十一

 

 明がそわそわと、土間を行きつ戻りつしてい る。今にも飛び出していきたい想いを堪えて、両の手を握り締めた。震える拳で、小さく鈴が鳴る。

静 かに障子が開く。陽の光が薄暗い土間に落ちた。

「センセイっ」

 外から帰った総に、夢中でしがみ付く。期待を 込めた眼差しで、師を見上げた。

「さくら様、さくら様はっ?」

 総が、小さな肩を抱いて体を離す。静かに首を 振った。

「侃斎道場には、一昨日から、姿を見せていない そうです」

「じゃあ、さくら様がよく行く、甘味処とか ――」

「心当たりは行ってみたのですが……そちらに も、姿を見せていませんでした」

「そんな――」

 呆然と呟き、ふらつく体で後退した。上がり框 に脹脛が触れる。そのまま倒れこみそうな勢いで、明は腰を下ろした。

「道場に行ってると思ったのに」

 見開いた目がしだいに赤く染まる。緩やかに涙 が溜まる。明は、それを乱暴とも思える仕草で拭った。

「一昨日、茶屋で別れた時は、別段変わった様子 は見受けられませんでしたが」

 懐に腕を仕舞い込み、総も目を細めた。

 一昨日、総と別れたさくらは、自身が言ったよ うに一旦は長屋に戻ってきたらしい。その姿をおせいたち、長屋の者が見ている。しかし、部屋へ入って小半時も経たない内に長屋を出て行ってしまった。行き 先は誰も聞いていない。ただ、出て行くさくらを見た者たちは、一様に気が付いていた。

彼 女が、腰に大刀を帯びていたことに。

普 段、さくらは大刀を差すことがなかった。帯刀するのはいつも脇差一本である。

「これだけで、充分なんだ」

以 前、誰かが訳を尋ねた時、彼女はにこやかにそう答えた。自身を守るのに脇差以上の力は必要ないし、何より大刀は重いからと、平素は部屋の隅に据えてあっ た。

 総が、大刀があった場所を見つめる。そこに影 はない。

家 人がいない部屋は寒々しい。午後の緩やかな日差しが、障子を透けて畳に落ちている。

「……さくら様。一体、どこに行っちゃったの よ」

 只事が起こっているのではないことは、総にも 明にも容易に知れた。

大 刀を携えて行ったということは、もはや脇差ではどうにもならない事態に出くわしているということだ。いくら道場で師範代を務めているからといって、彼女よ り腕の立つ者はいくらでもいる。

さ くらの身が心配だった。二夜明けて行方も知れぬのでは、明が焦る気持ちも分かるというものだ。

 消沈する明に、総はかける言葉も見付からな い。気休めを言っても明は納得しないだろうし、不安な気持ちはこちらも一緒だ。

心 当たりは虱潰しに当たっていた。長屋の手の空いている者も、手分けして捜し歩いている。

こ れだけ捜しても、居場所を掴む手掛かりはなかった。神隠しのように、ふつりと消息を絶った。

「まさか……」

 幾度目かの想いが、頭を過ぎる。さくらを捜す 間、ふつふつと湧き上がるものを愚考と吹っ切ってきたのが、再び頭をもたげてきていた。

 ――まさか、駄木が関係しているのか?

 考え過ぎだと一蹴するも、不意に嫌な感が背を 這い上がった。

 茶屋で別れる前、さくらは総の左目に気が付い た。彼が返答に困っているのを察してそれ以上は追求しなかったが、彼女が総について疑念を抱いたことは確か。

そ んな時に、駄木が総の昔をちらつかせたら、さくらは迷わずついて行くだろう。そして相手が危険だと悟ったから、大刀を携えて行ったのではないのか。

 懐から手を出す。わずかに震えていた。

 信じたくはない。あの男の目的は自分のはず。 さくらには関わりのないこと。それなのに─。

「明。ここでさくらさんの帰りを、待っているの ですよ」

「センセイ?」

 総は、明の返事も聞かずに踵を返した。

長 屋を出て永堀町を抜ける。伊勢崎町へ入り、真っ直ぐ行くと霊巌寺脇に出た。

通 りに人気はない。ようやく葉を茂らせ始めた木々が、葉擦れの音を強くさせた。風が逆巻く。

足 を止めた。

「駄木」

 さほど大きな声ではない。風に乗って、声は木 々に吸い込まれた。

 辺りを見回す。誰の影も見えない。

 眉を顰めた総は、

「駄木っ」

 声を荒げた。

 ざわり、揺れる葉に驚いた鴉が飛び立った。そ の後を、もう一羽の鴉が追う。

「呼んだ?」

 背後から不意に人気を感じた。駄木が薄く笑っ ている。

「貴方からオレを呼ぶなんて、珍しいこと」

 さも可笑しそうに、クスクスと笑った。赤い唇 が悪戯に歪む。風に、甘い香りが流れた。

「伺いたいことがあります」

 男の内を探ろうと、総は顎を引いた。

「さくらさんを、どこへやったのですか」

「さくら?」

 一瞬キョトンとした男は、その名を記憶から見 つけ出すと片頬を痙攣させた。笑ったつもりらしい。

「知らないね。あんな女」

「本当に?」

「しつこいなあ。オレの言葉が信じられない の?」

 何も言わず、ただ駄木を正視した。

 芝居の拍子木の音が遠くに響く。霊巌寺側の高 い塀の奥から、線香のにおいが漂っていた。二人の間を煙った風が過ぎる。

 焦れた男が、肩を竦めて口をヘの字に曲げた。

「もうオレの言葉も信じちゃくれないのかい。悲 しいねえ。オレはいつだって、総弥殿の味方なのに」

「いつだって……?」

「そうだよ。総弥殿が、命と引き換えにしてでも 助けたい人がいるって願った時、オレだけが力を貸したんじゃないか――鬼と呼ばれた、このオレがさ」

 一時も忘れたことがない人の面影が、左目の闇 に映し出される。

 生温かい春風のにおい。駄木の声に耳を貸し た、あの宵闇と同じだった。

―― あの瞬間。

総 が望んだのは、たったひとつ。消えかけた人の――父の命と、父が奏でるあの音色を、この世に留めることだけ。

そ の願いがすべてを変えた。

闇 の中から声をかけた胡凪という鬼に、左目を手付けに渡し、屋敷に戻った総が見たものは、自ら命を絶った父の姿だった。

「闇の力で命を永らえたところで、この人は決し て喜んだりしない」

亡 骸の傍に立ち尽くす友は、悲愴な目で総を戒めた。総が直視できぬほど、彼の瞳は悲しみを湛えていた。

あ の夜以来、心を痛めることも涙を流す感覚も失った。得る物など何ひとつない。生きている限りは、何、ひとつ――。

 駄木が首に巻く濃緑の布が、肩から滑り落ち た。

 やがて、小刻みに震えだす。クックック。喉の 奥から声が漏れる。

 眉を顰めた総に、男は顔を上げた。

 嗤う。

白 い歯が覗く。

三 日月のように目を細めた。

「あの女も、自ら死ぬ気かねえ」

「……何?」

 駄木がケタケタ笑い出した。腹を抱え、眦に浮 いた涙を手の甲で拭う。

「ありゃ、本物の馬鹿なのか。ま、こっちの手間 が省けていいけどさ」

「駄木、さくらさんは――」

 言いかけた総は、俄かに巻き起こる風に瞼を閉 じた。

舞 い上がる落ち葉が頬を掠める。掌で顔を覆った。

「――自ら命を絶とうとする者を止めるのは無理 だよ。それは貴方が、一番よく知っているじゃないか」

 耳に叩きつける風に紛れて、軽やかな声音が響 く。巻き上げられた砂が、袖を叩いた。

 そして、唐突に、風は止んだ。

 腕を下ろす。

 そこに駄木の姿はなかった。

 

 

 

十二

 

 夜が更けていた。

 夜回りも過ぎた町は、闇のしじまに沈んでい る。

月 が、流れてきた雲に覆われた。灯りもない往来には、川端の柳の影さえ映らない。葉擦れの音だけが、そこにある柳の存在を示していた。

 そして。

人っ 子ひとり見えない往来に、静かに響く音がある。

ザッ ザッザッと、足袋が土煙を上げる。ひとりや二人の数ではない。十人ほどの足音が一塊に進んでいる。

や がて、足音はある店の前で止まった。周りの店と同様に灯りは落ち、人の動く気配もない。

先 に立つ者が、手を上げた。音も立てずに前に出、閉ざされた戸を叩く。

「――もし」

 ドン、ドン、ドン。

 返事はない。

「もうし」

 二度目のおとないに、内から小さな声が返って きた。

「どちら様でしょう」

「千住の蔵の者でございます。夜分遅く申しわけ ありません。旦那様に、至急お伝えしなければならないことがございます。どうぞ、開けて下さいまし」

 切羽詰った声だが、戸は動く気配もない。

「何かあったのですか」

「麹に不具合が生じまして。お願いでございま す。中に入れて下さいまし」

 中は沈黙していた。

 戸が動く。

 待ち受ける一塊の者たちが、身を硬くして足を 引いた。腰の小刀を抜き放つ。鈍い光が、闇に吸われて同化した。

 戸が開いた。

 おとないをした男が、身を屈めて中へ押し込ん だ。すぐ後に、小刀を手にした男たちが続く。

 しかし、

「――ぐえっ」

 潰れた声を漏らし、戸口から男が吐き出され た。店から出てきた影に、男たちは一様に息を飲む。

「――杜氏は黒装束なのか」

 華奢な影が問うた。後ろ手に戸を閉めると、内 から心張棒をかう音がする。

「何者だ、てめえ」

 一団の先頭に陣取った男が影に相対する。しわ がれた声。

 聞き覚えのあるその声に、影がククっと笑っ た。

「やっぱり、あんただったのか」

「誰だって聞いてんだよっ」

 黒装束の塊が崩れる。影を取り囲んだ。

 殺気立つ中に立ちながら、影は臆する様子もな く男を見やっていた。

「命の恩人を忘れるかな」

「恩人だと?」

「そうだよ。ここで助けたじゃないか。――今、 放ってやったやくざ者に襲われてるのをさ」

 戸口から放り出された男は、起き上がれないほ どに腹を強打され、口から泡を吹いている。痙攣を起こすその顔は、紛れもなくさくらが篠崎屋の前で伸した三人組のひとりだった。

「てめえは……あん時の」

「この顔、やっと思い出したのかい。爺さん」

 さくらが、にやりと笑う。

 彼女の余裕が、男の神経を逆撫でした。みるみ る顔が赤くなる。

「――あんたが、鬼蜘蛛の修藏だったんだな」

 さくらの顔から笑みが消えた。強く睨む目に、 怒気が滲む。

「上方に逃げたと見せかけて、頭のあんたはこっ ちに残ってたってわけか。押し込み先の金回りを調べるために、自ら店に入り込む芝居をうつとはね。なぜ皆殺しにするのか、これで合点がいく。顔を見られて いる者を、生かしちゃおけないもの」

「なかなか、上手い手だろ」

「好意を逆手に取るなんて、人のすることじゃな いっ」

 両手を握り締め、さくらは声を荒げた。白足袋 で直に触れる地から、冷たさが足裏に沁みる。

「篠崎屋には指一本触れさせない。私が相手に なってやるよ」

「過信はいけねえな、お譲ちゃん。いっくら強い と言っても、こっちは十人。たったひとりで、何ができる」

「ここで私がやらなきゃ、また人が死ぬ。だった ら、ひとりだってやってやるさ」

「ふ。笑わせるんじゃねえや。相手が悪りぃや な」

「その言葉、しっかりあんたの肝に銘じておき な」

「気に食わねえな。その面見るだけで、虫唾が走 る。――野郎共、やっちまえっ」

 地に這うような修藏の声に、仲間たちが腰を屈 めた。

小 刀を構えたひとりが輪を崩す。

「でりゃああっ」

 左後ろから突き出される小刀を、左足を引いて やり過ごした。体勢を立て直す間もなく、今度は背後から別の男が刀を振り回す。

右 足を軸にそれも躱して、さくらはそのまま刀を抜いた。

闇 の中でも閃く、刀紋。

男 たちが、一瞬、怯みを見せた。

「ビビるなっ。早く片付けちまいな」

 輪を外れた所から修藏が叫ぶ。喝に背を押さ れ、三人が同時に刀を振り上げた。

 勢いだけは揃っている三人の刀を、さくらは一 本の刀で受ける。衝撃で腕が痺れる。間近に迫る刃をどうにか押さえ込んだ。

す ぐさま、背後から刀が襲い掛かる。

「――っ」

 さくらは視線だけを動かし、それを察した。素 早く腰の鞘を引き抜く。鞘に結んだ緋色の飾り房が、鮮やかに弧を描いた。

「がっ――」

 鞘の先が、背後を切りつけようとした男の脇腹 に食い込んだ。声にならない息を残し、男はどうと倒れる。

前 の三人も、右手一本の力だけで押し退けた。二人が尻餅をつく。持ち堪えたひとりが、再び刀を振り上げた。振り下ろされる前に、さくらの刀が真一文字に胴に 入る。唾を撒き散らし、男が失神する。その腹から、血が流れ出ることはなかった。

 夜気がしんと静まる。荒い息遣い。それが男た ちのものであることは、明白だった。

さ くらの肩は微塵も上下していない。

「峰打だ。ただし、当たり所が悪かったら死ぬか らな」

右 手に大刀、左手に黒塗りの鞘を携え、彼女は周囲の男たちを威圧する。

盗 人も馬鹿を装おう気はなく、さくらの間合いのぎりぎり外を囲んだまま踏み込んでこない。ゆっくりと横に足を滑らせる。しだいに、黒装束が闇に紛れた。

さ くらはその場を動かなかった。懸命に耳を澄ます。それだけに集中すると、足袋が地を擦る音がよく聞こえた。

足 音が乱れた時、さくらが上体を捻って鞘を突き出した。踏み出していた男の脇を掠める。それでも、決定的な一撃にはならなかった。男はすぐに体勢を直し、刀 を逆袈裟に振り上げたのだ。

全 身を引いてどうにか躱すも、彼女の体勢は明らかに崩れた。

「だああっ」

 ここぞとばかり、五人が一斉に切り込んだ。

前 後左右から迫る殺気。振り下ろされる、刀の煌き。それを瞳に焼き付けて、さくらは息を止める。

 ふと、彼女の影が消えた。いや、消えたように 見えた。

「ぐへっ――」

 正面から襲った男が、上体を曲げて吹っ飛ぶ。 体は地を滑って向かいの店にぶつかった。咳と共に血を吐き出す。手を離れた小刀が、篠崎屋の店先に当たって軽い音を立てた。

 咄嗟に屈んで、男を鞘で押し退けたさくらは、 空いた場所で四つの追撃を躱した。刀と鞘に伝わる振動が、一時も休まる間もなく腕に伝わる。指先の感覚がなくなりそうだった。

 手から得物が離れてはお終いだ。

 相手が間合いをはかっている間に、素早く鞘の 飾り房を解く。歯で噛んで、手に強く巻きつけた。万が一の時、鞘一本で勝てるとも思わないが、手ぶらよりは遥かにマシだ。

た だ、両手に得物を持つと、一打にかかる力は半減する。打撃を与えられないということは、起き上がってくる者まで余計に倒す分、さくらの体力はみるみる減っ ていく。

 ――早いとこ、勝負つけなきゃな。

 緩く上下し始めた肩に、チッと舌打つ。汗に滑 る柄を持ち直した。

「苦戦かねえ、お譲ちゃん」

修 藏がにたりと笑う。

彼 はあくまでも安全な所から成り行きを見ているつもりだ。さくらの位置から修藏までは二間ほど。その間には、黒装束が三人。一気に修藏に斬り込むには無理が ある。斬り込んだとしても、さくらが三人を相手にしている間に、修藏は闇に紛れて逃げるに違いない。

加 えて、彼女の背後にはまだ無傷の男が四人もいる。下手に隙を見せれば、容赦なく斬りかかって来る。

 ――だが、逃がすもんか。

 修藏だけは、何がなんでも捕らえてみせる。

 二度と、鬼蜘蛛の犠牲者を出させはしない。

彼 が殺した幾人もの無念を、あの男に分からせてやらなければ。地獄を地獄だとも思わない者を、これ以上、野放しにすることはできない。

 命を賭す覚悟に等しい想いで、さくらが修藏に 正対する。背中の一部が無防備になった。

目 の前の男たちは、それぞれに刀を構えた。修藏が、一歩足を引く。

 背後でひとりが色めき立つ。振り下ろされる太 刀風を感じながら、さくらは足を踏み出した。

 その瞬間――、

 辺りが光に包まれる。

 闇に慣れた目は光に潰され、思わず瞼を閉じ た。

「御用だっ」

「神妙にしやがれっ」

 目を瞑ったさくらの耳に、そんな声と無数の足 音が聞こえた。薄く目を開ける。前後左右の道から、御用堤燈が突き出ていた。それに続いて出役姿の同心たちも姿を現す。

 黒装束は、光の中では隠れようもない。伸びて いる者は抵抗なく捕らえられ、無傷の者は突棒や差股の餌食になっていく。

 奉行所の者と盗賊一味が入り乱れる中、さくら は必死に修藏の姿を捜した。

今 しがたまでいた場所には影も形もない。代わりに岡引が倒れていた。

「くそ――」

 吐き捨て、倒れた岡引へ駆け寄る。頭を巡らす と、横の細い路地が目に入った。その奥へ、血の跡が点々と続く。

―― 修藏は手傷を負っている。

迷 うことなく、路地を入った。

 ここで逃がすものか。その想いだけで、闇の中 を駆けた。

 しばらく走り、やがて前に黒い影が見えてく る。しょせん年寄りの足。手傷を負った今、追い付くのは容易い。しかもこの先は川だ。逃げ場はない。

 追っ手の気配に気が付いた修藏は、不意に足を 止めた。

さ くらも、間合いを取りつつ、立ち止まる。

ちょ うど川端の辺りだった。夜風に柳が揺れる。川のにおいに紛れて、血の臭いが鼻をついた。

 修藏が振り返る。

 左の肩口が、生々しい黒い血に濡れていた。指 先を伝って血が滴り落ちる。地に、黒い染みが広がった。

「てめえだけは許さねえ。――ぶっ殺してや るっ」

 地の底から響く、低く濁った声。並みの者なら 体が竦むような、威圧的な空気を身に纏っている。

 だが、さくらには、身を必死に守ろうともがく 手負いの獣の呻き声にしか聞こえない。

「その前にひとつだけ答えろ。おカヨの行方に心 当たりがあるだろうっ。どこにいる」

「知らねえなあ。あんなガキのことなんかっ!」

 手にした刀を、一気に振り下ろした。思わぬ素 早い動きに、さくらが一瞬体勢を乱す。

 続けて刀が唸る。

 袖を掠める感覚があった。

 さくらは右足を一旦引き、地を踏みしめて左足 を踏み出した。両の得物を同時に振り切る。

ガッ ――。

 鈍い音が川音に交じる。

「……あんなガキか。よかったよ、あんたが気付 いていなくて」

 刀の棟は修藏の左肩に、鞘は右脇腹に入ってい た。

修 藏の手から刀が滑り落ちる。

力 を抜くと、一味の頭はその場に拉げたように倒れ込んだ。黒い背はぴくりともしない。伸ばす指先だけが痙攣していた。

 さくらが腹から息を吐き出す。今更のように、 肩が激しく上下した。刀を鞘に収めるも、感覚が薄れた手は小刻みに震えた。軽く握る。力が入らず、拳は緩く開いたまま固まった。

「おい」

「わっ――」

 安心しきった所へ、突然、後ろから声をかけら れ、さすがに半歩飛び退いた。

 振り見ると、香上が渋い顔で立っている。

「危ないことはするなと、言ったはずだがな」

 と、こちらを睨みつける。

「あ」

 答えに窮する彼女の横を、香上の手下が擦り抜 けて行った。修藏に縄をかける。首を垂れたまま、修藏は連れていかれた。

 遠くの捕り物の音が耳につく。まだ、抵抗して いる者がいるらしい。あの御用堤燈の数ならば、この辺り一帯は役人で固められているはずだ。

無 駄なあがきをする。そう思っていると、

「死ぬ気か、阿呆」

 香上がぼそりと呟いた。

 さくらは、怒っているような、悲しんでいるよ うな複雑な表情を見た。いつもの傲慢で厭味な顔ではない。本気で怒って、そして心配をしていたのだ。

「ごめんなさい……」

 項垂れる彼女に、香上はもう一度言う。

「俺たちが来てなけりゃ、お前殺されてたぞ。奴 ら、お前を殺して、篠崎屋に押し入るつもりだったろうさ。篠崎屋の者を皆殺しにして、金を奪う。お前が刀を抜いたところで、骸が一個増えるだけだったんだ よ」

 言い返すことができなかった。

あ の瞬間、町方が来ていなければ、彼女の背は真っ二つになっていた。今頃は修藏に一太刀も浴びせることなく、三途の川の渡し賃を数えていただろう。

「手をやかせるな」

 鼻から大きく息を吐き出す。

 大人しく苦言を飲み込んでいたさくらだが、不 意に引っ掛かることに思い至った。

「でも、どうしてここが分かったんですか。私 は、誰にも行き先を言ってなかったのに」

「こいつ……分かってんのかね」

苦 々しげに呟いた香上は、顎で後ろを指した。

「この男が、番屋に駆け込んできた」

 塀の陰から姿を現した影が、香上の隣に並ん だ。

「総さん」

 思わず、瞠目する。

 総は無言で前に歩み出た。微笑みの見えない顔 が、さくらを見下ろす。

「お前の名を出して、すぐに捜せと動かなかっ た。たまたまいたのが俺の手下で、お前の名を聞き知っていたからよかったんだ。すぐに俺ンとこに話がきた。この男の話を洗い浚い聞いて、ピンときたね。お 前、一昨日会った芸者の話から、次に鬼蜘蛛が押し入ろうとしている店の当たりをつけたんだろう。そして、奴らを待ち伏せしていた。――無茶しやがって」

吐 き捨てるように言い、香上は踵を返した。来た道を引き返す。捕り物に戻るのだろう。

 すっと伸びた総の手が、さくらの左手に触れ た。まだ飾り房が巻きついている。彼の眉間に皺が寄った。

「こんなにきつく締めて……。傷が残ったら、ど うするんです」

 手に巻きつけた紐を丁寧に解く。甲から掌にか けて、赤く太い跡が残っていた。微かに血が滲んでいる。

「心配、しました」

 裂いた手拭いで傷を包みながら、総が言った。 両の目が、わずかに細まる。眩しい陽光にも反応しなかった左目に、哀しみ以外の色が見えた気がした。

 ああ、こんな目をしてくれたら、兄上はきっと ――。

 泣きたい衝動に駆られて、さくらはそれを抑え 込もうと、緩々と笑った。

「ありがとう」

 手拭いの端を甲で結んで、彼は顔を上げた。

「いいえ。本当に、無事でよかった」

 微笑が浮かぶ。刀をさくらの手に戻した。

ず しりとくる重みに、左手の傷が痛む。黒塗りの鞘には無数の傷がついていた。本来ならば、身に負っていたかもしれない傷だ。可哀想にと、指先で撫でる。

愛 おしく見つめ、腰に差した。響く衣擦れの音。収まるべきところに収まった刀は、ひどく重い。立ち合っている時は無我夢中で振り回していたが、やはり常から 持ち歩くものではなかった。昨今の武士の中には、平素は竹光を差している者もあると聞く。戦国乱世が遠いものとなった今、刀などは無用の長物なのかもしれ ない。

耳 を澄ますと、捕り物の喧騒が消えていた。一味は残らず縛についたと見える。

「総さん、戻ろうか」

 やっと顔を上げたさくらは、総の表情に口を噤 んだ。微笑が消え、代わりに切なげな目顔をしている。

そ の視線は、さくらを見てはいなかった。 

 訝しんで振り返る。

 瞬間、瞠目した。

 川向の柳の袂。朱色の袖が、風に揺れる。

「あの子だ」

 辰巳屋が襲われた晩。さくらの袖を引いた少女 がそこにいた。こちらを見つめる目は、あの日より幾分穏やかに映る。

「君は」

 さくらが一歩近付いた。

 くるり。

少 女が踵を返す。

「待って――」

 小さな袖が翻る。

そ のまま角を曲がって消えた。



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