(四)



 陽光が障子を透かして顔の上に落ちる。陽上り と同時に鳴き出した蝉の声を聞きながら、さくらは布団を這い出した。

 これが朝稽古のある日なら、完全に寝過ごして いる刻限だ。稽古がないことに感謝しつつ、しかし、疲れの取れていない体をどうにか起こすことで精一杯だった。

 昨夜は、二刻ほど田部十郎太を探したが、結局 見つけることができなかったのだ。「相手は子供じゃない。足腰もしっかりした武家のご隠居だ。滅多なことはないだろう」と香上が区切りをつけ、長屋に引き 上げてきた。

 ――総さんは、まだ寝ているのかな。

 着替える間、それとなく隣の様子を窺ってみた が、物音は聞こえない。長屋へ戻る間中、何かあったら己のせいだと思い詰めていたから、なかなか寝付けずにいたに違いない。

 せめてゆっくり休ませてやろうと、そろり、外 に出るや、

「――さくらさんっ」

 大声で呼ぶのは、総である。すでに身支度まで 整えている。隣には香上の黒羽織姿も見えた。二人の只ならぬ雰囲気を察し、すぐに駆け寄る。

「ご隠居さんに、何か」

 本当は「心配しなくとも、屋敷に戻っていた」 と言ってほしかった。しかし、二人の険しい顔つきでは、否応なく不吉な応えを待たざるを得ない。

「ご隠居様が、亡くなったそうです」

「亡くなったって……どうしてっ」

 ――まさか、本当に幽霊道中の霊気にあたって しまった?

 そんな愚考を振り払い、香上に向き直る。

「ご隠居さん、お屋敷に戻ってから亡くなった の? それとも……」

「さくら、総。ちょっと、顔貸せ」

 往来で、武家の死を広言するのは憚られた。さ くらと総は、無言で香上の後ろに続く。八丁堀を抜け、ようやく行き着いたのは、大番屋だ。

「入れ」

 促されて中に入る。強い線香のにおい。奥の座 敷にきちんと床が延べられ、亡骸はその上に横たえられていた。

「顔を、確認してくれ」

「香上様……しかし、わたしなどよりもご家族の 方のほうが」

「今、呼びにやっている。だが、こちらの勘違 いってこともあり得る。頼むよ、総」

 総が小さく頷いた。さくらは入口の近くにでも 控えているつもりだったが、

「お前も」

 香上に促され、亡骸の傍に膝をつく。

 実際、十郎太の顔を見たのは、屋敷を抜け出す 際のほんの一瞬だ。暗がりだったし、はっきり覚えている確信はなかった。

 ――ああ、でも、この人だ……。

 顔形に確信はなくとも、体形や着物の柄は目に 焼きついている。何より、総が「ご隠居様」と呟くのが確かな証だ。

「……どこで見つかったのですか」

「昨日、探し回った紺屋町辺りの、比丘尼橋の橋 桁で」

「しかし――そこはわたしたちがくまなく見て回 りました。ですが、亡骸なんてありませんでしたよ」

 総と二人、天水桶の中まで覗いて見たのだ。見 逃すはずはないと、さくらも強く頷く。

「見てみろ」

 香上が、亡骸の背を持ち上げた。

 右の、ちょうど心の臓がある辺りが血に染まっ ている。総は咄嗟に顔を背けたが、さくらは冷静にその傷を注視する。

「刀傷ですか」

「少しは動揺すりゃ、可愛げがあるってもんだが な」

 平然としているのが気に入らないらしい。そん な軽口に応じている場合ではないし、気に入られる利点も見当たらず、さくらはさらに十郎太の体に視線を向けた。

 細身の刀身が、背に対して真っ直ぐに刺さった 痕。引きずられたのだろうか、掌や足が擦り剝けて赤くなっている。

「どこか別のところから、運ばれて来たようです ね」

 もっとよく見ようと、手首をとった。袖口の汚 れが目に留まる。泥や草でついた汚れの中に、ふと、目を引くものがあった。

「……わたしのせいです」

 背後で総が呟く。膝の上で握られた拳は、小さ く震えていた。

「わたしがご隠居様を怒らせたりしなければ…… こんなことにはならなかったでしょうに」

「違う。私が黙って後をつけようなんてなんて 言ったからだよ。総さんが悪いんじゃない」

「しかし――」

「俺に言わせりゃ、二人がどうしていようと、結 果は変わらなかったように思えるぜ。話を聞く限り、そうとう頑固なご隠居だったらしいしな。総が下手なことを言わなくとも、いずれは幽霊道中を探しに出た はずだ。なあ、さくら――お前は気づいただろう」

 訝る総を他所に、さくらに鋭い視線で問うた。

 十郎太の袖口には、明らかに炎で焼けたらしい 跡があった。なんだろうと思っていたが、香上はすでに何によるものか見当をつけているようだ。

「俺はこれが、鬼火によってできた跡じゃないか と睨んでる」

 同心の口から聞くには、あまりに夢想な言だっ た。だが、幽霊道中を探しに出た十郎太が、それに遭遇していてもおかしくはない。

 そう思い改めて見てみると、焦げ跡も単に蝋燭 の炎で焼けたにしては、丸みを帯びた妙な形に見える。

「ご隠居さんは、望み通り、幽霊道中に出くわし た。それに近づきすぎたために、命を落としたと仰りたいんですか」

「霊気にあてられたんだ、なんて讀賣が飛び付き そうなオチじゃねえよ。刃物で一突きにされてんだ。相手は生きてる奴――しかも、一発で心の臓を貫くなんてのは、生半可な腕じゃない」

「侍が下手人?」

「――田部十郎太様が追っていたのは、息子だっ たな。田部家の者なら、刀の扱いは慣れていよう」

「まさかっ。哉一郎様は五年前の火事で亡くなっ ているのです。ご隠居様が見たというのは哉一郎様の霊のことで、生身の者ではありません」

 下手人は黄泉の国から舞い戻った息子で、恨み を抱いていた父親をとり殺した――なんて、本当に讀賣や芝居にかかりそうな話である。

 そんなことを香上が信じるわけがない。すうっ と細めた目を、さくらと総に走らせた。

「田部様の息子が生きているとしたらどうだい」

「……本気で仰ってます?」

「本気も本気さ。少し聞いて回ったんだが、五年 前に死んだっていう哉一郎の亡骸は見付かっていないそうじゃないか。生きていたっておかしくはない。なんらかの訳があって五年前の火事騒ぎに乗じ、出奔し た哉一郎を田部様が見つけた。――哉一郎を追った田部様は、幽霊道中の真相を見てしまったがために殺されたんじゃなかろうか」

「つまり旦那は、哉一郎様こそが幽霊道中を画策 している張本人だと?」

「そう考えれば、辻褄は合おう?」

 もしも、そうだとしたなら――なんて、酷いこ とだろうか。

 唇を噛み締める。目に、悲愴な色が滲んだ。

 その時、静かに番屋の戸が開いた。暑い中、き ちんと羽織袴に身を包んだ男がこちらを見据える。

「泰祐様……あの――」

 総が言葉を躊躇している間に、泰祐はズンズン と奥に入ってきた。座敷には上がらず、立ったままで三人を睨みつける。

「滅多な憶測はやめてもらう。田部哉一郎は、五 年前に確かに亡くなっているのだ」

 話していたことが聞こえていたらしい。どんな 広がり方をするか分からないのが流言飛語というもの。どんな小さな疑いも家の存亡に繋がる。

 気迫で周囲を圧倒した泰祐は、その目を香上に 据えた。

「父の亡骸はこのまま引き取る。よって、これ以 上、町方の詮索は無用」

「しかし、お父上は何者かの手で――」

「黙れ。父は病死だ。町方風情が手を差し挟む余 地など、どこにもない」

 誰かに殺められたとなれば武門の恥だ。背後か ら一突きにされていれば、なおさら、死因を隠したいだろう。家名を守るために病死の届けを出すのが手っとり早い。

 泰祐は数人の屈強な男たちを同行させていた。 彼らは泰祐の指示で十郎太の亡骸を駕籠に乗せ、丁寧に体を固定していく。

 その様子を黙って見、さくらは歯痒さを感じて いた。香上の袖を引く。

「旦那……本当にこのままでいいんですか。せっ かく、幽霊道中騒ぎの糸口が見えかけたっていうのに」

「……しょうがねえだろ。もともと、武家の揉め 事には口を出せねえんだから」

 口では諦めたことを言いつつ、握り締めた指の 白さをさくらは見逃さなかった。

 今度は隣の総を見上げる。

「このままじゃあ、お弟子さんを殺した奴は野放 しだよ。総さんはそれでいいの?」

「しかし……それが、ご身内の意向なら……」

「身内の意向は明快だよ。厄介事は一切御免―― でも、それってご隠居さんの意向じゃない。ご隠居さんは、哉一郎様に会いたがっていた。それが要因で、どうして亡くならなくちゃいけなかったのか。それを ウヤムヤにすることが、ご隠居さんが望むことなんだろうか」

 刀傷は背後からつけられていた。十郎太は逃げ ようと――生きようとしていたのだ。

 その意志を奪った下手人を野放しにしておい て、明日から平然と生きられるほど、三人は器用ではなかった。

 総が、俯けていた顔を上げる。

「お待ちください、泰祐様」

 下駄を履くのも忘れ、番屋を離れようとしてい た泰祐を引き止めた。

「ご隠居様の最期の願いを叶えて差し上げたいの です。もしも、哉一郎様が生きているのだとしたら、ご隠居様の心内をお伝えしなければ――お願いいたします、お待ちください」

「五月蠅い、黙れっ。たかが楽師のくせに、田部 家を潰すつもりか。私は、父より田部の家を預かったのだ。何があっても家を守らねばならん」

「真実を無にして、真の安寧はありません」

「悟ったようなことを言うものだ。もとより、安 寧を貪る気などない。田部家に養子に入った時から覚悟をしている。悪党と罵られても、あの家こそが命をかけて守るもの」

「そんなことを仰ったら、ご隠居様は悲しまれま す。ご隠居様は貴方様のこと、心から慈しんでおられたのですから」

「心から――?」

 不意に、泰祐の様子が変わった。先に亡骸を乗 せた駕籠を行かせ、その道を塞ぐように立ち止まる。

「心からと言ったか、今」

「はい。ご隠居様は、泰祐様のために手を尽くし ておられました。それは、血の繋がった親子の間と同じ、愛情だったのではないでしょうか」

「……ふざけたことをぬかすな。あれは、自らの 子にできなかったことを、身代わりの私に施すことで、自己満足していただけではないか」

 静かな声音の中に、怒りの片鱗が見える。

 町人の中にあっても目立つ総と、武家の青年と の諍いは、道を行く者の興味心を煽った。泰祐は、これ見よがしに遠巻く者たちに一瞥をくれる。

 助け舟を出したのは、香上だった。

「こら、見せもんじゃねえぞ。さっさと散れ。 ――泰祐様も、ここでは話にもなりません。言いたいことは、せめて番屋の中で」

 武士が町方の番屋に留まるというのも、彼の矜 持が許さないだろう。だが、このまま言い合っては、ますます好奇の目に晒される。渋々といった体で番屋の内に滑り込んだが、腰を下ろすことはなかった。

「……哉一郎殿が下手人だと、本気で考えている のか」

 問われた香上が、重々しく頷いてみせる。

「こちらも、軽口で言えることとは思っておりま せん」

「証は」

「ございません。ですが、関わりなしとする証も また、ありません」

「父が哉一郎殿の亡霊を見たと騒いでいたのは 知っている。だが、それだけのことだ。年寄りの妄言を信じるなど、馬鹿げているとは思わぬのか」

「田部様は、哉一郎様の幽霊を探す最中、殺され たのです。お袖には、鬼火で焦げた跡がございました。幽霊道中に出くわしたのは明白」

「幽霊道中など、讀賣が必要以上に煽っているだ けのこと。そんなもの、怪談話と同じではないか」

「霊気にあてられて――というのは、確かに讀賣 が煽ったことでしょう。しかし、鬼火や幽霊の類は多くの人の目の前に現れています。その数は、これまでにあった怪談話とは比べようもないほど。何者かが故 意に騒ぎを起こしているのではないかと、考えていたところでした」

 目的は分からずとも、世間がざわつけば様々、 付け入る隙ができる。その隙に便乗して、さらに他の悪党が介入してこないとも限らない。そんな輩に目をつけられる前にどうにかしなくては、香上の夜回りも 無駄骨だ。

「田部様は哉一郎様を追って亡くなりました。な らばこちらも、哉一郎様を探しあてるまで。もちろん、田部哉一郎様は五年前に亡くなっておられますので、我々が探す者はあくまでも田部家とは無関係――そ ういうことではいかがでしょうか」

 香上なりの気遣いだった。

 田部家の当主は泰祐だ。今、哉一郎が生きてい たとしても、彼はすでに田部家の者ではない。裁きを受けるとしたら、それは浪人としてだ。

 泰祐は、しばらく考えていた。今まで死んでい ると思っていた男が生きているかもしれず、さらに、父親殺しの嫌疑までかけられているとなれば、当然のことだろう。

 外の喧騒が嘘のように、番屋の中は静まり返っ ている。戸を閉め切っているはずなのに、背中がひいやりした。まだ燃えている線香の一筋の香りが、隙間風にたゆたう。

 それを目の端に捉え、泰祐は深く息を吐き出し た。

「死んでもなお、哉一郎、哉一郎と……どうして 皆、あいつを求めるのか」

「泰祐様?」

「いや……これは嫉妬だ。父はずっと、哉一郎殿 のことばかりを気にかけておられた。亡くなった者に対して、どうしてそこまでと思いもしたが……哉一郎殿を見かけたと言った時も、とうとう夢と現の境まで 見失われたかと思ってしまった。それが顔に出ていたらしい。父は哉一郎殿の亡霊探しにムキになっておられたのだ。だが、このような結末が待っていようと は、な……分かっていたら、この刀を抜いてでもお止したものを」

 刀を腰に帯びる者は、そう簡単に鞘から抜くこ とはしない。一旦、鯉口を切れば、死を覚悟したに等しい。平静の世で、そんな覚悟こそ時代遅れなのかもしれないが、どんなに時代が流れようと刀は命を奪う ことができる武器に代わりはなかった。

 それを耳胼胝で侃斎に叩き込まれていたさくら は、泰祐の強い覚悟と共に、後悔の念をも感じた。

「哉一郎殿を探すのに、何が必要なのだ」

 一転した泰祐の問いに、総と香上が顔を見合わ せる。

 少し呆気にとられながらも、

「では、哉一郎様の人相書を作りたいのですが」

「造作もないことよ」

 ようやく、泰祐は床几に腰を据えた。香上が筆 と懐紙を取り出し、サラサラと墨を滑らせていく。珍しく真剣な顔だった。さくらと総が背後から覗いていても、気にも留めない。

 やがて、額に汗を浮かべながら、香上は筆を置 いた。

「このような顔立ちですか」

 紙を広げる。示された泰祐は、重々しく頷い た。

「似ている」

「では、我々はこの男の行方を追います」

「念を押すが、父は病死だ。哉一郎殿が何をされ たとしても、父の死には一切関係ないものとしていただきたい。では、これにて」

 必要以上は一切口を開かず、番屋を出て行く。

 残された三人は、できたばかりの人相書をじっ と見つめた。

「これが哉一郎か。田部様のご子息だからもっと 武骨な様子を想像していたが、なんとも繊細なお顔立ちじゃねえか」

「ご隠居様曰く、武芸も算術も不得手だったと。 楽を好んでいた方だったようです――さくらさん、どうかしましたか?」

 人相書が出来上がるに従い、さくらは紙に吸い 寄せられるように見入っていた。その面差しを見たことがあったのだ。

「この人だ……おさ枝さんの想い人」

「お前が用心棒をしていたあの娘の? おい、そ れは確かなことなんだろうな」

 間違えるはずはない。あの雰囲気は、一度会っ ただけでも忘れられるものではなかった。

 ――あの人が哉一郎……五年前の幽霊?

 亡霊だとするなら、あの不思議な雰囲気も得心 がいく。しかし、さくらが見た限りでは、足は二本、しっかり地に着いていた。

「とにかく、おさ枝に話を聞いてみるか。幽霊を 探しに出るには、まだ明るすぎるしな」

 気づけば、蝉が燦々と降り注ぐ陽光と同じくら い、盛んに鳴いている。

 何かに呼ばれた気がして振り向けば、線香が燃 え尽きる瞬間だった。

 

 

 

 

 さくらたちは幡多屋へ向かった。日本橋は暑さ と熱気が溢れ、道行く人は恨めしそうに天を仰いでいる。誰も彼も汗を拭き拭き、たまに大きく息を吐いては体の内に溜まった熱気を逃がしているというのに、 三人は汗だくになりながら先を急いだ。

 もうすぐ幡多屋の活気が見える場所まで来て、 ふと、さくらは首を傾げた。

「人通りが少ない……」

 陽炎の向こうに、平素は客で賑わっているはず の幡多屋がなかった。暖簾を内にしまい込み、雨戸まで立てている。

「何か、尋常じゃねえ雰囲気がするな」

 香上が足を早める。

 表戸には張り紙もなかった。戸を叩き香上が名 乗ると、すぐに内から脇の戸が引かれる。顔を出したのは、見習い番頭の佳助だった。

「これは――三峰様もご一緒でしたか」

 心底驚いた表情で目を瞠る。

「何かあったの?」

「……お嬢様が、駈け落ちなさったんです」

「なんだって――?」

「とにかく、皆様、中へお入りください」

 小さな戸を腰を屈めて潜ると、店には奉公人が 寄り集まっていた。薄暗い中で、皆、一様に不安げだ。入ってきた香上にも一瞥をくれただけですぐに視線を逸らす。

 主夫婦は奥の間にいた。女将の顔からは血の気 が失せ、やっと座っているという様子。隣の喜衛門も、腿の上で拳を握り締めている。

「旦那様。八丁堀のお役人様と……三峰様がお見 えです」

 三峰と聞き、喜衛門は険しい表情でさくらを見 た。怒りを露わにした視線に、さくらは開きかけた口を閉ざす。

「娘の駈け落ちは、もうお役人様のお耳に入るま で広まってしまったのでしょうか」

「いや、こちらに出向いたのはたまたまだ。別の 用件があったんだが……娘が駈け落ちしたってのは、確かなのかい」

「……はい。今朝、起きましたら、寝床は蛻の殻 でございました」

「書き置きみたいなものはなかったのか」

「それはございませんが……庭に、娘の下駄の跡 が残っておりました。昨日に降った雨で土がぬかるんでおりましたから、そこを歩いて出て行ったのでしょう。部屋から出て行く足跡は、たったひとつでござい ました」

「土がぬかるんでいたってことは、今朝方じゃね えな。夜の内に出て行ったってことか」

「布団がすっかり冷えておりましたから、そうだ ろうと思います。……さくらさん、おさ枝は駆け落ちをする気はないと伺ったばかりだったのに、こんなことになってしまいましたよ」

 微かに、言葉に責める色があった。

 さくらは深々と頭を下げる。

「すみません、喜衛門さん……女将さん。私の判 断が甘かった」

 大丈夫だと請け合ったのは、さくらだ。判断に 甘さがあったことはいなめない。

 顔を上げられずにいるさくらに、香上が溜め息 混じりに言う。

「四六時中一緒にいたわけでもないこいつを責め るのは、お門違いってやつじゃねえのか。お前が駆け落ちの手引きをしたと言うんなら話は別だが。例えば、娘に頼まれて、主人たちを油断させて隙を作って やったとか、な。どうなんだ、さくら」

「まさか。私は、おさ枝さんを信じた。だから主 にもそう伝えたんです」

「だが結果、娘は家を出た。こいつは事実だ」

「ひとつよろしいですか、香上様」

 その時、店に入ってから一度も口を開かなかっ た総が、考えを巡らしながら言葉を挟んだ。

「ご隠居様の亡骸が見つかった紺屋町は、ここか ら遠くない場所にあります。駈け落ちなすった娘さんのお相手が、さくらさんの言う通りだとしたら……」

 言いたいことは分かった。

 昨夜、田部十郎太が命を奪われ、幡多屋のおさ 枝が姿を消した。どちらにも共通しているのは、哉一郎だ。

「哉一郎が娘を連れて逃げるのを田部様が見てし まった。そこで諍いが生じ、田部様が殺されてしまったと言いたいんだな」

「……酷い話ではありますが」

「いや、辻褄は合う」

「あの……殺されたというのは?」

 今朝から娘のことに掛かりきりだった幡多屋の 二人には、比丘尼橋で遺体が見つかった話は聞こえていなかった。香上が事実だけを掻い摘んで説明する。自分の娘が一緒にいるかもしれない男が親殺しをした のかと、喜衛門は絶句する。

「俺たちがここに来たのは、娘に哉一郎のことを 聞きたかったからだ。名も家も知らぬと言っていたそうだが、何か心当たりがあろうかと思ってな」

「それでは一足違いでございましたな。……残念 です。相手がそんな非道な奴と知らずに、娘はついて行ってしまったのでしょう……そのお話、もっと早く聞いていれば、娘を蔵に閉じ込めてでも外には出さな かったのに」

 女将が袖口で眦を拭った。喜衛門も鼻を啜る。

「娘の、昨日の様子はどうだったんだい。何か変 わったことはなかったのか」

「今思えば、おかしいと思うことはあったように 思います。娘と、あの男の話をしたのです。娘はしきりと謝っていました。心配をかけてすまなかったと。でも、もう大丈夫だと言うんです。あの子はそれから ぼんやりとし、心ここに在らずといったふうで、早々に部屋へ引っ込んでしまいました」

 ふむと、香上は腕を組んだ。部屋からは中庭が 見渡せる。娘の駈け落ち騒ぎのせいでまだ水を得ていない朝顔が、暑さに葉を下に向けていた。

 ぬかるんだ土に残ったのは、おさ枝の足跡だ け。辺りを憚り、そっと家を出るおさ枝の姿が思い浮かぶ。小雨の中、傘を差し、住み慣れた屋を一度でも振り返っただろうか。とても温かく、心安らげる場所 を捨ててまで誰かと共にありたいと願う気持ちとは、果たしてどんなものなのだろう。

 香上は人相書を見せながら、主夫婦や佳助に哉 一郎の所在を尋ねている。だが、やはり三人は哉一郎を見たこともないと言う。

 仕方なしに、三人は店を出た。

 去り際、見送りに出た佳助がさくらを呼び止め る。

「……わたくし、店を出ようと考えております」

「それは、おさ枝さんとの縁談話が消えたか ら?」

「いえ。お嬢様と一緒になれずとも、このお店で ご奉公できるだけでよかったのです。ですが、お嬢様が駈け落ちをなさってしまっては……わたくしとの縁談がお嬢様をそこまで追い詰めてしまったのではない かと、思わずにはいられません」

 まるで自嘲のように微笑む。

 さくらは強く首を振った。

「違う――ここまで真面目に勤めてきて、あと少 しで番頭にだってなれるのに……。どうして、その努力を自ら捨てようとするんだ」

「わたくしにとって一番、大切だからです。この お店と、お嬢様の幸せが」

「おさ枝さんの駈け落ちは、おさ枝さん自身が決 めたことだよ。佳助さんが責任を感じることなんてひとつもない」

「それでも、知らぬ間にお嬢様を苦しめていまし た。奉公人の身でお嬢様と一緒になる――そんな夢を見てしまったことがいけなかったのです。お話があった時に、すぐお断りするべきでした。そうしたら、お 嬢様は駈け落ちするまで悩まずに済んだのに」

「佳助さん……」

 彼の歳で見習い番頭になるのは、容易なことで はない。ほんの物心ついた頃から丁稚として店に住み込み、懸命に勤めて、やっとここまでになったのだ。店の跡取り娘と一緒になれば、行く行く佳助は幡多屋 の主になる。おさ枝と一緒になれずとも、このまま勤めていれば、暖簾分けし店の主人となれるのだ。それは、奉公人が目指す到達点でもある。

「他に、勤めるアテでもあるの?」

「いいえ。ですが、こうすることしかわたくしに はできませんから」

 ニコリ、とまた笑んで、佳助は店に戻って行っ た。

 背後で香上がしみじみ唸る。

「佳助も居辛いんだろうな。他の奉公人の目もあ る。娘がこんなことになっちまったら、世間も好き勝手に邪推しやがる。もしかしたら、店を出たほうが佳助にはいいのかもしれない」

「でも、佳助さんはなんにも悪くはないんです よ」

「分かってる。そんな顔で俺を睨んだって、どう してやることもできないさ。まあ、事が落ち着いたら、俺から主人に口添えを頼んでおいてやるよ。あの主人だって、佳助を蔑ろにはできないはずだ。こうなっ たのも、娘の勝手のせいなんだからな」

「私がもっと、しっかりしていればよかったんで す」

 落ち込んでもどうしようもないと分かりつつ、 肩を落とす。そっと、総が寄り添ってくれた。

「この件ばかりは、さくらさんにはどうすること もできなかったでしょう。親しい間にあっても、人に言えぬことはあります。それを悔やんだところで、どうにもなりませんよ」

「でも、私を信頼してくれた幡多屋さんに、申し わけが立たない」

「だったら、その足でしっかり歩け」

 香上のぶっきら棒な台詞は、さくらの萎えかけ た気持ちを鼓舞した。懐手に、颯爽と歩き出す後を追う。

「まずは、哉一郎を見つけることが先決だ。―― ここからは、手出しは無用。哉一郎の探索は奉行所がする。お前たちは長屋に戻っていろ」

「ちょっと、旦那。ここまできてそれはないん じゃありませんか」

「馬鹿野郎。相手は親殺しの極悪人かもしれねえ んだ。幽霊捕まえるのとはわけが違う」

「でも、哉一郎様とおさ枝さんは一緒にいるかも しれない。私にも手伝わせてください」

「思い違いをするなよ、さくら」

 目を細める。相手の意をすべて抑え込むような 威圧的な空気が、香上の周囲を包んだ。

「駈け落ちなんてのは、奉行所の領分じゃねえ。 追うのは殺しの下手人だ。これ以上、人死にを出して堪るもんか」

 駈け落ち云々に構ってはいられない。そう、 はっきり告げられ、さくらは唇を結んだ。

「じゃあ――今日は真っ直ぐ、長屋に戻るんだ ぜ」

 香上が身を翻す。長羽織が風を受けて、その広 い背を隠した。

 

 

 

「――香上様」

 ひとり、歩き出した香上の隣に、追いかけてき た総が並ぶ。長身同士、しかも、どちらも人目を惹く顔立ちだ。並んで歩いているだけだというのに、香上には怯え隠れる小悪党の視線が、総には色っぽい女の 視線が向けられる。

 それらを軽く受け流して、総は香上を一瞥し た。

「さくらさんは、心からご友人の身を心配されて います。そのこと、お感じにならたんですよね?」

「……それを言いに、わざわざついて来てんの か、お前は」

 うんざり気味に返す。ますますもって、眉間の 皺が増えていた。

「あのままだったら、危険を顧みず哉一郎様を探 そうとする。香上様はそれを止めたかったのでございましょう?」

「あいつは哉一郎と顔を合わせている。ウロチョ ロ嗅ぎ回れば、その分、標的になりやすい。それに、こっちの動きを感づかれても厄介だしな」

「ただでさえ目立つ方ですから。さくらさんは」

「それに、あいつに言ったことは嘘じゃない。下 手人を捕まえるためなら、俺はどんなことだってする」

「香上様は、駆け落ちはお嫌いですか」

「何?」

「なんとなく、そんな雰囲気を感じたものですか ら」

「ふん。なんでも聞けばいいってもんじゃねえ よ」

 問いに辟易としながらも、自然と、強い口調で 応えていた。

「親も友も、なんもかんもを捨てて出て行こうっ て奴の気が知れないねえ。育てて貰った恩を忘れちまってるんじゃないのか。――駆け落ちってのは、人の道から落ちることだからな」

 実の親子の間で、育てられた恩を感じながら暮 らしている者が果たして幾人いるのかと、総は思う。育てるのは当たり前、育てられるのも当たり前なのだ。香上のように血の繋がらない者同士であれば、それ はすぐ身近なことなのだろうが。

「さくらさんも、同じことを考えているのでしょ うね」

「だからこそ……やっぱり、じっとしてはいられ ないだろうな」

 どちらともなく足を止め、振り返る。真っ直ぐ に進んで来た道を見返して、溜息をついた。

 幡多屋の前を、長屋とは反対の方角に走り去る 後ろ姿が見えたのだ。

「あのじゃじゃ馬、目を離すととことん突っ走 る。総、後を頼んだ」

「頼まれるのは吝かではありませんが……わたし には、さくらさんを守るだけの腕っ節はありませんよ」

「そこまで頼もうなんざ、端から考えちゃいな い。あいつが危ない真似をしそうになったら、止めてやってくれ」

「香上様といい侃斎様といい、さくらさんはたく さんの方に想われてお幸せな方です」

 フッと小さく苦笑する。

そ の笑みをすぐに消し、香上に頭を下げた。

「ご隠居様を殺した下手人は、わたしも憎い。ど うか、よろしくお願いいたします」

「憎いなんて台詞、お前には似合わねえが……そ の憎しみ、俺が全部預かってやるよ。お前こそ、幸せもんじゃねえか」

肩 をポンとひとつ叩く。

俯 く総は一言、

「ええ――本当に」

 そう呟いていた。

 香上が立ち去ると、総はひとり、俯いたままの 額に拳を打ちつける。頭の中が響く。どんなに痛さを感じても、一度湧いた思いを拭い去ることができなかった。

 ――御隠居様を、羨ましいと思ったのだ。死ぬ ことが、とても羨ましいと思ってしまった。

「……馬鹿だ」

 もちろん、香上に言った言葉も真実。理不尽に 命を奪われたのなら、下手人を憎まぬはずがない。

で は、なぜ今更そんなことを願うのか。早々に、死ぬことを諦めたはずなのに――。

「そんなに拳を打って。そんなんで、死ぬ気か い」

 頭を打つ音に、ゆうるりと声が重なる。

 静かに瞼を上げた。

「駄木」

 いつの間にか、駄木が隣に立っている。刀の柄 に手をやり、つまらなそうに総を眺めていた。

「頑張れば、死ねるかもしれないよ。試してみた らどうだい」

「もう、何遍も試しましたよ」

「へえ。そりゃあ、残念だねえ」

 口で言うほど思ってもいない。微細な陽光が、 睫毛を縁取る。

「そんなに死にたいの」

 甘い、甘い匂いがする。白粉を叩いた後のよう な、粘つく匂いだ。

駄 木が、総に向き直る。左目に触れた。

「だったらオレの名を呼べばいい。胡凪、と。 ――そうしたら、一緒にいてあげるのに」

「呼べば、わたしの命を奪いますか」

「それは、どうかなあ」

「この命と引き換えに――そう、約束したと思い ますが」

「状況が変わったんだよ。昔とは、さ」

 夏場だというのにひいやり冷たい指先が、総の 拳に触れる。

「死ぬこともできない。このまま生きることも苦 痛だっていうんならさ、こっちへおいでよ」

 柔らかな総の髪が、風になびいた。袖が汗で纏 わりつくのを気にしながら、右手を懐に収めた。小さな箱が触れる。

「このまま、人の世にしがみ付いてなんになるっ ていうの。奴らは何かしてくれた? 総弥殿が苦しんでいる時も、なんにもしてくれなかったじゃない。一方的に屋敷に閉じ込めて、おまけにこんな長い孤独を 負わせたのは、どこの誰だったっけ。――貴方の、友人じゃあなかったのかい」

 唇の端を上げ、駄木が笑った。

憎 しみを掻き立て、人の世に見切りをつけろと囁く。

お 前など、いてもいなくても同じだ。消えたところで、誰が困るわけでもない。よしんば困る者があったとしても、すぐに忘れ去られる。人はそうやって生を紡い でいる。

 もとより、この世に留まるはずのない者。闇に 身を投じるほうがいいと、思ったこともあった。

 だが。

「――涙を、流したことはありますか」

 嘲笑を浮かべたまま、駄木が首を傾げる。総 は、真っ直ぐにその顔を見やった。

「わたしは、まだ泣けるのです。右の目が、泣い てくれるのですよ。友が――あの夜、言ったのです。お前は泣ける、人でないはずがない、と。駄木、貴方は泣いたことがありますか」

「オレは、そんなみっともないこと、しないも ん」

 ゆるゆると、総の頬が笑み崩れる。

「だったら、そちらへは行けません」

 あえて、きっぱりと口にした。そうすること で、闇に取り込まれそうになる己を制していた。

懐 手で小箱を握る。中の琴爪が小さく鳴った。

 これさえあれば、どうにか生きていける。今ま でもそうだった。果てしないものを歩み続けるのは辛い。終わりがない道は、時に踏み外したくもなる。だが、ここで彼の手を取れば、二度と戻ることは許され ない。あるのは、深い深い闇の底。それは、一度ならず二度までも、友を裏切る行為だった。

 あの日、見送ってくれた友の悲愴な目の色。

何 かの戒めのようで、総は直視できなかった。闇に身を投じてきた者だけが見せる、悲しみの色なのかもしれないと気が付いた時、総はやはり涙を流していた。

「駄木、貴方との約束は守るつもりです。です が、闇の中で共に生きようとは思いません」

「……ふうん。強がっちゃってさ」

 ちぇっと舌打ちし、ついでに下駄で小石を蹴 る。

「でも、これだけは覚えておいてよ」

 真正面から総を見据えた。切れ長の双眸が、更 に細まる。

「闇の者でもない変わりに、貴方は人であるわけ もない。鬼に縋ったのは貴方の弱さ。どこにも行き場がない、ただの忘れ人さ」

 嗤笑を残し、駄木は踵を返した。鼻歌交じりの 甘い匂いが、遠ざかって行く。

軽 やかな足取りに背を向けた総は、もう、振り返りはしなかった。

 

→続く