(二)


 道場にさくらを送り届けた総は、鈴木町の琴屋 へと足を向けた。張替えの弦と、新しい琴爪を求めるためである。

「子供用の琴爪かい」

 早合点した主が裏から持ってこようとするの を、慌てて引き止める。

「いえ。新しいお弟子さんは、わたしよりも年上 なのです」

「へえ。じゃあ、あれだ。金を持て余した奥方の ご道楽だ」

 ここの主は、優男で花街の女たちに人気がある 総を、節操無しの好色者とでも思っているらしい。ニヤニヤ顔で、女用の琴爪を用意し始めた。

 総が言いにくそうに、その手を止める。

「……すみません。男の方なのですが」

「は――?」

「だから、今度のお弟子さんは男の方なんです。 さるお武家の、ご隠居様なんですよ」

「ご隠居って、それじゃあ、あんたより、ずっと 年上じゃねえか」

「六十と少しばかり、だったかな。今度、こちら へお連れしましょうね」

「結構だっ。チッ、綺麗どころを連れて来るなら まだしも、ジジイの顔見て何が楽しいもんか。五十の手習いなんてもんじゃねえ、六十の男が琴を弾くなんてなあ、見てるだけで寒気がしていけねえや」

 大袈裟に、震える素振りを見せた。手早く琴爪 を紙に包み、総に手渡す。その雑な包み方に、微苦笑する。女の客ならば、もう少し丁寧に包んでやることを知っていたからだ。

 店を出、京橋を渡った。

 琴屋の主が言った通り、六十にもなった男が琴 を習いたいとは珍しいことである。しかも相手は侍だ。そんな者が、単なる道楽で年若い総に教えを乞うなど、考えもしないことだった。

 総の弟子は、ほとんどが芸妓である。酒宴の席 で笛や三味を上手とする者は多い。だが、他と差をつけたいと願うのが芸妓たち。特に、総の琴の音は人柄と同じく穏和で、人気が高い。総自身は気付いていな くとも、実際、彼目当ての者も幾人かいる。

 誰が相手であっても、邪な思惑には一切気にも 留めず、総はただひたすらに琴を奏でるだけだったが。

 京橋を渡り、武家の屋敷が並ぶ一角を目指す。 大きな屋敷の塀に沿って歩くと、その裏にこじんまりとした――と言えば聞こえはいいが、四方の屋敷と比べると雲泥の差がある門構えが見えた。脇の潜り戸を 叩き、中間を呼び出す。

「琴の演者で総と申します。ご隠居様にお取り次 ぎを」

「……あ……へい。ただいま」

 腰の曲がった中間は、一度、門内に引っ込み、 たっぷりと時をおいてから総を招き入れた。

 中間の後に続く。前庭もさほど大きくはない。 木々の世話は惜しまずにしているようで、あちらこちらで盆栽の鉢を認めた。

 青葉が美しい庭に面した奥座敷で、田部(たな べ)家の老隠居が総を出迎えてくれた。

「よく来てくれた。礼を申すぞ」

 痩せて、小柄な男だ。名を田部十郎太と名乗っ た。紺の着流しをキリリと身に付け、柔和な表情で座を勧めた。

 総は、部屋に入る前に膝を折り、両手を付く。

「お初にお目にかかります。総と申します。この 度はご隠居様にお声をかけていただき、誠に光栄の至りでございます」

「堅苦しい挨拶は抜きじゃ。それに、ワシはそな たを何度か見かけておる。深川の料理屋で」

「左様でございましたか。それは、大変失礼いた しました」

「なに。覚えておらぬのも無理はない。かくいう ワシも、実を申せばそなたの琴の音をじっくりと聞いておったわけではないのじゃ。……恥ずかしながら、相手をもてなすことに必死になっていての。礼を失し たのは、あの時のワシのほうじゃ。許してくれ」

 と、おもむろに頭を下げた。

 総は瞠目する。隠居の身ではあるものの、相手 は立派な武家の身分。楽奏の者に平身低頭するなど、聞いたことがない。

「お手をお上げください。――どうか」

 自らも姿勢を低くしながら、十郎太の面を上げ させた。

 ――腰が低いというより、自分を蔑んでいるよ うではないか?

 ふと、総はそんなことを感じてしまう。訝るわ ずかな表情を見てとり、十郎太が緩やかに目を細めた。

「このようなことを聞かされては、おぬしも困る だろうが、田部家はワシの代まで無役の家柄でな。少ない扶持米をやりくりし、どうにか生計を立ててきたのだが……一昨年、妻が他界し、ワシも気力の衰えを 感じてしまった。隠居するのはいいとして、せめて息子には何かを継がせてやりたいと考えたのじゃ。方々から金を集めるだけ集め、ツテを頼りに上官を酒席の 場に連れ出して、田部家に任を与えてもらおうとした。その時におぬしを呼んだのだ。上官のおひとりが、おぬしの楽を一度聞いてみたいと仰っていたのでな。 お陰で、無役だった田部家が評定所勤めの任を与えられたのよ」

「それはおめでとうございます。しかし、それは わたくしなどの楽がなかろうと、田部様の熱意が人の心に届いた証でございますよ」

「熱意な……そうだのお。ワシにできたことと言 えば、珍しき盆栽を手土産に持参したことであろうか」

「そういえば、あちらこちらに立派な盆栽がござ いましたね」

「そなた、盆栽に興味はあるか?」

「生憎と……琴以外はとんと覚えが悪くて」

 凡人にはどれも同じに見える盆栽が、玄人の目 に留まると何十両、何百両の値がつくこともある。朝顔、紫陽花、牡丹など、華やかさ珍しさを競う会まであるほどだ。たかが鉢植えであっても、価値があれば 袖の下として充分成り立つのである。

 どうやら、十郎太は盆栽作りの名人らしい。無 役の家計を支えていたのは、彼の内職が大きかったのではないだろうか。だが、動かない植物とはいえ、生き物を相手にしているわけだから幾多の失敗もある。 高値がつくのはほんの一握り。大半は、庭の片隅で野晒しにされるのがオチだった。

「では、家督をご子息にお譲りになり、肩の荷が 下りたことでしょう。しかし、なぜまた、琴を習い始めようと?」

道 楽なら、粋な師匠を目の前に小唄を習ったり、あるいは俳諧を始める者が多い中、道楽で琴をやろうなどとは……いやいや、風流なのか変人なのか。

「盆栽は、半ば仕事としてきたもの。他にやりた いこともなくてな。暇を持て余しておった。そんな時、ふと、おぬしのことを思い出したのじゃよ。酒宴の席で琴を奏する者なぞ、そうはいない。しかも、年若 い男が飄々と弾く姿を思い起こし、面白い男だとも思っていた」

 楽奏で金を得ているといっても、総はそれで認 められようとは考えてもいない。琴を弾く――それしか、己にできることが見つからなかった。

 気恥ずかしさを隠すために、十郎太に買ったば かりの琴爪を差し出す。

「これはわたくしからでございます。新しいお弟 子さんができると、ご挨拶代わりに差し上げているのです。どうぞ、受け取ってください」

「おお、ワシを弟子として認めてくれるか」

「認めるも何も。わたくしなどにできることがあ れば、精一杯、努めさせていただきます。……ところで、こちらに琴はあるのでしょうか」

 外で教授する場合、弟子が琴を持っているのが 条件だ。そうでなくては、稽古のたびにわざわざ琴を運ばなければならない。さすがの総もそこまで面倒を看るのは……手間がかかりすぎる。娘がいる家には、 たいてい琴がひとつはあるもので、芸妓がいる置屋は言うまでもない。

男 ばかりの田部家に琴があるのか不安になったのだが、しかし、それは杞憂だった。

「妻が嫁入り道具のひとつとして持ってきたもの がある。古いものだが、それでも構わぬかな」

「何よりでございます。楽を奏でるものは、真新 しいものよりも使いこまれたもののほうが、柔らかく心地よい音が出るのです」

 琴は隣の部屋に用意されていた。田部家には琴 に親しんだ者がいないらしい。長年張られていなかった弦は、可哀想なくらい傷みきっている。

 総は十郎太に許しを得て、弦に触れた。琴柱を 立てる。慎重に爪で弦を弾いた。

 最初は弱い、儚げな音。ゆるりと指先を滑ら す。様々な音が混じり合った。それは、耳を通り、体の奥底にすっと入り込んでくる。

「弦を新しいものに代えましょう。それだけで、 充分、弾くに堪えられるようになりますよ」

 振り返ると、なぜか十郎太はこちらを見つめて 顔を歪めている。今にも涙を流すのではないか――総は思わず、眉根を寄せる。

「どうかなさいましたか」

「いや……これは、すまん。ただ触っているだけ なのに、心に響く、よい音だと思うてなあ」

「ありがとうございます。しかし、これからそれ を奏でるのは、ご隠居様ですよ。一緒に頑張りましょう」

「ふむ」

 妙に生真面目に頷くものだから、総はにこやか に笑った。

 今日はほんの挨拶程度。弦の張り替えは次の稽 古日にすると決め、十郎太に別れを告げる。

 中間に案内され、廊下を進んでいると、

「――少し、よろしいか」

 廊下の端で、ひとりの青年に呼び止められた。

「拙者、田部泰祐(たいすけ)と申す。そなた が、父が切望していた琴の師範か」

「それはそれは、もったいないお言葉でございま す。わたくしは、ただの奏者でございますので、師範などという崇高な者ではありませんが」

 田部家の家督を譲り受けた青年は、二十をひと つか二つほど、越えた歳だと思われる。そう歳の変わらぬ者に「師範」と呼ばれるのは、自分の慢心のような気がした。実は「先生」と呼ばれるのもやっと慣れ たほどなのだ。さくらは「もっと自信を持ったらいいのに」と、呆れたように言う。しかし、彼女のように誰かと競って得た名声ではない。果たして自分は他に 何かを教えられるほど、努力をしてきたのかも自信がない。

そ も、さくらと比べてしまうこと事態が間違っているのだが、同じく人に教授する立場としては比べずにはいられなかった。

だ が、泰祐ははっきりと首を振る。

「先ほど、琴を爪弾いていたのは、そなたであろ う。あれを聞いて、父がそなたに教えを乞いたいと思う気持ちが分かったのだ」

 単なる試し弾きを盛大に褒められたものであ る。そういえば、あの時、十郎太の表情が変わっていた。

 そう言うと、泰祐は重々しく頷き返す。

「そうであろう……父にとって琴の音は、感慨深 いものであったろうからな」

「と、言いますと?」

「……そなた、五年前、この辺りを襲った大火を 知っておるか」

 五年前、確かにこの一帯を炎が襲ったことが あった。寺の小僧が蝋燭の火を消し忘れたのが原因だという。火は寺を焼き尽くし、下級武士が住まう長屋に移った。風に火の粉が舞って大名の下屋敷にまで、 火の手が移ったと聞いている。

「あの火事の際、父はひとり息子を亡くされたの だ」

「……では、もしや泰祐様は――」

「養子だ。田部家には他に嫡子がいなかった。拙 者は、旗本とは名ばかりの、貧乏長屋に住む家に生まれた。しかも五男でな。商家に婿入りするしかないと覚悟していたのだが、縁あってこの屋敷に迎えられる ことになったのじゃ。拙者、学問所でこちらのご子息と一緒だったのよ。歳はあちらがはるかに上だったが、よく話を聞いてもらっていたものだ。――あの方 は、学問や剣術にはまったくやる気を示さなかったが、こと、笛に関してだけは別であった。侍にしておくのがもったいないくらいの、よい吹き手であったの だ。母上の琴の音と相俟って、美しい音色が屋敷の外にまで聞こえていたほどだ。だが……五年前の火事で息子を喪って以来、母上は琴を弾かなくなってしまっ た。拙者が養子に来てからは、ますます、笛の音も聞きたがらなくなってしまっていてなあ。よほど、死に別れたのが辛かったのだと察せられる」

「炎は、すべてを一瞬で飲み込んでしまうもので す。……ご隠居様も、さぞお心を傷められたのでしょうね」

「傍から見ているぶんには、さほど変わらぬよう に見えていたが、琴を習い始めたいのだと聞いた時は、やはり父もお辛かったのだと思った」

「ですが、なぜ琴なのでしょうか。亡くなられた ご子息を思うのならば、笛を習うものと思うのですが」

「どれだけ熱心に笛を習ってみたところで、息子 を越えるどころか、並ぶこともできぬ。ならば、伴奏できる琴がいいと考えたのだ。琴は母上の形見でもあるしな」

 なるほど、と総は納得した。

琴 を習いたい切実な訳は、親子の絆だったのだ。それを知ってしまったからには、気を入れて稽古に赴かねばなるまい。

―― いや、他の弟子と差をつけるわけではないのだけれど。

例 えば、酒の席で好まれる弾き方と、純粋に楽を「聴かせる」ための弾き方がある。いつもは芸妓相手であるから、華やかで艶っぽい弾き方を教えるが、十郎太の 想いに応えるにはそうもいかない。ただの道楽かと思えば、思わぬ切ない訳があったりして、総は気を引き締めた。

 

 

 

 

 さくらが幡多屋に出向く段になると、その姿は 一変していた。袴は鮮やかな藤色の振袖に変わり、髪もきちんと結われ簪まで差している。元より華奢な体つきが着物に隠れると、剣術道場の師範代には到底見 えない。どこから見ても良家の娘である。

 慣れない振袖に辟易としながらも、わずかに嬉 しそうな侃斎の顔を見てしまえば、しおらしくするしかなかった。道場へ引き取られてからは胴衣と袴姿しか見せていないのだ。数少ない親孝行の機会だと思え ば、辛抱もできる。

 ひとつ問題になったのが、脇差だった。

 振袖帯に佩くこともできず、手に持っていても 目立つ代物だ。かといって、置いていったのでは、必要な時に困る。

 ――さて、どうしようかな。

 考えた挙句、風呂敷に包むことにした。案外、 掛け軸の類に似て、若い娘が手にしてもおかしくないものになった。

 こうして準備も万端に、幡多屋の暖簾を潜る。

 日本橋でも有数の太物問屋の店先では、正真正 銘、良家の息女や女中がとりどりの反物を広げている。奉公人の数も多い。帳場で算盤を弾いている初老の男が、幡多屋の大番頭だろう。

そ の横で奉公人揃いの半纏を着、帳面を見比べていた若い男が顔を上げた。

「旦那様、おかえりなさいまし」

 笑うと、几帳面そうに見えた表情に、一点柔ら かさが混じる。彼が佳助だ。美男ではないものの、生真面目で誠実な顔立ちをしている。人に警戒心を与えない雰囲気は、客相手の商人では必ず有利になるもの だった。

こ の男なら、立派な番頭になれる――そう見込んで、佳助を見習い番頭に据えた喜衛門の先見の明は大したものだ。

「こちらが、例の」

 ちら、とさくらを認め、佳助は心得顔で声を潜 めた。

「三峰さくらさんだ。しばらく出入りすることに なるからね」

「侃斎道場師範代、三峰さくらです。どうぞ、よ ろしく」

 いつもよりも慎重に頭を下げる。頭が重くてつ んのめりそうだった。

 見目だけは楚々とした娘から出た男勝りな言い 方に、佳助が瞠目した。喜衛門は豪快に笑っている。

 おさ枝は奥の座敷にいるという。主の案内で足 を進めた。

奥 は主家族と奉公人の住まいになっている。廊下に面して庭があり、数々の庭木が青い葉を茂らせていた。陽射しを遮るため、軒先から吊るした簾が、たまの風に 揺れる。

 おさ枝の部屋の前には風鈴が下がっていた。白 い短冊が揺れるたび、音色が涼を運ぶ。

「いらっしゃいませ、さくらさん。お久しぶりで すね」

青 地の振袖と銀細工の簪で着飾ったおさ枝が、華やかに微笑んだ。

「本当に、久しぶりだね」 

 笑みを返しながら、さくらは一瞬目を瞠る。あ まりにも美しく成長していたからだ。辛うじて昔の面影はあるものの、共に遊んでいた少女とは別人のようだった。

「さすが、日本橋小町。見違えちゃったよ。すっ かり大人っぽくなったね」

「あら、さくらさんだって。噂は聞いていたけれ ど、師範代になったそうで。遅くなってしまったけど、おめでとうございます」

「だけど、私はそんなに変わっちゃいないよ。昔 も今も、擦り傷だらけで」

「いいえ。やっぱり――綺麗になりました」

 頬が熱い。女らしいとか清楚という言葉とは縁 がなかった。周りにいたのはガサツな男ばかりで、その中で育ったさくらも、自然と男勝りな性格になってしまった。

一 度、竹刀を握れば、大の男が蒼ざめるほどの気迫で迫る。こちらを女と見て不埒にも手を出した者を伸したことも、一度や二度ではない。

「綺麗だなんて、また、そんな冗談を」

「冗談ではありません。ねえ、お父様」

 隣で喜衛門が頷いている。

 ――この親子は、私を気恥ずかしさで殺す気 かっ。

咳 払いをして必死に話を変えた。

「で、私がここに来た訳は知っているんだよね」

 瞬間、おさ枝の表情から色が消えた。

「……佳助との祝言を断る訳は、全部わたしにあ るんです」

「初めは、祝言の話にとても喜んでいたそうじゃ ないか。なぜ、今になってそれを渋るの。佳助さんやお父さんに言い難いことなら、私に話してほしい。なんとか力になりたいんだよ」

「いいえ、佳助は何も……本当に、わたしの我が 儘なの」

 何がなんでもと言い募る気配に、父親が溜め息 をついた。何度聞いても、このような問答になるのだろう。目配りで頼みますよと念を押し、喜衛門は部屋を出て行った。

 是非にと頼まれてここまで来てみたものの、や はり、この件は自分の範疇を超えている。色恋沙汰はとんと縁がなかったさくらには、どう聞き出したらよいものか、糸口さえ見つけられずにいた。

「さくらさん。少し、外へ出ませんか」

 気まずい雰囲気を気遣って、おさ枝からそう切 り出した。

日 差しも盛りをわずかに過ぎ、だいぶ落ち着いている。おさ枝の支度を待って、二人並んで表へ出た。さくらの腕の中には、しっかり、掛け軸然とした脇差が納 まっている。

 日本橋小町のおさ枝が通るたび、道行く者が振 り返った。男ばかりではない。女も、ほうと溜め息を漏らして、羨ましそうに見送る。 

そ んな友の隣を、さくらは形ばかりは静々と歩いていた。こんな姿を門弟に見られたらなんと言われるか――後で噂されるであろう戯言を思い、気持ちはひどく沈 む。

「――ねえ、さくらさん」

 前を見据えて、おさ枝が口を開いた。

「人を、好きになったことがおあり?」

 歩む早さはそのまま。若い者同士の浮ついた話 し方ではなく、ただ純粋に問うている。

「おさ枝さんは、あるの?」

「わたしは……佳助が好きです。小さい頃から、 ずっと一緒にいたのですもの。佳助と一緒になりたいと、思ってきました」

「分からないな。だったら、佳助さんと夫婦にな ればいいじゃないか。親が認めているんだ。こんないい話はないよ」

「そうなの……そうなのに」

 口を噤む。

 好き同士でありながら、なぜ夫婦にならないの か。どうにもならない訳がおさ枝自身にあるのだとしたら、よほどのことだ。

「誰か他に、好きな人ができたっていうのかい」

 穏やかに聞いても、やはりおさ枝は黙ってい た。

 ついて行くままに一石橋を渡る。神田に入り、 本町一丁目の大路を行った。

「おさ枝さん、どこへ行くの?」

「金吹町の筆屋さんへ。そこのお直ちゃんとは親 しくしているの。新しい筆があがったから、取りに行こうと思っていたのだけど、お父様ったら外へ出ることも許してくれないんですもの。さくらさんが来てく ださって、よかったわ」

「そりゃあ、お役に立てたようで何より」

 彼女が素直に話をしたら、こんな不自由を感じ ることもないのだが。

祝 言の話以外は、いたって普通だった。叶わぬ恋に苦悩しているふうもなく、さくらの目には明るい娘に映る。喜衛門が懸念している武士との駆け落ちなど、あり そうにない。

金 吹町の手前まで来ると、なぜか周囲を行く者たちが、こぞって同じ方角へと駆けていた。

「どうしたんでしょう」

 不穏にざわめく群集が大きくなっていく。

筆 屋田崎屋に着き、騒動の中心がその店だと分かった。入り口を人垣が取り囲んでいる。幾つも重なった背に遮られて、中は窺い見ることができない。

「何かあったんですか」

 魚屋の半被を着た男に声を掛けた。男は半身に 振り返ると、口早に言う。

「田崎屋の娘さんが、行き方知れずになっちまっ たんだ」

「そんな――」

 おさ枝が唇を押さえた。見る見る目を丸くし、 信じられないと首を振る。

 と、人垣が突然割れた。

 店の中から数人の男が出てくる。黒い長羽織を 帯に挟んだ格好は、八丁堀の役人だった。彼らの後ろから出てきた二人は、田崎屋の主夫婦だろう。蒼白な顔色で、おかみのほうは今にも倒れそうだ。

「おばさんっ」

 おさ枝が駆け寄る。震える手を、その腕に置い た。

「これは……幡多屋さんの」

「おばさん、お直ちゃんがいなくなったって、本 当?」

「……ええ、今朝から姿が見えなくて。どこへ 行ってしまったのか……」

 悲痛な声で、おさ枝に縋り泣く。周りを囲んだ 野次馬が、哀れとつられて啜り泣きを始めた。眦の涙を拭い、おさ枝も肩を震わせている。

 その横で様子を見ていたさくらは、鋭い視線に 気がついた。反射的に振り返る。こちらを注視していた目とぶつかり、しまった、と顔を歪めた。

「お前、さくらか?」

 瞠目した顔を向けていたのは、同心のひとり。 一番見られたくはない人物に、よりによって鉢合わせるとは、なんてついていない日なのか。

香 上隲十郎(かがみ しちじゅうろう)は南町奉行所定廻り同心である。背が高く均衡のとれた体躯で、これで少しは愛想がよければ、女にもてること請け合い だ。

 香上が、懐手にこちらへ近づく。口元にはいつ もの厭味な苦笑を浮かべていた。

「こりゃあ、見違えた。馬子にも衣装ってやつか い」

 ――狸め。

 心の中で毒づくものの、

「お疲れ様です。香上の旦那」

 平然と言ってやった。

「天下の師範代がその姿はどうした。痺れを切ら した師範に、縁談でも持ち込まれたか」

「違います。これには色々事情があるんです」

「事情がなけりゃあ振袖も着ねえのかい。師範の 心を思うと、溜め息をつきたくなるねえ」

「……五月蠅いなあ」

 口の中で呟いた。

 さらりと聞き流して、香上が一転、目を細め る。

「田崎屋と知り合いか」

「いいえ、私は違います。こちらのおさ枝さん が、田崎屋の娘さんと親しいそうで」

「おさ枝? 日本橋小町の、幡多屋のおさ枝か」

「……はい」

 わずかに怯え、おさ枝が頷いた。

泣 く子も黙る八丁堀の同心は、敬われもし、恐れられもする。香上の強い視線を遮って、さくらが一歩前に出た。

「今日は筆を取りに来たんです。それより、田崎 屋の娘が行き方知れずというのは?」

「ん? ……ああ」

 ガシガシ、首の後ろを掻く。人目を避けて田崎 屋の主夫婦とおさ枝、さくらを店の中へ追いやった。

 店自体はこじんまりとしている。ずらり並んだ 棚の上には、筆が綺麗に揃っていた。店先に小さな机があり、筆を造る様々な道具が置かれている。家族だけで営む、温もりを感じさせる店だった。

 香上が後ろ手に障子を閉めた。

「これを」

 袂から、折り畳んだ紙を取り出す。読めと目で 促され、紙を広げた。女の手で文字が書かれていた。

「『幸せになります。さがさないでください。 直』――旦那、これは?」

「さっき、ここへ持ち込まれたものだ。いろんな ガキの手を回ってきたらしく、元を辿ることはできなかったが、お直の手に間違いないそうだ」

「じゃあ、お直さんは家出をしたということです か」

「幸せになると書かれているからには、男が一緒 だと思ったほうがいい。駆け落ちだ」

 二親が声を上げて泣く。おさ枝は、じっと手を 握っていた。

「親が言うには、お直に好いた野郎がいたことな ど知りもしなかったそうだ。おさ枝。お直と親しい仲なら、そういう話を聞いたことはないかい」

「いえ……。役者絵で話をすることはあっても、 お直ちゃんから男の人の話なんて聞いたこともありません」

「秘めた恋ってやつだったのかねえ」

「でも、駆け落ちなら八丁堀が出向くことではな いと思うのですが」

「初めは、かどわかしじゃないかって話だったん だ。それで俺らが出張ってきたんだが、ここで話を聞いてる時に付文が届けられてな」

「それで、皆さん戻って行ったというわけです か」

「そういうことだ」

 小さく息をつき、田崎屋の夫婦に向き直る。

「お直は自らの考えで家を出て行った……こう 言っちゃなんだが、早く忘れちまうに限る。探して見つかるなんて保証はないんだから」

「……親としましては、そんなこと容易にできる ものではありません。せめて、どこかで幸せになってくれさえすればと――」

「は……ずいぶんと、寛大なことだな」

 言い捨て、香上は店を出て行った。

 香上の言い方には、明らかに棘があった。普段 の厭味とも違う。気が動転し気がついていない田崎屋夫婦の横で、さくらは首を捻っていた。

 直の母親に寄り添うおさ枝が、ボソリ、呟く。

「わたし、お直ちゃんがそこまで思い詰めている なんて、本当に知らなかった……。お直ちゃんて大人しくて親想いで、いい子なんです。そんなお直ちゃんが、駆け落ちするなんて考えられない」

「でも、あの付文は確かにお直さんが書いたもの なんでしょう?」

 父親が頭を垂れる。起こったことがまだ信じ難 いようで、すっかり気落ちしていた。

「直は……直は、あたしらを置いてどこかへ行く ような子じゃあないんですよ。こんな付文ひとつで出て行くなんて考えられんのです。八丁堀の旦那方は、こぞって諦めろと言う。ですが、諦められるものです か。駆け落ちなら、きっとあの子は騙されているんですよっ。どこの馬の骨か知らねえが、直は騙されてんだっ」

 拳を床に叩きつける。瞼から溢れた涙が、顎を 伝い落ちた。

「お直ちゃんが……駆け落ちなんて」

 おさ枝は蒼い顔で、ただ一点を見つめる。呟い たことに気が付きもしていない。

そ うして、ゆるゆると唇を引き結んだのを、さくらは見逃さなかった。


→次へ