天の雫が雨潦を叩き、広がる波紋は心を映す。
寄せて返さぬ小さな波。ただ、しなやかにさんざめく。
触れるものは、己の想い。
虚ろに揺れる青葉の音と、
蒼く歪む、
彼(か)の顔、ひとつ。
一
気が付くと、表通りの只中に立っていた。
大 荷物を抱えた人々が横を駆けて行く。そんなに急いでどこへ行くのかと周りを見渡せば、誰も彼も――町人も武士も、手に手に何かを抱えて走っている。通りは 人で溢れかえっていた。
誰かが肩にぶつかった。
ぐ らりと揺れる体が、さらに二、三回突き飛ばされる。飛ばされた先が高い土塀で、ついた手に痺れるような痛みが走った。
息 が上がる。きな臭さが喉を焼いて、ごほごほとむせ返る。
ふ と、自分が寝間着であることに気が付いた。草履も履いていない。平素なら、こんな格好で外に出るなど考えられなかった。しかし、今夜は皆、同じような格好 で走り回っている。咎め立てる者は誰もない。
空を見上げる。
藍 をもっと深くした闇色に、鮮やかに赤い光が滲んでいた。焼けた火の粉がちらちらと舞う。まるで、赤い雪を見ているようであった。その赤い雪は溶けるどころ か、さらにさらに火の手を広げる。屋敷内は当然のこと、人々の着物や荷駄の筵に付いては炎を燻らせた。
耳を劈く半鐘の音が、先ほどより早くなっている。火が近いのだ。
―― 逃げなければ。
土塀に手をつき、人が流れるほうへ足を進める。だが、あまりの人の多さに道が塞がり、前には容易に進めそうにな い。
土塀内の屋敷から、新たな火の手が上がった。風が瞬く間に熱く変わる。煙が目を潰し、涙が溢れて止まらない。
―― いい歳をして、笑われるな。
こんな時にも体裁を気にしている自分に、自嘲気味な笑みを浮かべる。また、こんな時にしか泣けないのかと思う と、己が可哀相にも思えた。今更ながら馬鹿な奴だと、咳き込む口を押さえ込んだ。
不意に、自分が何も持たずに逃げていることを訝しく思う。周りの者はそれぞれに家財道具を抱えているというの に。
―― 大切なものが、端っからないのだろうか。
――いいや、そんなはずはない。何かあったはずだ。思い出せ、思い出せ……。
自然と足は止まっていた。すぐ後ろを走っていた者が怒声を吐き散らして行くが、周りの悲鳴がそれを消した。
慌てて、懐を探る。肌蹴た胸元には懐紙どころか、紙入も入っていない。
―― あれも置いてきてしまったのか?
袂 を探ってみるが、やはり何もない。
顔 の肉が強張る。目を見開くと、炎の赤が一層目についた。
く るりと踵を返す。来た道を駆け戻る。そちらは火の手が強いらしく、きな臭さが濃くなっていった。
荷 車が脇を通り抜けた。その横で小さな子供が大声で泣き喚く。町場の子だ。親とはぐれたのだろう。通りがかりの老婆が二言三言何かを問いかけ、子供の手を 取った。
煙で前が見えなくなると、息苦しさが増し、走れる状態ではなくなった。髪や着物が焼け焦げる臭いもする。手は煤 で真っ黒だ。それでもなんとか屋敷に辿り着こうと、足を――手を、伸ばす。
意識が朦朧としていた。
横合いから、知らぬ男の背が倒れかかってくる。
支えきれない。体が大きく傾く。手で支えを掴もうとするが、虚しく空を掻いただけだった。
ど う、と地に倒れ伏す。起き上がろうとするも、背がひどく重い。頭の中もはっきりしない。「立ち上がれ」と念じる一方で、「このまま眠ってしまいたい」とい う欲求が込み上げてくる。すぐ横を幾人もの足が通り過ぎた。倒れた者たちに声を掛ける者はない。
―― わたしは、町人の子、以下だ。
目だけを動かし、空を見る。
赤 と、紫と、藍で描いた掛け軸でも見ているようだ。その色合いは夕焼けの一瞬にも似ているし、朝焼けの束の間にも似ている。さて、どちらがそれに近いのか。
ど ちらも、わたしの目には過ぎたものだ――。
ゆるりと瞼を閉じる。
もう、何も聞こえなかった。
二
――参ったな。
空を恨めしそうに眺めて、三峰さくらは心の内でそうぼやいた。
眩 しい陽光に目を細める。鼻先で雨煙が煙っていた。まったく、厄介な模様になったものである。
頭上では、傘代わりにした庇(ひさし)が破れんばかりの勢いで雨を弾く。滝の如く落ちる雨が、その下に大きな川 を作りつつあった。飛び散る泥水が、足袋にも黒い染みを作る。
こ んなことになるなら、師範の言うことを聞いておけばよかったと心底後悔したが、それも後の祭りだ。
日本橋音羽町の侃斎(かんさい)道場からの帰りだった。
師 範代を務めるさくらは、昼の稽古を終え、早々に道場を辞した。師範の風間侃斎から傘を持って行けと言われたのだが、しかし、空は抜けるような快晴で、雨雲 の気配など微塵もない。ただ、夏場特有のむっとした暑さが、肌に纏わり付くだけだった。
「こんな天気に傘なんて持って歩いていたら、私は笑い者ですよ」
笑って傘を断ったのが、二刻ほど前。
それからジリジリ焼ける日差しの中、神田にある馴染みの貸し本屋に顔を出す。面白い本が入っていないか物色して いると、主人が茶を勧めてくれた。汗をかいてちょうど喉が渇いていたところだ。お言葉に甘え、一息に飲み干す。いくつか世間話をし、ついでに書物を見繕っ てもらって、貸し本屋を後にした。
そのまま長屋に帰っていたら、着物をこんなに汚すことはなかったのだ。途中、酒屋に寄ったのがよくなかった。
そこは行き着けの酒屋で、店主はさくらの酒好きも心得ていた。顔を出すと、いつも新しい酒を飲ませてくれる。こ れはどこどこの酒と味が似ているだとか、これは香りが濃いだとか、要するにさくらに飲ませて新酒の出来を窺っているわけだが、それでもタダで酒が飲めるの ならば毒味もいい。ただし、美味い酒ばかりが出てくるとは限らないのだが。
「今日のは美味かった」
味を思い出し、にやりと笑う。
こ うしているととてもそうと思えないが、華奢な肩や幼さが残る顔立ちを見れば、彼女がまだ歳若いことが分かる。
女 だてらに師範代。それだけでも、口さがない者の話の種にされるのに、彼女はまだ十五だ。剣客としても女としても、とてもひと筋縄ではいかない。
兎にも角にも、美味い酒談義に花を咲かせ過ぎたのだ。店を出た時、暑さの中にじっとりとした気配を感じる。
夕 立になるかもしれないと思った。暑ければ暑い日ほど、夕刻には黒々とした雲が湧き出して滝のような雨が降る。降り出す前に長屋に帰りつこうと歩を早めたさ くらだったが、万年橋を渡った辺りでぽつりぽつりと頬に当たるものがあった。
はて、もう雲が出てきたのだろうかと空を見上げるも、雲はひとつもない。陽も翳る様子は微塵もなかった。
訝しんで首を傾げている間に、ぽつりが多くなる。しだいに雨脚が強くなり、さくらは本を懐にしまい込みながら辺 りを見回した。雨宿りできる所を探す。飯屋や茶屋はなかったが、幸い小さな小間物屋が近くにあった。その軒先で雨宿りをしている最中である。
暑い季節には、よくある通り雨。すぐに止むだろうと、手拭いで髪を拭う。水を吸った着物は重く、体に纏わり付い て嫌な感じだ。汗は流せても、頭から足先までこうも濡れそぼっていたのでは、みすぼらしいことこの上ない。
雨 で空気の熱が冷めてきた。段々と肌寒さを感じる。頭の高い位置でひとつに纏めた髪から滴が首筋に落ちただけで、ひやりとした。
「お天道様はあんなに輝いてるのに……」
陽光差し、雲はないのに、滝の雨。
厄介な空模様に息をついて、視線を下へ落とした。日差しの中に、大きな水溜りができている。水面は静まる気配も なく、ばたばたと音を立てた。
せ めて、飯屋でもあれば時を潰せるんだけど、と深々溜め息をついた時だ。
見つめていた陽光が、ふっと曇る。雨溜の面が突然に凪いだ。
「そんな濡れて、風邪をひいちまうよ」
声に、さくらは顔を上げた。
紗の着流しに、洒落た縞の帯を締めた男が立っている。色白の顔立ちと涼しげな眉。少し吊り上った目尻を細めて、 こちらに話しかけている。右手に持つ傘が、陽と雨を遮っていた。
「これをお使いな」
言って、傘を差し出した。強い雨粒が彼の左肩を容赦なく濡らす。
さ くらは、慌てて傘を押し戻した。
「それじゃあ、貴方が濡れてしまうじゃないですか」
「あたしは構わないんだよ。家はこのすぐ先だ。走れば濡れやしない」
「でも――」
「子供が遠慮なんかしちゃいけないね……と」
男がさくらの脇差に目を留めた。ちょいと片方の眉を上げる。
「お武家のご子息様でしたか。これは、大変失礼いたしました」
恐縮した体で目礼した。さくらは、しまったと顔を歪める。
戦国の世が遠い昔となって久しい。しかし、今でも刀を腰に帯びるのは武家が大半である。そして、例え子供であろ うと、侍のほうが町人よりも格式が上なのだ。
さくらの刀は、権威を誇示するものではない。生まれは武家であっても、彼女が幼い時分に家はなくなっていた。今 は育ての親である侃斎の元を出て、長屋暮しの身だ。刀は、ただ身を守る道具として手にしているだけのこと。それ以外の意図は何ひとつない。
そう言うと、男は瞠目した。
「なんだい、娘さんかい。いや、どうりで可愛らしい顔をしていると思った」
にこり、笑う。そうして半ば無理やりさくらの手に傘を押し付けた。
「じゃあやっぱり、それはお前様が使うべきだね。女の子は体を大切にしなきゃいけないよ」
「では、名とお住まいをお教え下さい。後でお返しに伺いますから」
追い縋るように見上げるさくらに、男が微笑を浮かべてかぶりを振る。ふっと、その袂から白粉の香りが匂った。
「狐に見つかる前に、早く家にお戻りな」
優しく言い残し、男が踵を返す。雨の中を駆けて行った。
さくらは傘を差したまま、呆然とその姿を見送った。
永代町の平八長屋に帰りつく頃には、陽はすっかり雲に覆われ、雨足はますます強くなっていた。
男 には悪いが、傘を借りられたお陰で、懐の本も濡らさずに済んだ。
傘は土間口に開いて乾かす。
そ れにしても、あの男は一体どこの誰なのだろう。侍ではないし、商人とも違う。口調も立ち居振る舞いも、どこか繊細でしなやかなものだった。そして、白粉の 匂い。
―― 明日、もう一度あの辺りを探せば、会えるだろうか。
礼が言いたかった。
「その前に……」
改めて、土間に立つ自分の姿をまじまじと見下ろす。髪からは水が滴り、足袋も泥水を含んで気持ちが悪い。みすぼ らしい姿に、微かに笑みが出るほどだ。
「は――くしゅん」
盛大なくしゃみまで出る。このままでは風邪をひきかねないと、濡れた着物に手をかけた。
「――さくら様、お帰りなさいっ」
表戸が勢いよく開く。顔馴染みの明(あき)という少女が、満面の笑顔で駆け入ってきた。彼女が常に身に付けてい る鈴がリンと鳴る。
明 はさくらにご執心なのだ。ちょくちょく長屋に顔を出しては、呼びもしないのにさくらに付いて回る。十歳の少女を連れ歩く姿は、まるで姉妹だった。
「やあ、明。今日はお琴の稽古?」
「まあ、そんなところ」
はにかみながら答えた。
本 当は稽古などしていないのだが、何も知らないさくらは「ああ、ご苦労だね」などと頭を撫でる。
明 は、至極ご満悦。
「さくらさん、お帰りだったんですか」
そんな明の至福の時に、不意にもうひとつ声がかかった。
開 けっ放しの戸口から長身の男が覘いている。出先から帰ったばかりで、濡れた傘を畳んで手にしていた。
彼は琴の奏者で、名を総(そう)といった。こざっぱりとした着流しを好み、髪はうなじのところで切り揃えてい る。一見、若医者風の柔和な面で、さくらの隣に住まいしていた。弟子もいることはいるのだが、稼ぎは酒宴での奏楽を主としている。明は、総の数少ない弟子 のひとりだ。本日もどこぞへ稽古をつけに行ってきたのだろう。毎日忙しいことだなと、さくらは思った。
「ひどい雨になりましたね」
傘の滴を一振りにして、総が穏やかに笑う。声が水溜りを弾く音と相俟って、楽を奏でているように耳に心地いい。
総 には、そういう不思議な空気があった。彼自身から滲み出ている、穏やかな音色。長年、琴を奏でているせいか、その身に染み付いた弦音を感じることがあっ た。
長 屋の皆からは先生と慕われ、奏楽も大層評判だ。彼の琴の音は酒宴で披露するような安っぽい音ではないと思うのだが、それで総は満足しているのだから、他は 何も言えない。
「途中までは陽も出ていたのに、急に降ってきたね。まったく、お天道様のご機嫌は分かりにくいったら」
「ええ、わたしもお弟子さんから傘を借りたのですが。――おや、明。こちらにいたんですか」
ふと視線を落とし、小さな明を認める。わざと含みを持たせた物言いに、明が頬を膨らませた。
「……センセイ、お帰りなさい」
「稽古熱心ですね。わたしの家で待っていてよかったんですよ」
「だって、さくら様が帰ってきたんですもの。だから、お稽古は後回しです」
弟子にきっぱり言われて、やれやれと苦笑する。これではどちらが師匠か分からない。
も ともと穏やかな性質である総は、誰かに怒鳴ったりいやな顔を向けたりすることがなかった。この小さな弟子の言葉にも、気を悪くする素振りもなく、慈愛に満 ちた表情さえ浮かべながら見守っていた。
そんなことにはお構いなしの明は、相も変わらずさくらにべったりである。汚れるからと体を離そうとするが、明は 頑として聞き入れない。
「こら、明」
困り顔で、総が明の腕を掴んだ。さして力を入れずに少女を抱き上げる。
さくらは、済まなそうに手を合わせた。
「ごめんね、明。これから本を読みたいんだ」
「本?」
「そう。だから、読み終わるまで待っていてくれるかな。それからなら、いくらでも付き合うから」
「……さくら様がそう言うなら」
「明はいい子だねえ」
項垂れる明の頭をひとつ撫でた。
総を見上げる。微苦笑を唇に貼り付けた彼の顔に、さくらは思わず噴出した。
「まるで、ひづきに手をやいている時みたいな顔をしてるよ」
ひづきは、総の飼い猫である。白い体に、尾の先だけが墨に浸けたように黒い。今日は大人しく寝てでもいるのか、 姿は見ていなかった。
明 の帯に挟んだ鈴が、チラチラと音を落とす。
「さくらさん、早く着替えたほうがいいですよ。そんな格好では風邪をひきますから」
明を抱えたままの総が言う。そうして、こうも付け足した。
「――とても嫁入り衣装には見えませんし」
「嫁入り?」
はて、自分にそんな話が持ち上がってでもいるのだろうか、と他人事のように首を傾げる。確かに嫁入りの話があっ てもおかしくない歳ではある。しかし、養父からも縁談話など持ち込まれたことがない。
彼 は「ほら」と外を見やった。
「陽が出ているのに雨が降る。こういう天気を『狐の嫁入り』というじゃありませんか」
言われて、得心した。
「そうか――だから『狐』か」
傘を差し出した男が言い残した言葉だ。彼はこのことを言っていたのだろう。
総が明を連れて出て行くと、さくらは着替えを済ませ、障子窓を開けた。
長 屋の裏は掘割になっている。その面を白滝の雨が叩いていた。いつもなら夕餉の買出しに出る長屋のかみさん連中も、この土砂降りで家の中に閉じこもってい る。雨が屋根を叩く音以外、子供の声もなかった。気をとられず、文字を追うには好都合である。
窓から、暑さが抜けた川風が入る。窓辺に腰を落ち着けて、書物を広げた。
雨に降られて散々な格好になったものだが、本を手に入れ酒も飲めた。おまけに、うんざりするような暑さが退いて いる。
頬
杖をつきつつ、結構な日じゃないかと、さくらは思った。