Karman ― カルマ―        

                                             深町 蒼

 

 

 

 

霧 雨が煙る。

 見上げる空は、そこにあるものかないものか、 乳白色に遮られて判然としない。月影の青白い光輪だけが、静かに降り注ぐ。

 微細な霧を縫って風がそよいだ。水滴が睫毛を 濡らしていく。空気は凍えるほどに冷たく、すでに己の息すら温かさを失っていた。

 外套もない。羽織るシャツが重さを増す。雨の 滴は細い肩から背中へ、やがて袖口を伝って足元に染み込んだ。それは大地の霜を溶かし、再び柔らかく立ち上っては、頭上に漂う霧雨となる。

 こうして、幾日、月を求めたことか。

 手を伸ばしても届かず、せめて一目見ように も、霧を透いて分かるのはその光輪のみ。ただひとり立ち尽くし、見上げる先にあるものに想いを馳せる。

 不意に、その瞳が揺らいだ。

 静かに。

だ が、深い所で。

何 かを感じる。

 直感というにはあまりに頼りない感覚でそれを 感じることができたのは、親も、その親もそれが分かったからだ。

そ して、そうと感じた時が、自分がゆくべき時と知っている。

 耳を劈く音。

振 り仰いだ目前に、黒々とした闇が口を開く。

 ――ああ、やっと。

 降り零れる月光の輪が、濡れた頬を照らした。

 

 

 

 

 男が部屋を出たのは、六年ぶりのことだった。

 長い時を椅子に腰掛けて過ごす彼の背中は、 すっかり曲がっており、小柄な体が一層小さく見えた。髪は、下を向いて作業をするのに邪魔だという理由で、自身で適当に切り揃えている。それも、若い時分 の艶やかさと色は抜け落ちていた。

 静まり返った廊下を進む。点々と灯されたラン プの明かりが、行く先を示していた。

窓 の外は暗い。星が小さく瞬いているだけで、他に物音ひとつなかった。こんな遅くに起きているのは、守備兵か衛兵か化け物くらいである。自分は武官ではない から、はて、では化け物かいな、と自嘲した。

―― そう見えぬこともないわな。

 窓に映る姿を認め、更に笑みを濃くする。

 向かう一室は、廊下のずっと奥にあった。

目 立つ特徴のない扉である。中央には、控え目に一羽の鳥が彫刻されていた。

 扉のわずかな隙間から明かりが漏れている。男 はノックもせずに、扉を開けた。室内に、蝋燭のほのかな明かりが満ちていた。余人には少々薄暗いと感じるその明るさが、男にはちょうどよかった。

 右の椅子に、部屋の主らしき青年が腰掛けてい る。突然の訪問者にも微動だにしなかった。

 男が目を眇める。

「見たことのない顔だな」

 青年は、小さく唇の端を上げた。

「初めてお目にかかりますので」

「新しい鳩か」

「はい」

「随分と、若い鳩だの」

「暗くはありませんか。目が辛いようでしたら、 ランプを点けますが」

「いや。強い光には、もう何年もあたっていな い。このくらいが、一番じゃ」

 ソファに座り、青年に相対する。

「――それで? こんな老いぼれを、わざわざ呼 び出したわけを聞かせてもらおうか」

「もう、お分かりのはずではありませんか。貴方 にお聞きすることがあるならば、ただひとつです」

 歳若いわりに、頭が切れる男らしい。今までの 鳩と比べても、物腰に隙がなかった。表情ひとつとっても、内に秘めたことは絶対に表に出さぬ雰囲気がある。

 ――よい青年を見つけたものだ。

 さきほど見た、己の姿が頭を過ぎる。

筋 肉もなく、生気すら感じられない老体は、年々使い物にならなくなりつつある。自分にも目の前の青年のように若い時があったのだと、思い出すこともままなら ない。この命も、もう長くはないと、心のどこかで分かっていた。

「あれのことなら、未だ詳しいことは分かっては おらん。そう、報告したと思うが」

「ええ。書面ではいただいております」

 そう言って彼は、報告書の束をデスクに投げ出 した。

「この中では、あれに特殊な力があるとしつつ も、その解明には至っていないとありましたね」

「確かに」

「その力とは、具体的にどのようなものなのです か」

「そなたは、見てはおらなんだか」

「あれを貴方に引き渡した時、わたしはまだ、こ の部屋にはおりませんでした」

「あの様子を見ていれば、納得してくれるだろう がな……」

 数年前の情景が瞼に過ぎる。

 壁と床一面を染めた、おびただしい血痕。生温 かい臭気。子供の悲鳴が辺りを劈く。

 不快な感覚に、男は一度強く頭を振った。

「あれは、邪を滅する力がある。だから、鍵と成 り得るのだ」

「俄かには信じられないことではありますね」

「元より、人の力で明かすことができないもの。 信じるか否かは、そなたしだいじゃて」

「信じるも何も――わたしに、その判断はありま せん」

「そうだ。あれを使うことができるのは、そなた でも儂でもない」

「その力を解明できていないということは、同じ ものを作ることもできないというわけですか」

「作ることは無論、代替すら――おい。まさか、 鍵を使う気じゃなかろうな」

 気色ばんだ男とは対称的に、青年は薄く笑うだ けだった。

 思わず、男が立ち上がる。

「あれは、もう他がないものじゃ。使ってしまえ ば最後、二度と光が蘇ることはないじゃろう」

「それは、こちらも存じています。だから貴方に 託したというのに、成果は皆無に等しい。残りひとつだからと大事に箱にしまっていて、錆て朽ちててはなんの意味もないと思いませんか」

「……しかし、あれは国の最後の希望でもある。 容易に使っていいものではないというのに」

「もちろん、容易に使うつもりはありませんよ」

「この国に、何か起こるというのか」

「貴方が部屋にこもられている間に、外では様々 なことがあったのです。それを知らぬ者に、口を出されたくはありませんね」

 丁寧な口調に、微かな苛立ちが混じっていた。 暗さで表情が分り難いぶん、口調の乱れは手に取るように分かる。

 鳩が言うのであれば、どうにもならない状況に なる日が近いということ。その日が来ないことを、こんなにも望んでいたのに。

「あれに国を託す日が、近いのだな」

「それは、あのお方の御心しだいです」

「何が起こっているのか、知りたいとも思わぬが ――せめて、なんのために引き渡せと言うのか、それを教えてはくれぬか」

 青年の目が細まる。蝋燭の火を映し、妖しい光 を放った。

「国と民を守るためです。それ以外に、どんな理 由がありましょうか」

 正当なことだというのに、男はなぜか悪寒を覚 えた。

冷 たく、怖い。歴代の鳩には感じなかったことだ。

 鳥肌が立つ。冷や汗が額を伝った。

 男が立ち上がる。青年は呼び止めもしなかった が、ただ、一言だけ口を開いた。

「その時が来るまでに、こちらにすべてを引き渡 す覚悟を決めていただきます。貴方に残された時間は、そう多くないことをお知らせしますよ」

 背中で声を受け止めるだけで体が震え出す。一 度も振り返ることなく、部屋を出た。懸命に歩き、歩き、歩く。

 静かな廊下をひとり歩いていると、青年の微笑 が追いかけてくるようだった。振り切って、自室に駆け込んだ。

 大量の書物が辺りを埋めている。デスクも椅子 も本の下に隠れ、どこに何があったのかも分からない。

部 屋を横切り、更に奥へと進んだ。本棚の前に立つ。ひとつ、ふたつと本の位置を動かした。

 本棚が動き出す。壁に突如現れた穴から、石の 階段が続いていた。手燭を掲げ下りていく。しばらく行くと、地下への道のりはどんどん深くなり、闇も増した。手燭の明かりだけでは心許ない。

 滞った臭気が、鼻をついた。眉を顰めて明かり を翳す。格子戸が嵌ったその奥に、視線をやった。

「あ れ」が呼び覚ますものが、眩い光なのか、それとも永い闇なのか。

そ れを知る術はなかった。

 

 

 

 夜闇が深くなり、鼻先にまでヒタと迫っている 刻限だった。

 柔らかいベッドの上で、青年が目を覚ます。と いっても、目を開けているのかそうでないのか、判断し難い闇の中でのことだ。目玉を動かすも、見えるものもない。

 青年はそのままの格好で耳を澄ましていた。別 段、耳にできる音はない。外は風も止んでいるらしく、枝擦れの音もなかった。

 ――何か、おかしい。

 聞こえる音はなくとも、感じるものはある。彼 の感覚の鋭さは長年培ったものだった。

 そっと、上体を起こす。黒髪に寝起きの癖が 残っている。

冷 気が肩に這い上がってきた。ガウンを羽織り、起毛の織物で作られた部屋靴を履いた。勘でドアまで辿り着く。息を殺して、耳をドアに押し付けた。

 やはり、大きな音はない。だが、彼の中を支配 し始めた感覚は、ざわりざわりと大きさを増しつつあった。

 廊下に出る。灯されたランプの炎が揺れた。

 青年は躊躇することなく歩き出した。しばらく 歩いたところで、唐突に立ち止まる。わずかに天井を仰ぎ見た。再び歩き出し、やがてある部屋の前で足を止める。壁のほうに凭れかけ、ドアから中の様子を 窺った。

「奴はどうした」

 低いながら声が漏れ聞こえる。

「捕まえようと手を尽くしたのですが、耐え切れ ずに――」

「死んだか」

 相手が頷いたのだろう。一寸、間が空く。

盗 み聞きをしながら、青年は腕を組んだ。話の内容が剣呑であっても、眉ひとつ動かさない。そばだてた耳は、一心に室内に向けられていた。

 双方、色のない声だった。感情も抑揚も、一切 のものを排除した口調で話をしている。昼間のあいつとは別人のような冷たい声音だな、と思い、こちらが奴の本性なのだろうと微笑する。

「老体には、優しくするものだ」

 少しもそう思っていない口ぶりだ。

「それで、鍵はどこに?」

「あやつ、何も言わずに事切れました」

「奴と共にはなかったということか」

「はい。我らが見つけた時には、すでに隠した後 だったろうと思われます」

「使えないな」

「……申し訳ございません」

「鍵が手元になければ話にならない。このままで は、あのお方もお困りになる」

「ただ今、全力をもって探しております」

「当たり前だ。なんのためにお前たちがいると 思っている。年寄りひとりに逃げられるなど、恥だとは思わないか」

「…………」

「お前の頭を何遍下げたって、この失敗は繕えな い。とにかく早急に、鍵を見つけ出せ」

「はっ」

 内から、ひとつ気配が消えた。

黒 髪の青年が顎を上げる。闇の天井に向かい、嘲笑を見せた。

 廊下を引き返す。ガウンのポケットに両手を 突っ込んだ。指に触れるものがある。昨日、女官長に貰った飴玉の包みだった。

小 さな飴を頬張ると、ほのかに花の香りがする。春の匂いだ。

 軽やかな足取りは、しだいにスキップに変わっ た。

 その顔に、陰惨な笑みが貼りついている。

 

 

 

(一)

 

 月が、その輪郭だけを紺色に染める。深黒に、 冴えた光が皓々と輪を放った。

街 路では、心許ない街灯が点滅を繰り返している。月の蒼い光のほうがよほど目に優しい。街灯の下に長い間立っていると、視界がおかしくなりそうだ。

 そんなことを頭の片隅で思った瞬間、

「ふざけないでっ」

 パンッと小気味いい音が辺りに響いた。

酒 場の裏道である。店々からはテンポのいい音楽と、酔っ払いの嬌声が漏れ聞こえている。窓越しの赤い灯りの中では、幾組もの男女が手を取り踊っていた。

 喧騒を横目で一瞥し、アレク・フィアードはす ぐに視線を戻した。派手なドレスの女がこちらを睨む。吊り上った眦に朱が差していた。

 叩かれた左の頬が熱い。

「二股なんて、最低な男ねっ」

 吐き捨て、女は踵を返した。足音高く暗い道を 引き返していく。

ア レクは左頬を押さえた。女に叩かれたのは久しぶりだ。

わ ずかに笑みを零す。彼女と付き合っていたのは何ヶ月だろうか。それが一ヶ月にも満たなかったことに気が付いて、まあいいさ、と思う。

 マントの襟に手を掛けた。月の輪郭と同じ紺色 のマントの襟元には、細い三日月に剣を合わせた紋章が刺繍されている。手袋越しに確かめて、微かに自嘲した。

 近くの店でガラスが割れる。別の店から、取っ 組み合った男が二人、通りに転がり出た。酒瓶を手に野次を飛ばす者がいる。女が一方の者を応援すると、男がもう一方を応援する。人だかりは倍になり、殴り 合う二人は完全に頭に血が上って冷静な判断がつかなくなっていた。

成 り行きを見、アレクは溜め息をついた。

喧 嘩は日常茶飯事の街であっても、目の前で怪我人を出しては他に示しがつかない。

そっ と視線を動かした。三人の若者が談笑しながら、ちょうど路地に足を踏み入れたところだ。アレクと同じ紺色のマントを羽織っている。

三 人と目が合った。彼らはハッと目を剥き、その場で立ち止まる。

ア レクは何も言わずに顎を動かしただけだった。

頷 き、三人が争いの真っ只中に割り込んでいく。酒臭い息に顔を顰めつつ、取っ組み合っている男を引き離し、野次馬を次々叱り飛ばした。蹴散らされたほうは、 ぐちぐちと文句を言いながら、それでも紺色の制服に逆らう馬鹿はいない。

こ こオーレスト国で紺を纏い、三日月に剣の印を持つ者は、オーレスト国家軍だけである。彼らは、纏う色から“月闇(つくやみ)の群れ”と呼ばれていた。オー レストでは、軍が国の治安の一切を取り仕切っている。彼らに抵抗しようものなら、問答無用で牢行きだ。

だ が、無闇に恐れられているわけでもなかった。力で他を統率し、誰からも怖がられた先代の宰領とは違い、今の宰領は個人の考えを重んじ、規則の中で自分がで き得ることをするべしと――要は、自己の責任において勝手にやってくれという、なんとも無責任な態度をとっているせいだ。士官たちも、自己責任と言われて は軽率な行動をとることもできず、結果、真面目に役目に励むことになる。そんな姿を見た国民は、国を守ってくれる国軍に対し、敬意の念を抱くという寸法 だ。

と いって、現国軍宰領が、ここまでを見越していたとは到底、考え難い。彼の思惑として、降りかかる面倒を軽減しただけのつもりだった。お蔭で、見回りの手伝 いなんぞに自ら出向き、あまつさえ女に振られるほどに、暇ができてしまったのだが。

オー レスト国家軍を束ねる宰領――アレクは、用が済んだ士官たちを、手を振って追い払った。女に殴られた頬を見られたくなかったからだ。

「あら、隊長さん。珍しくお一人?」

 頭上から艶やかな声が舞い降りる。

腕 を組み、天を振り仰いだ。石積みの二階窓から女が顔を出している。緩くウェーブした髪がはらりと揺れた。

「リアートか」

「あたしで嬉しいでしょう」

ア レクを隊長呼ばわりするのは、国中捜したところで彼女しかいない。

オー レスト国王都ダインスタールから少し離れた、カナシュという名の街は、いわゆる娼館街だった。夜更けにも関わらず、古い石畳の道には浩々と光が満ち、嬌声 と怒声と酒気が混ざり合う。娼婦として働いているのは、近隣村から出てきた娘や孤児たちが多い。

商 売柄、女たちを商品として扱う娼館もあるが、カナシュの娼婦はれっきとした職業だった。カナシュの荒廃は、女たちから行き場を奪う。国としても、これだけ の娼婦が路頭に迷ったら、生活の保障もしてやれない。ならばと、彼女たちの生活のすべてを、法で守ることにした。最低賃金や休日、睡眠時間の保障まで、法 に細かく定められている。

娼 館街カナシュの中でも、娼館「月の輪」は値の張る店だ。娼婦にも気品や教養を身に付けさせている。その館で、リアートは誰よりも素養があり、頭もいい。 さっぱりとした気性も好まれている。彼女を正妻に迎えたいと申し出る高官も珍しくないとか。しかし、リアート自身にその気がないのか、すべての話を断って いるらしい。

もっ たいない、と言うと決まって、

「娼婦には不釣合いよ」

 身の丈に合った行いをすべきと、心に誓ってい た。

「こんな月夜の綺麗な日は、女の子とデートして いるかと思ったのに」

見 下ろして、彼女が頬杖をついた。

ア レクは背を石壁に預ける。マントの上から伝わる氷のような冷たさに、一瞬体を硬くした。

「今日は人手がなくてね。女を相手にするのも面 倒だし。仕事で終わる一日もいいもんだろう」

「痩せ我慢にしか聞こえないけど」

「我慢なんかしちゃいない」

「まあ、貴方の周りには女の子が選り取りみどり だものね。あの女の子と別れて、次は誰と付き合う気?」

 クスクス、笑っている。

わ ずかに視線を上げた。軽く睨んでやる。

「見ていたのか」

 恨みがましい視線を、リアートは軽く受け流し た。長く形のいい指で宙にクルクルと円を描く。

「ウチの下で喧嘩するほうが悪いのよ。見てくだ さいって言ってるようなものじゃない。あの子、可哀相。貴方に釣り合おうと慣れないドレスで着飾ったっていうのに。貴方が他の女の子と仲良くなんてするか らよ」

「単に彼女が誤解しただけのことだ。それに、俺 と彼女は将来を約束した仲でもない」

「そのわりに、不機嫌そうな顔」

「からかわれるのが嫌なだけだ」

「ふられるのもお手の物でしょうしねえ。あんな の日常茶飯事でしょ」

「うるさい」

「わざとふられて、女のプライドを守っているつ もり? 私、貴方のそういうところが嫌いだったの。このままだと、いつか本当に恨みを買いかねないわよ」

彼 女の唇に微笑が浮かぶ。言葉とは裏腹に、嫌いな相手に向ける眼差しではなかった。しかし、彼らが付き合っていたのは半年以上も前のことだ。今では二人、よ き友人であり、客と娼婦である。

 月の光が、冴え冴えと通りを照らしていた。寒 々しい青い光に、息が白く消える。リアートが肩のショールを首元まで引き上げた。

「窓を閉めたらどうだ、リア。風邪をひいたん じゃあ、客をとれなくなる」

「じゃあ中に入って行かない? どうせ今日は終 わりでしょう。あとは部下に任せておけばいいじゃない。サービスするから」

 甘い誘惑に、アレクは首を振った。

「この前みたいにサービス料金取られるんじゃな あ」

「あら、お金のある人から貰うのは当然でしょ う。それに、お代以下のサービスしたことあった?」

「言うね」

 諦め、息をつく。再びリアートを見上げた。

「分かった。一通り、見回りが終わったら邪魔す るよ。それまでに部屋を暖めておいてくれ――と」

 誰かがアレクを呼んでいる。士官のひとりが、 通りの先から走ってくる姿が見えた。

 若い士官は敬礼をするのも忘れ、切らした息を 整えるのももどかしく、アレクに耳打ちする。目を細め、部下に小声で確認した後でふと顔を上げた。

リ アートが怪訝な顔をしている。

「興が削がれたな。仕事が俺を呼んでいるらし い」

「あら、無粋な人」

 士官を睨みつける。年上の美女に見つめられ、 いかにも純朴そうな男が頬を赤くした。

「こいつを叱っても始まらない。また、必ず顔を 出す」

 踵を返した。紺のマントが冷気に舞う。

そ の背に向かってリアートが叫んだ。

「待ってるわよ、アレク」

 見る間に、紺色は闇に溶けた。






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