(二)

「実は昨夜、面白い話を聞いちゃったんだ」

 ミルマが、アレクから取り上げた六本目のナイ フを、リズミカルにデスクの上に落としている。そのリズムは、ともすると眠気を誘いかねないものだったが、ミルマの笑みが警戒心を煽りそれどころではな い。

 だいたい、彼が面白いと言うことは、ことごと くアレクの頭痛の種になった。ひとりで城外へ出るにしても、時を問わないから始末が悪い。国を挙げての祝宴の際もこっそり抜け出し、カナシュの娼館まで連 れ戻しに行ったことがある。従者ですら手に負えず、アレクにお守りが回ってくることしばしばだった。

「……ミルマ様。ひとつだけお伺いしたいことが ございます。そのお話は、国の大事に関わることでしょうか」

「なんだよ。胡散臭そうな目で」

 牽制され、ムッとする。

「上官の話を疑って聞くのが、軍人のマナーなの かい」

「今までの経験から、私事である可能性が高いと 思いましたので」

「あ、ひどいねえ。俺は私事で軍を動かしたこと はないよ。それに、今回動いてほしいのは、アレクだけだもの」

 例え根底に私情があっても、それを公職として うまく丸め込む方を彼は知っているのだ。

ア レクは諦めた溜め息をつきつつ、

「話だけは、お聞きします」

 不承不承頷いた。

「態度は気に入らないけど――まあ、いいや。昨 日の夜、城から持ち出されたものがある。それを見つけ出してほしい」

「持ち出されたもの、とは」

「鍵だそうだ」

「鍵……とだけ言われても、探すのは困難です。 何を開ける鍵で、どのような細工のものか分かりませんと」

「国王が大事にしているものさ。下衛(かえい) が、行方を探すほどに」

 下衛と聞き、咄嗟に嫌な感じがした。

公 の場で王を守る近衛を上衛(じょうえい)、私兵を下衛という。両衛兵は軍には属さず、独自の組織で動いていた。

 ミルマは、なおもナイフを弄ぶ。

「国王の大事なものが持ち出されたとなれば、城 内警備に穴があったってことだ。我が軍にとっても不名誉なこと。何がなんでも、こちらから王にお返しせねば、と思うだろう」

「ですが、そんな騒動があったという報告がきて おりません」

「王側が隠しているのさ。それだけで、どんなに 大切な鍵だったのかが分かるってもの」

 本当なら、確かに軍の失態である。早々になん らかの処罰があって然るべきだが、ミルマの口ぶりから、ネイジェスが伝書を見逃して呼び出しをすっぽかしているわけでもなさそうだ。

「王の秘密の部屋の鍵とかだったら、面白いんだ けどねえ。……話の様子じゃ、そんな呑気なものじゃないみたい。持ち出した者が、拷問の末、殺されたようだ。やったのは下衛。故に、立証は不可能だ。奴ら はなんの手掛かりも残さないからね」

「人の命を奪ってでも取り戻したい鍵、ですか」

「価値があるんだろうよ。まあ、王の物に手をつ けておいて、無傷でいられるはずもないんだけど」

 ミルマが不意に顔を上げた。ナイフの刃を指に 挟み、腕を真横にはらう。壁の地図にまた新たにナイフが増えた。

「とにかく、王の、軍への信頼を回復させるに は、なくなった鍵を下衛より早く手にすることだ」

 異論はあるかと聞かれ、首を振る。

 彼の言は、珍しくまともだった。

「では、すぐにでも各師団長に連絡をとりましょ う。国中から、情報を得ることができます」

「いや。先に言った通り、動くのはアレク、お前 だけだ」

「お言葉ではございますが――」

「できないって言葉ならいらない。宰領自ら見回 りをする暇があるなら、これくらいのことはお手のものじゃない」

 アレクが口を閉ざす。

合 間にできることならいくらでもしよう。だが、王家に関わる大事であれば、己の手だけでは到底足りない。

 納得できずにいる部下を察し、ミルマが呆れて 言った。

「頭が足りないんじゃない? 下衛が動いてるっ てことは、誰が王につく者か分からないってことだよ」

 下衛は、諜報も行う。普段、文官や女官として 仕事をしている者が、実は下衛だったというのはよくあることだ。軍内とて同じこと。多くの士官の中に下衛が一匹混じっていても、誰に分かるものではなかっ た。

「話を広げれば広げるほど、相手には有利に働 く。だから、アレクだけを指名したんじゃないか。フィアード家は代々の軍人家系だし、統帥を裏切ったことは一度もないもの」

「……承知いたしました。国軍のために、努力し ます」

 国軍のため、の一言に力を込める。

些 細な抵抗を鼻先で笑い飛ばし、ミルマは手を伸ばした。汚れを汚れと感じないその掌に、ベルトから抜き取ったナイフを置いてやる。手の内で翻った鋭利な刃物 が、つと、アレクの喉元に突きつけられた。

「努力だけじゃ許さないから。絶対、俺の元に鍵 を持ってきてよ」

「かしこまりました」

平 然とミルマを見、ナイフを手で避ける。

 一礼し、踵を返した。

 

 

 

中 央塔と西塔を繋ぐ回廊は、天井がアーチ型で左右には大きな窓がきってある。霧の間から、中庭の噴水が透けて見えた。輝く水が上へ下へと飛び跳ねる。

黙っ て水の流れを追っていると、心内が小波を立てるようだった。

オー レスト国は大陸の北に位置していた。国土の多くは砂漠だが、中心部は肥沃な土壌も残っている。人々は厳しい気候に順応し、農産物を栽培しながら生活を送っ ていた。

も ちろん、それだけでは国家を維持できない。オーレストは、人の体を半日で溶かしてしまうほどの強酸性の海水から、塩を生成する技術を有しているのだ。この 技術はオーレストの秘法とされており、生成はクリスタのみで行われている。故に、他国が塩を得る場合、岩塩から生成するか、オーレストから買い付けるしか ない。現状、オーレストが国交を結んでいるのは東の隣国コモ国だけで、他の国はコモルートで塩を得ていた。しかし、オーレストが国外に流す量は極端に少な い。これも、塩製法を守るためにやむを得ないことだった。それでもオーレストの塩はどの岩塩よりも良質で、稀塩とさえ言われ高値で取引される。加えて、岩 塩はいつか枯渇するのに対し、海水は際限がない。お蔭で、国庫も永久に潤うというもの。

だ から、クリスタの塩製法を守るのは国にとっても重要なこと。それを担うのも、北の砦、フィアード家だった。

―― 軍宰領の家にさえ生まれなければ。

詮 ないことと分かりつつ、思わずにはいられない。こんな家系でなければ、面倒を押し付けられることもなかった。

ア レクは、名誉を望んでいるわけではない。適当に仕事をし、屋根のあるところで眠れたら万々歳である。そうあることが平和なのだと分かるからだ。この国に住 む者が、皆そうできるように努めるのが、国軍宰領として自分がいる意味だと心得ている。

そ れがなければ、なんのための国軍か。

思 い続け、軍宰領を拝命したのに、やっていることはミルマのお目付け役だった。溜め息をつくのも飽きるくらいだ。

「こんな所で何をしている」

 不意に声を掛けられる。背後に立っているの は、グレーの衣を着た幼馴染、ドゥイ・クォーレンだった。驚いたように片眉を上げる。

「アレク、ひどい顔色だな」

 表だけを見れば、優男風の落ち着いた雰囲気の 青年である。だが、侮るなかれ。彼は、国王付の私官なのである。各諸官へ王の文書を届けることから、“伝書鳩”とも呼ばれていた。たった五年で王の信頼厚 い側近にまで成り上がった彼の実力は、誰しもが認めており、差し詰め“伝書鳩”は、羨望の表れといっていい。

感 情を露わにしない彼が一瞬見せた表情が、妙に可笑しかった。

皮 肉に頬を緩める。

「鳩殿が、俺なんかを心配してくれるのか」

「このまま彫刻にでもなって、醜態を晒すような 真似をするんじゃないかと思っただけのこと。だいたい軍の宰領が、何をぼんやりとしている?」

 すぐにポーカーフェイスを取り戻して、手元の 書類に視線を落とした。

「王城でこんなに霧が出ていたんじゃあ、街場は もっと濃い霧が出ているだろうと、な。見回りの士官を増やそうか考えていた」

「また、そんなことを……。それは、師団長が采 配することだろう。昨日も夜の見回りに出向いたそうじゃないか。宰領が自ら出て行ってどうする」

 いったいどこで耳に挟むのか。王の私官は、ど うやら下々にまで私兵を放っているらしい。

「俺にずっと城にいろというのか。息が詰まって 死んでしまうよ」

「それが上に立つということだ。アレクなら分 かっていると思っていたが」

「買い被るなよ。俺はお前みたいに、自分から望 んで今の地位にいるんじゃない。残念ながらな」

「それが決して力不足でないところが、憎たらし いところだ」

「お。羨ましいと思っているのか」

「馬鹿」

 鼻で笑った。

 回廊の奥から、靴音が足早に響いてくる。パタ パタと締りのない音だ。武官の歩き方ではない。

ドゥ イが顔を上げた。

 回廊を廻って現れたのはネイジェスである。ア レクを認め、ほっと安堵の表情を見せる。静かに考え事がしたいと思い司令室を避けたのに、早くも見つかってしまった。観念して文官に向かう。

「どうした、そんな血相を変えて」

「アレク様っ、お探ししたんですよ」

「分かった。分かったからそう泣きそうな顔をす るな。私官殿にもちゃんと挨拶をしろ」

「あ、クォーレン様とお話し中でしたか。これは 失礼をいたしました」

 ネイジェスが明らかに緊張の気配を見せる。同 じ文官でも、私官は特別な存在だ。せめてドゥイの何分の一かでも仕事ができれば、少しは頼りになるのだろうが。

「この不良宰領に、大した内容の話などあろうは ずがない。早く連れて行かれよ。なんなら首に縄でも締めておいたらどうだ。またどこへ逃げるか分かったものじゃないよ」

 仕事の能力は買うものの、アレクに対する口の 悪さだけは見習ってほしくないと、二人を見比べる。

 すっかり恐縮した態のネイジェス文官に、ドゥ イは優しい眼差しを向け、さっさと踵を返した。

そ の背をネイジェスの視線が追う。

「アレク様は、クォーレン様と本当に仲がいいの ですね」

「仲がいい? あれと?」

 思わず噴出すのを堪えた。

「確かに幼馴染ではあるが、仲がいいという自覚 はなかったな。会えばいつも憎まれ口ばかりだ」

「それは、親しいから言えるものですよ」

「それに、あいつは誰かと馴れ合う気はないだろ うさ」

文 官の最高位である私官。

下 衛を統率しているのは私官だ。もちろん、鍵が持ち出されたことも知っている。彼らを駆使して、躍起になっているさまを表に出さない鉄皮面は大したものであ る。

 アレクとドゥイは、同じ時分に城に出入りする ようになった。あの頃から、彼の周りに友人がいるのを見たことがない。群れる上官をいつも冷めた目で見ていた。むしろ、周りを敵とみなしていた。たったひ とりで戦っていたのだ。

「でも」

 引き下がらないネイジェスが首を傾げた。

「クォーレン様は、アレク様とは無駄話をする じゃないですか。仕事中のクォーレン様が足を止めてまで話をする相手は、城内で王家の人間とアレク様だけです」

「無駄話とは失礼な奴だ」

「た、大変失礼いたしましたっ」

 言い過ぎたと自覚し、慌てて腰を折る。

ア レクは頬を歪めただけだった。

「で、ネイジェス。俺を捜していたのではなかっ たのか」

「はい、そうでした」

 他に気を取られるものがあると、そちらに集中 してしまうのも彼の悪い癖だ。

「昨夜、第六師団長に伝令を打ちましたか」

「六師団――ああ、確かに昨日カナシュの師団長 に連絡をしたが」

「師団長から何度も連絡があったのですが、アレ ク様が不在とお伝えすると、こちらへ来ると仰って」

「今、来ているのか」

「はい。先程こちらに」

 統括室に戻ると、窓際のシガーテーブルに寄っ て男が立っていた。五十代半ばでありながら、引き締まった体躯をしている。彼は前フィアード宰領の頃からカナシュ統括を任されていた。

「何か分かったか」

 アレクが、懐から巻き煙草を取り出した。ゆっ くりとした動作で銜え、火を点ける。甘い香りの煙が揺れる。

 師団長は揺るぐ香りに鼻を擽らせながら、若き 司令官を見た。

「それが、連絡を受けて早速回収に向かったので すが、どうも妙な具合でして」

「なんだ。無敵の元帥殿が、歯切れが悪い」

「宰領になんの報告もできないのが残念で」

「どういうことだ」

「回収を命じられた物、どこにもありませんでし た」

 わずかに目を細める。一際長く煙を吸い込む と、同じ長さで吐き出した。瞼を閉じる。

デ スクに戻っていたネイジェスが、無言になった上官を一瞥した。

「それらしき形跡も、ありません。運び去るのを 見た者も見付かりませんでした。元々ひと気のない場所ですし、目撃者を探すほうが困難かと思います」

 ――あれだけ大量の血が流れ出していたのに、 形跡がないだと?

 仮に酒を飲んでいたら見間違いだといえただろ うが、生憎、昨夜は一滴も口にしていない。第六師団長も、それを訝ってここまでやって来たと見える。

「運び去った者の手掛かりは」

「残念ながら、それもございません。足跡もこれ といって特徴のあるものではありませんでした。どこにでもあるブーツの型です」

「男か女かも?」

「何しろ足跡は不特定多数でしたので、どれが、 というのは特定できかねます」

 暫く、アレクは煙草を銜え続けた。ゆるやかな 白い息が、霧の色に溶ける。

 師団長が帰った後。壁に寄り掛かりながら、ア レクは煙草を何本も潰した。外の練兵場からは怒声が響き挙がる。ぼんやりと聞いていると、懐かしささえ覚えた。

 忽然と消えていた亡骸。明らかに他殺体だっ た。そして、アレクがあの場を通った時、周囲に人の気配はなかったのだ。立ち去った後で引き返してきた者がいる。だが、なぜそうする必要があったのだろ う。

 相手は息を引き取ったことを認めているはず。 わざわざ引き返し、あまつさえ亡骸を持ち去る理由は、

―― そこから、知られたくないことが露見する危険があるから、か。

「アレク様、吸い過ぎです」

 灰受けが一杯になっていた。新しいものと取り 替えながら、文官が眉を顰める。

「俺の唯一の楽しみだろう。大目に見ろよ」

「体に悪いと言っているんです」

「大袈裟な」

 銜えていた一本を押し潰す。

「ネイジェス、大至急、第五師団長を呼べ。聞き たいことがある」

「決済していないものが溜まっていますが」

「その中の大半はお前が決済できるものだ。頼り にしているよ、我が文官殿」

「は、はいっ」

 敬愛なる上官に言われて頬を上気させる青年 は、自分が上手いこと乗せられたのだと気が付く様子もない。嬉しそうに連絡を取り始めた。

 

 

 

 オーレストの王城は丘の上に位置している。そ れを囲むように城壁がそびえていた。城壁には表門と裏門の二つの城門が設けられ、城壁の中に入るにはそのどちらかの門を必ず通ることになる。

城 の真正面にある表門は、王族と賓客、重要な役職にある者だけの専用であった。一方裏門は、主に城に商人が品物を運んできたり、下働きの者が出入りをする。 城への出入りを限定することで、不審者の侵入を防いでいた。各城門には第五師団の士官が常時交代で警備に当たっている。

軽 いノックの音がし、ノブが回る。恰幅の良い男が、人懐こい笑みを浮かべて入ってきた。六十を過ぎているのに、まだまだ若い顔色をしている。温和そうで軍人 には見えない。

 前の革椅子に腰掛けさせた。ネイジェスが琥珀 色の茶を持ってくる。鼻腔に微かにアルコールが匂う。ブーツの下から押し迫ってくるような冷気を払拭するには、確かに酒は効果的であった。カップをゆるり と傾ける。

「どういったご用件でしょうか」

 師団長が口元に微笑を浮かべる。

「昨夜、城門警備において何か不審な動きはな かったか?」

「不審、ですか。いいえ。特にそういう報告は上 がってきておりません」

「出入りの記録は持って来たのだろう」

「はい。これでございます」

 分厚い紙の束を受け取った。連なっているの は、ほとんどが城へ物品を納める商家の名だった。他は、城で働く通いの者が何人か。

 ふと、頁を捲る手が止まる。わずかに目を眇め た。師団長も手元を覗き込む。

「何か、おかしな点でも?」

「……この、シュケフトという男。学査の、シュ ケフト・オゥル様か」

「そのようです」

「しかし、オゥル様は滅多に王宮書庫の執務室か らお出にならないというぞ。その顔を見知っている者も少ないと」

 広い城内には、常識人も居れば、それに匹敵す る数の変わり者も存在する。学査は、国の歴史、文化、文献等の研究分析とその管理、加えて役官試験の考査を司る。特に役を任ずる者を叙任官というが、その 他は部署名に倣い、学官と呼ばれていた。学官は、普通個々人で活動する。個人主義の弱肉強食部門である学査は、そういった意味で一風も二風も変わった者ば かりだった。

 シュケフトもそのひとりだ。一般の学官は、王 城の中央塔にある書庫で一日の大半を過ごすが、シュケフトの執務室は、国王が住まう王宮の中、特に貴重な文献が揃う宝書庫だった。自由に出入りできるの は、王宮付学官、更にその功績を認められた者に限られている。長年仕えている彼は、時には王直々の命を受けることもあるらしい。必要な文献はいつでも取り 揃えられる環境にあるため、滅多に宝書庫から出ることはない。よって、学査の中で最古参でありながら、姿を見たことがある者は極端に少なかった。

 その男が、昨夜、城を出た。

「学査の紋――羽筆を形どった紋も確認済みです し、何より王印が入った覚書もあったとのこと。疑う余地はありません。また、出入りの者の顔を全て覚えている士官に見慣れない顔があるとすれば、それこそ オゥル様くらいのものです」

 “外”と“内”を結ぶ場所を守るに必要なの は、果てない記憶力である。裏門を通った後も、何度も検分が行われるが、危険分子は早い段階で内に入れないのが得策だ。そういう軍育を受けさせた自信もあ る五師団長は、胸を張って言う。

「不審な者が入った記録はありません」

 確かに、とアレクは思う。

 確かに不審者が入った記録はどこにもない。 ――入った記録は。

 出た記録を見れば、このシュケフトがどうして も解せない。何十年も書庫を出なかった変わり者が、外界へ出た理由は何か。しかも、彼が戻った記録はまだなかった。

 どこへ行ったというのか。

「――分かった。手数をかけた。すまない」

 何食わぬ顔で記録簿を戻す。師団長は訝るよう に宰領を見たが、表情から何も読み取れないと悟ると、静かに席を立った。

 座る者がない革椅子を前に、アレクは再び煙草 に火を点ける。ゆっくりと煙を燻らした。

 やがて銜え煙草のまま、すっと立ち上がる。

「少し、出る」

 自分の机で決済に追われているネイジェスは、 今度こそ目を丸くした。

「アレク様っ、宰領が部屋にいないのでは示しが つきませんよっ」

「散歩だ、散歩。――お、そっちの隅に埃が溜 まっていたぞ。掃除の腕が鈍ったんじゃないのか」

「そんな、まさかっ」

 毅然と立ち上がり猛然とアレクが示したほうに 向かった。

「ああっ。本当だ。あ、こっちにも――」

 こうなると、彼には埃しか見えない。

苦 笑を残し、アレクはそそくさと部屋を出た。

 

 

 

 上官が出て行くと、途端静かになった室で、ネ イジェスがやおら立ち上がった。何気ないふうに部屋を出、廊下を行く。回廊を進み足を止めた。辺りを見回す。誰も居ないことを確かめて、脇通路へと足を向 ける。窓はない。ぽつりぽつりと灯りが燈っている。石積みの壁に右手をついて進んでいたネイジェスは、その半ばで歩みをやめた。壁を撫で、腰の高さにある 石をひとつ、押し込める。すぐに微かな振動の元、壁が動き始めた。人ひとりがやっと通れるくらいの隙間に、慣れた動作で滑り込む。内側からもう一度石を押 すと、再び動き出した壁が、その隙間を隠した。

 更に通路が続いている。灯りも何もない。マッ チを取り出してそれを灯した。荒削りの岩が上下左右を挟んでいる。通路は幾つもの分かれ道が存在し、或いは階段になり、くねくねと曲がっていたりもする。 通路のどれかは、国王の寝室に繋がっているはずだ。緊急時にはこの通路で、王族を逃がすという。通路の存在を知っているのは、王の側近と衛兵だけである。

 誰もが知らない道を、ネイジェスはスルスルと 進んでいった。幾つか階段を上り、道を変え、やがて突き当たる。

 壁に耳を当てる。向こう側が静かなことを確認 し、そっと壁に手を触れた。それにも先ほどと同じ細工が施されていた。

 闇に落ちる淡い光。毛足の長い絨毯に、数々の 調度品。ただの飾りではない。実用的にも優れたものだった。それを使う人物が、部屋の隅に据えた机に向かっている。こちらに背を向け何か書き物をしていた が、ネイジェスの気配に、不意にその手を止める。

「――アレク様、学査に赴いたようでございま す」

「シュケフトに気が付いたか。……奴にしては意 外に早かったな」

 意外、という言葉にネイジェスは眉を顰めた。 不快感を隠し、言葉を続ける。

「アレク様が『鍵』に辿り着くのも時間の問題か と」

「ああ、すぐだろう」

「このままで、いいのですか」

「分かったところで手にしなければ話にならな い。下衛も動いている。こちらより先に見つけられると思うか」

「……いいえ」

 王の密兵である下衛は、その姿も人数も公にさ れていない。彼らはその姿も変えることができる。彼らを出し抜くことは不可能に近かった。

「……まさか、ミルマ様に聞かれていたとは。鍵 の件にしても、ミルマ様は政治に興味がないと思っておりました」

「あのお方は、人が手に入れようとしているもの を横から掻っ攫うのがお好きなのだ。特に、王が手に入れたがっているものは」

 ふと、男が気配を変えた。ネイジェスも素早く 壁の中に消える。閉まりかけの壁の向こう側でドアをノックする音がする。

「クォーレン様。国王がお呼びでございます」

「今、ゆく」

 先ほどとは違わない声音で応えているのに、そ の表情はまるきり違うことを、若き文官は知っていた。


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