付ける、だと」

 さすがのアレクも声を荒げた。しかし、ヌクテ は平然と言う。

「なあに。少し皮と肉を裂いてくっ付けるだけ じゃい。心配いらん」。

 その気軽さが一番心配だった。国の医師を統率 する薬医の医官ですら、その技術を有する者は限られている。それを男はやってのけた。お陰でケイの足は他人が見ても顔を蒼くしない代物になった。闇医者で は到底お目にかかれない報酬と引き換えだったが、俸給三年分を考えればかなりお安い。

 ケイは懸命に歩く練習をした。初めは赤子が腹 這いするように。しだいに伝い歩きをし、ひとりでもなんとか立てるようになったのは、つい昨日のことだった。回復力と順応の早さも、ヌクテの術の確かさを 物語っている。とはいえ、冷え込むと継ぎ目が痛むようで、寝ることもままならず声を殺すこともあった。それでもアレクには心配をかけまいと笑ってみせる。

健 気な姿に、ヨーダはこっそり涙した。

 だからアレクがケイを邪険に扱おうものなら、 即フライパンが飛んでくる。お陰で頭に幾つか瘤ができてしまった。女の平手打ちは数多身におってきた宰領も、愛情深い一撃には弱い。

元 より、鍵の在り処に繋がるかもしれない少年を、追い出す気はなくなっていた。

 王側に知られぬよう匿うほうが賢明である。ミ ルマに話してもよかったが、話が漏れるのが心配だった。下衛はどこに潜んでいるのか分からないのだ。

そ れに、ミルマなら、どんな手を使ってでも少年の記憶を探ろうとするだろう。まだ幼い彼が、人として壊れてしまうような手段を用いることもしよう。それだけ はアレクの本意ではなかった。例え軍人としてミルマの下にいようと、王の命が何より優先されようと、人として目を潰れないこともある。

 甘いと思う。が、恥じることはなかった。

 夜も遅くなり、ヨーダは一階の使用人部屋に泊 まるという。欠伸を噛み殺して奥へ引っ込んだ。教え手がいなくなっても、ケイは花作りを続けている。既に月は中天に差し掛かっていた。

「その辺りにして、もう休め」

 ケイが名残惜しそうにするのを、ひょいと肩に 掬い上げた。楽しげに両足をブラブラさせる。三階の部屋まで運んでやる。ベッドに、半ば投げ出すように落とすと、ポンと跳ねた。それも楽しそうで、こちら はなぜか苦笑してしまう。顎まで毛布を引き上げた。大人しく寝るかと思いきや、じっと見上げてくる。

「なんだ。足が痛いか」

「ううん」

「目が冴えたんだな。遅くまで起きているから だ。暗くして目を閉じれば自然と眠れる。灯りを消そう」

 サイドランプに手を伸ばした瞬間、ケイがその 手を掴んだ。

「やめてっ」

 必死に訴える目が、わずかに恐怖の色を含んで いる。

「……こわい。暗いのは、やだ」

「そうか。分かった」

 調節を、最大にした。赤い光が頬を浩々と照ら す。が、ケイは不安な色を湛えたままだった。

「灯りは点けておく。大丈夫だ」

 額をとんとんと叩いた。

彼 が暗がりを恐がると、ヨーダは察している。だから、彼が眠るまで屋敷に留まるのが日課になった。子供が闇を怖がるといっても、その様子は少し異常といえ る。そこにある確かな恐怖を知っている。そういう怖がり方をするのだ。

ケ イがやっと安堵した表情を浮かべた。

「ねえ、アレクは暗いの、怖くない?」

「暗さを怖がっていたのは、ほんの小さな頃だっ た。今もし暗がりを怖がるようなら、この屋敷を歩くことはできないよ」

 何せ、屋敷の半分以上は、廃墟同然なのだか ら。

「それに、本当に怖いものは他にある」

 闇が落ちる場所に視線を這わせた。光があれば 影ができるのは至極当然で、害もない暗闇など恐れるに値しない。本当に恐ろしいのは、心を失うことだ。

「アレクは強いから、そんなのやっつけられる よ」

 黙って、微笑を返した。

人 の生死を分かつ権限を持つ宰領の地位にあって、いつか自分がそうなるやもしれぬと、思わない日はない。多くの命を奪ってでも、成し遂げたい想いがあるうち は、まだ大丈夫だ。だが、殺戮だけを思って命を奪うようなことがあれば――二度と笑うことはできないと悟っている。己の心を見失ってはいけない。不安に打 ち勝たねば、重責に耐えかねて精神に破綻をきたす。ただの殺戮者になりたくはない。そうなってしまえば、……女とデートすることも叶わないのだから。

「目を閉じてろ。そのうち、眠れるさ」

 少年が素直に頷く。

 シガレットケースを取り出しかけて、やはりポ ケットに戻した。煙でケイの喉が痛みでもしたら、ヨーダが黙ってはいない。彼女はすっかり母親気分だ。アレクは唇を歪めた。同じように寝つくまでの時、ア レクの傍らにはいつも乳母の姿があったことを思い出す。

幼 少期のアレクは、お世辞にも愛想がいいとは言えない子供だった。決められた道の上に立ち、自分の意志で何かを決めることもない生活の中で、感情豊かにいろ というほうが無理だろう。そうしていなければ、辛すぎる。だが、人を恋しいと思う気持ちだけは忘れることができなかった。忘れさせなかったのは、ヨーダ だ。

 父親は武芸と学問に関してそれは厳しかった が、他のことには全く無関心だった。アレクが他家の子を泣かすことをしても、別段叱りもしない。ヨーダは違う。理由を質し、非があると判れば容赦なく打っ た。そして、己が辛い辛い顔をするのだ。ああ、彼女にこんな顔をさせてはいけないのだと、悟るのに時間はかからなかった。

 彼女が傍に居てくれたことを、心底有り難いと 思う。嘘偽りなく、彼女がなければ、自分に心などなかったろう。誰かを守ることもなかった。

 ケイの吐息が、ゆっくりと紡がれる。額にかか る前髪をそっと梳いた。ランプの灯りを小さくする。

ア レクは部屋を出、自室へ戻った。

 

 

 

 ドゥイも、ある意味で可愛気のない子供だっ た。その冷徹なまでの向上心を満たすためには、手段を選ばなかった。誰よりも勉強し、他人に言えないことも平気でした。文官として登用されたのは必然と言 える。それからの彼は、常に最高の成果を残すことだけに奔走してきたのだ。結果こそがすべてだった。

非 力なぶん、彼の武器は頭と筆と、その笑みだった。どれも最適という場面でどう使えばいいのかが、経験上分かっている。笑んだ瞳の裏で何を画策しているの か、余人には到底計り知れない。

そ して、今まさにその笑顔を貼り付けて、ドゥイはアレクの前に座っていた。

「忙しいところ、呼び出して悪かったね、フィ アード宰領。女と付き合う貴重な時間を少しくれたのだと思うと、それはそれで光栄な気もするが」

「無駄口とは珍しいな、ドゥイ。何か、やましい ことでもあるのか」

「長年連れ添った夫婦じゃあるまいし」

 笑顔を崩さぬまま、言葉に温度はない。

「……口先だけでも悪いと言うなら、そちらから 出向くのが筋じゃないのか」

 私官の執務室は過度の調度品はないものの、整 理された本や資料から、主の几帳面さが窺える。アレクの司令室とは雲泥の差だった。

 落ち着かなげに溜め息を連発するアレクを見、 ドゥイが片頬を上げた。

「ここなら、盗聴の心配も皆無だからね」

「盗聴ねえ」

 白々しい。外部からの盗聴はなくても、壁や天 井に手先が何人潜んでいるか分かったものではない。

「探し物は見つかったのかい」

 ドゥイがあっさりと本題に切り込む。

「失くした蝋ペンなら、ネイジェスが机の下から 見つけてくれた」

 眉ひとつ動かさずに答えた。

「無駄口は嫌いじゃなかったのか」

「探し物、と言ったからそう答えたまでだ」

「アレク、君の地位は?」

「オーレスト国軍宰領」

「王の意を受け動く軍人が、何をこそこそと嗅ぎ まわっている」

「軍人の本意は、国と民を守ることだ」

「王を守るのは二の次と言うのかい」

「もちろん、国に二つとない『月』を守ることも 役目と心得ている」

「月、か」

 ふと唇を噤む。白い指を絡めて、口元を隠し た。

 マース国王は月に例えられる。王家の紋章が望 月を表すことから“満る月”と言われていた。それに倣い、王位を継承する者を“欠け月”という。語から、王は絶対の権威を、王子はそれに準ずる者と思われ がちだ。現に国民ほとんどが、もうひとつの意味を知らない。

 “満る月”は、あとは欠ける一方だ。逆に“欠 け月”は、着実に満月に近付く。いつかは訪れる世代交代を如実に表していた。

 敢えて、アレクは月がどちらを指すかを言わな かった。彼の立場を思えば安易に王につくとは言えない。

「どちらの『月』を守るのか。それは君の心ひと つだけど、ねえアレク、君は何か勘違いをしているんじゃないのか」

「勘違い?」

「王が考えているのは、真にこの国のことだ」

 顔を窺う。その目は、海の底を凝視したような 深い藍色だった。なんの感情も読み取れない。ドゥイはよくこういう顔をする。内の不快を微塵も出さず、悠然と笑んでみせる奴が。安い感情を繕う気も見せず に、真っ直ぐにこちらを見据えてくる。

「アジャルテが妙な動きをしている。耳に入って いるんだろう」

国 の南東から南西にかけては、堅牢な山脈が連なっていた。“南の要塞”と呼ばれるガヌーウ山脈群である。標高が高く、岩場ばかりの山だ。山頂では長時間人が 居ることが困難な気温の風が吹く。針を刺された方がまだマシだと聞く。要塞の名は伊達ではない。

ガ ヌーウ山脈を挟んで、コモ国が隣接している。オーレスト国が唯一国交を結んでいるのがコモ国だった。南の要塞には一箇所だけ、交易のために整備された通関 所があり、軍の警備兵が常駐している。特殊な許可証書を得たコモの商人たちは、通関所で品の取引を行うのだ。ガヌーウ山脈を越えられるとしたら、通関所を 抜けるルートを通るしかない。

コ モの、更に南に位置しているのが、アジャルテ国である。国土が痩せているアジャルテ国はオーレストやコモに比べ特産品が少ない。だが、土地だけは広大で、 国民数も多い。アジャルテの織物は、たまにコモを通じてオーレストにも入ってくる。それを見れば生産技術の高さが窺えた。

「外官を通じて、再三にわたり国交の申し込みが あったとか」

 ここ数日、その動きが顕著になっているとの報 告を受け、南の警備兵を増やしたところである。

 ドゥイの眉間に、小さな皺が寄った。

「塩の売買による利が目的かと思ったが、どうや らその精製法のほうが目的だったらしい」

周 辺諸国が面している海は、塩分を含まない海水である。オーレストの北方、ティエスタ海と呼ばれる沿岸付近でだけ、非常に濃い塩水が採取できた。専門家の調 査によれば、ティエスタ海に面したクリスタの土地が岩塩の地層から成っているため、その塩分が溶け出し濃い塩海になっているのだそうだ。故に、他国はオー レストから塩を輸入するしかなかった。

ア ジャルテは、ここ数年、飢饉が続いている。救援物資の要請で各国が供給を行っているのだが、それも全国民の飢えを満たすには足りないものだった。最も欲し ているのは、生きるに必要な塩。アジャルテ王は自国の危機を脱するために、塩製法を持つオーレスト国を支配しようとしている。

オー レストに攻め入ってくるなら、コモ国を通ってガヌーウ山脈を越えるしかない。必然、コモもアジャルテの支配下となる。

コ モとオーレストは、塩の専売を国約とし条約を結んでいた。コモとしても、塩を介しての対価を失うリスクを冒すような真似はすまい。裏切るとは考え難いが、 だが、コモは小国で、アジャルテに力で攻められれば屈する他なかった。

外 交一切は外官が行うが、私官も関わらぬわけにはいかない。当然、アジャルテの動きは王の耳にも入ることになった。

「この国には塩の精製法しかない。それを持って いかれたら――結果は見えている」

 外貨を得られなければ、国を維持できない。維 持できねば、国を終えるしかない。

「国秘の技術だからこそ、他国の侵入を赦すこと はできない。だから王は懸命な判断を下されようというのに……」

 意味深に言葉を切る。

 アレクが聞き返すのを見越しての、発言だっ た。

「王は、相手を牽制する法をご存じなのだよ」

力 の違いを見せつけることができたら、あちらも迂闊なことはすまい。だが、軍勢だけはアジャルテが上だ。アレクが言うと、ドゥイは小さな溜め息をついた。

「王が言うのは、別の力だ」

「別の力? それは、一体――」

「軍の宰領は知らなくてもいいものだ。ただ、我 らが探している鍵は、その力に必要なもの。遊び半分で邪魔をされても、困るんだ」

「……そういう目で見られても。俺に手綱を締め られるわけがない」

「副官ならしっかり握っていろ。それが宰領の役 目だろう」

「ミルマ様も、考えているのはこの国のことだと 思うが」

「まだあのお方の出番ではないと言っているん だ。下手に高位なものだから困る」

「気ままに振舞っているように見えて、きちんと 国情は見えているお方だ。いい王になる」

「随分肩を持つな」

「副官だから、な」

「君があのお方の命を受けたのも、それが理由か い?」

 アレクは答えなかった。代わりに片頬を歪ませ る。ある程度手の内を晒した、これがドゥイに対する応えだった。

「――分かった」

 ドゥイが笑んだ瞬間。

 アレクはわずかに目を細めた。立ち上がり、首 筋に感じる微かな気を、ゆるりとした動作で押し留める。ドアを少し開け、振り返った。

「ドゥイ、ひとつ言っておく。俺を始末する気な ら、もっとマシな刺客を寄越せ」

「肝に銘じておこう」

 組んだ指先の下で、私官は唇を上げた。

 

 

 

 国軍宰領の姿が部屋から消える。隅のほうで小 さな音がした。自分以外誰もいないはずの気配に、しかしドゥイは視線を上げなかった。

「よろしいのですか」

 いつからそこにいたのか。暗がりの中から女が 進み出た。背中までの髪をゆるく結び、細身の体躯はグレーの文官服に包んでいる。どこからどう見ても文官であるのに、瞳には剣を含んだ鋭さがあった。アレ クが座っていた椅子に視線を落とす。

「ああ見えて、国軍一の腕を持っている。あの男 に傷ひとつ、つけることも容易ではない」

「負ける気はしません」

「奴は君に気付いた。気配を隠し切れなかったの は、君の、下衛としての失態だ」

「ですがこちらにつく気がない以上、邪魔な存在 には変わりありません。事が公になっていない今が最良の機会かと――」

 言葉を遮る強い視線に、女の体は知らず硬直し ていた。

「……出過ぎたことを、申しました」

 乾いた喉から掠れた声を絞り出す。ドゥイは、 外気よりも更に冷たい雰囲気を纏っていた。「そんなことよりも、早くあれを見つけ出せ」

「は」

 一礼して、再び隅に消える。影と同化するよう に姿が見えなくなった。

 ひとりになると、ゆるりと足を組んだ。暖炉の 火が顔を橙に染める。

「――アレク。お前に一生懸命なんて似合わない んだ」

 常に懸命だったのはドゥイのほうだ。傍らで は、やる気ないアレクが欠伸を噛み殺していた。そういう奴が羨ましいと思うと同時に、嘲ってもいた。捻くれていて、女好きで、人を信じる心を忘れていな い。自身が失ったものを彼は持っている。

そ うであっても、ドゥイは自分の生き方を曲げることはしなかった。家柄などなくても己の才だけでどこまでも上にいける。地位も名誉も、自分の手でもぎ取るこ とができる。

 アレクのように縛られるものなどない。

い いものかも悪いものかも知れない。自分はこう生きるしかなかったというだけで。

「……甘いんだよ、アレク」

 冷笑を浮かべていた。




→次へ