十
竹刀が唸る。
確 かな手ごたえに、右足を踏み出して竹刀を押し出す。突き放された男が、勢いよく後方へ飛んだ。彼は壁に背をぶつけ、呻き声を上げる。
侃斎道場の稽古場である。広い板張りの道場に は、二十あまりの男たちが座していた。皆、目つき鋭く、一見して使い手と分かる。
そ の視線を一身に受けて竹刀を下ろすのは、師範代を務めるさくらだ。突き飛ばされ白目を剥く男に一瞥をくれる。すぐに周りを睨み据えた。
「次っ」
殺気立った声が響く。途端、門人の間に緊張が 走った。
さくらはすでに五人と立ち合っていた。しか し、疲れた様子は少しも感じさせない。玉の汗がつぅと頬を伝うだけだった。
「次――誰もいないのかっ」
厳しい目が門人たちを順に捕らえていくもの の、顔を上げる者はいない。俯き、彼女の視線をやり過ごす策に出る。そんな態度がますますさくらを苛立たせた。
「女にやられるのがそんなに怖いのなら、ここか ら出て行くことだな」
冷徹に言い捨てた時、
「さくら、もういいだろう」
秋吉が、呆れ顔で戸口に立っている。
「許してやれ。今のお前は怖すぎる」
「秋吉さん……お帰りなさい」
ゆるゆると竹刀を下ろした。
今 し方まで殺気に満ちていた空気が、風に流されるように引いていった。門人たちから、安堵の溜め息が出る。
皆に稽古の続きを言いつけ、さくらは秋吉と共 に廊下に出た。ほどなく、心地良い振動が足裏を伝わってくる。熱気と怒号が飛び交う。
「出稽古、お疲れ様です」
秋吉を見上げ、にこりと笑う。ついさっきまで 竹刀を振り回し、大の男を吹っ飛ばしていた者とは思えない、あどけない笑顔だ。
そ の笑みに、秋吉は困り顔で苦笑した。
「何を苛立っているのか知らないが、剣筋が荒 かったぞ。稽古で八つ当たりをするなと言っているのに。まったく、いくつになっても変わらないな」
ポンポンと、大きな手で彼女の頭を撫でる。掌 の温かさが気持ちいい。さくらは小さい頃から、秋吉のこの掌が大好きだった。
秋 吉は兄のようにさくらを可愛がってくれたものだ。竹刀の振り方も、道場の掃除の仕方も彼に教わった。さくらが兄を想い泣いていると、決まって秋吉が頭を撫 でてくれる。大柄な体躯を一生懸命縮めて小さい彼女を慰める姿は、傍から見れば滑稽だったかもしれない。しかし、さくらにとっては、とても温かい家族の姿 に思えた。
「そんなに気を荒らしていたつもりではなかった のですが……。それより、今日はどこへ行ってらしたんですか」
「ああ。浅草の成進道場に」
「成進道場……。では、新井という人に会いまし たか」
「新井? 新井、新井なあ」
呟いて、眉を寄せる。暫くして「おお」と熊が 鳴くような声を上げた。
「あの優男か」
「立ち合いましたか」
「まさか。竹刀を振るだけで息を切らしているよ うな男と、立ち合うわけなかろう」
「でしょうね」
秋吉のカラリとした様子に、曖昧に微笑む。彼 が名をすぐに思い出せないほど、新井の印象は薄かったのだ。
――あの動き、目に付かないはずはないのに。
そして、秋吉がそんな動きを見逃すこともな かった。印象に残っていないというなら、新井が意図してそうしているとしか考えられない。
「そう言えば、師範も新井という名をひどく気に されていたな。というより、あの道場にさくらを近付けさせまいとしているように思える」
成進道場からは、ぜひさくらに出稽古をと申し 出があったらしい。侃斎はそれを無視し、秋吉に稽古を任せているという。
――これは、師範の勘が当たりかもしれない。
侃斎は、新井を危険な男だと言った。
得 体の知れない男。何が目的なのか掴めない。本当に、名を新井というのかも分からない。彼がそう名乗っているだけで、真の名は別にあるのかもしれない。
考 えれば考えるほど分からなくなる。行ったり来たり。上がりのない双六のようで、気持ちが悪い。
ふと曇り顔を見せたさくらを疲れたものと思 い、秋吉は後の稽古を請け合った。井戸で汗を流して来いと、半ば無理やり外へ追い出される。
そ れほど疲れてもいなかったが、このまま稽古に戻ってもまた剣が乱れてしまう気がした。門人にも迷惑をかけると思い、素直に秋吉の言葉に甘える。
道場の裏に回ると井戸がある。稽古の後は、皆 ここで汗を流していた。夏場などは肌を晒して水を浴びることが羨ましいと思うが、さすがにさくらにも真似できないことはある。
水 を汲み上げ、盥に移す。手拭いを浸した。火照った手に冷たさが心地良く染みた。強く絞り喉元に当てる。ほうと、心から息を吐き出した。
「今日は荒れてるねえ。師範代よ」
笑いを含んだ声が、背にぶつかる。手拭いを当 てたまま、さくらが振り返った。
「見ていたんですか」
若葉芽吹く垣根の向こうで、香上がニヤと笑 う。
「いつお前が門人を殴り殺すかと、冷や冷やした ぜ」
「大丈夫ですよ。うちの門人はそう柔じゃありま せんから。そんなことより、今日はどうしたんです。また息抜きですか」
「いいや、かどわかしの件だ。何か掴んだかと 思ってな。昨日、両国に行ったそうじゃねえか」
「……つけていたんですか」
手拭いを無造作に盥に落とす。水面が跳ねて、 乾いた地面に広がった。
香上はつまらなそうに、それを目で追った。
「そんな暇なことはしねえよ。俺も手下も忙しい からな。お前が両国でやらかした騒ぎが、こっちまで聞こえてきただけのことさ。やくざ者三人、簡単に伸しちまったんだって?」
可笑しそうにニヤニヤ笑う。
さ くらは舌打ちしたい気分に駆られた。今、役人の顔を見たくはなかったのだ。
「別に、新しいことは何も分かりませんでした よ」
内の想いを見せまいと、香上から視線を逸ら し、盥に目をやった。
「ふうん。そうかい」
唇の片端を上げたまま、彼は思わせぶりな顔を する。
壱屋の娘、カヨは、三年前行き方知れずになっ た呉服問屋、染広屋の娘だった。そして、恐らくは井筒屋の一太も。
井筒屋のおふきが、一太を抱いて家に戻ったの が三年前。彼女は、どんなに問い質されても、子供の父親の名を言わなかったという。それは、子供を黙って連れてきたからではないだろうか。
蛤 町の惨劇。カヨが逃げ去った後で、おふきがその場を通りかかっていたとしたら。そして、皆、死んでいると思われていた所から赤子の泣き声が聞こえてきたと したら――?
おふきはもうこの世にない。彼女の父も、一太 の出生を知らない。誰も知らない、一太の出自。
そうであるなら、二つのかどわかしには繋がり があることになる。カヨも一太も、三年前に鬼蜘蛛一味の押し込みにあった染広屋の生き残りだ。
か どわかしと押し込み。時を置かずに起こった二つの出来事が、一線で繋がる。
しかし、それを役人に告げるわけにはいかな い。
清次と約束した。カヨは必ず夫婦の元に帰す と。
カ ヨや一太が三年前の生き残りと知れれば、もう親子として共に暮らせないだろう。どんな理由があれ、清次やおふきの行いも罪に問われるかもしれない。悲しむ 者を多く出すことになる。香上にはもちろん、一切の役人に話すことはできなかった。
「ま、何でもいいがな」
呆れたふうに香上が笑った。さくらの意など知 らぬはずが、不意に真顔を見せる。
「ただな、危ない真似だけはするんじゃないぞ」
辰巳屋の前で見た、目に微かに怒気を含んだ眼 差しをしていた。
「私はこの道場の師範代です。滅多な奴には、負 けませんよ」
後 ろ暗い隠しごとをしているさくらには、彼の目を直視するのは辛すぎる。
そ もそも嘘は上手いほうではない。それでも、今は無理に顔を上げて、香上の視線を受け止めた。口元にはわずかに微笑さえ湛える。
自 分がやらねば、誰も悲しみから救うことはできない。自分にはやるべきことがある。
そ の想いが、さくらに微笑を浮かべさせた。
様々な人間の嘘を見抜いてきた香上は、彼女の 想いに気が付いたであろうか。にやっと笑うと、
「勇ましいことだねえ」
言い置いて、去っていった。黒い羽織が、角を 曲がって見えなくなる。
そ れを見届け、さくらは全身で息を吐いた。
「――気が付くなよ」
それだけが気掛かりだった。
踵を返す。
温くなった盥の水に、小さな虫が浮いていた。
かどわかしと、鬼蜘蛛一味の押し込みは繋がっ ているとしても、それ以上のことは依然として不明なままだ。
誰 が、なんの目的で三年前の生き残りをかどわかしたのだろう。
「見当もつかないや」
がっくりと肩を落とす。茶店の娘が、茶と団子 を置いていった。
永代寺門前の茶店に、さくらはいた。
行 き詰った彼女は、稽古を終えると辰巳屋へ向かった。かどわかしの手掛かりがあるかもしれないという、藁にも縋る思いからだ。しかし、看板は下ろされ、中の 畳もすっかり運び出された店を見た瞬間、淡い期待も泡となって消えた。
「考えれば、押し込みの現場に、かどわかしの手 掛かりがあるはずないか」
そのままとぼとぼと歩いて、永代寺の門前まで 来てしまったのだ。
茶を啜る。長閑な陽光に、道を行く者の顔も穏 やかに映る。さくらも、呑気に団子を食っていると思われているのかもしれない。その沈んだ目を見れば、決して茶を楽しんでいないことが分かるのだが。
湯呑みを両手で強く握った。桜色の爪が、わず かに白くなる。苛々し、唇を噛んだ。
カヨと一太の二人が鬼蜘蛛と関わりがあると 知った時、瞬時に一味に連れ去られたのではないかと思った。しかし、その答えは明らかに意味のないものだ。
三年前のことを、カヨや一太は覚えていない。 鬼蜘蛛一味も、あの惨劇の中で生き残りがいようとは夢にも思っていないだろう。もしも、生き残りの存在を知ったところで、それが壱屋の娘と井筒屋の倅だと どうやって知ったのか。今更二人をかどわかしたところで、利点は何もない。相手が子供とはいえ、連れ去る時に騒がれたら終わり。そんな危ない橋を渡る馬鹿 とも考えられない。
――下手人が鬼蜘蛛じゃないとしたら、二人を かどわかしたのは誰なんだ。
すべてが、やはり闇の中だった。
不意に、どうしようもない衝動に駆られた。こ の手を離せば、足元で湯呑みは砕ける。弾け飛んだ欠片が、彼女の足を傷つけるだろう。赤い血が足袋を染め、そうすれば、自分への苛立ちが少しは薄れるかも しれない。
そ んな絵を思い描いていた時だった。
「落としますよ」
陽を遮る影がある。
ふと我に返って顔を上げた。総が穏やかに笑っ ている。
「大丈夫ですか。思い詰めた顔をしているように 見えましたが」
隣に腰を下ろした。
さくらは湯呑みを持ち直して、苦笑を溢す。
「大丈夫。ちょっと、考え事をしていただけだか ら」
「ならばいいのですが」
「総さんは稽古帰り?」
自虐的な考えにバツを悪くして、必要以上に明 るく問うた。団子をひとつ摘む。草団子だ。春の香りが口に広がる。
「いつも大忙しだね。ちゃんと休まないと、体を 壊すよ」
「そのお言葉、そっくりさくらさんにお返ししま すよ。稽古詰めもよろしいのですが、体を休めることも忘れないで下さい」
要するに二人は、同じ類の人間らしい。フフっ と、さくらは笑った。
総といると、時がゆっくりと流れた。彼の内か ら流れる音に、心が癒されもする。耳には聞こえない、心に響く音だ。
初 めて永代橋で会った時、彼は笑っていた。その目に、さくらは心を奪われた。
身 の内の奥の奥の想いを隠す、悲愴な色。そんな目をした者を、彼女は知っていた。忘れるわけがない。兄だった。
いなくなる前の日、さくらを膝の上に抱いて庭 を見つめていた兄の目。それと同じ色をしていたのだ。
無性に放っておけなくなった。兄を思い出し て、そのまま通り過ぎることができなくなった。
総はあれからずっと変わらない──表面上は。何かを思い悩む様子も、涙を流す姿も見たことがない。いつも穏やかに微笑み、相手を労わる心の 優しい人。
彼が侃斎に義理立てして、さくらを気遣ってく れていることは知っている。その誠実さが、さくらには心配だった。
兄 には兄の、さくらにはさくらの道があったように、総にもまた違う道がある。誰にも気兼ねせず、己を貫き通してほしい。
総の言葉に苦笑して、さくらが茶のお代わりを 頼んでいるところへ、
「あら、総先生じゃないですか」
再び陽を遮るのは、薄紫の着物を着た女性だっ た。さくらが見上げると、ちょうど彼女の頭の辺りに陽が見える。眩しさに目を細めた。
「ああ、藤春さん」
総が右目だけを細めて、彼女の名を呼んだ。
藤 春は、深川で一番の売れっ子芸者である。総とはお座敷で何度も顔を合わせていた。さくらとも門人を通じての顔見知りだ。
「まあ、さくらちゃんも一緒? お安くないです ね、先生」
はらはらと、まるで花が舞い落ちるように笑 う。さくらをちゃん付けで呼ぶのは、彼女くらいだ。
「誤解して、変な噂流さないでよ」
笑って、さくらも応じる。
「あら、分かっているわよ。でも、今日は本当に いい陽気ね。のんびりするには、だけど」
「藤春さんはこれからお座敷?」
「そうなの。まだ陽が高いっていうのに、舟遊 び。風情がなくて嫌ね」
扇子を取り出して、それをくるりと回した。白 地に渋茶と赤で梅が描かれている。派手な小物を持つ芸者もいるが、藤春の持つものはいつも落ち着いた色合いをしていた。さくらはそれを好ましく思う。
「総先生ともお無沙汰だし。どなたかにねだっ て、お座敷に呼んでもらおうかしら」
「また、どこぞの若旦那ですか。では、ご祝儀を 弾んでいただかなくては」
「ま、先生ったら」
可笑しそうに扇子で口元を隠した。艶やかな鬢 に銀の簪が揺れる。ご贔屓さんからの贈り物か、細工が細かく見事な造りだ。
「そう言えばさくらちゃん。昨日、両国で大暴れ したでしょう」
悪戯っぽい顔で言われ、さくらは思わず総を振 り向いた。
彼 は目を丸くして、さくらを注視している。「さくらさん、一体どんなことを」と、顔にはっきりと書かれていた。
「違うって。大暴れなんてしてない。絡んできた やくざ者を、追っ払っただけだよ」
慌てて藤春に向き直った。
「藤春さん、いい加減なこと言わないで。事が大 袈裟になってるんだから」
「あら、いい加減だなんてヒドイわね。あたし、 ちゃんとこの目で見たんだから」
「見た?」
「そうよ。あたし、昨日は両国の吉川って料亭に 呼ばれててね。ほら、篠崎屋さんの近くの。お座敷にいたら外が騒がしくなったから、障子を開けて見たわけよ。そしたら、さくらちゃんが男を地面に叩き付け てるじゃない。最後の蹴りは見事だったわね。相手が吹っ飛んじゃうくらいだから」
「さくらさん……」
総が特大の溜め息をついた。
「充分、大暴れのようですが」
蹴って男を吹っ飛ばしたと聞けば、おてんばな どと笑ってはいられない。
も ちろん、彼女が剣術に長けていることは周知のこと。並みの浪人より腕が立つことも、立証されている。
だ が、はねっかえりが過ぎると、自身を傷つけることになりかねない。いらぬ恨みも買う。こちらに非はなくとも、逆恨みということだってある。
「少しは自重したほうがよろしいのではないです か。そうでなくても、女の剣客というので噂になっているんです。あまり騒ぎを起こすと、不穏な輩を刺激することにもなりかねませんよ」
「だから、そんなんじゃないんだってば」
侃斎と同じような説教をするものだ。
さくらの困り顔を見て、藤春が微笑んだ。
「稀代の女剣客の弱点は、総先生なのね」
「藤春さん、笑ってないでなんとか言ってよ。見 てたなら分かるでしょ。私が悪いんじゃないって」
「まあ、さくらちゃんをこれ以上苛めたら、後で 口も聞いてもらえなそうだから。先生、心配いらないですよ。さくらちゃんは、痛めつけられてたお年寄りを助けに入ったんです。相手を蹴ったのは本当だけ ど、それほどではなかったし。そう……天水桶を壊しちゃったくらいかしら」
「藤春さん……」
彼女の話を聞いていると、自分がとんでもない 暴れ馬に思えてきた。
―― いやいや、違う。
「総さん……藤春さんの話は、話半分に聞いとい て」
彼は渋々といった態で、苦笑してくれた。
「でも、さくらちゃんみたいな強い方がいてくれ ると助かるわ。最近じゃ、鬼蜘蛛っていう盗賊もいるって話だし。さくらちゃんが近くに住んでるってだけで、安心できるもの」
「もちろん何かあれば飛んでいくけどね。今みた いに苛めるんだったら、助けるのは考えさせてもらうよ」
仕返しとばかり、意地の悪い笑みを見せる。藤 春はちょっと肩を竦め、
「それにしても、あの人も災難ね」
ふと、呟いた。
「あの人って?」
「さくらちゃんが助けたあのご老人。前にも同じ ように、やくざ者に絡まれてたのよ」
「災難って続くのかな」
「そうかもしれないわね。でも、その時も助ける 人がいてね。大した怪我もなかったって、辰巳屋の旦那さんも言ってたわ」
「辰巳屋?」
さくらが眉を顰めて問い返す。
「なんで辰巳屋の旦那が、怪我の具合なんか知っ てるの」
「怪我の治療に、お店の隅を貸したのよ。まあ、 やくざ者が暴れてたのが店の真ん前だったし、止めに入れなかった負い目もあったんでしょうね。お医者様まで呼んで、世話したらしいわ」
「それって、いつの話」
「そうね、半月も前になるかしら。辰巳屋さんが あんなことになる前だから……」
藤春の顔が曇る。
辰 巳屋の旦那も、彼女を贔屓にしていたのだろう。今刺さしている簪は、辰巳屋への供養のつもりかもしれない。
銀の飾り簪。辰の形を彫り込んだ珊瑚の玉飾り がついている。
不意に、さくらの中で疑点が生まれた。
「あ、あたし行かなくちゃ」
芸者に涙は禁物。曇り顔を微笑みに変えて、藤 春はちょっと科を作ってみせた。
「じゃあ先生。またお座敷で」
「お気を付けて」
下駄を軽やかに鳴らし、彼女は去って行った。
陽光が二人の上に落ちる。さくらは、すっかり 冷めた茶を手に取った。
「総さん」
「なんですか」
「眩しくないの」
藤春の背を見送っていた総が、振り返る。
問 われた意味が分からず、きょとんとした表情を見せた。
さくらが指を立てる。自分の左目を指した。
「その、目」
咄嗟に、総は言葉を次ぐことができなかった。
さくらがその様子を注視する。
わ ずかに曇っている左の目。常には気が付かないほどのその色に滲む、哀しみの情動が揺れる。
ふと、視線を逸らした。彼が困っているのが目 に見えたからだ。
「ちょっと、聞いてみたかっただけだよ」
茶を喉に流し込む。空になった湯呑みを置い て、立ち上がった。
「長屋に、戻る」
にこりと微笑を浮かべる。銭を置くと、総を残
しその場を去った。