四(二)


 おさ枝を幡多屋に送り届け、平八長屋への岐路 につく。

空 が朱に染まっている。そこらの屋台に入って酒の一杯でも飲みたいところだが、振袖姿では他の客が目を丸くしてしまうだろう。

窮 屈な思いをしつつ、さくらは大人しく長屋へ戻った。帰った気配を感じたのか、すぐにおせいが駆けてくる。

「ちょいと、さくらさん――だよねえ? その格 好は、一体どうしたんだい」

 七輪で魚を焼いていた別のかみさんたちまで、 興味津々とばかりに近づいてきた。

「こりゃあ驚いた。まるで別人だ」

「別人も何も、本当にさくらさんかい」

「なんだか狐に抓まれたみたいだね。いやまあ、 ほんに別嬪になって」

 やっと女らしくなったと、手を叩いて喜ぶ者ま でいる。普段の自分を否定されたようで、さくらは面白くない。プクっと頬を膨らませた。

「これも仕事のうちだよ。仕事が終わるまでの辛 抱なんだから」

「まあまあ、そんな勿体無いっ。そのままでいな さいよ。綺麗だよう。そのほうがいいよ」

「嫌だよ。歩きにくいし、着物は重いし。何よ り、これじゃあ稽古ができない」

「いいじゃないか、稽古なんかしなくたって。そ ろそろ祝言のことも考えなきゃねえ。年頃なんだから」

「いいよう、私は」

「何を言うんだい、この子は。一生、独り身でい る気かい。そんなこと言ってると、いい男を逃しちまうよ」

「そうそう。これっていう男を捕まえないと、妙 なもんで妥協する羽目になるんだ。うちの亭主を見てごらん。雨が降れば日中寝てばかりで。障子張りでも傘張りでもしてくれりゃあ、こっちもちっとは楽にな るのにねえ」

 まだ帰らぬ亭主の悪口なら、いくらでも出てく る長屋のおかみ連中である。ガハハと大口を開ける皆の中で、おせいだけは険しい顔でさくらに詰め寄った。

「さくらさん。あんた、熱はどうしたんだい」

「――あ、忘れてた」

 道場で話を聞いてから、あれやこれやと忙しく 体を動かしていて、不調をすっかり失念していた。額に手を当てるも熱はなく、頭の重さも感じない。

「道場で薬を貰ったんだ。それが効いたんだよ」

「そう。なら、ようございます。――まったく。 話だけと言って、帰ってくるのが遅いんだもの。こっちは心配するじゃありませんか」

「ごめん」

 手を合わせて頭を下げる。顔を上げると、呆れ 顔のおせいがいた。

「何はともあれ、今日は早くお休みなさい。明日 も、その格好でお出かけですか」

「うん。小町娘の用心棒を頼まれたんだ」

「ま、そう歳の違わない娘さんの用心棒を頼むな んて、侃斎道場の大先生は何を考えてるんでしょ」

 と、途端に不機嫌になる。

「どうしたの、おせいさん?」

「たいていの娘さんは、小町娘と並んで歩くのは 嫌がるもんなんだ。自分が引き立て役にしかならないってことが、分かっているのさ」

「あの子は、そんなふうに思っちゃいないよ」

「本人がそうであっても、周りはどう見ますかね え。小町娘に選ばれたら、大店の跡取りや武家のご嫡子……縁談は引く手数多です。よりどりみどりの中から、選べる立場になるってことなんですよ」

 人並みの感覚がある娘ならば、己と比べて惨め になりかねないというのだ。

「親なら、あんまり隣に並んでいてほしくないと 思うんですがねえ……」

 大きな溜息をつき、背を向ける。

 かしましいかみさん連中の声を後ろに、さくら はやっと塒の戸を閉めた。ほっと息をつく。瓶から柄杓で水をすくう。乾いた喉が潤った。

汗 をかいた首を濡らした手拭いで拭っていると、

「――さくらさん、お邪魔します」

 訪れたのは総だ。足元のひづきがするりと抜け て、さくらの足へ擦り寄ろうと足を踏み出し――不意に固まった。首の鈴が小さく鳴る。

「どうかな。この格好は」

たっ た一日で、同じ顔を何度されたか知れない。半ばうんざり、半ば諦めた体で問いかける。

 すると総は、目を瞠ることもなく、ゆるりと微 笑んだ。

「とてもよくお似合いです」

「本当に? 行く先々で、皆に目を丸くされた よ」

「でも、誰も似合わないとは言わなかったでしょ う」

「まあ、そうだけどさあ」

 侃斎はどことなく嬉しそうだったし、香上は厭 味を言いつつも見違えたと言う。長屋の皆も別嬪だと言ってくれた。受け容れ難いと思っているのは、さくらだけ。

「おせいさんは、師範にむかっ腹をたてているみ たいなんだ」

「さくらさんが、小町娘の引き立て役に回るの が、嫌なのでしょう」

「……もしかして、聞こえてた?」

 狭い長屋のこと。聞こうとしなくとも、声は筒 抜けだ。恥ずかしさに頭を掻いて、ふと、苦笑を漏らす。

「傍目に、より勝っている者の隣には並ばせたく はない。それが、親の考えだろうって。……別に私は気にしちゃいないんだよ。おさ枝さんは小さい頃を知っている幼馴染だし、小町娘に選ばれたことだって、 本当に嬉しいんだもの」

 おせいは考えすぎなのだ。侃斎にとって、さく らは娘ではなく師範代のひとり。女の身で剣の腕が立つ、ただそれだけの理由で駆り出されたにすぎない。

し かし、そう言うと、総は微笑したままで小首を傾げた。

「侃斎様はさくらさんに自覚してほしいのです よ。貴女も年頃なのですから、そういう姿に戻ることも考えなければ」

「そんなこと――本当に、親が心配するようなこ とだよ」

「さくらさんは、侃斎様の娘になるのが嫌なので すか」

「とんでもないっ。これまで育ててくれたのは、 師範だ。そんなことを言ったら、罰があたっちゃう」

侃 斎は生涯独り身を貫くと神仏に誓い、剣術だけに心血を注いできた。そんな人が幼子の面倒を看るのは、想像以上に大変で覚悟がいったことだろう。いっそ、養 女にしてはと周囲にも散々言われていたのだ。しかし侃斎は、その件に関してだけ首を縦に振らなかった。

「……師範の恩に報いる方法は、私が風間家の養 女になって、婿をとり、道場を守ることしかないんだろうね」

「侃斎様は、貴女が無理をしてそうすることを望 んではいないはず。……そんなことを言うなんて、さくらさんらしくありませんね。どうかしたのですか」

「――別に」

 ひづきに目をやる。

言 葉が通ずるはずもないのに、そっと擦り寄ってくれた。抱き上げると、いつものように袖の中でゴロゴロ喉を鳴らす。

「あ、そうだ。今朝は総さんにも迷惑をかけてし まって。薬を飲んだらすっかりよくなったんだ。ありがとう」

「それはよかった。さくらさんの具合が悪いと、 不機嫌になる者がいますので。これで安心です。ついでと言ってはなんですが、これも貰ってやってください」

 と、一枚の札を差し出した。

「悪霊封じのお札……?」

「明がさくらさんのためにと、貰ってきたんだそ うです」

「ありがたくいただくよ。明は? もう帰ったの かな」

「ええ。さくらさんには、ゆっくり休んでほしい からと」

「明日は来る? お礼を言わなきゃ。これで、夜 に出歩いても安心だもの」

「風邪が治るまで、お酒は厳禁ですよ」

「じゃあ、このお札の力を発揮する場がないじゃ ない。せっかく貰ったんだもん、私も幽霊道中に遭遇してみたいよ」

「おや、朝は興味ないようでしたのに」

 意外そうに目を丸くする。滅多にしないその表 情に、さくらは思わず噴き出した。

「幽霊話は夏の風物詩。酒の肴には、もってこい だと思うんだけどなあ」

「……やっぱり、信じてはいないのですね」

 さくらの腕の中で、ひづきが「なぁぁ」と鳴 く。その頭を撫でつつ、

「もしかして、総さんは幽霊を信じてる?」

 ゆるり、顔を上げた。

「あ、馬鹿にしてるんじゃないからね。信じるも のは、人それぞれだ」

「そう言うわりに、目が笑っていますよ」

 と、小さな息をつく。ほんのわずか、目を細め た。

「亡くなった人も、現世に心残りがあるから帰っ てくると思うのです。本来なら、恐れるものではないのですが……」

「総さんらしい考えだねえ。……うん、総さんが 言う通りかもしれない」

「さくらさん?」

「でも、やっぱりこの目で見たことないから、確 かめに行かなくちゃ」

 さあ、飲みに行くぞ、と意気込むのを、総は優 しい目で見つめた。ひづきを引き取ろうと手を伸ばす。

当 のひづきが、その手を擦り抜けた。さくらの腕の中深くに顔を埋める。

「琴の名手も、ひづきにはからっきしだね」

困 り顔の総を見、さくらは声を上げて笑った。

「気まぐれなので、手をやいています」

「まるで明みたい」

 ひづきが顔を上げる。つぶらな瞳でさくらを見 つめた。

「ひづきと明は、よく似ていると思わない?  どっちも気まぐれで、やんちゃで、私と総さんによく懐いているもの」

「そうですね。特に懐いているのは、さくらさん なのですが――似ているかもしれませんね」

 ひとつ飛んで、ひづきが総の腕に戻る。尻尾を フラリフラリと振った。

「あれ、もう飼い主がいいのか。今日はなんだか 素っ気ないんだね」

「そんなことはありませんよ。きっと満足したん でしょう」

「ニャァ」

小 さな口をいっぱいに開いて、ひづきが返事をしたように見える。

 総と二人、顔を見合わせてまた笑った。

 

 

 

 

 おせいに振袖を着付けてもらい、さくらは幡多 屋へ急いだ。

晴 天の青が眩しい。脇差入りの風呂敷包みを手に、小走りで永代橋を渡る。通り慣れた大路を行き、日本橋を目指した。

道 の端で子供らが遊んでいる。大店は人の出入りがひっきりなしで、暖簾が落ち着く暇もない。丁稚が主の後ろを懸命について歩いていた。頼りない肩が愛らしく 揺れている。

 幡多屋の前で荷下ろしをしていた佳助が、さく らを認めて目礼した。

「これは三峰様、ご苦労様です。お嬢様が首を長 くしてお待ちですよ」

「今日はどこへお供をすればいいの?」

「両国までお願いいたします。茶の湯のお師匠様 のお宅と、芝居小屋へ興行見舞いに」

「芝居?」

「はい。両国の橘町で興行中の若村一座です。旦 那様が贔屓にされていまして、巡業で江戸へ来るたび、顔を出しています。今日は生憎、旦那様がお出掛けになりますんで、お嬢様が代わりに行かれることにな りました。どうぞ、よろしくお願いします」

「それは承知しましたが……佳助さん、ちょっと いい?」

 人出の多い道から外れ、店の裏手へ移動した。 遠くまで見通せる細く真っ直ぐな裏道の端で、二人は密通する店娘と奉公人のようである。

だ が、その表情と態度は明らかに、愛しみ合う者同士ではなかった。

「佳助さんはおさ枝さんのこと、どう思っている の」

「どう……と言いますと」

 商人特有の裏が見えない顔つきで、首を傾げ る。

さ くらは眉を顰めた。

「許婚が急に婚儀を渋るなんて、よっぽどのこと でしょう。貴方の身になれば、幡多屋の主になれるかどうかの瀬戸際だ。それなのに、貴方を見ているとそう気にしているふうでもない。おさ枝さんを、好いて いないんじゃないのか」

 佳助は困り顔で、やはり微笑んだ。瞼の奥に何 を見、心の中で何を思っているのか、他に知られぬ面をつけている気がした。

 武士が生死を賭けた立ち合いに挑む時、心内の 動揺を悟られまいとするように、この男は笑っている。

そ れが、さくらには気に入らない。

 おさ枝は自らを責め、自分が悪いのだと言うば かり。それを聞いて何も感じないというなら、佳助にとってはただそれだけの存在だということだ。

「おさ枝さんは、佳助さんが好きだと言った。 ――貴方は?」

 彼女の気持ちは知っていたはず。残る佳助が、 どう想っているかだ。

「わたくしは――」

 一旦、唇を閉じる。言葉が喉につっかえてい た。俯きかける視線を、辛うじて上げる。

「……奉公人のわたくしに、何が言えましょう」

 辛い、辛い目だった。

本 来、奉公人の身で主の娘に懸想することなど許されないこと。例え許婚といえども、お嬢様に詰め寄ることもできぬ話であった。

「我が儘は言えません。わたくしは、このお店で 奉公できることが、一番の幸せだと思っております」

「おさ枝さんが、別の人と一緒になったとして も?」

「お嬢様が決めた方なら、喜ばしいことでござい ます」

「でも、このままじゃあ……やり切れないよ」

「三峰様はお優しいですね。旦那様が三峰様にお 願いした訳が、分かりました」

「私が、剣が使えて、しかも女だからだ。簡単な 理由さ」

「それだけではないでしょう。三峰様は誠実で、 相手の気持ちを心底考えてくださる。こうして、わたくしの気持ちまでも心配してくださっているのですから。三峰様が男だったら、誰にも勝ち目はありません ね」

「女としては、魅力に欠けてるって言われている みたい」

 佳助が仕事に戻り、さくらはひとり奥に進む。 足音を聞きつけて、部屋の中からおさ枝が顔を出す。

「お待ちしてました。今日は両国ですよ」

 満面の笑顔を向ける相手がこんな振袖に着られ た娘では、佳助も悋気のしようがない。

 すぐに連れ立って店を出た。

お さ枝の手には茶の湯に使う道具と、反物を包んだ風呂敷が収まっている。反物は芝居一座への手土産だった。

「さくらさんが来てくださって、ほんによかっ た。若村座のお芝居、見に行きたかったんです。さくらさんは、もう行かれました?」

「芝居見物は滅多に行かないから。若村一座とい うのも初耳だよ」

「江戸から上方、遠くは長崎まで巡業をしている そうです。ですから、珍しい演目もたくさん見せてくれるの。前に見たのは剣を飲み込む芸でした」

「それは、なんと言うか……痛そうだね」

 想像して、顔を顰めた。きちんと訓練もしてい ようが、聞くだけで腹の辺りがムズムズする、落ち着かなくなる芸であるらしい。

「そういう珍かな芸の見たさに、あの辺りの中屋 敷や下屋敷のお侍様もお見えになります。――でも一番の評判は、座長なのですよ」

 秘密を打ち明けるように、唇に人差し指を当て る。その仕草はしとやかながら見目麗しい、朝顔を思わせた。

「へえ。座長自ら、舞台に上がるんだ」

「ええ、さくらさんも、一度見たらきっと気に入 ります」

「そりゃあ、楽しみだねえ」

 お楽しみは後にして、まずは茶の湯の稽古であ る。

師 匠の家は、細い竹林の道を行った先にあった。庭全体を垣根で囲んだ落ち着いた雰囲気の場所で、一見、大店の寮のようである。喧騒を外れ、静かに茶を点てる には持って来いの場所だ。

 しかし、どうもさくらには敷居が高い。茶屋で 茶を飲むのも好きで、花を愛でるもの好きなのだが、妙に畏まってしまうと背中やら何やらが痒くなる。剣の修行はできても女の修行はからきしなのだ。

 そういうわけで、中で待てという申し出を断っ て、さくらは外でおさ枝を待つことにした。

周 りにはひとつ二つと民家があるばかりで、茶店の類はないものの、幸い竹林で強い日差しは遮られる。サヤサヤと、葉擦れの音も耳に心地良い。

―― 早く暑さが過ぎればいいのに。

袂 から手拭いを取り出して、首筋の汗を拭った。

 林の中では、風を涼しく感じる。葉を透かし落 ちる陽光は、薄い緑の色を土に落としていた。青竹の瑞々しい匂い。息を吸うたびに胸の中が穏やかになる。

し なやかに風に揺れる竹を触る。滑らかな肌が、ひんやりと冷たい。

 ふと、手を止めた。

 男がいる。

何 をしているわけでもない。ただ、その場に立ち尽くしている。

歳 の頃は二十二、三。生成りの着物に濃紺の袴姿。腰には大小の刀が二本、つまりは侍だった。体躯はほっそりとし、色白の顔は瓜の形に似ている。

―― 誰だろう。

 こんな閑散とした所で、ただ涼んでいるわけで はあるまい。さくらには一切気づかぬふうで、前を見据えている。

 さくらはその視線を追った。細いあぜ道を挟ん で、茶の湯の師匠宅が鎮座している。こっそり窺い見るというよりも、呆然と目をやっていた。太い竹に右腕を預け、左手はだらりと下に垂らしている。そうい う仕草も、無意識と見えた。

「こんにちは」

 声を掛けるには無難な挨拶で、そちらへと歩み 寄る。相手の身分を推し量るものもなく、滅多な口を叩くことはできないが、まさか、問答無用で無礼討ちもなかろう。

 が、しかし――。

一 瞬だけ、顔をさくらに向けたものの、男は云ともすんとも、なんの反応も見せなかった。振袖美人の笑顔を見てもニコリともしない。

むっ としたい気持ちを抑える。代わりに、精々愛想のいい笑みを浮かべた。

「今日も暑いですね」

「……」

「ここで、一体何をなさっているんですか」

「……」

「あの屋の師匠とお知り合いですか」

「……」

 何を聞いても、無言の時が続く。

さ くらが諦めの息をついた、その時だった。

 男の口が微かに動く。

「――さ、え……」

 葉擦れの中、男の呟きはそう聞こえた。いや、 聞こえたように思っただけで、それは声というにはあまりに聞きとりづらいものだ。

 不意に、さくらは幡多屋の女中の話を思い出し た。

お さ枝を見ていた、若い侍があったという。この男がそうなのかもしれない。だとしたら、おさ枝を待ち伏せて何かを画策しているのかもしれない。

「おさ枝さんを、知っているんですか」

 キリリと男の目を睨みつけた。しかし、すぐに 息を飲む。

 その目に、愛しさ以外の感情を見て取ることが できなかった。怒りや悲しみや嬉しいといった、人にあるべき情の中で、彼にあるものはただ愛しさだけだった。そっと真綿で包むような、そういう想いだけが 滲み出る。

 ――なんて、幸せそうなんだろう……。

 そう思ったさくらは、言葉を掛けるのをため らった。

 すると、

「おい――」

 静かだった気配に、乱暴な声が交じる。道の端 から歩いてくる人影があった。仏頂面を思い浮かべ、さくらが深い深い溜め息をつく。厄介な邪魔者が近づいていた。

せ めて名前だけでも知りたいと、男へ目を戻したが、

「あ――ちょっと」

 男はさっさと踵を返し、林の奥へと歩き去った 後だった。さくらの礼儀知らずの呼び止めも聞こえぬように、姿はやがて見えなくなった。

「せっかくの機会を……」

 肩を落とす。

そ の背に、長身の男の声がかかった。

「おい、こら。聞いてんのか」

「……人に声をかけるのに、おいこら、はないん じゃありませんか。旦那」

 振り返ると案の定、黒羽織の香上が仁王立ちし ている。手下も連れず、見回りの最中なのか、額には汗が光っていた。

 香上はチラリとさくらの腕に目をやった後で、 表情を曇らせる。

「女の格好してる時くらい、刀は置いてきちゃど うだい」

「一体、なんのお話ですか」

「惚けるんじゃねえよ。この目は節穴じゃないん だ。その風呂敷包み、脇差だろう」

「私は用心棒も兼ねているんです。これがなけれ ば話になりません」

「あのなあ……」

 辟易し、首筋を掻く。

「危ないことには関わるんじゃねえよ。そうでな くとも、お前の無鉄砲には道場の師範だって手をやいてる。その振袖姿はせめてもの親孝行だ。そんな格好で、立ち回りなんかするな」

「大袈裟な。こちらが何もしなくても、向こうか ら厄介事が来る場合だってあるんです。だいたい、おさ枝さんのお供だって、侃斎師範から頼まれたことなんですよ。何がなんでもその期待には応えなくちゃい けない。形(なり)を変えたからって甘えてたんじゃあ、それこそ師範に顔向けできません」

「刀を捨てるってことはできないのか。そのま ま、普通の娘になるって道はないのかよ」

 香上が問うた言葉に、胸を突かれた気がした。

そ の問いは、侃斎も秋吉も、決して口にしないものだった。さくらが刀を持つことに執着している訳を、彼らは痛いほど分かっている。それでも、やはり女として の幸せを願ってやりたいとも思う。

 板挟みの中にある想いを、香上は言い放ったの だ。あえて目を逸らしてきた想いに、はっきり目を向けろと言われている。

「――女として、着飾ったり化粧をしたり、祝言 をあげたり、子を生したり……そういう当たり前がいかに尊いものか、分かっているつもりです。別に、女であることを卑下してもいません。……ただ、どうし ても、刀を捨てることはできないんです。私は、生きるために侃斎道場で修行をしてきました。生きて会いたい人がいるから、刀を握っているんです。いまさ ら、生き方は変えられない。旦那だって、十手を捨てろなんて言われたら困るでしょう」

「お前が会いたい者は、お前が刀を握っていれば 会えるのか」

「旦那――これはお役目ですか」

 ぐいと、顔を上げる。口をへの字に曲げ見据え る目は、娘というより剣客のそれだった。

思 わず香上が後退る。

「お役目ならば話しもしましょう。そうでないの なら、ここでお話することはしたくありません。何も隠すことありませんので、お調べになろうと思えばすぐに分かることです」

「あ――お、おおう」

「まったく。そんなに暇なんですか、定廻りは」

「阿呆。幽霊探索の途中だ。お前を見かけたん で、一言、言ってやろうと思ってな」

「どこが一言なんですか。旦那のは二言以上です よ。……ちょっと待ってください。旦那、幽霊探索ってもしや幽霊道中の?」

「ああ」

「八丁堀は幽霊も捕まえるんですか」

 差し詰め、世間を騒がせた罪で裁きを受けるの だろう。お白州に居並ぶ足のない者たち――いったい、どのようにして座らせる気か?

 小馬鹿にした雰囲気を敏感に悟った香上が、仏 頂面を作る。上げた視線を遥か遠くへ向けた。

「幽霊道中だかなんだか知らねえが、得体の知れ ないもんが好き勝手に世を騒がせてるってのは確かだ。騒ぎにかこつけて、妙な商売も流行り出してる。悪霊除けと称したなんのご利益もない札を、高い値で売 りつけたりしてな」

 さくらは、部屋に置いてきた明の札を思い出し た。

「そういう輩は許せませんねっ」

「やけに力が入ってるなあ。ま、それだけじゃな い。騒ぎのせいで、夜に出歩く者が減っている。通りが閑散とすれば、自ずと疾しい奴らが我がもの顔で闇の中を闊歩するようになるんだ」

 押し込みや辻斬りには、たいそう動きやすい夜 になっているというわけだ。

「でも、幽霊の類はお寺の管轄でしょう。定廻り が日中から幽霊探しなんて、聞いたことがありませんよ」

「坊主に術師、神主までも、幽霊道中さまさま さ。誰も彼も、霊気に障るのを恐れて、お祓いや札を求める。そのすべてがインチキだとは言わないが、この三月ほどは、熱心な信心者が増えたって話だ。どん なご利益も金で買えるんだから、まったく、嫌な話さね」

 香上が日陰に移動する。襟元に手で風を送っ た。あまり効果はないらしく、見かねたさくらが自分の扇子を差し出した。

「お、悪いね」

 遠慮もなく、女物の扇子を広げ、涼しさに目を 細める。

「――前にも、同じようなことがあったんだ」

 香上が言うには、十八年ほど前にも幽霊騒ぎが あったらしい。今回のような幽霊道中としては目撃されていなかったが、あちらこちらで蒼白い火の玉を見たと届け出があったのだ。

「あの時は、騒ぎに乗じて付火が横行した。江戸 の西側、半分以上を焼くような大火もあった」

「まさか、今回も大きな火事が起こると?」

「さあてね。それは分からねえが……あの当時、 なぜ大火が起きちまったのかは明白だ。――奉行所の役人連中が、幽霊騒ぎが単なる与太話だと、真面目に取り合わなかったからさ。実際、炎が出た要因が火の 玉が移ったもんか、どっかの馬鹿が火を付けたのかは分からん。ともかく、あの時しっかりと見回っていたら防げたんじゃないのか……そんな後悔は、したくな いと思ってな」

 その表情に、一瞬、怒りの色が差す。すぐにそ の色は取り除かれたが、身内であるはずの役人に対して、ある種の不信感を覗かせた。

「もしかすると、本当の幽霊に出くわすってこと にもなりかねないがな」

 と、彼は何事もなかったように、いつもの厭味 たらしい笑みを見せる。

 ――いっそ魑魅魍魎にでも会って、少しはその 厭味を食ってもらえばいいのに。

 心内で何気なく思ったことに、

「今、鬼に出くわして食われちまえって思ったろ う」

 香上に見事に言い当てられる。

「そんなこと……考えるわけないじゃありません かっ」

「一瞬、間が空いたぞ。お前の考えてることなん てなあ、すぐに分かっちまうんだよ。顔に出てるぜ、師範代」

「嘘だっ」

 言いつつ、手の甲で表情を隠した。嘘を見抜く ことに長けた定廻り同心は、さも可笑しそうに腹を抱えて笑った。

 香上と話している最中、おさ枝が稽古を終えて 姿を現す。さくらの傍らに香上の黒羽織を認め、二の足を踏んだ。

「ふん。別に、取って食いやしねえのに」

 近づき難い雰囲気を醸し出しながら、香上は扇 子を返した。

「ちゃんと働けよ」

「旦那こそ」

「口が減らないねえ」

 ヒラリ、手を振って来た道を戻る。大きな背中 が見えなくなると、ようやっとおさ枝が隣に並んだ。

「あの方、お直ちゃんの件で来ていらした同心で すね。さくらさんは、八丁堀の旦那とも親しいのですか」

「全然。あの人は、私をからかって面白がってる んだ。ムカつく狸だよ」

「……何か、あったんですね」

 さくらの口調にただならぬものを感じ、深くは 追求しないおさ枝であった。


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