翌日の朝のことだ。

 昨日の雨はいくつかの水溜りを残しただけで、 空にはまた陽が燦燦と輝いている。夏の陽登りは早い。暑くなる前に瓶に水を溜めようと、井戸端で釣瓶を繰っていた平八長屋のおせいは、さくらの顔を認めて 目を丸くした。

「――どうしたんだいっ、その顔は」

 蒼白な色をして、さくらが力なく手を上げる。

「……おはよう、おせいさん」

「おはようじゃないよっ。真っ青じゃないか。具 合が悪いのかい」

 前掛けで手を拭いて、いそいそと近寄り、さく らの額に触れた。

 ほんのり冷たい感触の快さに、すうっと瞼を閉 じる。

 反対に、おせいの目は険しく吊り上った。

「こりゃあ、ひどい。熱がある!」

「頭がぼうっとするだけだよ。大丈夫」

「何が大丈夫なもんか、そんな顔してっ。大人し く寝てなくちゃ」

「でも道場へ――」

「道場! そんな体で行けるもんですかっ」

世 話好きなおせいは、この長屋に来た時からさくらのことを気に掛けてくれていた。まだほんの子供であるさくらがなんとか一人で暮らしていけるのも、おせいが 世話をやいてくれたからだ。それは、心底ありがたいと思う。

 だが――声が大きいのが、玉に瑕といったとこ ろ。

 おせいの声で、長屋の方々から顔が出る。その 中には総の姿もあった。彼の足元で、猫のひづきもちょこんと首を傾げている。

 話が面倒になりそうだ。長屋の皆で反対されれ ば、さくらがどんなに嫌がろうと布団に縛り付けられてしまうに違いない。

察 して、さくらは眉根を寄せた。

「今日は稽古じゃないよ。師範が大事な話があ るって言うんだもの。何がなんでも行かなくちゃ」

「どんなお話かは知りませんが、体のほうがよっ ぽど大事でしょ」

「私には師範のほうが大事なの」

「それは通りませんよ、さくらさん」

 少々荒れ模様の女二人の言い合いに、総が口を 挟んだ。おせいもさくらも、同時に顔を向ける。

 朝も早いのに、総には寝乱れた様子はない。髭 もきちんと剃っているし、髪も梳いている。粋な縞の着流しで、すぐにでも出歩ける格好をしていた。

 彼のくたびれた格好を、長屋の者は見たことが ない。朝早かろうが夜遅かろうが、総は隙がないくらいきちんとしている。色街や宴席を廻って朝方帰って来ても、眠そうな顔ひとつしない。そうしてどんなに 遅く帰ろうが、昼には琴を弾いている。

 彼の体はどうなっているのだろう。それは、お せいに関わらず、皆が疑問に思うことでもあった。

 その総が、ひづきを従えて――というよりひづ きに従えられて、と言ったほうが正しい。ひづきは主人の前をトコトコと歩き、さくらの足元に絡み付いた。それを追うように、総が歩を進める。

「通らないって、どういうこと?」

 熱い頭でさくらが問い返す。彼はうっすらと微 笑して、言った。

「侃斎様は人を労わり、大切にするお方です。そ のお方の話を聞くのに無理をおして行っては、侃斎様のご意思に添わぬことになりはしませんか」

「理屈は分かるよ。でも、自分の油断が招いたこ とだから、なおさら、師範には心配をかけたくないんだ」

「困りましたねえ」

―― 困ってるのは、こっちだよ……。

 さくらは内心でぼやいていた。

 誰に強制されてもいない。どんなに体が辛くて も、自分が行きたいのだから行かせてくれと切々と訴えた。

 困り果てた顔をして、総とおせいが顔を見合わ せる。周りの皆も、固唾を呑んで答えを待つ。

「……分かりましたよ」

 ようやく、おせいが折れた。渋々といった顔を している。

「ただし、話を聞きに行くだけですよ。稽古なん てしたら体が壊れちまう」

「ありがとう、おせいさん」

 さくらは青白い顔に、それでも精一杯の笑みを 浮かべた。

 おせいがまだ不安そうな顔を、総に向ける。

「先生、さくらさんを道場まで送り届けちゃくれ ませんかねえ。こんなに体が弱っていたんじゃあ、どこかで野垂れ死にしちまうんじゃないかと心配で」

―― 野垂れ死に!

 そんなに具合が悪く見えるのだろうか。さくら は呑気にも、鏡を見てみたいと思った。

 総が快く頷く。ちょうど朝から周る所があるか らと、微笑んだ。さくらの意思を聞くものはいなかったが、まあ、それくらいはこちらも折れていいかと思う。

 顔を洗い身支度を整える間に、おせいが朝飯を 持ってきた。湯漬けにした飯と、梅干。急なことで粥は炊けないから、これで我慢してくれと付け足した。

「ごめんね。無茶をしてるってのは、分かってい るんだけどさ……」

委 細承知しているとばかりに、おせいは顔を歪める。

「侃斎先生は、さくらさんにとっては実の親以上 の方ですからねえ。仕方がありませんよ」

 ぽつり、零した。

さ くらは瞼を閉じてみる。そうしたところで、親の顔など思い出せるはずもなかった。彼女が産まれてすぐに、両親共に流行病で亡くしてしまった。三峰の家督を 継いだのは歳の離れた兄で、その時はまだ元服した直後だったのだろうと思う。それからさくらは乳母に育てられ、ただただ大事に三峰家の娘として五つまでを 過ごした。

と ころが――。

磐 石に続くかと思われたその家から、突如として兄は姿を消したのである。

兄 がどうして家を出たのか、当時五つのさくらに理由は分からない。三峰家の跡目をどうするか上役同士で話し合われたようだが、なにぶん、血筋はさくら以外に ない。婿をとれる歳になるまで、誰かが家督を預かるという話も出たが、当主の出奔の理由が定かでない家を、誰が好き好んで預かろうというのか。

結 局、三峰家は取り潰され、残ったものは三峰さくらの名と、兄が置いていった守り刀――「二藍」。

そ して、彼女の心内深くに刻まれた想いだけ。

―― 捨てられた。

考 えると、胸が苦しかった。

独 りになったさくらを引き取ってくれたのが、風間侃斎である。さくらの父親と、兄弟弟子の仲だった。それから十年の時を道場で共に過ごし、生きる術も剣術も 教えてもらった。そこを出て長屋暮らしを始めたのは、早く一人前になりたかったからだ。

そ れなのに、今だこうして誰かの手を煩わせている。

「いただきます」

 手を合わせて箸を取った。サラサラと流し込ん だ湯漬けの味は、母の味に似ているのかもしれない。

 腹に軽く入る程度の量を食べ終え、脇差一本を 腰に佩く。まっさらの足袋を履いた。

 長屋の木戸まで出てきたおせいは、初めて遠出 する子供を送り出すような面持ちだ。しっかり頼みますよ、などと総に念を押している。

「行こう、総さん」

 袖を引き、二人はゆるゆると歩き出した。

 陽はすでに真昼並みの輝きを放っている。さく らは頭に笠を被っているが、袖から出た腕が痛いくらいだ。恨みがましい顔を上げると、いつもとなんら変わらない、抜けるような青色があるばかりだった。

「昨日は雨にやられて、今日は日差しにうんざり だ」

 体の辛さを紛らわせようと八つ当たりをしてみ るも、相手はお天道様だけに相手にもならない。

代 わりに、総が苦笑している。

「昨夜は涼しかったですから。油断して、薄着で 寝ていたのでしょう」

「いや……本を読んでいたんだ」

「ああ、そう仰っていましたね」

 薄着の話からなぜ本に話が飛ぶのかと訝しむ。 その視線を笠で遮って、さくらはバツが悪そうに口を開いた。

「実はあの後、川風が涼しくなったから、障子を 開けて本を読んでいたんだ。暗くなるまでのつもりで読み始めたんだけど、その内、こう……瞼が重くなってきて」

 気が付くと、夜が明けていた。

 笠越しに総を見上げる。彼はこれ見よがしに、 深々と溜め息をついた。

「濡れた髪のまま、障子を開けて布団も被らず寝 ていたなんて、厄を自ら呼び寄せたようなもの。おせいさんに布団に縛り付けられても、文句は言えませんよ」

「分かってる……」

だ から言わなかったのだ、とはさすがに言えず、ひたすら重い足を運ぶ。

 頭上から蝉の声が降ってくる。日差しと同じく らい容赦がない。それも笠で遮ることができないから性質が悪い。耳に障るその声を聞いているだけで、なんだかやる気が失せてしまう。

 ゆっくりと歩んでいた二人の横を、朝一の荷を 積んだ大八車が通った。車輪が巻き上げた土埃が、乾いた風に混じる。大きな商家や店の前には打ち水をしてあるのだが、それも夏の陽光の前には焼け石に水。 しっとり濡れた地面は、スルスルとその影を小さくしていった。

 永代橋に差し掛かる。雨で水かさが増した水面 を、風が渡っていた。ふうと、誰かに息を吹きかけられたような生ぬるい風だ。

い つもは酒に火照った体を川風に晒しているのだが、今日は頭が熱で火照っていた。足を止め欄干に手をつく。首筋の汗が風に触れてひぃやりとする。

隣 で同じように風を受けていた総が、川面に映った陽光の眩しさに右目を細めた。思い出したように、視線をさくらの手元に移す。

「その傘、一体どうするおつもりですか」

 さくらは頭に笠を乗せ、手に傘を持つという妙 な格好をしていたのだ。先ほど前を通った茶店の娘も、目を丸くしていた。

「昨日借りた傘、返そうと思って」

「では、その方にはきちんとお礼を言わなければ なりませんね。もしも、あの雨の中を傘も差さずに帰って来ていたら、今頃、熱だけでは済まなかったでしょうし」

「でも、夏風邪は馬鹿がひくものだから、傘が あってもなくても一緒だったんじゃないかな」

「何を仰るやら。そのお歳で道場の師範代にな ど、頭が悪くてなれるものではありませんよ」

「剣術は、腕を磨けばいくらでも上にいける。た だ、ガムシャラに師範の稽古についていっただけだよ」

「上に立つ者は実力も大切でしょうが、他から信 頼される者でなくてはなりません。さくらさんが皆から頼りにされている証拠ですね」

大っ ぴらに誉めてもらったことなど数えるほどしかないさくらは、背中がむず痒くなるような、くすぐったいような気持ちに駆られる。掌で口元を覆った。笠で顔が 見えなくてよかったと思う。こんなにやけた顔つき、見られでもしたら総に笑われる。

 彼は前を向いたまま、さくらのにやけ顔には気 が付かないふうに、

「それに、馬鹿は風邪をひかないって言います し」

 惚けた調子で言った。

 思わぬオチに何やら可笑しくなって、堪らず笑 い声を立てる。だいぶ気分がよくなっていた。

「さて、ぼちぼち行かないと師範を待たせてしま う」

 欄干から手を離し、顔を上げる。その頬に赤み が差しているのを認めて、総はゆるゆると微笑んだ。

 額と首に流れる汗を拭いながら、歩を進める と、

「さあさ、またまた大変だ――」

 大路と細道が交わる辻に、人だかりができてい た。その中心で、桶の上に立った讀賣が声高に叫ぶ。

「闇夜に浮かぶ鬼火、幽霊、化け物の大行列、出 たよ出たよ、ついに出た。幽霊道中のお出ましだ。昨日はなんと、同じ刻限に三か所で目撃されたってんだから驚きだ。牛込の武家屋敷通りに神田八ツ小路、そ してなんと麹町の大名お歴々の上屋敷の辺りでも鬼火が出たってんだから大変だ。うっかり鉢合わせたさるお大名の奥方様が、霊気にあたってぶっ倒れたって話 だよ。幽霊道中が通った後には、夏だってのに青葉一枚ない木々があるばかり。幽霊道中はどこから湧いて、どこへ消えるのか。詳しくはここに書いてある よっ。今ならなんと、霊験あらたかな少福寺の御札付きだ。さあさ、買った買った――」

 我も我もと群がる背中を横目に、さくらたちは その場を過ぎた。

「幽霊道中ねえ」

「さくらさんは、興味ありませんか?」

 日差しが暑くなり始めた頃から、鬼火を見たと 騒ぐ者が多くなった。初めは遠くの提灯でも見間違えたのだろうと笑い話になっていたが、日を追うごとに、やれ幽霊を見ただの鬼を見ただの。終いにはなんで もござれの幽霊道中が、夜な夜な、闇の中を闊歩していると騒がれている。幽霊道中に出くわしたら最後。悪い霊気に障り、生気を吸い取られ、やがては死んで しまうとか。幽霊道中はいつ、どこに現れるか分からないものだから、人々は日が暮れると早々に家路に着くようになっていた。

「亭主が無駄金使わずに帰りが早くなって、長屋 のおかみさんたちが喜んでいるだろうね。幽霊道中サマサマだよ」

「家に帰って恋女房の顔を見ながら晩酌なんてい うのも、いいですね」

「総さんがそれを言ってどうするの。外で飲む人 が減ったら、総さんの仕事も減るってことだよ」

「おや、まったくごもっとも」

「他人事だなあ」

 金儲けを考えない物言いに、思わず呆れてしま う。

「ま、この手の話は夏の流行り病みたいなもんで しょ。そのうち廃れるよ」

 さくらもまた、呑気に笑った。

や がて二人は音羽町に辿りつく。道場の門が見えた。塀の奥からは威勢のいい掛け声や、竹刀を弾く音が聞こえる。すでに朝稽古が始まっているのだ。

「ここで大丈夫だから」

 門前で告げる。総が顔を覗き込んだ。

「倒れなくて、まずは一安心です」

「たかが風邪で、大袈裟な」

「それで命を落とすこともあるのですよ。侮って はいけません」

「はいはい。……おせいさんの口煩いのに、似て きたな」

「なんですか?」

「なんでもない。どうもありがとう。ほら、早く 行きなよ」

「行きますけど、帰りはちゃんと道場の方に送っ てもらってくださいよ」

 念を押して、総は自分の用を果たしに踵を返 す。

姿 が見えなくなるまで、さくらはじっとその場に立って見送った。

「――あの者が、総か」

 背後から、低い声が問う。

 笠を取る。振り向き、さくらはにこりと笑っ た。

「秋吉さん。おはようございます。朝稽古、ご苦 労様です」

 汗を手拭いで拭きつつ、総が消えたほうを見 やっているのは、さくらの兄弟子にあたる秋吉克太だ。さる藩の剣術指南役を務めながら、侃斎道場の師範代でもある。つまり、さくらと同格のわけだが、体躯 の差は歴然。見上げるほどの大柄で、歳はさくらと十以上も離れていた。さくらにとっては、兄のような存在だ。

 その秋吉が、どこか探る目付きをしている。

「秋吉さんは、総さんに会ったことがありません でしたか」

「ああ。師範に話だけは聞いている。隣に住んで いるのだろう」

「琴を教えているんです。酒の席でも弾いてくれ ます。御用の時は呼んであげてください」

「なぜ、お前があいつを売り込む。そもそも、あ れはどういう男なんだ。色街にも出入りしているそうではないか。そんな男と歩いていては、お前にもよからぬ噂が立つ。それを心配しておるのだ」

「いつもは、男勝りだ、乱暴者だと言われている のです。よからぬ噂でも、女として認められているのだとしたら、嬉しいことじゃありませんか」

「さくらっ」

 軽口に、秋吉が叱咤する。顔を真っ赤にする秋 吉が可笑しく、さくらは吹き出していた。

「……笑っている場合ではないわ。このオテンバ め」

「すみません。でも、心配は無用です。彼ほど穏 やかな人には、会ったことがありませんもの。それに、侃斎師範が不穏な者がいる長屋に、私を置いておくと思いますか。隣に総さんが暮らしていて、それでも 長屋暮らしを許してくれているのですから、彼の人となりは分かるというもの。私の頼みだからと言って、甘い顔をする師範でもありませんしね」

「それも、そうだが……」

 不承不承頷いた秋吉は、袖で額を拭うさくらを 見、眉を寄せた。

「さくら。体の調子が悪いのか」

「……ちょっと」

 熱があると言えば、帰って休めと言われかねな い。そうでなくとも、秋吉はことあるごとに子供扱いする。小さい頃は本当の兄のようで嬉しかったりもしたが、師範代同士でそんな扱いはしないでほしい。

 言葉尻を濁していると、

「どれ」

 大きな掌が額を覆った。顔中が手の中に収まっ てしまいそうである。苦虫を噛み殺した顔で、さくらを見下ろした。

「熱があるな」

「……はい」

「薬は」

 首を振る。

「まったく。これでは稽古もできぬぞ」

 呆れた調子で、腰の印籠を開けた。中の黒い丸 薬を一粒、懐紙に包んで手渡す。

「きちんと白湯で飲むんだぞ。面倒臭いからと、 井戸の水で飲むんじゃあないぞ」

 先を読まれていた。それでも神妙に頷く。

ひ とり、慣れた足取りで道場の中を進みながら、板場で白湯を拝借した。苦い薬を押し流し、ひとつ咳払いする。

裾 の埃を払い、襟を直して、侃斎の自室へと向かった。

 多くの松と盆栽を配した庭に、小さな池があ る。時折、鯉が跳ねて水飛沫が上がり、乾いた地面に黒い斑点が飛んだ。

 ゆるゆる廊下を行く。しだいに、声が聞こえて きた。

侃 斎と、もうひとり、男の声だ。

―― 先客がいたのかな?

首 を傾げて、廊下の端で足を止めた。

「師範。さくらです」

 静かに、声をかける。

「ああ。入りなさい」

 広い二間続きの座敷に侃斎が座している。体つ きは決して大きくない。髷にも髭にも白いものが混じっている。だが、体を覆う気は誰よりも大きく、剣を持つと容易に近付けない気迫があった。

 彼の目の前に、やはり先客があった。侃斎と同 じくらいの歳だろう。五十を少し回ったところと見える。武士ではなく、商人らしい。細かい格子の着物に揃いの羽織を着、柔和に微笑む。

「お客様でしたか。私は別の部屋で待っておりま すので」

「いや、よい。こちらへ来なさい」

 一体、どんな話なのやら。静々と襖の近くに腰 を下ろした。

 それを、あからさまに目で追って、男が満足気 に頷いた。さくらと目が合うと、愛想よく頭を下げる。

「これは、すみません。不躾に見たことは謝りま すが――先生。このお方はいい。所作も行き届いていて、何よりも――女ですしな」

「はあ?」

 意味を掴み損ね、素っ頓狂な声が出る。侃斎に 無言で窘められ、慌てて口を閉じた。

改 めて、と男がさくらに向き直る。

日 本橋太物問屋幡多屋の主、喜衛門と名乗った。

そ の屋号に聞き覚えがある。幼い頃、方々の子供らと遊んだものだが、その中に幡多屋の娘がいた。とても愛らしい顔立ちの少女だったと記憶している。さくらが あや取りよりも竹刀を持つのに躍起になっている間に、疎遠になってしまったが。

「確か、娘さんの名はおさ枝(おさえ)さんとい いませんでしたか。私と同じ歳だったと思うのですが」

「そうです、そうです。まあ、小さい時分にはよ く遊んでいただいたと、おさ枝もさくらさんを覚えておりました」

「おさ枝は日本橋小町と評判だそうな。器量よし となれば、目に入れても痛くはないでしょうな」

「先生、可愛いだけならこんなに困りはしないの です。誰に似たのやら強情で、それ故、こちらにお力を拝借したく参ったのでございますよ」

「そうであった。さくらに話があると申したの は、この幡多屋のおさ枝についての一件なのだ」

 委細を、喜衛門が語る。

「ご承知のように、おさ枝はひとり娘でございま す。ゆくゆくは婿をとらせるつもりで、大事に大事に育ててきました。そろそろ年頃ということもあり、見習い番頭の佳助と夫婦とする運びとなったのでござい ます」

「それは、誠におめでとうございます」

 同い歳の者が、祝言を挙げるというのも感慨深 い。幼馴染でもあるから、なおさらだ。

 しかし、祝いの言に、喜衛門はなぜか暗鬱とし た表情を作る。

「もしかして、おさ枝さんが佳助さんを好いてい ないのですか」

 親に決められた縁談が気に入らずに、渋ってで もいるのだろうか。

そ んな話は、いくらでも聞く。武家同士の縁談では、祝言当日まで顔を見たことがないことはざらにあるらしい。

小 町娘のおさ枝のこと。佳助を嫌っていて、駄々をこねているのかもしれない。

 そうであるなら、相手を代えれば済む話に思え る。他所の商家の三男でも、商才に長けた人物はいるはずだ。婿とはいえ、大店の主の座と、日本橋小町と謳われた娘を手に入れられるなら、婿入り志願も引く 手数多といったところだ。

 実際、年頃のおさ枝のもとには、多くの縁談話 があったという。そのどれをも蹴って、喜衛門は佳助に決めたのだった。

「佳助は、ほんの小さい頃からうちで奉公してい た男で、若いながらお客様への配慮も抜かりなく、算盤のほうも上手でして。ですが、決して浮ついた男ではございません。おさ枝のことも、実の妹のように可 愛がっておりました。おさ枝も、よう懐いておりましたが……」

「どうやら相手を嫌っている、ということではな いようですね。では、なぜそのような浮かない顔をしていらっしゃるんですか」

「それが……このところ、おさ枝の様子がおかし いのですよ」

 心持ち、声音を落とした。

「佳助との祝言を、最初はとても喜んでいたので す。ところが先頃、やはり佳助と夫婦になるのは嫌だと言い出したのでございます。佳助となんぞあって、喧嘩でもしたのか。あるいは、祝言前に気が塞いでい るのかと問うてみたのですが、どうやら違うようで。訳を訊いても、佳助には何も悪いところはない、悪いのはわたしのほうだと言うばかりなんです。佳助に非 がないと言われても、祝言を取りやめるにはそれなりの訳がいりましょう。それを問い質しても何も話さず……ついに女房が言い出しまして。あの子は、他に好 きな男でもできたんじゃあないのかって」

「何か、思い当たる節がおありで?」

「あたしたちには、見当もつきません。それとな く女中に聞いてみると、その者が見ておりました。習い事に行く道すがら、お武家風の男が、娘をじっと見ていたことがあると言うのです。その男が、おさ枝の 想い人なのではと」

「おさ枝さんは、なんと言っているんですか」

「なんとも。云ともすんとも言わぬもので、それ で困っております」

「そのお武家とやらがどこの誰か、分かっている んですか」

 喜衛門は、力なく首を振った。

「何しろ、女中も見かけたのが一度きり。それ も、物陰だったというのですから、顔も判然としないのです。ただ、歳の頃は三十の手前。すらりとした男であったと」

「それだけでは、なんとも言えませんね。お屋敷 勤めをしているのか、次男三男の部屋住みかすら分からないとなると。それに、おさ枝さんが黙っているんじゃあ、そのお人が相手だとは、決め付けられないの ではないですか。祝言を嫌がる理由が、もっと他にあるのかもしれないし」

「それで、こちらへご相談に伺ったのです」

 ポンと、ひとつ膝を叩く。

 おさ枝の縁談話で、どうしてさくらが呼ばれた のか。肝心の本題部分が謎のままだった。

ち らりと師を見る。我ひとり、委細承知とばかり瞼を閉じて、泰然と構えている。

 ――ずるいよなあ、自分だけすべて知っている なんて。

さ くらは、身に降りかかるであろう何事かに備えた。

「実は、さくらさんにお願いがあるんです」

 ――そら、きた。

 拳に、ぐっと力を込める。

「おさ枝がどうして祝言を嫌がるのか、おさ枝を 見ていた男は何者なのか、突き止めてはいただけませんか」

「それは――私なんかよりも、おさ枝さんの気心 の知れた友に聞くのが最良ではありませんか。私がいきなり問い質して、すらすら話すというのも考えられませんよ」

「分かっております。ですが、おさ枝と仲いい娘 さんたちも、誰もそんな話は知らぬというのですよ。……いつかあの子が駆け落ちでもしたらと考えると、夜も眠れません」

「じゃあ、逐一見張りをつけるしかありません ね。そうすれば、妙な動きも防げて一石二鳥だ」

「そう、まさしくそれですっ」

 先ほどまでの浮かない顔に、喜色が見えた。膝 頭を進めてこちらににじり寄る。

「是非そのお役目を、さくらさんにお願いしま す」

「そんな――困ります。私は稽古もあるし」

「もちろん、おさ枝が店を出る時だけで構いませ ん。きちんとお手間もお支払いしますから」

 人の恋路に首を突っ込むことほど、野暮なこと はない。あてつけられでもしたら、さくらのほうがいた堪れなくなってしまうではないか。

 助けを求めて侃斎を仰ぐ。

腕 を組み、悠々と煙管を取り出しにかかっていた。

「師範、私にはできかねます。おさ枝さんにはお さ枝さんの想いがありましょう。それを無理に探り出すような真似はできません」

 はっきり言ってしまえば、気が重い。色恋話は 不得手だ。何も考えずに竹刀を振り回しているほうが、性に合っている。

「しかしな、さくらよ」

 侃斎が煙草盆を引き寄せる。フウと、ひとつ煙 を吐いた。それは一筋となって、庭へ流れる。

「相手は武士かもしれん。そうなれば、悲恋とな り得る。おさ枝にとっても、幡多屋にとってもやり切れぬことであろう。祝言を渋るのに他に訳があるならば、それを説明してやらねば佳助も幡多屋に居辛くな るとは思わぬか。このままではおさ枝だけでなく、周囲の者までもがひどく困る事態になるのだ。これに手を貸すのは、友としてなんら不都合はないと思うが な」

 静かに説くことは、正論に聞こえた。こちらに 有無を言わせぬ様子に頷きかけそうになり、どうにか喰い止める。

「では、どうして私なのですか。おさ枝さんとは 確かに共に遊びもしましたが、もう何年も顔を合わせていません」

「いえ、さくらさんしか適任がおりません」

 妙に自信たっぷりと、喜衛門が太鼓判を押し た。

「剣の腕は先生のお墨付き。もしも、お武家の男 がおさ枝をどうにかしようものなら、何がなんでも守っていただきたいのです。加えて、年頃のおさ枝と並んで歩いていても不自然ではなく、厳つい用心棒風情 の男を並べて噂を立てられるよりも安心です。これ以上の適任は、どこを探してもおりますまい」

 ――なるほど。そうきたか。

 今度ばかりは、自分に話がきたことを納得せざ るを得なかった。女の身で腕が立つ者はそうそういない。日本橋でそういう者を探すとなれば、音羽の女師範代はうってつけだ。

断 れば、生涯恨みを買いかねないほどの勢いを感じ、さくらは渋々頷くしかなかった。

「……分かりました。そこまで仰るのであれば、 お引き受けいたします」

「やや、ありがとうございます、ありがとうござ います。さすが侃斎道場師範代。お手間も弾みますが、お酒のほうも弾みましょう」

酒 豪の侃斎のもとで育ったせいか、今では立派な酒飲みとなったさくらの噂は、辺りで結構な評判になっているらしい。

恐 る恐る師を窺うと、聞こえないふりを決め込んでくれたようだ。美味そうに煙を燻らせる師範を一瞥し、苦笑いする。

「では、話が決まったところで、早速さくらさん をお借りいたしますよ、先生」

 喜衛門が侃斎に断りをいれ、早々に立ち上がっ た。これからすぐに出向くのかと問うと、幡多屋は首を振る。

「お引き受けしていただくにあたり、そのお姿を どうにかせねばなりません」

「これでは、いけませんか」

 改めて己の姿を見下ろした。

 白地に絣模様の着物、紺袴。腰には脇差一本を 身に付け、髪はきちんと纏めている。みすぼらしい形ではないはずだ。

「別に、奇妙な格好をさせるわけではありませ ん。本来のお姿に戻っていただくだけです」

「本来の姿?」

「ええ。美しい振袖に髪も結い直して、簪も揃え ておりますのでね」

 喜々と言うのに、さくらの頬が引きつった。立 ち上がりかけていた動作が、ひたと止まる。

「それは――いざという時、動きにくい。おさ枝 さんの身の安全も考えるなら、このままのほうがいいのですが……」

「どんな姿であろうと力を発揮できてこそ、真に 強いというのだ。さくら」

 あろうことか侃斎が告げたお陰で、二の句を飲 み込む羽目になった。

そ こまで言われてできないとのたまうようなら、師範代の名が廃る。唇を噛みつつ、

「分かりました。お好きになさってくださいっ」

 半ば、自暴自棄気味な返答をしたのだった。


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