十二(二)


 少女を見失いそうになると、必ず総が手を引い た。不思議と彼が導く先に少女は待っているのだ。少女も総の存在を認めて、駆ける速さを落とそうとしない。パタパタと袖が音を立てる。鞘の緋色の紐も揺れ ていた。

少 女を追って辿り着いたのは、鬱蒼とした木々に囲まれた廃寺だった。細く撓る幹が、黒々とした空に突き立つように伸びている。遥か上に葉が茂っているらし く、微風に擦れる音がカサコソとさんざめく。

「ここ、先の火事で焼けた寺じゃないか」

 前を行くさくらが呟いた。

辺 りを見回しながら注意深く足を運ぶ。後ろについた総は、目の前に現れた堂に目を瞠った。

「焼け落ちていますね」

 炭と化した柱と、煤けた屋根。あるのはそれだ けだ。床も所々が焼け落ちている。人絶えて久しく、進む玉砂利の間からは草が生えていた。

「火事では住職も亡くなってね。寺を修繕する人 もいなかったんだよ。それから人足も遠退いて、今じゃここに無縁仏を葬っているそうだ」

「元は立派なお寺だったでしょうに」

「ああ。名のある武家の墓もあったりしたけど」

 雨戸も障子戸も焼け落ちた本堂は、闇に倣って 黒々としていた。ぽっかり開いた穴を覗き込んでいるようで、吸い込まれそうな感覚に陥る。

そ の正面に、少女は立っていた。右手を伸ばす。小さく細い腕が袖口から覗いた。

 こっちへ。

 声は聞こえなかった。口が動いた様子もない。 しかし、さくらには確かにそう聞こえた。

 計り兼ねて総を見上げる。彼は大きな手で肩を 支えてくれる。

「大丈夫ですよ」

 彼の言葉に頷いて、さくらは足を踏み出した。

 堂に入るには五、六段ほどの階段を上らなけれ ばならなかった。それも火に焼けて煤けている。足を置くと、踏み板がミシミシと音を立てた。

 上がりきり、少女の目の前に立つ。

 さくらを見上げる目。

怯 えた目ではない。ただ、どこか寂しげな色を湛えている。

 そっと、さくらの袖を引いた。

 あの日と同じく導かれて、暗い堂の中に足を踏 み入れた。

 何も見えない、真の闇。

目 の前を歩く少女の姿も闇に同化する。歩く気配は伝わってくるものの、その足がどこへ向いているのかも分からない。奥へと足を向けているようで、外へと通ず るほうへ足を向けている気もする。当然、床板も見えず、焼けて脆くなっていなければいいがと歩いていたさくらは、少女が止まった気配に足を止めた。

「どうしたの?」

 少女がいるだろう場所に目を向ける。袖を掴ん でいる感覚はあるが、その姿を認めることはできなかった。

「何か、あるのか?」

 問うても、やはり少女は何も答えない。声を出 せないのだろうかと諦めて、さくらは前方へ顔を向けた。眉根を寄せて、先にあるものを見極めようとする。

す ると、

 ジ――。

 小さな灯りがともった。驚いてそちらを見向 く。

さ くらの目が、しだいに見開かれていった。

 焼け残った灯明台に、小さく揺れる灯りが映 る。辺りの闇が薄くなった。

そ の灯明台の脇。朱色の着物を着た少女が立っている。

 反射的に自分の袖を見つめた。わずかな皺が確 かについている。

 今の今まで袖を掴む感覚はあった。彼女がいつ 手を放して灯明に灯をともしたのか、それが分からなかった。彼女が動いた気配もない。火打石を打つ音もなかったのだ。

 突然、湧き出たかのようにともった灯火。

解 を出そうと試みるが、頭は何かを考えられる状態ではなくなっていた。軽い混乱が思考を停止させている。

 少女が、沈黙したまま手を横に伸ばす。

 さくらは、呆然と指差す先を見つめた。

灯 明で仄暗くなった先、煤に黒くなりながらも持ち堪えた大黒柱の下に、彼らは蹲っていた。

「――おカヨっ」

 その顔は、ずっと捜していた壱屋の娘だ。隣に は、少年の体が見える。二人は寄り添うように、柱に背を預けていた。

 だが、二人の体は微動だにしない。

   駆け寄り、傍に屈んだ。顔を覗き込む。瞼は固く閉ざされ、睫毛が頬に薄く影を落としている。

カ ヨの頬に触れると、ふっくらしたそれは、優しく温かい。同様に一太にも触れてみたが、生きる者の温もりは失われていなかった。よく見れば、胸も微かに上下 している。

「寝ているだけか」

 安堵して、緊張した体から力が抜けた。

 ふと、朱色の着物の少女が、二人の傍にしゃが み込んだ。立てた膝に顎を乗せ、右手を伸ばす。指先で一太の髪を優しく梳いた。

 愛おしそうに、細まる目。

 ――ああ。

 さくらの中で、やっと心につかえていたものが 落ちた。

「染広屋の、下の娘だね」

 少女が、カヨと一太を見つめたまま、小さく頷 く。

「君が、二人をここに連れてきたのかい」

 再び小さい頭が揺れた。

「どうして――」

 はっと、口を噤む。

 少女が顔を上げた。

 唇を引き結び、頬を真っ赤にしていた。わずか な灯明に瞳が揺れる。

 その目が、何より雄弁に語っていた。

 死の瞬間、父母に抱かれることもなく、冷たい 床下でひとり永久の眠りにつかなければならなかった、幼い少女。

彼 女は兄弟の中で、たったひとり命を奪われた。一瞬の内の闇。導く者もなく、死を受け入れる術も持たないこの子は、ずっと独りだったのだ。

寂 しさ、恋しさ、心細さ。

少 女を支配していた、それがすべて。

「――もう一度、会いたかったんだね」

 この子が、とても愛しく思えた。手を伸ばし、 頬に触れる。

 ――温かい。

 それが自身の手の温もりであっても構わなかっ た。この頬に、自分の温かさが伝わればいい。少しでも、同じ熱を感じてほしいと思った。

 少女の手がさくらの手に重なる。頬を掌に預け て、目を閉じた。

涙 が伝う。

唇 がわずかに緩む。

 すう――っと。

 そんな音が、聞こえてきそうだった。

 少女の手が離れる。体は薄れ、薄闇に溶けるよ うに、少女は消えた。

 さくらが、掌に残った涙の跡を握り締めた。冷 たい感触に瞼をきつく閉じる。

嗚 咽を漏らさぬように、奥歯を噛み締めた。顔を腕に埋める。

 ジジ。

 灯明が揺れる。

薄 闇に、三つの影が揺らいだ。

 

 

 

十三

 

長 い、夢の中にいたのです。

 

 わたしは、小さい坊やを抱いていました。まだ 立って歩けない坊やを、わたしが抱いて歩いていました。よくそうしていたのだと思います。坊やの重みが腕に馴染むのです。揺らしてあやすと、キャッキャッ と声を立てて笑ってくれました。おくるみに包まれて笑う坊やを、わたしはとても愛おしく感じました。

 気が付くと、坊やを抱くわたしの周りを、女の 子が走っていました。

鮮 やかな朱色の着物は、あの子が気に入っていた着物だと分かりました。あの子は楽しそうに、本当に楽しそうに笑いながら、クルクル回っていました。

わ たしもなんだか楽しくなって、一緒に走りました。抱いていたはずの坊やも、一緒に駆け回っていました。すっかり大きくなっていましたが、間違いなくわたし が抱いていた坊やです。

あ の子の朱色の着物と、坊やの青色の着物が、まるで蝶のようにクルクルとわたしの周りを駆けていました。

 でも、ふと立ち止まると、なんだか無性に悲し くて、ひどく申しわけない想いが心を締め付けるのです。あの子に謝らなければいけないのに、それがなんなのか思い出せず泣きたく思いました。

 そうしていると、あの子はわたしの袖を引い て、穏やかに笑うのです。本当に穏やかに、安らかに笑うのです。

 わたしは、あの子の手を取って、走りました。 もう二度とこの手を離すまいと、強く手を握りました。

そ うしたい、強い想いがあったように思います。

あ の子は笑いながら、わたしについてきました。

 ただただ、一緒に遊んでいました。一緒に笑っ ていました。

 

 長い、長い、そんな夢を見ていたのです。

 

 

 

十四

 

 カヨも一太も、消えてから廃寺の中で目を覚ま すまでの一切を覚えていなかった。夢を見ていた。二人はそう語った。

そ の夢は、悲劇が起こる前の兄弟たちの幸せなひと時。こう在りたかった、あの少女の願いだ。

カ ヨは、夢から覚めた後も、三年前の惨状を思い出しはしなかった。

惨 劇を思い出す必要はない。ただ、共に遊びたかった。ほんの少し、傍にいたかった。

少 女が願ったのはそれだけのこと。その想いが、鬼蜘蛛一味が舞い戻って来たことに敏感に反応し、不安を掻き立てた。不安は、カヨや一太に危害が及ぶのではな いかという恐怖に変わり、結果、少女は二人を隠すに至ったのだろう――。

総 が、ゆっくりと歩を進めながら告げた。

彼 の背で、カヨは再び眠りに落ちていた。さくらの背では一太が眠っている。静かな寝息が耳元を擽った。

起 きた時、彼らはさくらと総を覚えていないかもしれない。焦点の合わない寝惚け眼では、夢と現の区別も付かなかったはずだ。 

そ れでいい。二人はそう思った。

何 もかも、夢の中の出来事だったのだ。朱色の着物の少女と遊んだことも、三年前の惨状も、すべて夢だった。カヨと一太には、今を共に生きてくれる人がいる。 これからを幸せに生きるために、忘れるべきこともある。

「あの晩、あの子が永代橋で私の袖を引いたの は、たぶん、辰巳屋の者たちを早く見つけてほしかったからだろうな」

 壱屋まで歩く道すがら、さくらが呟いた。

隣 の総は微かに頷く。

「彼らの姿が、自分と重なって見えたのでしょ う。同じ運命に落ちてはいけないと思ったのかもしれません。誰にも見付からず、寂しさと孤独の中に埋もれる想いは、死してなお幼い少女の心を締め付ていた のですから。それに――」

一 瞬間を置き、言おうか言うまいか逡巡した総だったが、さくらの顔を見据えて目を細めた。

「それに、あの子には分かったのかもしれませ ん」

「何が」

「貴女が、仇をとってくれると」

 ふと、さくらは視線を落とす。唇を噛み締め た。

「それが、私が彼らのためにしてやれることだっ たからかな」

「そうかもしれません」

「だとしたら、あの子は成仏できたんだろうか」

「おそらくは」

「本当にそう思う?」

「ええ」

 さくらがゆっくりと顔を上げた。ひんやりとし た風が、髪を撫でる。

「そうであってほしいな」

 カヨと一太をそれぞれの家に送り届けた二人 は、白々と夜が明ける頃、長屋に戻った。

疲 労困憊で、さくらが戸に手を掛ける。何しろ、持ち慣れない大刀を携え大立ち回りをしたのだ。一刻も早く横になりたい。しかし、そのささやかな願いは、ほん の少し先延ばしになった。

 部屋に明がいたのだ。

 一睡もしていないような赤い目をして、現れた さくらに掴みかかる。

「どこ行ってたのっ」

拳 を胸に叩きつけた。珍しく声を上げて泣きじゃくる明を宥めながら、さくらは何度も何度も謝った。

「ごめん、明。心配かけて、ごめんね」

 肩を抱き背中を擦る。明の体は震えていた。

「本当に、帰って来なかったら、アタシ、どうし ようかと思った」

 怖かった。

呟 いて、さくらの胸に顔を埋める。強く回された腕を、振り解く真似はできなかった。

も しも自分が死んでいたら、それはきっと、彼女の信頼を裏切る行為になってしまうのだろう。兄に置いていかれた時に感じた痛みを、明にも感じさせてしまうと ころだった。

「明、ごめん」

 一際強く明を抱き締める。彼女が肌身離さず身 に付けている鈴が、チリリと揺れた。ひづきの鈴の音にも似ている。漠然と、後でひづきにも謝らなければと思った。

「明、さくらさんは疲れていますから、それくら いにしておきなさい」

 総が、離れたがらない明を宥める。グスンとひ とつ鼻を啜って、明は体を離した。二人連れ立って部屋を出て行く。

さ くらはようやく大刀を置いた。崩れるように畳に横になる。意識はすぐに薄れた。

 ――そして、二刻後のこと。

「この阿呆。起きやがれっ」

 深い眠りに落ちていたさくらは、香上の怒声に 目を覚ました。

ど うやら昨夜の説教の続きらしい。心張棒をかけていなかった自分に舌打ちしながら、のろのろと起き上がったさくらを前に据えて、香上はこれでもかというほど 阿呆を繰り返した。

耳 を塞ぎたい気分で、厭味ったらしい言葉を盛大に聞き流す。欠伸を何度噛み殺したか。

「――ったく。お前って奴は」

 苦言を素直に聞く気もない様子を察して、香上 はついに微苦笑を浮かべた。呆れたと顔に書いてある。

説 教を始めてから半時も経っていた。これ以上、長居もしていられないのだと、腰を上げる。

 ――だったら来なくてもよかったのに。

 さくらは寝不足の頭で悪態をついた。

不 意に、香上が視線を向ける。

「な……何か、聞こえましたか」

「何、慌ててやがる。いや……かどわかしにあっ た二人が帰ってきたという知らせがあってな。夜が明ける少し前に、家の前にいたらしい」

「へえ」

「それが、今までどこにいたのか、誰に連れ去ら れたのか、まったく覚えちゃいなかった。気が付いたら家の前にいたって言うんだ。巷じゃ、神隠しだのなんだのと騒いでいやがるさ。……まさかお前、この件 にも関ってるんじゃねえだろうな」

「ご冗談を。こっちは盗賊との立ち合いでヘトヘ トでしたから。総さんと長屋に戻ってから、旦那に起こされるまで寝てましたよ。大方、本当の神隠しだったんですよ」

 訝る視線に、白々しく明後日のほうを向いて、 唇を歪める。

―― それでいいんだ。

心 の中で呟いた。

「鬼蜘蛛一味がお縄になったのと同じ夜に、二人 が帰って来たってのは、単なる偶然かねえ?」

「そんなこと、知りませんよ」

 なおも追求の目をくれるが、さくらは白を切り 通した。鬼蜘蛛とカヨ、一太を繋ぐ、目に見える証など何もない。壱屋の主人夫婦が口を閉ざせば、全部が元の鞘に納まる。

「どうにも信用できねえなあ」

ブ ツブツ呟いた香上は、

「そういえば」

 ニヤリ。意地の悪い笑みを浮かべた。

「今回のお前の手柄、ちゃんと道場にも報せてお いてやったぜ」

「――なんだってっ」

 思わず立ち上がる。微かによろめいたのは、寝 不足だからではない。体中から血の気が引いていく。

「なんてことをしてくれたんですか」

 それ以上、何も言えず肩を落としたさくらに、 香上は満足そうな笑顔を見せ、

「じゃあな」

意 気揚々と去って行った。

「この、狸野郎っ」

 ――昨夜の仕返しにしては大きすぎやしない か?

と にかく、寝ている場合ではない。

土 埃にまみれ、切り裂かれた着物を脱ぎ捨てて、新しい物を着込む。髪を一旦解いてから、もう一度手早く結い直した。脇差を差して戸を開ける。

 総が立っていた。

「おはようございます、さくらさん」

 昨夜の疲れなど微塵も残っていなかった。いつ もと変わらぬ穏やかさで微笑する。

「遅くなりましたが、ご飯の用意ができています よ。明が用意してくれたんです」

「ちょうどよかった。総さん、一緒に来て」

「は――」

 答えを聞かぬ内に、さくらは彼の手を取って走 り出していた。

「どうしたんですか、さくらさん」

 さすがに、総が戸惑いの表情で問う。

先 へ先へと歩を進めながら、さくらは言った。

「あの狸同心、師範に昨日のことを言い付けや がったんだ」

「それで、どうしてわたしまで走っているので しょう」

「狸がどう言ったか知らないけど、師範の雷が落 ちるのは必至なんだよ。だからさ、総さん、危ない真似はしていなかったって、師範に言ってくれないかな」

「わたしに嘘をつけと仰る?」

「あながち、全部が嘘ってわけでもないよ。勝算 があったから、ひとりで一味を待ち受けようと思ったんだし」

「それは勝算ではなく、無謀というのです」

「総さん、旦那の厭味に似てきたんじゃない?  とにかく――あ」

 永代橋に差し掛かった時、唐突にさくらは足を 止めた。その背にぶつかりそうになった総が、慌てて身を引く。草履が滑って、欄干に手をついた。

「今度はどうしたんですか」

「ちょっと、ここで待ってて」

踵 を返し、そう言い残して道を引き返した。総の呆れた表情など見えなかったに違いない。

 

 

 

 さくらを見送った総は、川面に視線を移した。

荷 を運ぶ舟の往来が激しい。黒く日焼けした腕が、逞しく生き生きと櫂を操る。

川 縁を棒手振が歩いていた。上からは桶の中身がよく見える。鱗が、黒く艶やかに光っている。鯉が踊っていた。

「あの女、生き延びたんだねえ」

 背後から流れる、甘い息。

 総は驚く様子も見せず、ただ目を細めた。

 駄木が総の隣に並ぶ。欄干に背を預けて、空を 見上げた。

「貴方が役人なんて呼ばなければ、あの女、死ん でたのに」

「さくらさんは、自暴自棄に死を選び取ろうとし たんじゃありません。命を賭けて、そこにあるべき人を守ったのです」

「だから生き延びた、とでも? もしかして、自 分の姿と重ねてるの?」

「いえ。どちらかといえば、わたしは前者ですか ら」

「そう言われちゃあさ、オレのしたことはなん だったのかって思うね」

 飛んでいった凧を恨めしく眺めるように、駄木 は顎を上げた。

 春風が二人を掠める。土埃が舞い上がった。

「自分のしたこと、どうしてまだ隠してるのさ。 手を取って走るほど親密な仲なのに。まさか、このまま騙し続けるつもり? 後見人を引き受けてくれた奇特な人にも、無害な顔をして嘘をつき続けるの?  ――だったら聞くけどさ。なんのために、今まで独りで生きてきたのさ」

「独りではありませんよ。いつも、誰かに助けら れてきました」

「でも、誰も本当の貴方を分かっちゃいない。 ずっとずっと、真の顔は隠し続けなきゃいけないんだ」

 総は口を閉ざした。瞼を閉じようにも、その先 に広がる闇が怖くて、どうにもならずに拳を握る。

 駄木が薄く笑った。

「そんなに辛いのなら、オレと一緒に来ればい い。オレだったら、孤独になんかさせないのに」

 口調は、軽口とさほど変わらない。

 だからこそ、総は慎重に言葉を次ぐ。

「その言に甘んじたら、先にあるのは底なしの闇 でしょう」

「はっ、言ってくれるじゃないか。その力を必要 としたのは、どこの誰だい」

 駄木が眉を顰めた。 

 誰かが蹴った石が水面を揺らした。波紋が幾重 にも円を描く。やがて、それは跡形もなく消えた。

「駄木」

「何?」

「わたしの命を奪う気がないのなら、そっとして おいてはくれませんか」

「いきなり、何さ」

「貴方が、わたしに縛られてはいけない」

 総は自嘲的な目をして笑っていた。

 声音は、とても静かに響く。

「何、言ってんの」

 意味が分からないとうよりは面白がっているふ うに、駄木が聞き返した。

 そんな好奇の視線を向けられようと、総は一向 に構わない素振りで答えた。

「悪いのはすべてわたしです。それなのに、貴方 は永い間自由を奪われた。もう、わたしに囚われることなどないでしょう。貴方は、貴方の人生を好きに生きればいい。どこへでも行き、楽しく暮らせば――」

「人生だって?」

 クツクツと、男の喉から声が漏れた。肩が小刻 みに震える。震えは徐々に大きくなり、しだいに腹を抱えて声を立て始めた。

 総はそれでも、佇まいを崩そうとはしなかっ た。

両 手を欄干につき、川が流れる様を注視している。

 いや――。

そ の左目に映っているのは、穏やかな流れではない。

最 後に映った炎の片鱗。闇に蠢く、自身の肢体だ。

 駄木の気違いじみた笑い方に、どこかの丁稚が 遠巻きにして橋を渡る。一瞬、足を止めた駕籠かきは、そそくさとその場を通り過ぎた。

 一頻り笑った後、男は嗤笑を浮かべた。

「人生ってのは、人が生きることを言うんだろ。 オレには関係ないね」

 勢いをつけて欄干から背を離す。下駄が軽やか に橋を蹴った。

「ねえ、総弥殿。貴方の居場所はこちら側だよ。 それを、忘れないでよね」

 耳元で囁く声に、甘い息が混じる。

 鼻につく前に、風に流れた。

 下駄の音が遠くなる。やがて他の足音に紛れ て、分からなくなった。

「――総さん?」

 いつの間に戻って来たのか、ふと顔を上げる と、先程まで駄木がいた場所にさくらが立っていた。

な ぜか訝しげに、橋の先を見つめている。

「今ここにいたの、新井さんじゃなかった?」

「新井……いいえ。存じ上げない人でしたよ」

「何か話していたように見えたけど」

「道を聞かれたものですから」

「そう」

 なおも視線をやる先に、彼の姿はなかった。

「じゃあ、私の見間違いだ」

 喧騒と活気に満ちた先から、総に視線を移す。 彼がさくらの手元の物を指差した。

「これを取りに行っていたのですか」

「直しに出そうと思って」

 そう言って、傷だらけの大刀を愛おしそうに撫 でた。

「刃も欠けちゃってるんだ。なんだか可哀想で しょう」

 自分の身代わりとなって、刀を受けてくれた。 このままでは心が居た堪れない。

「剣客にとっては大事なものですからね」

「剣客にとっても、もちろん大事なものだけど、 私にはもっと特別なものでね。――これ、兄上が使っていた刀なんだ」

「いなくなった、お兄様の?」

「そう。兄上は、私と、この刀を置いていった。 もう要らない。そういう意味だったのかもしれない」

「そんなこと、あるはずないです」

 嘲るような言い方に、強い口調で嗜めた。

 さくらは、ほろほろ、笑う。

「冗談だよ。そう思っていたのは、ほんの初めだ け。今は、これを守り刀として置いていってくれたんだと思っているよ。師範に聞いたんだ。この刀には名があるんだって」

「どんな名ですか」

「『二藍(ふたあい)』。元々、刀が納まってい た鞘が深い藍色をしていたから、そう呼ばれるようになったそうだ。私が手にした時には、もう黒塗りの鞘に変わっていたけれど。二藍は、鞘の色から月夜の刀 と言われるらしい。刀身に、闇に巣食う邪気を吸い取って、持つ者を守ってくれると」

「刀には魂が宿るとも言いますし、お兄様の想い がたくさん詰まったものなんですね」

「でもね、総さん」

 橋を歩きながら、さくらは言った。

「刀は、しょせん道具に過ぎないんだ」

「道 具、ですか」

隣 で、総が首を傾げる。

「こ れ、ただの鉄の塊なんだよ。誰が持ったってそう。ただ、これを持つ人の心如何で変わるだけのことなんだ」

 人 を殺めることも、守ることもできる。自身を殺すことも、容易にできてしまう。

そ れを重々承知しているからこそ、大刀を差すことを控えているのだ。

「私、 死に急いで刀を持ち出したんじゃないよ。死ぬための剣術なんて、教わった覚えはないしね。師範が教えるのは生きるための剣なんだ。強く、しぶとく、生き残 るための剣。自分を守る手段としての剣術。それ以上になれば、刀は人を殺める道具にしかならない。反対に、それ以下なら、役に立たないただのガラクタだ」

「自分を守るために、大刀を携えて立ち回った と?」

 さくらは、小さく首を振った。

「自分の信念を貫くために、人を守りたいと思っ たんだよ」

 ああ、この人は――。

 総には、彼女がとても強い人に思えた。剣の腕 だけでなく、意志も、真っ直ぐな想いも、総が足元にも及ばないほど、強い。

さ くらは絶対に、相手を想って死を選びはしない。

 むしろ、相手と自分、共に助かる道を選ぶ人 だ。それがどんなに醜く、恥を晒すことであっても、助かる道が他にないのなら迷わずそちらを取る。

「さくらさんは、闇に捕まったりはしないでしょ うね」

 知らず口をついていた。

さ くらが顔を上げる。

「何?」

「いえ、なんでもありません」

 総は眩しそうに目を細めた。左目が穏やかに歪 む。

「それより、わたしが道場に行かなくても、今の 話をされたほうがよっぽどいいのではありませんか。とても心に染み入るお話でしたよ」

「駄目駄目。師範に言わせれば、そんなことは当 たり前。どうしてもっと確実な手段を取らなかったのかって、どやされるに決まってる」

「それは、わたしも言いたいくらいですが」

「お願いだからさ、話を合わせてよ。終わったら 美味い酒をご馳走するから」

 取り縋るさくらに、

「ほう。それは楽しみですね」

 総は破顔一笑した。

 二つ並んだ背が、のんびりと橋を渡る。やが て、その姿は町人と人足の間に紛れていった。

 川面を風が渡る。柳の枝が嫋やかに撓む。囁く ような葉擦れの音が、陽光に溶けてさらさらと舞った。

 どこからか、淡い薄桃色の花弁が流れて水面に 浮いた。小さな波紋が滲む。微かに漂う、花の甘い香り。

悠 々と流れに任せて、それは消えていった。



≪了≫