さくらと総は稲荷の脇から顔を出し、一心に小 さな門構えを見つめている――いや、一心に見つめているのは総ひとりで、隣のさくらは欠伸を噛み殺すという、なんとも不真面目極まりない様子で付き合って いたにすぎない。
「総さん……何もここまでしなくてもいいんじゃ ない? これじゃ私たちが、不審に思われちゃうよ」
武家地故か夜回りの姿は少ない。夜も更けてい たので、屋敷内から聞こえる物音もなかった。
手持無沙汰で暇を弄ぶさくらの気配を感じ、総 は小さな溜息をつく。
「心配症だとお笑いになりたいのなら、どうぞ」
「笑ったりなんかしないよ。ただ、少し呆れてい るだけで……。お弟子さんが大切なのは分かるけど、何も張り込みまでしなくてもいいんじゃない?」
「香上様が言ったことを、鵜呑みにしているわけ ではないんです。……ですが、ご隠居様の様子が気になっていたものですから。実を言えば寿屋で飲んでいたのも、自分の考えが杞憂なのではないかと、ひとり で考えたかったからなんです」
「じゃあ、私は邪魔をしちゃったね」
「いえ。さくらさんに来ていただいて、助かりま した。ご隠居様はわたしの言を聞き入れてはくれないでしょうから」
「……それで、何が心配でこんなことをしている の」
直接、話をしに行くかと思いきや門前を見張る だけ。すでに半刻が過ぎている。あちこちから湧いて出る蚊を追い払うのも疲れてきた。
総は二、三度、顔の前で手を払っただけで、平 然としている。
「昼間、こちらに稽古に来た時、ご隠居様の機嫌 を損ねてしまったんですよ。その……五年前に亡くなったご子息が幽霊となって出るのは、自分に謝る機会を与えてくれているのだと言ってきかないんです。生 前は跡取りとして厳しくするばかりで、ろくに分かってやれなかったとか。ですがわたしは、ご隠居様の切実なその想いが怖いのです。だって、本当にご子息の 幽霊だとしたら、なぜ直接目の前に現れないのでしょう? 幽霊道中に紛れて目撃させるなんて、まるでかくれんぼか追いかけっこのようではありませんか」
「要するにご隠居さんが、その息子の幽霊を探し に行くんじゃないかって、心配してるってこと?」
「はい。……ご隠居様は、わたしが話をまるきり 信じてないと思っていらっしゃるんです。あのご様子では、冷静な判断もできないでしょう。自分の考えが正しいと証を立てるために、すぐにでもご子息を探し に行くのではないかと思いました」
「気が済むまでやらせてあげたらいいと思うんだ けどな」
「それが単なる自己満足でも?」
一向に動く気配もない門から視線を外し、総が 顔を覗き込む。代わりに門前を睨んでいたさくらは、静かに口を開いた。
「夢幻だろうと幽霊だろうと、誰かに会いたいと 願う気持ちは痛いほど分かるもの。人が手を尽くしても手に入らないことなら、なおのこと。私は、生まれてすぐに二親を亡くした。それに、生死は分からない けれど、兄も突然、姿を消してしまった。……話したいことはたくさんあるのに、伝えたい相手がどこにもいないんじゃあ、この気持ちはどこへ持って行けばい いんだろうね。祈れば必ず願う人に合わせてくれるっていう神様がいるんなら、お酒だってなんだって断つよ。それをしないのは、そんな身勝手な願いを叶えて くれる奇特な神様がいないからさ」
さくらにとっては親がいないことは当たり前 で、幼少の頃は兄と乳母がいればそれでよかった。兄がいなくなり三峰家がなくなってからは、侃斎と秋吉が世話をしてくれ、夢で見る父親はいつも侃斎だっ た。
―― 結局、自分はいつでも恵まれている。
身近な人がいなくなっても、すぐに誰かが手を 引き、進むべき道へと導いてくれた。
だからといって、兄を諦めることはできない。
「ご隠居さんは息子を亡くした後、養子を迎え たって言ってたね。もう、家は我が手を離れたも同然。老い先を考えた時、息子の面影を求めてしまうのは当然のことでしょう。それを自己満足だなんて言って しまったら、人生のほとんどは自己満足で成り立ってるって言わなくちゃいけないよ」
「でも、ご隠居様は――」
「――シッ」
さくらが唇に人差し指を当てる。反対の手で屋 敷を指差した。
表に面した通用門が細く開いている。門の内側 は闇を湛えていた。その隙間をすり抜けた影がある。
「ご隠居様です」
総が小声で言い、目で後を追う。
十郎太は灯りも持たずに屋敷を出たらしい。影 は、辻の先を右へ折れた。
「早く、止めなくては――」
暗闇で何かある前に、屋敷に連れ戻そうと言う のだ。幽霊道中云々はともかくとして、追剥や夜盗に出くわす可能性のほうが高い。いかな武家の隠居とはいえ、体を思えば無理をさせたくはなかった。
自分を連れて来た本当の訳が腕を買われてのこ とと悟り、さくらは前を行く総の袖をツンツンと引っ張る。
「せめて今夜だけは、ご隠居さんの好きにさせて あげてくれないかな。こうやって、私と総さんがついて見張っていれば、危ないことはないだろうし。……ご隠居さんは、一目、会いたいだけなんだよ」
さくらの言うことも十郎太の切なる願いも分か る総は、少し躊躇した後、小さく頷いた。
「……では半刻だけ。それ以上は、ご隠居様のお 体にも障ります」
「半刻で見つかるといいんだけど」
できることなら、巡り会ってほしい。そして胸 の痞えを下ろしてほしいと思う。
香上は昔に未練などないように言うが、どうに もならないことに未練を残してしまった者がそれを諦めるのは難しい。元より、事が叶わぬことくらい百も承知なのだから。
十郎太は川沿いの道を北へと進む。常夜灯もな い。時より見える灯りは、川面を行ったり来たりする蛍の蒼白い光だけだ。
「そういえば」
ふと、何かを思い出したように、総が振り向い た。
「明から貰った御札はお持ちですか」
「いや、家に置いてあるけど」
「そうですか……」
「どうしたの?」
「ご隠居様がご子息を見たというのは、幽霊道中 の中なのですよ。ご子息の幽霊を見つけるということは、必然、幽霊道中に遭遇してしまうということでしょう。性質の悪い幽霊に出くわしたら大変です。用心 に越したことはないと思ったのですが……」
「まるで、幽霊や鬼が知り合いだとでも言わんば かりだね」
「夜に起きていることが多いので、そういう知り 合いも多くなります」
冗談を口にし、少し笑っているようだ。十郎太 に気づかれないためにこちらの灯りも消しているから、隣にいる総の表情をはっきりと見てとることはできなかったが、十郎太を見失わないよう必死になって目 を凝らしている。
一町ほど先を行く十郎太が道を逸れた。小橋を 渡ったのを見届け、それを追おうとした時、
「なんでぇ、なんでぇ。こんな夜更けに蛍狩りか い」
行き先に立ちはだかるように、暗闇から男たち が姿を現す。一目で凶状持ちと分かった。肌蹴た襟元から匕首を覗かせ、ニヤニヤと粘つく顔で近づいてくる。
「さくらさん……」
「大丈夫。総さんはご隠居さんを追って」
酔いはすっかり醒めていた。相手は三人だ。総 ひとりをすり抜けさせることくらい、訳もない。
二人が立ち止まるや、男たちは即座に周りを取 り囲んだ。
「どこの風流人か知らねえが、こんな人目につか ねえ場所で涼むのはうまかねえよ。怖い奴らに身包み剥がされちまうぜ。――こんなふうに」
右の男が匕首を抜いた。掌で軽くもてあそん で、切っ先を総に向ける。ただの脅しと分かっても、総は反射的に体を竦めた。それがまた、男たちの優越感を刺激する。
さくらが彼らの前に進み出た。
「追剥ならお生憎様。金も金目のものも、なんに も持っちゃいないよ」
「なんだ、この小生意気なガキは」
どうやら若衆とでも思っているらしい。襟首に 伸びた無防備な手を、思いきり捻り上げる。
「いででででで――てめえっ、何しやがるっ」
周囲が一気に色めき立つ。他の二人も匕首を抜 きさくらに突きつけた。彼らの間にできたわずかな隙を見計らい、総に目配せる。彼は小さく頷いて脇を走り抜けた。
「逃がしやがったな……舐めた真似してくれる じゃねえか、え?」
手首を抑えられたまま、それでも男は目を異様 に鋭くさせる。
「三対一で逃げられると思ってんのか。命ばかり は助けてやろうと思ったが、癪に障る真似をしてくれた礼をしなくちゃならねえな」
礼は結構――と言おうとしたが、彼らの神経を 逆撫でしてしまうのでやめた。代わりに、男の手を放してやる。
三 つの匕首が、一斉に向けられた。さくらも脇差に手を添え、鞘ごと帯から引き抜く。
男たちが笑った。
「刀の使い方も知らねえのかい。なんて命知らず な奴」
「もしや、中身は竹光か?」
「口は達者でも、鈍らじゃあ勝ち目はねえ。諦め るんだな」
口々に好きなことを言う。さくらは小さな溜息 で、その言をすべて吹き飛ばした。
「匕首相手に、刀を抜くまでもないって意味なん だけどな」
「この野郎っ――」
自 分たちに向けられた嘲りに、男たちは顔を赤くする。
切っ先が迫った。その時、だ。
さくらと男たちの間に、割って入る者があっ た。
見知ったその横顔に、さくらが声を上げる。
「新井さん」
呼ばれた男は、静かに振り返った。
「これは、三峰師範代でしたか。どこぞのお屋敷 の御子息が、ならず者に絡まれていると思ってしまいまして。ご無沙汰をしておりました」
恭しく頭を下げるものの、歳はさくらとそう変 わらない。十六、七の、若い侍だ。
春先に、さくらは浅草の成進道場へ出稽古に赴 いた。彼はそこの門人だった。優男風で、役者のような顔立ちをしているのだが、その剣筋は一筋縄ではいかぬものだ。さくらも一度、稽古で立ち合ったことが ある。勝ちはしたが、あの時の新井には違和感があった。手を抜いている。そう感じ、素性を侃斎に調べてもらっていた矢先、彼は成進道場を辞めてしまった。
立 ち姿も所作も、あの頃と変わっていない。隙だらけで、剣を持つ者の動作とは思えぬ。
そ れなのに、稽古中は他の門人の竹刀がするすると躱されてしまう。動きを追うどころか、どうしてそのようなことになるのか分からないほど、彼の剣筋は不可思 議なものだった。
いや、不気味といおうか。人が使う剣ではない 気がする。堅物の侃斎には近付くなと言われた。
あれ以来、気にしつつあった者が、目の前で微 笑を浮かべている。
「ようよう。なんでえ、こっちを無視しやがっ て」
匕首をちらつかせる男たちを、新井は一瞥し た。
「切れ味が悪そうですねえ」
平然と言った。
「何っ」
剣を佩いているだけのひ弱な男と見ていたごろ つき共が、さっと気色ばむ。
「舐めるんじゃねえっ。痛い目にあいたくなかっ たら、金を置いてさっさと消えなっ」
三つの匕首が、一斉に新井に向けられた。
一瞬、いけない、と思った。
さ くらに向けていた新井の背から、じわりじわりと異様な気が感じられたのだ。目に見えはしない。肌に粟立つ感覚は、剣の道で神経を研ぎ澄まされているさくら だから、感じるものだった。男たちは、それにまったく気付いていない。
この人に、剣を抜かせてはいけない。
「新井さ――」
急 ぎ、新井を制そうとするのを、
「三峰師範代」
気配を留める声で、新井が言った。
「彼らは金が欲しいのだそうです。だから、こん な馬鹿なことに力を尽くすのだと。……でも、いくら力を尽くそうと、叶わないことだってあるんですよ」
「……新井さん」
今、どうしてそんなことを言うのか。不安が辺 りを包む。
自分たちに向けられた嘲りの言葉に、男たちは 眉を吊り上げる。
「この野郎っ――」
同時に、切っ先が迫る。三方向からくるそれ に、新井は一歩も動かなかった。右手がわずかに動く。
ひゅっと、風が鳴った。
続いて、刀が鞘に納まる音が響く。
ほんの一寸の出来事だった。
新 井に踏み出していた男たちの腕から、勢いよく匕首が飛ぶ。甲高い音を立てて、方々へ突き刺さった。
新井が、振り返る。さくらを見据えた。
「三峰師範代、大丈夫ですか。――匕首がこんな ところに」
さくらの足元に、匕首が突き立っている。あと 五寸もずれていたら、今頃、足の甲に突き立っていたろう。
この気配は、なんだ――。
確かに感じた殺気は、もう微塵もない。目の前 には、どこか頼りない、若い侍があるだけだった。
瞬 く間に匕首を飛ばされた男たちは、息も吸えぬ様で後退りし始める。
「て――てめえっ、覚えてろよっ」
腕っ節が強そうには見えぬ優男に打ちのめされ た。自尊心を救う唯一の台詞を吐き散らし、ごろつき共は闇の中に姿を消す。
「……斬らなかった」
お かしな話だが、去って行く男達を見ながら、さくらはほっと息を吐いた。新井のから感じた確かな殺気は、尋常なものではなかった気がする。
心 内の動揺を見せまいと、強い視線で新井を見た。
「何を仰るかと思えば。もちろん、斬るはずがあ りませんよ。あんな奴らでも殺しちゃあ、罪人になりますから。峰で匕首を叩き落としただけじゃ、ありませんか」
「峰?」
「おや。ちゃんと刀を返しましたよ。これは、竹 光ではありませんからね。ご覧になりますか」
言うや、おもむろに刀を抜いた。
剣風がさくらの頬を掠める。白羽の刃が、目の 前で美しい刃紋を煌かせた。
「どうです。血油も付いていない。綺麗な模様で しょう」
にこりと笑い、刀をしまう。刀を愛おしむ素振 りが、白々しいとさえ思う。
新井の刀は美しすぎる。腰に佩くものにして は、切れ味が鋭すぎた。どこから見ても曇りがなく、触れるか触れないかの一線で、相手を斬れる代物に違いない。
相手を、確実に殺すものだった。
「貴方は、何者ですか」
真正面から見据え、さくらは奥歯を噛み締め る。
どういう返答があるにせよ、今、この場で立ち 合えば、彼女に勝ち目があるかどうかは定かでない。それなのに、言葉が勝手に溢れていた。
刀を抜いた時、彼が言ったことには、明らかに さくらへの敵意があった。成進道場で会ったことしかない彼女に、一体どんなわけで敵意を表すのか。この機を逃せば、今度いつまみえるか分からぬ相手だ。出 方を、慎重に窺った。
胸が息苦しくなるほどの沈黙の後、
「貴女が目の前にしている者。それが、わたしで す。それ以外ではありません」
新井が、微笑を浮かべながら言った。
禅 問答のようで、さくらは眉を顰める。
「反対に、お聞きします。三峰さくらという人 は、剣の道にあり、この先、何をしようというのですか」
「この先?」
「そうです。女の身で剣術を極めようと、先は知 れています。それなのに、この道に固執するわけは、なんなのですか」
「それは――」
言いかけ、言葉を飲んだ。
失踪した、兄を見つけるために。
兄 と同じ道にいさえすれば、必ず会えると信じてしがみ付いてきた。巷で言われる、天賦の才などでは有り得ない。積み重ねてきたものは、口で示せば安くなる。
「そんな話を聞いて、どうしますか」
辛うじて、逸らしかけた顔を上げた。
新 井の表情に、つまらなそうな色が浮かぶ。
「ただ、お聞きしたかったもので。どうしていつ までも、こんな報われぬ道にいるのかと」
「報われるかどうかは、死んでも分かりません。 私はただ、この道にありたいと願っているだけです」
「死んでも分かりません――ですか。その願いが 誰かを傷つけるとしても、居続けるつもりですか」
「どういう意味です」
「いえ、自然と耳に入ってくるんですよ。侃斎道 場の門人の数が、いっこうに伸びないそうじゃありませんか。侃斎師範も気苦労が多いことでしょう」
「それが、私のせいだと?」
「分かっているんでしょう。女の師範代がいるせ いで、そんなことになっていると」
さくらの両手が、拳を握る。爪が食い込んで、 肌を刺した。
女だてらに剣術を習っていれば、心無い言葉も 耳にする。好奇の目にも晒された。それを見返すには、強くなるしかなかった。誰にも蔑視されず、胸を張って生きるには、血反吐を吐くくらい、稽古に励むし かなかったのだ。
さ くらにとって、生きるためにはそうするよりなかった。
道場に女がいては評判に差し支える。今更、誰 に指摘されるまでもない。
だ が、それを跳ね返せるだけの芯の強さを、さくらは侃斎から教わった。生きる者を守るために剣術を教える侃斎が案じているとすれば、さくらの嫁の貰い手くら いだ。
だから――、だから、
「――そんな挑発で、私に刀を抜かせるつもりな ら、お生憎様。逆上して我を忘れるほど、甘い鍛え方はしてないんでね。抜刀もしていない、一介の娘を斬ろうというなら、どうぞ、やってごらんなさい」
言った途端、すっと体が軽くなった。
こ ちらも貴方を敵と見なした。そう言い切ったと同じだ。張り詰めていた空気が緩む。口の端を歪め、微笑さえ浮かべた。
「斬ろうだなんて、とんでもない」
新井が声を上げて笑う。懐に腕をしまい、ちょ いと首を傾げた。
「今は、大人しくしていますよ」
落ちたままの匕首を跨いで、颯爽と闇に消え た。
さくらが、ほうと心底から息を吐き出す。空に なった胸に、今度は思い切り息を吸い込んだ。
額に掌を翳した。今になって汗が伝う。微風に 涼しさを感じ、ふと視線を落とした。匕首を拾い、無造作に繁みに投げ入れる。
さて、と手を叩き、総が向かったほうへ踵を返 した。小橋を渡って右の道を走っていると、しばらくして、角から総が飛び出してくる。
「あ、さくらさん。ご無事だったのですね」
「――何、総さん。そんなに慌てて」
「……それが」
言ったきり、無言で背後を目で示す。
路地の暗がりから大路へ、香上が足を踏み入れ た。
「また旦那か……」
「また、じゃねえよ、馬鹿野郎」
平素から目つきがよろしくないのに、一層渋い 顔をしている。
睨みつけられる覚えがないさくらは、わずかに 頬を膨らませた。
「夜歩きを叱ろうって気なら、お門違いですよ。 さっき、寿屋で話したでしょう。お隠居さんの身を案じて、総さんと二人で後をつけていたんです。――そういえば、ご隠居さんは?」
総がこの場にいるということは、十郎太も近く にいるのか?
しかし、辺りにそんな姿は見当たらない。ふと 不安が過ったさくらに、総が静かに頷いた。
「あの時、すぐにご隠居様を追ったのですが、姿 を見失ってしまったのです。ちょうどこの辺りを見回っていた香上様にもお手伝いいただいて、探していたところで……すみません、さくらさんがせっかく逃が してくれたのに……」
「逃がした? お前、また何か面倒なことに ――」
総の一言に反応した香上は、ますます眦を吊り 上げる。
――勘弁してよ。説明するほうが面倒だ。
ガミガミとウルサイ香上の言を、手を振って 遮った。
「そんなことより、ご隠居さんを探さなくちゃ。 こっちの方角で間違いはないんだね、総さん?」
「ええ、恐らく……橋を渡って、右に曲がったと ころまでは見えていましたから」
「そんなに離されていないと思ったんだけど…… 脇道にでも入ったかな」
「年寄りの足で、そんなに引き離せるもんか。も しかしたら、つけていたのがバレてたんじゃないのか。お前たちを巻こうとして、故意に姿をくらましたってこともあり得る」
香上が言うことも一理ある。追剥に行く手を阻 まれた時、こちらに気づいたのかもしれない。
とにかく、この場で議論するより、十郎太を見 つけるほうが先決だ。
「何もないとは思うが、念のためだ。夜道を闊歩 してるのは幽霊だけじゃないからな」
「……確かに」
「妙に力強く頷くじゃねえか、さくら。お前は総 と一緒に探せ。この先生、楽のことは博識だが、喧嘩の腕はからっきしときてる。なんだかアベコベな感じもするが、頼んだぜ」
「承知しました」
神妙に目配せし、二手に分かれる。暗い夜道を 大路から家々の脇道までくまなく見て回った。もしやと思い、川の淵まで下りてみたのだが、十郎太が通ったらしき形跡はなかった。
「今頃、ご子息と相対しているのでしょう か……」
総がふと呟く。
――それならいいんだけどな……。
思った
疑念は、口に出さなかった。
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