(二)



 カナシュの街角で暴れていたのは、放浪の武術 者だった。どうやら持ち金が底をつき、食い逃げをした末のことらしい。不幸にも、遭遇した新米士官ではどうにもならず、駆けつけたアレク自ら剣を抜く羽目 になった。男を捕らえ士官に預けると、疲労感がどっと襲う。

「士官の腕が鈍っている……」

 いくら新人とはいえ、あれしきのことを収めら れないようでは示しがつかない。腰を抜かしている士官もいたのだ。我知らず、深い溜め息が出る。

国 が平和なら、軍人が気を抜いてしまうのも仕方がないことだ。が、軍の宰領としては、手綱を締め直さなければと思う。争いは、いつ何時起こるとも限らないの だ。

 夜も更けた。足は街の外へと向いている。今更 リアートの元へ行く気にはなれなかった。

辻 馬車を捜す。運が悪いのか、空いているものが見付からない。仕方なしに歩くことにした。

 街の赤い光が遠ざかる。月光が、明りを持たな い彼の行く先を照らし出していた。道は細く、砂利を敷き詰めただけの一本道だ。左右に田畑と草原が広がる。ブーツの先で小石を蹴ったのか、遥か前方で小さ な気配があった。それ以外、あとは風が葉を揺らす音が耳に残る。

や がて、道は緩やかに弧を描き、葉を落とした大木が淡い影を落とす、小さな丘に続いていた。

そ の根元で、足を止める。胸ポケットから煙草を取り出した。

 マッチを点ける。細い煙草の先が赤に滲むと、 火を指先で弾いた。朱の点が草むらに消える。風が出てきた。軋むように枝擦れが起こる。

「拾い物をしちゃ、イケマセン、か」

 小さい頃、乳母に言われたことを思い出した。

銜 え煙草で首を擦り、目を細める。軽やかに巻き上がった風に、マントがふわりと翻る。煙草の灰が落ちても、視線は一点を注視していた。

 立ち枯れの木が枝を広げている。枝の間から、 さらりとした月の明かりが地面に落ちていた。

 そこに、何かが蹲っている。

 最初、誰かが捨てたゴミだろうと思った。視界 の端を掠めたものは、まったく動くことはなかったからだ。

 しかし。

 目を凝らすと、ゴミでも、まして物でもない。

動 かないだけの、人だった。

 七十歳を過ぎていようか。白髪とひょろりとし た小柄な体躯を、短い草の間に横臥している。顔色がない代わりに、背中の辺りが黒ずんでいた。風に血の臭いが混じる。もう助からないことを示唆していた。

 銜え煙草のまま膝を折る。首筋に触れると、老 人の喉が微かに上下して見えた。

「おい、しっかりしろ」

 無駄と分かっていても、口からはそういう言葉 が出た。

男 がわずか、瞼を上げる。細く細く開いた瞳は、やはり焦点が定まっていなかった。何も見えていない。闇深く落ちる一瞬に、意識の縁に手が掛かってしまっただ けだ。

 唇が動く。アレクは耳を近付けた。

「か……、を」

 どうにかそれだけが聞き取れた。

 老人が、大きく風を吸い込む。ゆるり、ゆるり と息を吐き出し、男の命は消えた。

不 意に、近くで別の気配を感じ、アレクが視線を上げた。大木の裏側から、白い衣服の裾が覗いている。

「誰だ。出て来い」

 さほど大きな声を出しはしなかった。それで も、姿を隠した者はびくりと体を震わせた。

 ざざ、ざざ。

葉 音と共に這い出す。

ま だ、ほんの子供だった。上下白っぽい服を着て、髪もぼさぼさと肩まで長い。服から覗く細い足に目を見張る。

い や、かつて足だったものと言ったほうがいい。それは、今は足として機能していないのだろう。

 両足の膝から下がぷっつりとなかったのだ。

 職業柄、爆薬や病気で手足を失くした者を目に する機会は多いが、彼らとはどこか違う雰囲気がある。具体的に、どうとは言えない。そのもどかしさが、アレクから次の言葉を奪った。

相 手は、ぺたんと地べたに座ったまま微動だにしない。髪の毛が顔の半分を隠していた。

 手を伸ばし、邪魔な髪を掻き揚げる。

両 目が真っ直ぐにこちらを見つめていた。唇を緩く結んで、目をきょとんと丸くする。自分の状況が分かっていない。歳は十二、三。少年らしかった。

「お前が、殺したのか」

 腰の剣に右手を添えたのは一瞬で、すぐに手を 引いた。少年の衣服には血が飛び散っていない。遺体の様子からしても、相手はかなりの返り血を浴びているはずだ。まして、この細い腕で、例え老人といえ ど、大の男を殺すことができるとも思えない。

 ――老人の連れか、あるいはただの行きずり か?

「俺はアレク。アレク・フィアードだ。お前の名 は?」

 少年は無言で見つめ返す。アレクが更に問いを 重ねた。

「この男は、お前の身内か」

「…………」

「どこから来た?」

「…………」

 云ともすんとも言わない。視線をアレクから外 し、顔を空に向けた。

細 い首を伸ばす。それはまるで、月光に溶けようとしているように見えた。

 儚げ、とでも表現しようか。月光にさえ透ける 透明感のようなものもある。

 ――まさか、幽霊の類じゃないだろうな。

 我ながら馬鹿げた考えが頭を過ぎる。なんにし ても、口をきかないのでは埒が明かない。

 死んでいる男を横目で一瞥する。何も言わずに 死に逝きやがってと、心内で悪態をついた。

「ツイてない」

 仏頂面で呟く。大儀そうに立ち上がった。短く なった煙草を弾き飛ばす。

「一緒に来るか?」

自 力で帰れるのなら勝手にしろよと思う。できないのならば、このまま捨て置くこともできない。腹を空かせた野犬に襲われでもしたら、ひとたまりもないだろ う。

 少年が一度瞼を閉じた。再びこちらを見る目 は、薄いブルーグレーの色をしている。月光を映した色だ。細い顎が動く。

「あれく」

 そう言った。いや、そう言ったのだろう。声が あまりにも小さく掠れていたせいで、ともすると聞き逃してしまいそうだった。

「今、俺の名を呼んだか」

 少年が、ちょっと首を傾げ、目を瞬かせる。

 月明かりが差し、彼の肌は蒼白い。頬に長い睫 毛の影が落ちる。

 長い袖から覗く指先は綺麗で、顔も、髪の毛を 除けば小綺麗だ。浮浪児でもなさそうだから、照会伝令を出せばニ、三日で身元を特定できるだろう。

 アレクは、横たわる老人の手を腹の上で組ませ た。

「人を向かわせるから、しばらく寝ていてくれ よ」

 そうして、少年に向き合うと、おもむろに肩に 担ぎ上げた。

「――わっ」

 驚いた少年が叫ぶ。

 足がないからなのか、痩せているからか、体は 驚くほど軽かった。アレクの外套の背に必死でしがみつく。そうすると頭のほうに体重がかかるものだから、体が頭を下にしてずるずると後方へ滑っていった。

「こら。もう少しちゃんと掴まっていろよ。落と しちまうぞ」

 言うと聞き分けるらしい。肩の上でじっとして いる。

 アレクは掴んだ足に目をやった。細い。ほとん ど、骨と皮ばかりだ。

 カナシュからは大分離れていた。ひとりならと もかく、人を背負った格好で王都ダインスタールへ戻ることもままならない。ここからなら、クリスタへ向かったほうが近かった。

フィ アード家は、北の街クリスタの中央通りを行った所にある。市場の喧騒も乱雑さも届かない、田舎にかかろうかという辺鄙な場所だ。国の軍部を司る者が、どう してこんな所に屋敷を持つのかと訝しがる者は多い。

 クリスタは北の酸海、ティエスタ海に面してい た。海の向こうにはアベルという大国が存在する。アベル国は造船技術に優れた国であるが、未だ酸性が非常に強い海を渡れる船を造った噂は聞こえてこない。 万が一、このアベルが海から攻め入ろうとした際は、フィアード家が北の砦となる。それ故、城から離れていようと、屋敷を他へ移すことができないのだ。

 幸いなことに、アレクが宰領になってからは、 アベルが不穏な動きを見せたことはなかった。役目とはいえ、家を荒らされるのは勘弁願いたい。

し ばらく歩いて、ようやっと屋敷が見えた。自ら門を開ける。気ままに暮らしたいからと、アレクが当主になった時に使用人全員に暇を出した。身の回りの世話だ けは、通ってくる者に任せているが、朝は日の出の頃に来て夕日と共に帰るものだから、夜はどの窓もとっぷり闇に沈んでいた。

 エントランスホールに静けさが満ちている。正 面には左右二つの螺旋階段があった。緩やかに傾斜している右の螺旋を上る。二階は使われていない部屋がいくつも並んでいた。埃も積もっている。すぐに使え る部屋はなく、一瞥しただけで、更に階段を上り始めた。

三 階にはアレクの自室と図書室、書斎と他に三つばかり部屋がある。実際使っているのは自室と図書室くらいのものだから、他の部屋は階下同様だった。仕方なし に、少年を担いだまま、自室に入った。

 正面の窓から、遠く街の明かりが見えていた。 左手には暖炉と、手前にソファがある。反対側の大きなベッドに、シーツがきちんとアイロン掛けられていた。毎日毎日ありがたいことだなと思いつつ、少年を 広いベッドの上に落とす。軽い体は、一瞬弾んだかと思うと、すぐに柔らかい毛布の中に沈んだ。

「そこを貸してやる。ゆっくり休め」

 言って、さっさと踵を返した。

 壁に楕円型の通信機がある。伝令を繋ぎカナ シュの師団へ老人の遺体を回収するよう手配した。明日には、なんらかの情報が報告されてくるだろう。

 ブーツを脱ぎ捨て、剣や装具類を取る。長々と ソファに横になった。長身の彼には少々苦しい格好だ。脱いだ外套を肩にかける。寒さは遮れないが、まぁいいさ、死にはしないんだから、と瞼を閉じた。

 背後で、がさごそと動く気配がある。普段な ら、他の意識が切れたことを確認してからでなければ眠りにつかないのだが、今日は特別疲れていたのだろうか。

 何やら気配を感じながらも、アレクの意識は深 い中に落ちていった。

 

 

 

(一)

 

 体が揺れるなと思っていると、耳元で「坊ちゃ ま、坊ちゃま」と囁く女の声がする。

―― はて、誰かにそんな呼び方を教えたか? 

ぼ うっとする頭で考えたアレクは、声に聞き覚えがあることに気が付き、瞼を閉じたまま眉間に皺を寄せた。

「坊ちゃま、起きて下さいまし。お時間でござい ますよ」

 覚醒すると、声もはっきりと聞こえるものだか ら腹立たしい。ソファに寝ているお蔭で、多少起こし方が優しいのだけが救いだった。

 渋々瞼を開ける。焦点が合った先に、見慣れた 婦人の顔があった。五十半ばの恰幅のいい女で、名をヨーダという。元、彼の乳母で、通いの世話係である。

「坊ちゃま、下にお食事の用意ができています。 おしたくを」

 アレクが半身を起こした。手先に暖かいものが 触れる。外套の上から毛足の長い毛布が掛けられていた。ベッドにあった一枚だ。

「これはヨーダが?」

 訝しげに問うのに、返ってきた婆やの顔もま た、怪訝そのものだった。

「ご自分でお掛けになったんでしょう?」

「いや。そっちには他の者が――」

「ベッドは使われていませんよ」

 視線を移す。白いシーツが露わになっているだ けで、横たわっている者はいない。

「さては逃げたな」

 あの足で、とも思ったが、身元を探す手間が省 けたのはありがたい。

 ほっと息を着いた主に、

「お探しの方なら、たぶんここに」

 ヨーダが囁く。

彼 女が指し示す先。ソファのすぐ下に、薄手の毛布の塊が転がっていた。それは、わずかに上下している。ちらりと見える髪の毛と、閉じた瞼。生まれたばかりの 子犬を思わせるこの少年が、寝ているアレクに毛布を掛けた張本人だ。

立 つこともままならない子供が、懸命に毛布を運ぶ姿が目に浮かぶ。

「ベッドを使えばよかったものを」

 アレクは唇に微苦笑を漏らした。

 そんな坊ちゃまの顔を、眉間に皺を寄せたヨー ダが見ている。視線を察し、したくは階下でする旨を伝えた。ヨーダが、無駄に恭しく部屋を出る。

ま た小言を言われる。長年傍にいるせいで、そういう事が分かってしまった。ヨーダが不機嫌な理由も、察しはつく。

寝 ている少年を抱き上げた。朝方は特に冷える。床に寝ていては凍えてしまうだろう。ベッドに寝かせ、上等の毛布を掛けてやる。

一 通りの装具を手に、部屋を出た。仕度の間(ドールルーム)で、用意を整えたヨーダが待っている。主が顔を洗い、着替えている間は終始無言でいたが、食堂に 移動したところで我慢が切れた。給仕する手を止めず、淀みない小言が始まる。

「坊ちゃま。何度も申し上げましたでしょう。簡 単に街場の者を入れてはなりません。ここは国軍宰領のお屋敷。この屋自体が軍事の拠点となるべき場所なのですよ」

 白く深い皿にクリーム色のスープを注ぐ。

ア レクはテーブルの上を見、ひとつ息を吐いた。ひとり分の量とは思えない程の食事が並んでいる。麦パンにチーズと果物が数種、貝のパイ、塩漬けにした魚を蒸 したもの、豆と野菜のスープ煮等々。

見 ているだけで腹が膨れる。

「俺もいつも言ってるだろう。朝からこんなに食 べられるもんか」

「何を仰いますかっ。朝はきちんと食べなきゃい けません。それに、今はそんな話をしているんではありませんっ」

 上からぴしゃりと一喝する。軍の宰領も彼女に は弱い。思えばヨーダは母代わり。到底敵わぬと、諦めて小言を聞き流す策に出る。

「わたくしは、坊ちゃまが外で何をしようと目を 瞑ってまいりました。多くの女の方と付き合うものいいでしょう。でも、その気が多いせいでご結婚がまだとなると、婆やは亡くなった旦那様と奥様に申し訳が たちません。わたくしが甘やかしたせいで、坊ちゃまがこんな不誠実な方になってしまわれて……なんとお詫びしたらよいか」

「ひどい言われようだな」

 適当な相槌を打つ。ヨーダの小言は毎回同じ で、もっと真面目になれだの、早く妻を迎えろだの、聞き飽きたことばかりを言う。

 小さくちぎったパンを口に放り込んだ。

聞 く耳を持たない様子を感じ取り、ヨーダが溜め息をついた。食堂の隅、暖炉の前に椅子を据える。背もたれに外套と上着を掛けた。暖めるのである。

「ええ、ええ、わたくししかご注意申し上げる人 間がいないんですもの。何度でも言って差し上げますよ」

「だが、妻を迎えろと言っているわりに、俺が女 を屋敷に連れてくると不機嫌な顔をするじゃないか」

「当たり前です。あれは女の方を連れ込むという のです。ちっとも本気ではございませんでしょう。そういうお方とは他所でお遊びになってください。今日だって、あんな若い娘さんを連れ込んで。本当に、情 けないやら恥ずかしいやらで」

 上着の皺を伸ばしているのか増やしているの か。しきりと触りながら婆やは嘆く。背を屈め、本気で涙を拭っている。

 自分の危惧が当たり、アレクはほとほと呆れ た。彼女はあの少年を「娘」と間違えている。

娼 婦を買うのはよくて、「娘」は買うなと、ヨーダは言っているのだ。道理にかなっているのかいないのか、彼女の言い分はアレクにも理解できない。いや、それ にしても自分が相手にするには若すぎるか、などと少年の容姿を思い浮かべた。そんな嗜好はないから、ここはなんとしても誤解を解いておかなければ。

「あいつは男だ」

 簡潔に誤解を解いたつもりが、

「……坊ちゃま」

 絶句した顔を見れば、新たな誤解を生んだこと は明らかだった。

ア レクが面倒臭そうに、フォークを置く。

「あいつには一晩屋根を貸しただけだ。他に使え る部屋がなかったから、俺の部屋を使った。他意はない」

 不機嫌に席を立つ。ヨーダが外套と上着を差し 出した。

暖 かい外套を羽織り、エントランスの扉に手を掛けた。

 馬屋には赤毛の馬が繋いである。裾を跳ね上げ て鞍に跨った。

街 には、白い霧が立ち込めている。濃い乳白色の霧は太陽の光も遮った。

 今日も寒くなる。

 薄暗い中で、アレクはマントの襟を掻き合わせ た。

 

 

 

 王城の西塔。蔦葉が絡み付いたその塔に、国軍 統括司令室はあった。

ア レクが扉を開ける。軍旗を背にして若い男が出迎えた。

「お早うございます、アレク様」

 恭しく一礼し、アレクから外套を受け取るこの 青年は、国軍宰領付文官、ネイジェス・バックネルだ。十八歳になったばかりで、半年前から彼の下で執務をしている。

 軍士官や女官といった、十二歳になった者なら 誰でも考試を受けることが許されているものと違い、地位の高い者に付く文官だけは様々な条件が設けられていた。

オー レスト国民であること。

十 九歳以上の男子であること。

考 試を一度で受かること、といったふうに条件は厳しい。負担も責任も大きい官で、滅多な者がなれるものではなく、十八歳のネイジェス青年は考試を受けること もできないはずだった。そんな彼が文官として起用されたのは、ひとえに彼の家柄による。バックネル家は王族の遠い血縁に当たるのだそうだ。どう繋がってい るか本人にさえ分からない薄い縁ではあるが、確かに繋がっているらしい。

 ――コネで入るのなら、もっと楽なところに付 けばよかったものを。

顔 を見る度、アレクも、また他の文官もそう思う。

 国軍の一切を取りまとめるアレクの元には、日 に何千という処理事案が上がってくる。加えて国内の至る所に散った師団からは、定期報告と近隣諸国の情勢も報せてくる。それら全てに目を通し、必要とあれ ば軍を動かすのが宰領の役目だった。文官はそれをサポートするだけでなく、血気盛んな士官たちをとりなしたり、ひとたび戦が始まれば宰領と共に戦地へ赴か なければならず、命の保障もない。

苦 労して文官になった者が絶対に避けるのが、国軍宰領付だった。

実 際、アレクが宰領になって四年の間、付いた文官は五人。ネイジェスを除いて、皆半年以内で辞めていった。宰領の性格云々を除いても、心労甚だしい部署なの である。四人目が辞めた時点でうんざりとしていたアレクは、ネイジェスが来た時も、やはりうんざりしていた。

期 待はしない。他と同様、長続きを望んでもいなかった。

だ が、ネイジェスは少し変わっていた。

自 ら国軍宰領付を願い出たという時点ですでに変わっている。

更 に、彼の趣味が掃除だったことが、変わり者の印象を強固にした。床に書類の雪を積もらせようと、煙草の灰受けを山盛りにしようと、翌日にはきちんと整頓さ れている。それも実にウキウキと楽しそうにやるものだから、こちらも散らかしがいがあるというもの。女官達すら、ネイジェスには何も言えない。今では執務 室の掃除は、もっぱらネイジェスの担当になってしまった。

皆 が変わっている、変わっていると思い続け、気が付けば半年が過ぎていた。アレクが宰領になって以来の大快挙だ。

 朝の挨拶を交わし、椅子に腰掛ける。上着の首 を緩めていると、ネイジェスが書簡の束を持ってきた。今朝早くに集まってきた報告書、各諸省官からの文書を読み上げる。

「昨日、キーラの村で民家に火を付け、騒ぎに乗 じて盗みを働こうとしていた夫婦を捕獲し、牢に入れてあります。ここに印を。それから、夜盗が出たとの報告が上がっています。すぐに対処するよう各師団長 に通達を――」

「ちょっと待て」

 左手を上げて言葉を遮った。ネイジェスが首を 傾げる。きょとんと、こちらを見返した。

 それを横目で一瞥して、

「それが、最重要事案なのか」

 アレクが問う。

 ネイジェスの目が、はっと見開かれた。慌てて 手元の書類を引っ掻き回す。

小 さく溜め息をつき、アレクはデスクに肘を立てた。

 この文官は、決して優秀とは言えない。何度教 えても優先順が区別できないのだ。だから毎朝「今日の最重要事案か」と聞く羽目になる。

文 官を変えるのは容易い。しかし、今更新しい文官に仕事を教えるもの面倒だし、震えがくるほど綺麗な部屋にも慣れた。国王との謁見を一、二回逃したところ で、誰かの生死に関わることもない――自分の信頼は大きく失墜するとしても、だ。

 山のような書類を引っ掻き回している文官に向 かって、アレクは何度となく口にしてきた言葉を繰り返す。

「白の蝋で印があるのが王の伝書だ」

「あ、それはありませんね」

「赤の蝋印が各省官長からのもの。ちゃんと印様 (いんよう)も確認しろよ」

「えっと……それもありません」

 大事な通達の順に挙げていく。どの印にもネイ ジェスは首を振った。

「紺の蝋印は軍のものだが……本当にそれだけ か」

「はい。あ、これ、これがありましたっ」

 一通の書簡を差し出す。見ると、書面は白紙の まま、一番下に黒の蝋で印があった。

「これだけ白紙なんですよ。誰かの嫌がらせで しょうか」

 アレクが椅子を蹴立てて立ち上がる。書簡を奪 い取った。

「……ミルマ様からだ」

「ミルマ様――って」

 急ぎ部屋を出て行くアレクの背後で、バサバサ と紙が落ちる音がした。

 ネイジェスが黒印を見慣れていないのも無理は ない。黒の蝋印を使うのは、城でたったひとり、国王子息、ミルマ・グライツェンだけだ。

 ミルマは国軍統帥の地位にある。軍の最高指揮 官であり、アレクの上官であった。だが、実際はというと、国軍統帥の役目は無いに等しい。軍の最は宰領で、統帥はただ便宜上その地位にいるに過ぎないとい うのは周知の事実だった。

 その、統帥からの伝書である。

ア レクは顔を顰め、足を速めた。

統 帥の執務室は西塔の最上階にある。彩色だけは鮮やかな扉を、ノックもなしに開けた。薄暗い小さな部屋が続く。そこは本来、統帥付文官や常時上衛(じょうえ い)兵が詰めているはずの入り口の間(アンテルーム)になっている。大抵はここで謁見を申し出るのだが、ミルマのアンテルームには誰もいない。

無 遠慮に横切って、美しい装飾が施された統帥室の扉をノックした。

「アレク・フィアードです」

「入れ」

 素っ気無い返事だった。

中 は緋色の絨毯が一面に敷かれている。大きな岩をくり貫いた暖炉には、赤々とした火が踊っていた。奥に大きな窓がはめ込まれ、前に一枚木でできたデスクが据 えられている。

座 り心地がよさそうな椅子を完全に無視し、ミルマはデスクの上に腰掛けていた。

国 軍の統帥にしては幼い顔をしている。それもそのはずで、十九という歳で統帥を名乗っていた。

ミ ルマは離れた壁に相対している。壁には布製の地図を貼っていた。その上に、ペーパーナイフや小型のナイフが幾つも突き刺さっている。

 アレクに一瞥をくれる。足をぶらりと大きく揺 らし、右手を伸ばした。

「ナイフ」

 手持ちのものはすべて使ってしまったらしい。

ア レクはベルトに差し込んでいた小さなナイフを、彼の掌に乗せた。

「君は俺の補佐だろう。そんな立場のくせに、滅 多に報告にも来ないなんて職務怠慢だよね」

ナ イフを弄びながら統帥が言う。

「ミルマ様のお手を煩わす事態も起きておりませ んので」

「と言って、軍の統帥が何も知らないでいいと 思っているの」

「それで事が足りているのでしたら、わざわざお 手間を取らすこともないと思いますが」

 軍統帥の地位は、国王になるまでのお飾りだ。 統帥としての功績は誰も求めてはいない。現国王・マースも、王になる前はこの官にあったが、功績は皆無だった。

「あの口煩い侍従長さえ、何もしなくていいって 言うんだ。もっと勉強しろだの、素養を身に付けろだのって、他のことには煩いのにさ」

「それで宜しいのではないのですか。次期王とな られるミルマ様には、今の内に少しでも多くの事を学んで頂きたいと、家臣一同願っております。ですから、他の雑多なことに気を乱されることがないようにし ているつもりです」

「それ、どこまでが本気なんだい、アレク」

 ミルマが、ふと目を細める。右手を無造作に振 り上げた。

軽 い音がして、ナイフが壁の地図に突き刺さる。

 視線で追ったアレクは、ミルマが右手を差し出 しているのに気が付くと、すぐにベルトからナイフを抜き出した。

「嘘などありません、ミルマ様」

「ふうん」

 気のない生返事が返ってくる。薄刃に自身の顔 を映して、にやりと笑った。

「有能な家臣を持つと、楽でいいねえ」

 アレクの嘘はあっさり見抜かれている。ミルマ の王位継承を心から望んでいる者が、城の中にどれだけいるか。恐らく、片手で数えられるくらいだろう。

王 家の親類縁者の中には、彼を能無しと呼ばわる者も多い。あわよくば自分が、あるいは自分と利を同じくできる者が、国王の座につくことを切望している。だ が、オーレスト建国の祖であるグライツェン家直系だけが、王位を継承してきた。ミルマに対する中傷は、それを僻んでのことだ。あいつは馬鹿だとか、勝手気 ままと、裏では散々に言う側近連中がいることもアレクは知っている。

そ ういう言を聞く度、薄ら寒さを覚えた。何も判っていないのはお前らのほうだと言ってやりたくなる。

 ミルマは決して馬鹿ではない。そう見えている としたら、彼が噂に便乗し意図的に見せているのだ。相手を油断させて警戒心を解かせるには、自ら道化を演じているほうが楽だった。

 彼には、王として立派にこの国を治めていける だけの才覚も技量も備わっている。唯一欠点があるとしたら、それは人に対する情愛の薄さだ。

 ――ミルマが軍の統帥になった年、近くの村で 事件が起きた。男が薬物で正気を失い、国軍指令支部に爆薬を投げ込んだのだ。多くの士官と村人が犠牲になった。

通 常、法に照らし合わせ罰を与えるのは政務執法官(せいむしつほうかん)の仕事だが、軍内で起こったことについては、全権が軍に移行される。

面 倒臭げに刑執行を延ばしていたアレクだったが、牢番が息せき切って持ってきた伝書を一読して顔色を変えた。そこには「罪科、酷刑」とだけ記されており、最 後に黒の蝋印が押してあった。

ア レクは、男の命を助けようなんて考えていなかった。ちょうど文官不在の時期に重なり決裁が遅れていただけで、どう考えても死刑が妥当だ。

こ の時、ミルマがしたことも、死刑といえば死刑である。やり方が、あまりにも惨いものだったとしても。

ま ず、広場に板を立て、男の腰と足を固定する。首元には、細く鋭い刃を円状にぐるりと廻らせた。彼がしたのはそれだけだ。

正 気を失っていた男も、徐々に落ち着くと自分がどういう状況にあるのかを判断できた。みるみる蒼ざめる。すぐに殺されはしない。が、一度意識を失えば――眠 気に勝てず首を揺らそうものなら、首に刃が食い込む仕掛けになっていた。一瞬であの世に逝ければまだいい。運悪く死に至らなかった時、痛みと苦しみは想像 に難い。アレクが、いっそすっぱりと殺してやりたいと思った程だ。

そ の意見に、ミルマは片眉を上げた。

「奴は何人の命を奪った? その重さの分だけ報 いを受けるのは当然だろう」

 平然と一蹴する。

「死刑にするにしても、もっと別の方法がありま す。それに、彼もオーレストの国民ですよ」

「だから苦しませないで、死なせてやれって?」

 ミルマは唇に薄い嗤笑を浮かべた。

「甘いなあ。奴は、国のために何かをしたか?  利になるどころか、大事な民と士官を殺したんだ。そんな奴に安穏とした死を与えろというの。俺はそんなに優しくないよ」

 つまらないものを見るように、男を見据える。

「国に害しかなさない者は処分する。それが、軍 の仕事なんじゃない?」

―― ミルマの国を想う心の裏には、一種の嗜虐性が貼り付いている。そんなものは、彼の聡明さと力の前では瑣末なことだ。国や国民の命を脅かすものがあれば、排 除するのは次期王として当然の行為だった。嗜虐性もある程度は備わっていて然るべきだと、アレクは思う。

な にぶん、彼はまだ若い。これから学ぶことの中で、労わりや思いやりといったものを身につけてほしいものだ。

こ の王子が、他に優しくする図など、背中がゾワゾワして落ち着かないだろうけど。

「ちょっと聞くけどさ」

 指先でナイフの刃をなぞりながら、ミルマが 言った。

「もしも、王と俺が瀕死の怪我を負っていたとし て、君ならどちらを先に助ける?」

「もちろんミルマ様です」

「どうして」

「現国王をお助けしたとしても、跡継ぎがいなけ れば騒乱の元になります。逆に国王が身罷ったとしても、正統な次期王がいれば国は安泰です」

 国を考えるなら当然の解だった。統帥がにこや かに言う。

「職務に忠実で国を想う心もあり、決断力もあ る。何より強い。俺が王だったら、アレクを上衛長にするのになあ。なんで国王はそうしないんだろうね」

「フィアード家は代々、軍の宰領を務めてきた家 ですから。今更、違う仕事を与えられても途惑うだけです」

「お前ならなんなくやれる」

「上が落ち着いた方ならば、それもいいでしょう ね」

「俺に落ち着きがないって言いたいのかい」

「衛兵の目を盗んで、ひとりで街へ出掛けてしま う王では、心休まる暇などないでしょうと申し上げているのです」

こ の王子は、ひとりで出掛けるのがお好きなのだ。ミルマがぐっと睨みつけるのに、アレクは唇の端で笑ってみせた。決して嘘は言っていない。

 デスクから音もなく下り、ミルマは窓辺に寄っ た。嵌め殺しの窓からは白く煙った庭が見渡せる。霧が一層深くなっていた。額を当てる。梳いた黒髪がふわりと歪んだ。

「だったら、国のために役目を果たすのに異論は ないんだろうな」

「国軍の宰領ですから」

「ところで、狩りをしたことはある?」

 またころりと話題が変わる。口調は何気ないも のだ。それだけに、アレクはほんの少しだけ、慎重に答えを探した。

「は。まだ父が健在だった頃に、一度だけです が」

「獲物は?」

「小さな兎を一羽」

「上等だ」

 顔だけをこちらへ向け、ミルマは笑った。

「ここに呼んだのは他でもない。兎を狩ってほし い」

「兎、でございますか」

 素っ頓狂に聞き返す。眉根を寄せた。

「軍人の役目とは思えませんが」

「じゃあ俺の副官としてなら? お前は上官の命 が聞けないのか」

「お言葉ですが、兎がいるような森は、国にはも う存在しません」

「俺を馬鹿にしてる? 自分の国のことくらい、 把握しているつもりだよ」

「では――」

「俺が言っている『兎』っていうのは」

 不意に言葉を切った。背を窓に預ける。アレク を正面に見据えた。

 窓の外が目に痛いほどに白い。ミルマのシル エットがはっきりと浮かび上がる。

「鍵だよ」

 無垢とは正反対の表情で、微笑んでいた。


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