王城の東塔には、様々な機関が集まっている。 主に文官が多い。外交を司る外官(げかん)も法を司る法官(ほうかん)も皆、文官である。云わば国の頭脳の最高官と呼べる者ばかりが集まっていた。

 豪奢な扉に学査の紋章が彫られている。中では 大きなデスクの間を、グレーの制服を着た文官達がせかせかと行き来していた。どのデスクにも高く本が積まれている。足音に呼応して小さく揺れていた。

 ひょろりとした文官が、アレクの姿を認める。 色白の手に、一抱えもある紙の束と古い本を持っていた。

「これは、フィアード宰領」

 慌てて、彼は手にしていたものを取り落とし た。白い紙が足元に散らばる。それこそ足の踏み場もない状態だ。

「す、すみませんっ」

 アレクは、何度も頭を下げる文官の襟元を見下 ろしていた。ネイジェスを彷彿とさせ、どの文官も似たようなものだと思う。

「ご用件は?」

 これだけの文献を前に、道に迷うならまだし も、資料文献の雪崩に巻き込まれたとあっては、末代までの恥である。

「歴代国王に関する史実書を見せてもらいたい」

「閲覧室だけでの利用になりますが。こちらで す」

 部屋の奥、厳重に鍵のかかった書庫の扉を開け た。部屋一面に、本の壁が林立している。莫大な量の中を、学官はスイスイ進んだ。やがて止まるその目前には、頭上遥かまで聳える重厚な本棚が迫る。

「これです」

 指し示したものを見て、アレクは瞠目した。

と ても片手には収まらない分厚い書籍が、ずらりと並んでいる。なるほど。一国の王の歴史を知るには相当の覚悟が必要なようだった。

 学官が立ち去ると、本を一気に三巻まで抜き取 り、両手に抱えて閲覧室の扉を開けた。だだっ広い中、奥の席で女がひとり本を読んでいる。学官のひとりらしい。

 王城に仕える者は男女問わず、考査によって選 別される。特に文官に女が混じっていることは珍しいことではない。

 奥まで行くことももどかしく、ドアに一番近い 机に本を置いた。さっそく一巻を開く。

 王だけが知り得る鍵の存在。それが何を開ける ためのものかを知らなければ、話にならない。現国王、マースの代になって必要になったものなのか、或いは歴代王が引き継いできたものであるのか。引き継い だものであれば、過去その片鱗が表出することがあったはずだ。

そ れに、とアレクは頁を繰る手を止めた。

わ ずかの間、考えを巡らせる。

あ のミルマが父親のために、自ら手を貸そうとするだろうか。表向きは従順ながら、アレクの前では「あの低脳め」とのたまう。曰く、本当の切れ者は、王に仕え て来た歴代の私官たちだと。今の私官、ドゥイも若い癖に侮れない。はっきり嫌悪の表情さえ浮かべて言った。

 ――そんな男が、進んで王のために動こうとす るか?

 更に気になっていることがある。

王 と己と、どちらをとるかというあの問い。あれは二人が相対することを意味しているのかもしれない。ミルマ個人の思惑がどこにあるものか。それこそ、私官よ りも遥かに性質が悪い。そんなものに何も知らずに加担するほど、アレクは愚かではない……はずだ。

 本の上に影が落ちる。顔を上げた。

 グレーの服を纏った女が立っていた。奥で書籍 を山積みにしていた女だ。丈の長いジャケットにゆったりとしたパンツは学官、皆、同じだが、襟元に光る印に目が留まった。

「何か」

 短く問う。眼鏡の奥で、女がうっすら微笑ん だ。

「その文献を貸していただけますか」

 脇に積んだ本を指す。細く、すらり伸びた指が 綺麗だと思う。

「どうぞ。但し、どうかここで読んでくれない か。求めた時に手元にないと嫌なんだ」

「分かりました。では、ここをお借りします」

 突飛な言い分にも関わらず、女は素直に前の椅 子を引いた。静かな動作で腰を下ろす。節目がちな目線。睫毛の影が頬に落ちる。自分よりも若い。二十前半だろうと当たりをつけていたアレクの視線に、さす がに女も訝しげに顔を上げた。

「いや。無粋な真似をした。君は学官だね。しか も、王宮付の」

「ええ」

彼 女が身に纏う紋の色。羽筆の色の紫が示すのは、王宮の宝書庫へ足を踏み入れることを許された者の証だった。

「その若さで、よく王宮付にまでなれたものだ。 並大抵の努力ではなかったろう」

「ここは努力した分、結果を出せる所ですので。 張り合いもあります」

「さっくりと、厭味を言われたのかな」

 文官はそうであっても、武官の中には、やはり 家名で選ばれた者も少なくない。自分もフィアード家当主という立場がなければ、宰領の地位にはいなかった。

「すみません。今のは厭味ではなく――」

 慌てて言い添える表情が愛らしい。彼女は人を 相手にするのがほんの少し不器用なようだ。

「私が誰か、知っている口ぶりだね」

「……軍色を纏い、襟元の印を見れば。三日月に 剣が三本交わる紋は、国軍宰領の証ですから」

「なかなか目聡い」

「この眼鏡は伊達ではありません」

「なるほど。それは君の知性を助ける、最大の武 器か」

「わたくしに何か、お話があるのではないのです か」

「うん?」

 最初は曖昧に言って、再び本に目を落とす。学 官の女も頁を繰った。

 暫しの沈黙。紙の音だけが室内に響く。

「君は、シュケフト様の顔を見たことがあるのか い」

 文字を追いながらアレクが問うた。女の手元 が、一瞬止まる。

 回数が少なくても、宝書庫に出向いた際、謎多 き男の顔を見ているかもしれない。顔が分かればシュケフトを探すのに役立つ。

 王が守っていた鍵が、何者かによって持ち出さ れた夜。滅多に城内から出ることがなかった学官が姿を消している。関係があると見るのは性急だろうか。

 そして彼の頭では、ある男の亡骸がちらついて いた。

 女はゆるりと顔を上げた。長い、ストレートの 髪が肩に落ちる。相手の真意を探ろうと目を眇めるも、国軍の宰領に敵うわけもなかった。諦めて、女は頷いた。

「二、三度、お話したことがあります」

「宝書庫に引きこもった変わり者の呼び声高い が、実際はどんな男なのだ」

「根っからの研究者、でしょう。一度読んだもの は絶対に忘れることがないそうです。この学査の本をたった十年ですべて諳んじてみせたと言います。先を読む目もあり、彼の言が国を災いから救ったことも あったとか。生涯の研究として、オーレストの歴史と史実の編纂に力を注いでおいでです」

「なるほど。天才との噂は本当ということか。愛 国心もあり、まさに理想の学官だな」

「天才、という言葉は、オゥル様には合わない気 がします。むしろ、奇才といった方が正しいかと」

「世に稀な才能、ね」

「わたくしが最も尊敬するお方です」

「君の恋人になるには、年をくい過ぎているので はないか」

「何を――」

 頬が紅潮した。カラカイの目を向けると、彼女 はムキになって言い募る。

「そんな不純な目でオゥル様を見たことはありま せんっ。オゥル様に比べたら、わたくしなどはまだまだ子供。いいえ、赤子同然です」

「そう怒らないでくれ。せっかくの可愛い顔が台 無しじゃないか。しかし、オゥル様は書庫で長い年月を過ごしているということだが、よくもまあ、長生きができるものだ」

「確かに小柄な方ですね。少し痩せていらし て……。研究に没頭されるとお食事も摂らないとか。あのお方にとって、研究することと息をすることは同じなのです」

 不意にアレクは口を噤んだ。彼女の言葉が気に 掛かっていたものに触れる。固く結んだ紐がするりと解けた。

「君、名は」

 唐突に問われ、

「イ、イリニエです」

 言ってから、ファーストネームを名乗り忘れる という失態を冒したと慌てる。一軍の宰領に対し余りに無礼な態度に、しかし当のアレクは気付いてさえいなかった。

「学査は、来る者拒まずで手を貸してくれるん だったな」

「元は学を推奨する機関ですから。求める者に手 をお貸しするのは、主約(しゅやく)でございます」

「ならば、イリニエ。君の手を借りたい」

 手元の文献を閉じ、すべてを彼女の前に押し出 す。アレクが口の端に笑みを浮かべた。

「シュケフト様が調べていたものについて、ざっ とでいい。調べてほしい。期限は明日。早ければ早いほうがいいな。王宮付学官の君ならば容易なことだろう。期待しているよ」

「明日までって、そんな、待って下さい」

 止める言葉も聞かず、アレクは席を立った。扉 へ向かい足を進める。と、途中で立ち止まる。

「イリニエ」

 困惑する彼女に、緩やかな微笑を向けた。

「よろしく頼む」

 言い置いて踵を返した。

 姿が見えなくなってから、イリニエは自分の顔 が熱くなっていることを知った。

 

 

 

 アレクが馬を飛ばして屋敷に帰り着いた時、既 に陽は暮れていた。白色の風を透いて、月が淡い光を放ち始める。気温は徐々に下がり、指先が悴んでいた。

「まあまあ坊ちゃま、早いお帰りで」

「あいつはどうした」

「あいつ?」

「拾ってきた少年だ。どこに居るっ」

 もう屋敷を出たかと急き立てる主に向かい、慣 れた様子の乳母は落ち着き払って言った。「まだ、坊ちゃまのお部屋に居りますよ」

 アレクは無言で階段を駆け上がる。ヨーダが懸 命についてきた。

「なんなんですか、あの子は。あんなに汚れて。 髪もボサボサで伸ばし放題。もうびっくりいたしましたよ」

 喋る口は止まらない。さすが、フィアード家の 乳母である。

 駆け上がった先、自室の扉を開けた。不意にそ の動きを止める。追いついたヨーダが、息を切らしつつも、胸を張った。

「まあ、わたくしの手に掛かれば、こんなもので す」

 我が目を疑うのは、やけに久々な気がする。

 昨夜の薄汚さはどこへやら。ベッドに腰かけた 少年は、どこにでもいる娘に見えた。――そう、少年ではなく、娘に。

 きちんと汚れを落とし、ザンバラだった髪も顎 の辺りで切り揃えてある。前髪は少々長いが、目はきちんとこちらを見ていた。

そ こまではいい。問題なのは、

「……なぜ、スカートを穿いている?」

「似合いますでしょう。坊ちゃまのお下がりがあ りましたので、久しぶりに出してみましたの。坊ちゃまも幼少の折は、よくお似合いになりましたよねえ」

「あれはお前が無理やり着せたのじゃない か……」

 封印した記憶が呼び起こされそうになり、慌て てこめかみを押さえた。主を苦悩の中へと引っ張り込んだ張本人は、一向に悪びれた素振りもない。

 一方、少年は平然とこちらを見やっている。ア レク達が話している内容にも、ぽかんと目を丸くするだけだった。

 アレクはヨーダを部屋から追い出した。後ろ手 にドアを閉める。

「お前、シュケフトの仲間か」

 静かに問う。その意味も捉えきれず、少年が首 を傾げる。

 ブーツの踵が荒々しく床を叩いた。躊躇なく、 彼の胸倉を掴んだ。

「――っ」

 声にならない悲鳴が上がる。さして力を入れず とも、締め上げるには充分だった。

「仲間かと、聞いている」

 口調はどこまでも静かに。だが、確実に相手の 一番弱いところを突く声音だった。国軍宰領は家名だけでは勤まらない。実力があってこその地位である。

 その目に宿るのは、ひいやりと冷たい水底の 光。感情を読み取ることはおろか、反論さえ無言で封じる威力があった。

 少年の手が、必死でアレクの腕を掴む。指先が 微かに震えていた。懸命に首を振る。否の返事にアレクがますます力を込めた。

「嘘をつくな。お前の傍で死んでいた者。あれは シュケフトだろう。無関係なら、なぜ共にいた。鍵はどこへ隠した」

 首を振る。何も知らない、何も知らないっ。

 閉じた瞼の端から涙が溢れた。頬を伝いアレク の手に落ちる。温かい感触。

ふ と、力が緩んだ。

 小さい体がベッドに転げ落ちる。そのままシー ツに顔を埋めた。洟をすする音がする。

「……手荒な真似をして悪かった」

 傍らに腰を下ろした。頭を軽く叩く。細い肩 が、嗚咽に応じて上下を繰り返した。

 指の間をすり抜ける、さらりとした髪。

「……シュケフトは殺された。お前はそれに関 わっているんじゃないのか」

 一変、穏やかな声音だった。少年は顔を上げ ず、首だけを振って答えた。

「お前とシュケフトは、どこで出会った? シュ ケフトがお前を連れていたのは、どうしてだ」

「分かんない……ずぅっと、暗い所にいたんだも ん。ずぅっと、ずぅっと……」

「暗い所?」

 頷く。くぐもった声がシーツの間から漏れる。

「寒くて暗くて……怖い……」

「どこに、居たんだ」

「あのおじいちゃんが来てくれるまで、ずっと 眠ってた気もする。あれがどこだったのか、何をしていたのか、分からないんだもん……」

「シュケフトがお前を暗い場所から連れ出し た?」

「おじいちゃんの手、とっても温かかった……。 なのに、なのに――っ」

 再び洟を啜る。

 鍵を持ち出すという大事をしておきながら、 シュケフトはどこかでこの子を拾った。彼にとって、それがどんな意味をなすのか。

息 を引き取る間際言った言葉。あれは「かぎ」と言ったのだ。彼が鍵を持っていたことは間違いない。故に死ななければならなかった。

 この子と鍵と、シュケフトはどちらを守ろうと したのだろう。

 沈思に耽っていると、やがて寝息が聞こえ始め た。泣きながら眠ってしまったらしい。シュケフト亡き今、彼の意図を知る者は少年だけなのかもしれない。

「ん?」

 髪を梳いていた手が止まる。少年の右耳の後ろ に、小さなタトゥがあった。見慣れない模様だ。何かの植物が描かれている。その中に、小さな文字のようなものが並んでいた。

 部屋を出る。廊下の先で、ヨーダが眉を顰めて いた。

「坊ちゃま。あんな小さい子に声を荒げて……」

 後を、無言で嗜める。

 上着のポケットから煙草を取り出した。

「五月蠅い。仕事だ」

「子供を泣かせるのが、国軍宰領のお役目とは存 知ませんでした。国軍は民の味方だと思っておりましたのに」

「俺はいつだって民の味方だよ」

 銜え煙草で言う台詞ではない。言っていること は確かでも、それが本意であると思われないのは、ひとえに行いが悪いせいだろう。

「わたくしには、弱い者を泣かせる極悪人としか 見えませんでしたよ」

「それで結構。一国の宰領が乳母に頭が上がらな いなんて知れたら、戦場で剣を振るえやしない」

「あら。坊ちゃまのことを隅々まで知っているこ のヨーダに、敵うとお考えですか?」

「……滅相もない」

 さっさとヨーダに勝利を譲る。ここで機嫌を損 ねれば、明日から何をされるか分かったものではない。

 細く紫煙を吐き出した。

「あの少年のことだが、今日一日、何か変わった 様子はなかったか」

「変わった様子と言われましても……。ただ、 ずっとお部屋にいただけですから。寝ているわけでもない。本を読むでもありませんでした。ベッドに座って、日長一日、呆っとしてましたよ。まあ、手が掛か らなくていい子でしたが」

「自分のことを話したか」

「いいえ、全く。どうしたんでしょうねえ。親も あるでしょうに。独りで心細いんじゃないかと、色々話しかけてもみたんですがダメでしたよ。首を傾げるばかりで。――ただひとつだけ。あの子は本当に、無 垢な子なんだと思いました」

「無垢?」

「ええ。坊ちゃまのこと、怖がっていないか確か めましたの。だって、坊ちゃまは女の方には好かれるのに、子供には全くでございましょう。ですから、この屋敷に連れてこられた時も、怯えて動けなくなって しまっていたんじゃないかと。ですが、あの子言ったんですよ。坊ちゃまは怖くないって。よかったですねえ」

「別に子供に好かれたってなあ」

「ご自分に子供ができた時の予行練習と思えばよ ろしいのです。女性に対する好意をほんの少し向けてあげればいいこと」

「そういえば、昨日女にフラれたばかりだった」

「……坊ちゃま。少しは自重なさいませ」

 呆れるヨーダに、アレクも負けず劣らず呆れ顔 で溜め息をついた。

「とりあえず、あの子をどこか別の部屋に移して くれ。今日はベッドに横になりたい」

「はいはい。かしこまりました」

 彼の女好きは死んでも治るまい。

 哀れを誘う目でヨーダが一瞥したことを、アレ クは気付かぬふりをした。

 

 

 
 胸騒ぎがして目が覚めた。まだ夜の帳が空に貼り付いている。暖炉で燻ぶる炎は、小さな小さな朱色を保持していた。厚手のガウンを羽織り部屋を出る。

 ヨーダが少年のために用意した部屋は、同じ三 階の一室だった。書斎と図書室を通り過ぎる。簡素なドアをそっと開けた。ベッドと小さな机だけの部屋で、少年は優しい寝息を立てている。

 静かに階下に下りた。目覚めたばかりであるの に関わらず、妙に頭が冴えている。屋敷はひっそりと冷たい深淵に沈んでいた。ヨーダも来ない時刻である。

 だが――。

 アレクは確かに感じていた。静かだからこそ、 ざわりと内がさざめいている。

 いつもより格段に時間をかけて顔を洗い、身支 度を整える。暖炉に薪をくべていると、音が近付いてきた。エントランスへ出る。馬車が門前に停車していた。辻馬車だ。女は御者に金を払うと、上げた顔をわ ずかに安堵させた。

「おはようございます……と言うには、少し早い 時間でしょうか」

「いいや。待っていたよ、イリニエ」

 当然とばかりに微笑する。彼女を屋敷内へ入 れ、ついでに主自ら茶を準備した。あまりに慣れた動作に、イリニエのほうが目を瞠る。

「そう、驚くこともない。世話を焼いてくれる者 は、まだ来ない時刻でね」

「こんな時間に、申し訳ありません。早ければ早 いほうがいいと仰っていたものですから」

「君には無理をさせてしまって、こちらこそ謝ら なければ」

「いいえ。フィアード様に言われるまでもなく、 わたくしもオゥル様の研究には興味がありましたから。ですが、あれは代々宝書庫の執務室を使うことを許された学官だけが引き継ぐ研究ですので、わたくしが 調べたことは単なる推測と憶測に過ぎません」

 携えていた紙袋から分厚い束を取り出した。書 き写した文献の抜粋と、要約が綴られている。アレクが丁寧に目を通し始めた。

 イリニエが小さなカップを両手に包む。赤く悴 んだ掌がゆるりと温まっていく。ほのかに香る茶の匂いに、優しい視線を落とした。

 書かれていたのは誰もが知っていることでもあ り、知らない事実も多分にあった。

 近隣諸国が、未だその国境を争っていた時代の こと。その収拾は困難を極め、ついにオーレストまで魔手が迫りつつあった。オーレストには南の要塞、ガヌーウ山脈群が聳えている。が、それも鉄壁ではな い。ある者は商隊に紛れ山を抜け、ある者は獣道を渡り、その手は確かにオーレストに入り込んでいた。国主を葬ることができれば国は容易に滅ぶ。オーレスト は近隣諸国が仕掛けてくる討手を躱し続けていたが、ついに城の周囲を完全に占拠されてしまう。城門の前には武装した者達が、王を出せと喚きたてている。城 内ではオーレスト民が、ひしと抱き合って死を覚悟した。

 その時――、

「――『南高(なんこう)、空より光出づる。闇 を貫き不浄を薙ぎ、汚心(おしん)なるものを滅ぼさん』」

 イリニエが諳んじたのは、抜粋したものの一節 だ。

「王が手を翳した途端、光の波紋が国中を包み込 んだ。その光り輝く力によって、城を囲んでいた者たちは皆、滅んだそうです。そればかりではなく、侵略を目論んだ国も消滅したと。ですが、自国に及ぼした ものもまた大きかった。――フィアード様、なぜオーレストが月信仰かご存じですか」

 話の飛びように、アレクは腕を組んだ。

 オーレストでは、月は神聖なるものとしてい る。軍旗にもそれが窺えるが、最も分かりやすいのは近衛隊、上衛の証だろう。上衛は通称“寄り添う者”と称される。その紋は満月にひとつ星。満月は王を示 している。

「本来なら、このように霧深く、太陽を垣間見る ことすら難しい地には太陽信仰が普通です。ですが、オーレストは真逆。それは光に畏怖以上の恐怖を抱いているからだと思います。一国を滅ぼしてしまう力を 持つ、その光を真に恐ろしいと分かっていたから、オーレストは月を信仰するようになったのではないでしょうか」

「そして、光を呼んだ王を月に見立てた?」

「はい。そして、話はこう続きます。――『高き 光、波となりて国守り、南に壁となりて立ちはだかる』。遠く離れたガヌーウ山脈にも光の力が及び、現在のように、容易に侵入できない要塞となったのです。 そういう力が働くことで、この国は出来上がったのだと言えるのではないかと。オゥル様が研究されていたであろう我が国の成り立ちについては、ここまでは推 察できるのですが……」

 極論でしょうか、と恐る恐る意見を求めるイリ ニエに、アレクは正直な意見を言った。

「いいや。ガヌーウ山脈に関していえば、地質学 の分野から解明する者もいる。だが、そういう伝え話があるということは、先人は光を人外の物と捉えていたわけだろう。今まで、別段何も疑問には思わなかっ たが、月信仰の起源に光の波紋があるとしても不思議じゃない。その光は得体が知れないものだった。恐ろしすぎるものを信仰対象にはできなかったと、俺も思 う」

 味方を得、女学官は嬉しそうに茶を一啜りす る。

「……ただ」

 アレクが思わず呟いて、その言を止めた。余り に小さいその呟きは幸いイリニエには聞こえなかったようである。

 遥か遥か遠い昔。オーレストの歴史を管理して いたはずの男が、どうして鍵を持ち出さねばならなかったのか。己の研究以外は、寝食さえ忘れる男だったはず。それが、どういう経緯で王のものを掠め取り、 命を落とす結果になってしまったのだろう。

 ――何が起こっているんだ?

 考え込んだアレクをそうっと見やって、イリニ エは緩む口元をカップで隠した。

 木が爆ぜる。淡い陽光を透かして、霧靄の朝が 来た。レースのカーテンが白く輝く。鳥の囀りに交じり、誰かがパタパタと廊下を歩く音が聞こえた。扉を開ける。そこに主と見知らぬ女が揃って茶を飲んでい る姿を認め、なぜか眉を吊り上げた。歩み寄ると、まだ思考から覚めない主の頭を思い切り叩く。止める間もなかったイリニエが目を丸くした。

「――たっ。何をする、ヨーダ」

「坊ちゃま。わたくしは情けのうございます」

「何がだ」

「あんな小さな子が同じ屋根の下にいるというの に、また女の方を連れ込むなど。……ああ、旦那様、奥様。坊ちゃまの不貞はわたくしの責任でございます。どうかどうか、お許しをっ」

 もはや何を言う気にもならなかった。開いた口 が塞がらないのだ。

学 官が鮮やかな笑みを漏らした。普段は生真面目な官職であるだけに、貴重な表情である。殴られ、得をした気分だった。

 誤解が解けると、ヨーダはイリニエに何度も何 度も頭を下げた。坊ちゃまの素行が悪いとはいえ、彼女をやましい目で見たのは確かに謝罪すべきことである。詫びにと、いそいそと食事の準備に勤しみ始め た。

「そんな、あの――わたくし、もう失礼いたしま すから」

「そう言わずに、食べていってくれ。礼といって は安いかもしれないが、あれの飯は美味いから」

「……では、お言葉に甘えて」

 高官にあるまじき気さくさに、イリニエも安心 している。不眠不休で缶詰だったものだから、腹の虫を抑えることも辛かったようだ。

 ヨーダが支度をしている間、アレクは煙草を取 り出し火をつけた。細く長い煙が立ち昇る。甘い匂いに酔いそうだった。二、三本潰し顔を上げる。

「それはそうと、これがなんだか分かるか」

 紙に走り書きの文様を見せた。イリニエが首を 傾げる。

「これは?」

「さあ……博識な学官なら、その文様の意味する ものが分かるだろうと思ったのだが。分からなければいい」

 少年の耳裏にあったタトゥを書き写したもの だった。身元を特定するヒントになればと思ったが、学官にも分からないようなら、己の頭では到底足りぬ。彼がどう関わっているのかまだ分からずとも、シュ ケフトが殺されたことは事実。身元が知れるまで、無闇に口外しないほうがいい。

 紙切れを引っ込めるアレクの動作に、

「お役に立てずに、申し訳ありません。学査なの に、情けない」

 イリニエは身を縮めた。

「いいや。よければ、食事の後、部屋で少し休ん でいくといい。この辺は辻馬車も少ないし、馬車を拾える街中まで出る間に倒れられたら大変だ」

「そこまでご迷惑をおかけするわけには」

「迷惑だなんて。なあ、ヨーダ」

 食卓の準備を着々と整える老女を振り見る。

す ると、彼女はニンマリと笑いかけてきた。

「どうせなら、坊ちゃまのお部屋にお通しいたし ましょうか」

 アレクが瞠目する。銜えた煙草が落ちかけた。

 

 

 

 結局、イリニエを彼女の家が近くだという通り まで送ると、アレクはいつもと同様に、執務室でネイジェス文官と問答を繰り広げた。午後になってやっと席を立つ。練兵場の視察と称して、若兵たちに手解き をしてやるのを日課としていた。机仕事だけではどうしても体が鈍る。元より、外で立ち回っているほうが性に合っている。

 広大な練兵場に足を踏み入れる。幾人かの士官 が駆け寄った。わざわざ寄宿舎から出てくる影もある。休んでいたのに、剣を持ち出してくる士官まであった。皆、挑むような眼つきでこちらを見ている。

 いつもとは少し違う雰囲気に眉を顰めた。する と、若き士官たちの間から彼らの上司、第三師団長殿が顔を見せる。手には剣を携えていた。

「……今日の相手は第三師団か」

 どうりで皆、血気盛んだと思った。これでは、 例え宰領のアレクがなんと言おうと、引く気は毛頭ないだろう。

 第一から第三師団までの士官たちは、特に精鋭 揃いの武官ばかりである。彼らの主な守備地が王城内であることがその実力を示していよう。

 その第三師団を取り纏める長は、アレクが国軍 宰領を拝命した日から、何かと理由をつけては剣試合を申し込んでくる男だった。若き時分、大層剣捌きが見事なことから“国軍一”と誉れ高かったそうだ。今 は六十を越え、髪にも白いものが混じっているものの、背筋は伸びこちらを見据える目に衰えなど微塵もない。だが、幾ら昔異名を取っていても、アレクに勝っ たことが一度としてないのだ。そのことが、彼には悔しくて悔しくて堪らない。

ア レクは物心付く前から、父親に英才教育を受けていた。武術に関しては徹底的に仕込まれている。練習と言いながら、持つ剣は常に本物だった。彼に勝てるのは 第一師団長か上下衛の幾人か、といったところ。

「何度やっても同じだと思うが」

 歳若い宰領の言葉に、師団長は凄みのある笑み を浮かべた。

「ただ指を銜えていたと思うな。朝夕の鍛錬の成 果を今こそ見せる時」

「おおおっ」

 取り囲んだ士官から雄叫びが上がる。この男は アレクに勝つことだけに執着していた。辟易と視線を外したアレクが、その動きを止める。何気なく耳の後ろを掻いた。

「分かった、分かった。まったく、頑固者め」

 まるで、今から鬼ごっこをしようとでもいう軽 さである。

 二人の上官が練兵場の真ん中辺りに移動する と、士官たちはそれを遠くに囲んだ。うっかり近くに寄って巻き添えくったのでは堪らない。賢明な判断である。

 両者、同時に剣を抜く。無論、本物だ。裾が風 に靡く。師団長の腕が上がり、すうと、剣先を相手に向けた。

一 方、アレクは右手に剣柄を握り締めたまま、切っ先を下ろす。

構 えていない分、無防備に見える。しかし、師団長はなかなか一歩を踏み出さなかった。半歩足を出してはまた下がるを繰り返す。踏み切ることができない。アレ クには隙がなかった。

「どうした。時間が無駄になるぞ」

「――ッ」

 師団長の顔がさっと紅潮する。目上であるもの の年下に愚弄され、頭に血が上った。

 右足を踏み出す。脇を締めて振り被ったさま は、国軍一の名に相応しく見事な動作だった。

 だが、

「……目障りだ」

 宰領の呟きは誰の耳にも届かなかったろう。目 を眇め、わずかに頭を引く。目前を切っ先が過ぎた。足元に落ちようとする剣に、自身の剣を絡み付ける。手首を返して、ふわりと上へ跳ね除けた。

 重い剣が軽がると飛び、背後にあった巨木に突 き刺ささる。瞬間、ざざっと枝葉が揺れた。

 誰も動けなかった。息をすることすら忘れてい る者もいる。師団長は宰領を睨み据えた格好で、身動ぎしない。

 頭上で小鳥が鳴いた。

 先に、師団長が息を吐く。背を正し、フンと鼻 を鳴らした。

「小賢しい手を遣って。いつからそんなに意地汚 くなったのです」

「さあ。気が付いたらこんな性格で」

「その根性の曲がった所、先代宰領によく似てい らっしゃいますな」

 今度はアレクが苦笑した。

幹 に突き刺さった剣を抜くと、師団長は巨木を振り仰いだ。薄い緑の葉に霧を纏い、枝はその大きさを誇示している。鳥が舞い降りて虫を啄ばむ。振り返ると、ア レクは少し肩を竦めた。黙って練兵場を立ち去る。

 行くアテもない。ふらりと立ち寄った先は、中 央塔の裏側だった。美しい庭が広がっている。手入れが行き届いた花壇には、寒さの中でも咲く花が植わっていた。白く丸い花畑が広がる。芝もきちんと刈り整 えられ、ブーツの底から伝わる感触が心地良い。緩く隆起した場所には、思い出したかのように木が茂る。辺りを見渡し、これと決めた木の下へ歩を進めた。寝 転がるのに、適度な傾斜の根を張り出していた。

 横になる。瞼を閉じ、静かに息を吸った。霧が 喉を通る。味はしない。緑のにおいが紛れているせいか、自分の家の庭を思い出した。父や母が生きていた頃は手入れもしていたが、今はすっかり荒れている。 ヨーダひとりでは手に負えないのだ。やはり家人を増やさなければ、あれだけの屋敷を維持するのは難しい。

「こんな所で油を売っている暇があるのか」

 慣れた気配に、瞼を開ける。冷めた目で見下ろ すミルマの姿があった。ビロードの外套が水滴を弾き、光彩を放つ。

 上体を起こした。横目で一瞥する。

「確認したいことがあるのですが」

言 葉を無視し、ミルマが勢いよくしゃがみ込んだ。アレクの上着からナイフを一本、二本と取り出しに掛かる。するがままにさせておきながら、アレクは彼の表情 を窺った。

「昨日、王とミルマ様のどちらをとるかとの質問 に、ミルマ様を選ぶと言ったのは、私の本心でございます」

「ふうん」

「ですから、本当のことを言っていただけません か。――私に命じられた一件、王はご存じないことなのですね」

「どうしてそう思う」

「私が動くのを疎ましく思っている者がいるよう です。司令室を出てからずっと、後をつけられました。追い払ってはおきましたが、あれでは目障りで仕様がありません」

 今朝、城に足を踏み入れた時点から、視線には 気が付いていた。つかず離れず。外に出た辺りで、はっきりと感じた。木々の中から鳥の声が聞こえなかったのだ。それを不自然と感じた者が、練兵場に集まっ た士官の中にどれくらいいたろうか。師団長は知っていながら、あえて勝負を挑んできた。剣を監視者が潜む木に叩き付けて以降、妙な視線は感じられないが。

「あれだけ気配を消せる者はそうはおりません。 その引き際に微塵も姿を見せない者……つけていたのは、下衛でしょう」

「王の私兵か。邪魔だな。頭も足りないくせにさ あ。実質、国を動かしているのは私官であり、政務を執行する政務執官(せいむしつかん)共だ。ただ玉座に安穏と座り、なんの苦労もなく民に崇め奉られてい る。それで一国の王といえるのか」

 曲がりなりにも王に対する言葉ではない。

「ですが、きちんと決めることは決め、動くべき 時には動きましょう。鍵を取り戻せと私官に命じ、下衛を動かしているのは王自身なのですから」

 言うと、ミルマは上目遣いでアレクを見た。

「それこそ、自分の頭の悪さを広めているような ものだ」

「手厳しいことを仰いますね」

「結局、鳩がいなけりゃ何もできないってことだ ろ。だから、私官よりも先に鍵を手に入れる。王の目を覚まさせてやるのさ。この意味が分かる? 宰領」

「私官と、その意を同じくする者を出し抜け、 と」

「上等だ」

 にやりと唇を歪めた。音もなく立ち上がる。

ア レクから奪った小型のナイフを、無造作に投げ付ける。軽い音を立て、離れた木に突き立った。リスの鳴き声が聞こえる。間一髪、逃れたようだ。その影を追っ て、二本、三本とナイフが飛ぶ。クルクルと器用に避ける小動物は葉陰に隠れた。

「何か収穫はあった?」

 次の獲物を探している。アレクは横に立ち並ん だ。

「鍵が持ち出されたとされる日、不審な者が城内 に入った形跡はありません」

「その言い回しだと、城内から出た者に不審者が 紛れていたのだろう」

「ご明察です。名は、シュケフト・オゥル」

「王宮付学官か。そいつが鍵を城外へ持ち出した と」

「はい。ただ――シュケフトは既に殺害されてい る可能性があります」

「……ほう」

 少し興味を惹かれたらしい。アレクはあの夜、 遺体を発見したことを話した。だが、少年のことには触れずにいた。身元がはっきりしない者を、この上司に話すことは憚られる。

「あの夜、刺客が狙っていたのは間違いなく鍵で しょう。遺体を持ち去ったということは、それから身元を探られないようにするため。身元を探られ要らぬ邪魔が入れば、鍵を探すのも困難になりますから」

「シュケフトめ……鍵をどこに隠したのか」

「狙われることは容易に知れたでしょうし、王の 私物を持ち出した時点で、即極刑です」

「先に手にすることはできるか」

 相手が悪い。下手をすればこちらの首が飛ぶ。

だ が、今のアレクにミルマの命を退けることはできない。見えない位置で苦笑する。

「むろん、手は尽します」

「期待してる」

 さらりと言って、突然踵を返した。同時に左手 を振り上げる。

「……何をなさいます」

 右手でミルマの腕を押さえたまま、剣呑な顔を 向けた。彼の手には煌くナイフが握られている。刃先は、あと少しでアレクの首元という所で止まっていた。

ナ イフを捥ぎ取る。何事もなかったように、それをベルトに納めた。ちろりと睨む。王子はゲームに負けた子供の顔をしていた。

「なんだ。つまらないな」

「ミルマ様の退屈凌ぎで死ぬわけにはいきませ ん」

「俺のためなら命を投げ出す覚悟でなくて、なん の副官だ」

「戦場でならばともかく。ここで命を落とすよう なら、一生笑い者です」

「面白そうじゃないか」

「……やめてください」

 ウンザリと言い放ち、上着の乱れを直す。

「君は俺に付くしかない。分かっているだろ う?」

「もちろんです。ですからこうして微力を尽くし ているのです」

一 礼して場を立ち去った。

無 言で歩みを進める。両の手が拳を握っていた。



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