五(二)

 芝居小屋の前には、とりどりの旗が掲げられて いる。どの旗にも、若村座の役者の名が染め抜かれていた。

「ほら、あれです」

 おさ枝が指差すほうに、一際大きな字で名が 踊っている。

若 村春伊。おさ枝がベタ褒めする若村座の座長だ。

座 長といえば初老の男で、旅人らしく日焼けした肌の親分気質――そういう者かと連想していたさくらに、

「見たらきっと驚きますよ」

 意味ありげに、おさ枝は笑う。

 ちょうど演目の合間で、これから踊りが披露さ れるとのこと。挨拶は後にして、まずは芸を楽しむことにする。

小 屋の中は満員御礼だった。町人もいれば、武士もいる。女の姿もあった。旅芸人一座の興行は、誰もが気軽に楽しめる娯楽なのである。

座 る場所さえなく、仕方なしにおさ枝と入り口近くで立ち見をしていると、拍子木の音が響いた。寸の間、小屋の中が静まり返る。三味の音が静けさを震わせ、続 いて太鼓、笛と音が交わる。

す べての音が紡ぐ錦の舞台上に、女形が姿を現した。

濃 い赤の打掛けに、帯は胸前でだらりに締めている。唇と眦には紅を差し、それが白粉に映えてなんとも妖艶な色を感じさせた。真っ白なのは指先も同じで、あち らへこちらへ動くたび、客からは溜め息が漏れる。美しい蝶を愛でているようだ。

さ くらは、こんなにも綺麗な人がいるのかと見惚れていた。男なのに、そこらの女よりも艶やかで、たおやかだ。

 踊りには唄がない。皆、一挙一投足に目を奪わ れる。そこにあるはずの文を見、男を追う視線に涙した。流し目は、女でも頬が熱くなるほど。

 普段の自分と比べ、これじゃあ誰も女だとは 思ってくれないわけだよなあ、と自嘲の溜め息をついた。

 楽に合わせ、動きが静かに終わりを告げる。役 者が袖に消えるのと同時に、小屋の中は拍手喝采となった。

「すごいでしょう」

 おさ枝が我のことのように、鼻高々と言う。さ くらは素直に頷いた。

「あんな綺麗な女形、初めて見たよ」

「その言葉は、どうぞご本人に言って差し上げて ください」

 一旦外へ出る。

舞 台の上では、別の役者が芝居を始めたところだった。拍子木の甲高い音を聞きながら、小屋をぐるりと周る。裏木戸が開いていた。どこぞの奉公人や座員が、 ひっきりなしに出たり入ったりしている。路地の隅には半分化粧をした役者もおり、なんとなく、見てはいけないものを見てしまった気になる。

 そのひとりを捕まえて、おさ枝は慣れた様子で 座長への取次ぎを頼んだ。

「ねえ。舞台の最中にお邪魔していいのかな」

「大丈夫です。座長さんの出番は日に一度きりで すもの」

 心配を他所に、若村座長の許しが出た。二人で 裏口から小屋の中に入る。人ひとりがやっと通れるだけの幅しかない廊下が続く。突き当たりは筵敷きの大部屋。長い台の上にいくつも鏡が並び、化粧をする者 もいれば、部屋の真ん中に寝そべっている者もいる。片膝立てて、花札に興じる者もいた。

 その隣が、座長の部屋だった。

一 応きちんと仕切りがあるのだが、如何せん、小屋自体が真っ直ぐに建っていないせいで立て付けが悪い。掠れた音がして、襖が開いた。

「ああ、よく来てくださいました、おさ枝さん」

 そう微笑んでいるのは、つい先ほど舞台で妖艶 に舞っていた女形だ。

打 掛け姿はそのままに、顔だけは化粧を落としている。唇と目尻にあった紅が消え、白粉も落としているはずなのだが、男に戻るどころか、やはり艶っぽい雰囲気 は変わらない。

 さくらの驚く顔を認め、座長がふふと口元を袖 に隠す。

「おや、こちらは初めての方ですね。あたしは、 この一座の長でございます。若村春伊と申します。どうぞ、お見知りおきを」

「侃斎道場師範代、三峰さくらです」

「師範代?」

 今度は若村のほうが、目を丸くした。己の格好 を失念していたさくらは、あっと声を上げる。

「今はこういう格好をしているけど、いつもは胴 衣で。と言っても、私は男ではなくて、正真正銘の女なんですが」

「おやおや。別にあんたをあたしの仲間に見ちゃ いないよ。そうかい、あんたは剣術を習っているのかい。その華奢な体で、よくもまあ、男に交じって頑張っているものだ」

 ふっと笑って――さくらはまたしても、あっと 声を出す。

「私――貴方に傘を借りたんだ」

 狐の嫁入りが降った日、名も告げずに去った男 と重なった。白粉の匂いが香ったのも、役者なら得心がいく。

「そういえば、そんなこともあったねえ」

「すみません、傘は道場にあって。今度来る時、 持ってきますよ」

「別に構いやしないさ。どうせ、破れ傘だったん だ」

 ヒラヒラ手を振った。踊りの続きのようだ。

「それにしても、なるほどねえ。あっちがあんた の真の姿ってわけか」

「でも、姿形なんて、本当はそんなに拘っている わけじゃないんです。ただ、動きにくいってだけで」

「あたしらは舞台の上じゃあ、無理してでも女に 成りきらなきゃいけない。それこそ、姿形が一番大事さね」

「じゃあ、私は役者にはなれそうにないや」

「この打掛けを着て、立ち回れるようになれな きゃいけないよ」

「それは、稽古よりきつそうだ」

 想像していたよりも遥かに若く、気さくな座長 だ。

生 まれて間もなく捨てられていたのを、先代若村座長に拾われ、以来一座で育てられてきたという。旅を続ける一座にはそういう生い立ちの者が珍しくないらし い。先代の座長は一昨年他界し、若村一座の看板女形だった春伊が座長を継いだ。

「あたしは小さい頃から、この一座で芸を磨いて きたんですよ。ここがあたしの家。先代は、おとっつぁんみたいなもんです。家を継ぐのに、若いも何もありませんでしょう」

「一座を纏めるのは大変でしょうね」

「そうだねえ。若い衆は羽目を外すし、女たちは 口煩いし。でもねえ、そんな暮らしが当たり前だったからさ。こうして、皆で力合わせてやってますのさ」

「すごいことだね……本当にすごい」

 本心から思う。師範代として指南をするさくら も、是非、見習いたいところであった。

 春伊が、幡多屋からの興行祝いの品をおし戴 く。艶然と微笑まれ、おさ枝はほんのり頬を染めた。

「これはまた、別嬪におなりで。日本橋小町の評 判は聞いておりますよ」

「春伊座長は口がお上手ですね。女よりも綺麗な 男の人にそう言われたら、なんだか恥ずかしくなります」

「そうですか。いやはや、そいつはすみませんね え。でもね、綺麗なのはこの打掛けや紅なんですよ。これがなかったら、なんだか分からなくなっちまう」

「そんなこと――」

 おさ枝は喜々として春伊の仕草を褒めちぎり、 踊りの素晴らしさを賞賛した。春伊もまんざらでない様子で、優美な笑みを漏らす。その目つきで、さらにおさ枝の頬が赤くなる。

 女が惚れる女形は一分の隙もない。男であるの に女の仕草や喋り口調をし、ひどく不安定にも思えるが、そうあることが当たり前。完璧に身に染み付いている。

女 の身で刀を持つさくらが、その姿を当然と思うことと同様だった。

 若村春伊の評判は大したもので、おさ枝と談笑 している最中も、祝いの品がひっきりなしに届けられた。芝居小屋に客が入れば、周囲の店にも人が流れ込む。一座興行の恩恵に授かった店からの酒やら菓子や らで、廊下はますます狭くなる。

 そろそろお暇する段になり、ちらとそれを認め た春伊が、

「菓子や酒がそんなにあっても困るねえ。どう ぞ、お好きなものをお持ちくださいな」

 言ってくれた。

 おさ枝は、有名な菓子司の羊羹を貰う。母親が 食べたいと言っていたそうだ。

 手土産がなかったさくらにも、どうぞと勧め た。

「では、ありがたく」

 祝い酒のひとつを手に取った。居合わせた役者 が、唖然とする。春伊だけは、少し紅が残る口を開けて豪快に笑った。

「そうかいそうかい、あんたは酒がお好きかい。 ならたんと持っていきな。どうせ明日になりゃあ、またどこからか届くんだ。ひとつと言わず、二つでも三つでも、好きなだけ持っていきな」

「いや、ひとつで充分。これ以上抱えていたら、 それこそ好奇の目で見られるから」

「ずいぶん、遠慮深いんだねえ。まあ、いいよ。 だったらまたおいで。もちろん、おさ枝さんも一緒に連れてきておくれよ。あたしの一番の贔屓は、なんといっても幡多屋さんだからね」

 反物が化けた羊羹と酒を手に、二人は一座を後 にした。

 興奮冷めやらぬ様子で、おさ枝は掌を上下に動 かし、上気した頬に風を送っている。さくらは酒樽を軽々と片手持ちにして、隣に付き従った。やはり酒ひとつでもおかしな姿であるらしく、道過ぎる者が、 皆、一度は振り返った。

「おさ枝さん、少し休んで行かない?」

 道すがら、目についた茶屋におさ枝を誘う。彼 女もこのまま家に帰るのが勿体ないと思っていたらしく、意気揚々と茶屋の小僧に飴湯を頼む。

「やっぱり、春伊座長はお綺麗よね。浮世絵にな るのも分かるわ」

 飴湯が入った湯呑みを掌で弄びながら、まだ夢 見心地であるように呟いた。

「へえ。あの人、浮世絵にもなってるの」

「わたしも持ってますよ。あんなふうに、綺麗に なりたいって思いますもの」

「そういうもんかな」

「春伊座長は女の子にとって憧れなんですよ。さ くらさんは、女らしいことには興味ありませんか」

「そうだなあ……」

 正直、よく分からない。そんな思いを飲み込ん で、さくらは横目でおさ枝を見た。

「役者に懸想するよりも、もっと近くにおさ枝さ んを想う人がいるんじゃないの?」

 すらり問うたものに、おさ枝は一瞬、肩を震わ せた。答えを待たず先を続ける。

「今日、茶の湯のお師匠さんの家の前で会ったん だ。若い侍だった。前に女中が見たっていう男と同じだろう。じっとおさ枝さんが入った家を見ていてね、私が声をかけても何も答えちゃくれなかった。だけ ど、たった一言――さえ、って言ったんだよ。君の名を、呼んでいたんだ」

 おさ枝の顔色が、みるみる蒼ざめた。先ほどま で朱に染めていた顔を俯ける。高い日差しは小さな影しか作れず、屋根の下にいたとてちっとも涼しくはなかった。

「私は、おさ枝さんを責めているんじゃない。た だ、喜衛門さんが心配している。もしもその侍を好いているのなら、身分違いで悩んでいるのかもしれないと……駈け落ちしてしまうんじゃないかって」

「わたしは――駆け落ちなんて、しません」

 きっぱりと、言い放った。さくらを正面から見 上げる。

「わたしは幡多屋のひとり娘です。父や母を置い て――店を置いて、どこかへ行くわけないじゃない」

「その言葉、信じてもいいんだよね」

「駆け落ちは、いたしません」

「――分かった。だけど、ひとつだけ。あれが誰 なのか、教えてくれないか」

「信じてもらえないかもしれませんが……わたし も知らないんです。名も、住まいも、どのようなお人なのかも」

「相手は名を知っているんだよ。何かしら、接点 があったと思うんだけどな」

「それは――」

 口を噤み、目を眇めて、風にたなびく暖簾を見 つめる。

 店前で、子供たちが石蹴り遊びをしていた。 きゃっきゃと叫ぶ中に、蝉の声が紛れ込む。ややあって、おさ枝が唐突に問うた。

「あの方……どんな様子でしたか」 

「とても、幸せそうな顔をしていたよ」

 少なくとも、さくらの目にはそう見えたのだ。

「そう。――よかった」

 囁きは、遥か遠くに向けているように聞こえ た。

 

 

 

 辺りはいつの間にか日暮れの刻限を過ぎ、藍色 の闇が迫りつつあった。

「ごめんなさい、さくらさん。すっかり遅くなっ てしまって」

「いや、私のほうこそ。話に夢中になっていて、 時を忘れていた」

 互いに謝りながら、小走りに幡多屋を目指す。 喜衛門や女将が心配していることだろう。陽がなくなるまで若い娘が家に戻らないなんて、心の臓が潰れる心持ちに違いない。

 酒を嗜むさくらは、夜中ひとりでブラリと出掛 けたりするが、それが許されるのは彼女だけ。普通は、「親不幸者っ」と盛大に雷が落ちる。下手をすれば、良からぬ噂も立ちかねないのだ。

 ――そんなことには、絶対にさせられないよ。

 用心棒としての自分の使命は、おさ枝を無事に 店に帰すこと。怒られるのは自分ひとりだ。元はと言えば、話を無理に聞き出していたのが悪かったのだから。

 大きな通りを行く二人の目の前で、次々と店が 閉まっていく。灯りが消えるのを見ながら、おさ枝が息を上げていた。

 生憎と、駕籠も見当たらない。さくらは足を緩 めた。

「おさ枝さん、手を」

 掌を重ねる。左手に酒を抱え、右手に小町娘を 引き連れて大股に歩いた。一見するとちぐはぐで笑えるのだが、さくらは真剣に周囲を警戒する。

 そうして気を張った耳に、細い音が聞こえた。

「……なんだろう、この音」

「さくらさん……」

 どちらともなく、足は止まっていた。ちょうど 川を渡ったところ。水音かと思ったが、明らかに違う。

 地を滑り腹に響く音、柔らかく闇を滑る音 ――、

「笛……?」

 そう、呟いた時だ。

 おさ枝が握った手に力を込める。微かな震えを 感じ、おさ枝に向き直った。

「どうかした?」

「……あれ」

 茫然と指差すほう。川に沿って、大店の蔵が立 ち並んでいる。そちらはまったくの闇に包まれ、鼻先も見えぬほどだ。

 ひと色で塗り潰されたその中――宙に一点、灯 りが見えた。

 初め、さくらは提灯かと思った。誰かがこちら へ向かい、歩いて来ているのかと。だが、すぐに違うと気づく。灯りが揺れている位置が、人が持つには高すぎる場所だった。しかも、蝋燭を燃やしているよう な赤い炎ではない。――蒼白い、ほの明るい灯りなのだ。

「もしかして――鬼火?」

 言葉にしてから、しまった、と思う。おさ枝の 震えが大きくなった。さくらの背にしがみ付き、必死に目を背けている。

 幽霊道中に出会ったら、霊気にあてられる ――。

 幸いと言うべきか、目の前を浮遊しているのは 鬼火ひとつきり。他に幽霊らしき影もない。

 いや、そうじっくり見たわけではないが、さく らたちが踵を返すまではそれしか見えなかったのだ。

「おさ枝さん、走ろうっ」

「は……い」

 さくらもおさ枝も、着物の裾が乱れるのも気に せず走った。蒼白い光が追って来ている気がして、振り返ることができない。

 ようやく息をついたのは、幡多屋の灯りが見え てからだった。

 

 

 

 

 琴の稽古が終わった後、総は縁側で田部家の隠 居、十郎太と茶を飲んでいた。

 湯呑みを傍らに置き、十郎太は左手の指をまじ まじと見つめて言う。

「琴というものは女子が習うもの故、易しかろう と思っておったが、なかなか容易ではないものよ。指の頭が凹んでおる」

 琴は、琴爪で弦をひっ掻くことにより音が出 る。音程を作るのは、琴柱と左手の中指だ。弦を左手の指で押すことによって、十三本の弦から無限の音色を奏でることができる。しかし、弦は思いの外、硬 い。慣れない者が力任せに押すと、しばらく指が痺れてしまうほどだ。これは慣れてもらうより方法はない。

「ですが、ご隠居様の覚えはお早い。失礼なが ら、お歳を召しているとは思えぬほどでございます。すぐに、人前で披露できるほどに上達なさるでしょう」

「そのように世辞を並べても、何も出ぬぞ」

 だが、言われて気を悪くするでもない。満足そ うに笑い、茶を啜った。

「まあ、わしの上達が早いのではあるまい。教え 方が上手いのじゃ」

「そのように言っていただけるなんて、嬉しいこ とです。もう少し慣れてきたら、連れ弾きなんてのもいいかもしれませんね。もしもその気がおありでしたら、秋頃にでも紅葉を愛でられる茶屋の一室でもお借 りして、琴を弾きましょう。ご子息の、泰祐様にも聞いていただきたいですしね」

 ふと、庭から隣の十郎太に視線を移した総が、 口を噤んだ。

 両の手に湯呑みを包んだまま、微笑を湛えたま まで、十郎太翁は陽光が作る陽溜まりを見つめている。だが、その目はただ日差しを眺めているのではない。遠い日を思い懐かしんでいるふうだった。

「息子か……泰祐に聞いているのであろう。哉一 郎という、実子がいたことを」

 総は、無言で頷く。

「火事で、逝ってしまった。あいつには、本当に すまないことをしたと思うておる。わしがもう少し、あいつに目を向けてやっていれば、あいつは死なずにいたかもしれん」

「火にまかれたのは、ご隠居様のせいではござい ませんよ」

「いいや……わしなのだ。わしがあの子を――」

 「あいつ」から、「あの子」に変わっている。 歳を経てなお、子を愛おしく想う心は少しも褪せることはない。

 十郎太が表情を曇らせた。

「一旦は逃げたのだ。だが……引き返す先で火に まかれた。笛を取りに戻ろうとしていたのだろう……馬鹿な子だ。笛よりも何よりも、命が大事だったのに。いや、それもわしのせいだ。哉一郎には厳しくしす ぎたのかも……あの子は、自らに見切りをつけていたのだ。剣の腕もなく、算術も人並みでは、田部家を背負ってはいけぬと悩んでもいた。それなのに、わしは 田部家のすべてを、あの子に背負わせてしまった……まったく、不憫なことをしたものよ」

「哉一郎様は、笛が得手だったと伺いまし た。……それを取りに戻られたお気持ち、わたしには分かる気がいたします」

 己にはこれしかないと強く思う者にとって、拠 り所を失くすことは死にも等しい。それを失くせば、自分は自分として在ることができなくなってしまう――その恐れに苛まれるくらいなら、炎の恐れなど些細 なことにすぎない。

 ――すべてを失って、生きる自信がないのだ。

 他に新たなものを見つけるほど器用でもなく、 他から見れば、不器用に見えることだろう。

「――ところで、最近、頻繁に幽霊が出るとか。 おぬしは、どう思う」

「……はあ」

 唐突の話の変わりように少々唖然としながら も、総には思い当たる話題があった。

「実は、同じ長屋に道場の師範代という方がいる のですが、先日、鬼火を見たそうで」

 あの晩、さくらはしきりと首を傾げていた。見 たものが本物かどうか、確かめる余裕もなかったというのだ。一緒にいた小町娘は霊気に障ったわけでもないが、部屋から出ることを拒んでいるらしい。必然、 さくらの任は保留となり、今日あたり道場で稽古に勤しんでいることだろう。

 しかし、怪奇なるものに遭遇した後でさえ、変 わらずに稽古に出向く姿を見ていると、彼女には怖いものがないのかと呆れるばかり。あれで十五なのだから――侃斎の心労、如何ばかりか。

 笑い話で語っていたつもりが、意外にも、十郎 太は真剣な面持ちで総を見ていた。

「あの……いかがなさいました?」

「ああ、いや……その娘が見たものは、鬼火ひと つきりなのか」

「最後まで見てはいなかったそうです。連れてい た娘さんが怖がったので、急いでその場を離れたと。それが何か?」

「惜しいのお。もしかしたら、その娘御の身内が 会いにきておったかもしれぬのに」

 誠に残念――と、湯呑みを傾ける。

「わしは、会ったのじゃ。子に――哉一郎に」

「……ご隠居様」

「憐れむような目で見るな。これでも頭はしっか りしておるわい。――つい、昨夜のことだ。わしも遭遇したのじゃよ、話題の幽霊道中に」

 周囲を気にする体で、ぐっと顔を近づけた。

「昨夜、盆栽仲間と久々に会ってのう。そやつの 屋敷で酒を飲んだ帰りのことであった。人通りのない橋の上で夜風に吹かれていた時、川向こうを明るいものが横切ったのじゃ。鬼火と、それに照らされて蒼白 い顔をした者たちが、乱舞するような足取りで通りの向こうへと消えていくところであった」

 あれが噂の幽霊道中かと、その灯りを見送って いた矢先、その最後尾にいた男の顔に目を瞠った。

 鬼火に浮かび上がった顔は、確かに哉一郎だっ たという。

「生前は、あの子のことを分かってやることがで きなかった。そんな親の前に、例え幽霊だとしても、姿を見せてくれたことが心底嬉しかったのだよ」 

「……それは果たして、喜ばしいことなのでしょ うか」

「……おぬしは、幽霊などこの世におらぬと、そ う言いたいのかね」

 十郎太の様子が一変する。にこやかな皺は消 え、眦が険しい。

 総は静かに首を振った。

「現世に心残りがあれば、亡くなった方は戻って くる。わたしはそう思っています。幽霊を信じていないわけではありません。……ですが、そうなると、哉一郎様は何か心残りがあって現世に戻ってきたことに なりはしませんか。しかも幽霊道中は、人に仇成すと言われております。そう言われることが幸せであるとは到底――」

 不意に口を噤む。

 湯呑みを力任せに置き、十郎太が顔を歪めてい たのだ。

「哉一郎を失った時、どれだけ心潰されたこと か。この気持ち、おぬしには分かるまい。どれだけ嘆き悲しもうと、二度と哉一郎に謝ることができぬのだ。この後悔が薄れることは決してない――わしが死し てもまだ、あの子は許してはくれぬ。そう覚悟を決めていたのだ……。だが、あの子は姿を見せてくれた。わしに許しを請う機会を与えてくれた。あの子に謝ら ねばならない……あの子もそれが望みで、ああして彷徨っているのだから」

「ご隠居様――」

 それは生きている者の理屈に聞こえた。仮に、 十郎太が言う通りだったとしたら、直に彼の夢枕に立ったことだろう。彼は自らに負った罪の意識を消し去りたいだけだ。

 しかし、十郎太はまったく聞く耳を持たなかっ た。

「しょせん、誰にもわしの気持ちは分からんのだ な。おぬしも泰祐と同じだ。内心で馬鹿にしておるのだろうっ」

 と、見る間に顔を紅潮させる。

「あの子は優しい子だ。この不甲斐無い父の前に 姿を見せてくれた。その優しさを受けとめてやらなければ」

「ご隠居様?」

 ふと一点を見つめ、呟いた十郎太に訝しげな視 線を向けた。

 ――なんと、危うい目をなさるのか……。

 どこまでも暗く、儚い情動に押し潰されそうな 哀切が見て取れる。どうしようもなく、胸が締めつけられた。

 視線を逸らしてしまった総を、呆れているとで も思ったらしい。十郎太はますます眦を吊り上げた。

「年寄りの戯言と思うのなら、思えばいい。おぬ しならば分かってくれようと話したわしの、見込み違いだったわ」

「ご隠居様、わたしは――」

「もう、いい。帰れ」

 それ以上、目を合わせてもくれなかった。総が 庭に下り立ち、再度、十郎太に向き直る。静かに一礼した。

「……また、お稽古に伺います」

 庭を抜けて裏塀の木戸から外に出る。後ろ手に 戸を閉めた総は、しばらく、その場に立ち尽くしていた。

不 意に風が舞う。

 渦が巻いて砂を巻き上げた。振り売りの風鈴 が、どこかで涼しい音色を響かせる。

 右目がちくりと痛んだ。思わず瞼を閉じる。目 に塵が入ったのだ。容易に目を開けていられない。

右 手で瞼を押さえた。目の奥がごろごろする。そうしてしばらく目を瞑っていると、誰かの手が背中に触れた。

 最初は、誰かがぶつかったのだと思った。

「あ、すみません」

 目を細く開け、道を譲ろうと足を引く。その瞬 間に、小石に躓いて後ろへ傾いだ。

幸い背後の板塀に寄りかかる形で、彼の体は止 まった。

 痛みは感じなかった。

 体勢を立て直すこともせずに、ゆっくりと顔を 上げる。

 甘い匂いが、風を縫って香っていた。

「――何やってるのさ。右目を瞑っていたら、何 も見えないのに」

 若い男がひとり、当然であるように微笑を浮か べていた。

異 様に赤い唇から、甘い吐息が漏れる。格子の単に胸元を肌蹴け、それでも汗玉ひとつ浮かべていない。

「駄木」

 右目の痛さも忘れて、総が呟いた。不意に、悲 しげな顔をする。

「まだ、いらしたんですか」

「オレがどこにいようと構わないでしょ。やっと 捜し当てたお人だもの。総弥(そうや)殿を放って、オレがどこかへ行くと思うの?」

「いいえ」

「分かっているなら、聞かないでほしいな」

 ケラケラ笑って仰け反った。五月蠅いくらい鳴 いていた蝉の声が、ぴたりと止む。日差しが肌を焼く音までも聞こえそうな静寂が、二人の周りを包み込んだ。

 総が視線を落とす。男の腰に、彼には似つかわ しくない物を認めて、眉を顰めた。

駄 木はそれに気付き、誇らしげに胸を張った。

「似合うだろう」

 腰の刀を、鞘ごと無造作に引き抜く。黒塗りの 鞘の大小は、手の中で確かに重みを表していた。竹光ではない。それに、この男が偽物を持つはずがなかった。

「貴方には必要ないものでしょうに」

「そうでもないよ。オレ、今は侍だもの」

「侍?」

 総の訝る表情に、男はまたもや微笑を漏らす。

「道場に通ってみたのさ。面白いもんだねえ。木 の棒を振り回して、バタバタと騒いでいればいいんだから。あんな楽なものはないよ」

 口振りから、彼が本気で剣術を習おうとしてい ないことが分かる。むしろ、強くなろうとあくせくしている者たちを嘲笑していた。刀も、彼が持つとまるで玩具だ。お遊びで侍ごっこをしている。

―― いや。本当に遊びだろうか。

 不意に、駄木がさくらと同じく、刀を帯びてい ることが気に掛かった。

彼 は、総の近くにいるさくらに敵意を持っている。冷酷なまでのその感情は、目を見れば一目瞭然。口元は笑っていても、目は一分も笑っていない。

「なんのために――」

 駄木の唇がニィと歪んだ。一歩、また一歩と総 との間を詰める。

 下からすくい上げる眼差しで、総を見上げた。

「最愛のお人を失った貴方が――今度はあの女 を、代わりにする気?」

「違います。さくらさんは、ただの隣人だ」

「オレにはそう見えないんだよねえ。さくら、さ くら、さくら……胡凪(こなぎ)って、オレの名は呼んでくれないくせに、見も知らずの女とは親しげに呼び合ってさ。何が、総さん、だよ」

 甘えた口調に、息がまったりと絡み付く。

 総が、微かに頭を引いた。

 それを、駄木の右手が追う。左目に触れた。

「この左目はオレにくれたんだ。あの女にじゃな い。この目に光が戻るまで、あの約束を反故にすることは許さないんだから。絶対に、許さないんだから」

「だったら、早くわたしの命を奪えばいい。それ が貴方の望みならば、わたしはそれを受けるまでです」

 触れる指先の冷たさに、総はそっと瞼を閉じ る。

ジ リジリ焦げる日差しに頬が熱い。鼻につく甘い匂い。頭がクラクラする。

 男の手が震え出した。小さな嘲笑が、喉から漏 れ出している。

 総が目を開けると、駄木が軽く身を引いた。

「どうやら総弥殿は勘違いしているようだ。ま あ、それでもいいんだけど。今はさ、総弥殿の望みを叶えてあげることはできない。――ただ、退屈はさせないよ、雅平総弥殿」

「……駄木」

 昔の名を、昔と同じように呼ばれ、言いようも なく胸が締め付けられた。苦しげに、息を止める。

「これも――」

 言って、男は刀に目をやった。

「退屈凌ぎにはちょうどいいのさ」

 踵を返す。

 一斉に蝉が鳴き出した。

 降り注ぐその声を聞きながら、総はひとり、空 を見上げた。


→続 く