(二)


「総さん、ちょっといい?」

 その夜。

戸 の外からそっと窺うように、おとなう声がした。

 声の主はさくらだ。

 総が応える前に、すでにひづきが戸に寄って鳴 き声を上げていた。真っ白な飼い猫は、尾の先だけが墨に付けたように黒く、首に下げた小さな鈴がチリリと揺れる。

 ――さくらさんには甘えた声を出すんだから。

 呆れた溜め息をつき、総は戸を開けた。

「どうしたんですか」

 長屋の住人も、それぞれの部屋で寛いでいる時 刻。泥溝板には、障子紙を透って漏れる弱い光が落ちていた。

 にゃあ。 

 ひづきがここぞとばかりにさくらの足元に擦り 寄り、声を上げる。それを抱き上げて、彼女は笑った。

「一緒に、飲もう」

 言う手に、しっかり酒の徳利を携えている。総 は思わず破顔した。

「つまみは沢庵しかありませんが」

「それで充分」

 右手にひづき、左手に徳利で、満面の笑みを 作った。

 総が沢庵を用意している間に、さくらは三つの 杯を酒で満す。ひとつをひづきの前に置いた。ちろりと舐めたひづきが、ぎゃっと声を上げ転げ回る。

 さくらが腹を抱えた。

「さくらさん、ひづきにお酒はダメですよ」

 沢庵の皿と水の入った椀を置きながら、総が嗜 めるも、

「だって可哀想じゃない。ひとりだけ酒盛りでき ないなんて」

 悪びれずにやにや笑い、酒を口に運ぶ。

「ひづきは猫です。しかも、まだ子供なんです よ」

「分かってるよ。だから一杯だけ」

「ひづきが二日酔いで大変な事になったら、さく らさんに面倒を看てもらいますからね」

「はいはい。分かってるって」

 椀に鼻先を突っ込んで水を舐めるひづきが、 なぁぁぁと切なげな声を漏らした。よほど舌に効いたらしい。

 だいたい、総から見たらさくら自身がまだ子供 だ。それなのに、この上戸っぷりはなんとした事か。

陽 が暮れかかる頃から飲みだして、夜通し飲んでいても平気なさくらの飲み方は、並みではない。それもそのはずで、道場にいた時は侃斎の晩酌に毎晩付き合って いたそうだ。

 総が杯を持ち、酒を喉に流す。さくら好みのピ リリとした辛口。冷で飲むにはちょうどいい。

 互いに手酌で空の杯を満たした。たまに沢庵の 歯ざわりのいい音がする。

酒 に懲りたひづきは、さくらの膝の上で丸くなっていた。背中を撫でて貰って、至極ご機嫌である。

「何か、ありましたか」

 徳利に手を伸ばしながら、総が口を開いた。

愛 おしそうにひづきを撫でる彼女に、いつもの元気がない。そんな気がした。

 小さな灯りが隙間風に揺れる。

 ポリ、カリ。

 さくらが沢庵をひとつ齧り、杯を小さく揺ら す。灯りがちらちらと歪に反射した。

「総さん。あの話、覚えてる?」

顔 を上げずに微笑んでいる。

「あの話?」

「永代橋には鬼が出る」

「ああ」

 総はちらり、ひづきを見る。

我 関せず。仔猫はごろごろと喉を鳴らす。

「総さん。あの時、鬼に会った?」

「さあ、どうでしたか」

 目を細めて、杯を傾けた。

「私は、会ったよ」

「白い着物を着た鬼ですか」

 ひづきが、ほんの少し体を硬くした。寒さに震 えたと思ったさくらは、小さな猫を袖で包んだ。

「いや。朱色の着物だった」

「朱色? それはまた新手な。それで、どうしま した。化かされましたか」

「それが、袖を引かれてね。押し込みに入られ た、米問屋に連れて行かれたよ」

「……辰巳屋ですか」

 無言で頷く。

 平八長屋でも、辰巳屋が押し込まれた話でもち きりだった。讀賣や人の噂で又聞きする者がほとんどだが、さくらがそれを発見した張本人だと知る者はいない。

 総も侃斎にそのことを聞いていなければ、到 底、信じなかったろう。

「よく、ご無事でしたね」

「まあ、私が駆けつけたのは賊が引き上げた後 だったから」

「しかしそこにたどり着く間に、逃げる途中の賊 に出会っていたかもしれない。本当に、危ないところだったと思いますよ」

「そうだね。夜も更けていたし」

「また飲んでいましたね」 

 それには答えず、さくらが酒を飲み干す。

 いつの間にか、彼女から笑みが消えていた。

 空の杯をそのままに、ただひづきの背を撫で る。

「見たよ」

 見たんだ――。

呟 いて、わずかに顔を顰めた。

「皆、死んでた。生きちゃいなかった。もう、冷 たくなってたんだ」

 言葉を継ぐその顔が歪む。きりりと唇を噛ん だ。ひづきを撫でる手も、いつしか止まっていた。

「奴らが押し入って二刻も後に、のこのこ駆け付 けたんだよ、私は。何やってんだろ」

 拳を握り締める。

 不穏な気配を感じ取って、ひづきが顔を上げ た。

「刀なんか差してても、誰ひとり救えなかった。 そればかりか、朝になったらいつものように稽古に行って、寝て、起きて…薄情な奴だよ」

 懐にしまい込んだ讀賣。

血 の臭いが染み付いた体。

戒 めのように残る、残像。

「まだ小さい奉公人もいたんだ。病気の母親のた めに、自ら望んで奉公に出た子。母親と別れて暮らすなんて、どんなに辛かったか。それでも辛抱して奉公していたんだ。泣きたい時もあっただろうに」

 どんなに恋しくても、帰れない。手間賃と一緒 に、便りを送ることしかできない歯痒さ。

「げんきです」。字が読めない母に、それだけを したためる。もっと伝えたい言葉はある。しかし、この恋しい想いを伝えることはできない。絶対に、できない。

 温かい母の手。いつか握り締めたいと、懸命に 働いていた少年。

 その小さな願いも叶うことなく、彼は理不尽に 命を絶たれた。

「私は、その小さな命も救えなかった」

 言葉を吐き捨てる。悔しくて、瞼の奥が熱くな る。

 何もできなかった。

 今も同じだ。下手人が分かったというのに、さ くらには何もできない。探索は専門の町方が動いている。香上の言うように、素人が下手人の顔も分からず捜し回るなど、到底無理な話だった。

「なんのために、私はあの場に導かれたんだろう か。あの子は何を訴えたかったんだ? 分からない…分からないよ。彼らのためにしてやれること が、見付からないんだ─」

 きつく瞼を閉じた。

 膝の上で、ひづきが小首を傾げている。初めて 見る表情だ。そう言いたいのかもしれない。

 総が無言で手を伸ばした。さくらの杯に酒を注 ぐ。

「わたしは、さくらさんが無事に帰って来てくれ ただけで、本当に安堵していますよ」

 背を丸くして俯くさくらが、とても幼く見え た。

穏 やかな微笑を浮かべる。

「落ち込んだところで、貴女が彼らの代わりにな れるわけじゃない。悩んでいても、亡くなった方は甦りません。だったら、いつも通り暮らしていてもいいんじゃないでしょうか」

「でも─」

「今、さくらさんにできることは、ひとつだけだ と思います。手を合わせてあげましょう」

 ゆっくりと、さくらが顔を上げた。目が赤い。

 不安に揺れ動く視線を穏やかに受け止めて、彼 は続けた。

「心から祈るんです。どうぞ安らかに、って。そ れが、彼らのためにさくらさんがしてやれる、精一杯のことだと思います」

 自分は、辰巳屋の惨状を直接見たわけではな い。だが、死に逝く人をこの右目で見てきた。

 己の不甲斐なさを責める彼女の想いも、また、 総が抱えていたものと同じだった。

「飲みましょうか、さくらさん。彼らの分も」

 杯を持ち上げる。

 唇を結んでいたさくらも、杯を手に持った。静 かに口をつける。

「この酒、辛い」

 半分泣き笑いの顔で、彼女が言った。

「ええ、辛いです」

 彼女の頬に流れたもの。

今 は、見なかったことにしておこう。

 

 

 

 

 鬼蜘蛛一味の手掛りを掴んだという報せもない まま、四日が過ぎていた。

町 方連中の連日連夜の探索も徒労に終わるのではないかと、皆口々に噂し始める。中には口汚く罵る者までいる始末で、町方同心などはそれと知れないように、編 み笠を被って探索に当たっているとか、いないとか。

─ んなことあるわけねえだろ。阿呆が」

 昼間から甘酒片手に絡むのは、香上である。

ち なみに、彼は編み笠など被らず大っぴらに仏頂面を晒していた。

 どうして馴染みの甘味処にいるのかと、向かい に座すさくらは頬杖の間から何度目かの溜め息を漏らした。

 稽古の間の一服に来てみれば、背の高い厳つい 黒羽織が店の奥に陣取っていたのだ。思わず踵を返そうとしたが、

「よ、奇遇だな」

 などと声を掛けられたら、知らぬ振りをして逃 げるわけにもいかない。

渋 々腰を降ろした彼女を前にして、出るは出るは、日頃の鬱憤が。

「必ず一味は捕らえてやるさ。見てろよ、そん時 は市中引き廻して『能無し』と呼ばわった奴にぎゃふんと言わせてやる」

 それも甘酒で絡まれるのだから、聞いてるほう は堪ったもんじゃない。

 汁粉を突付きながら、さくらはげんなりした顔 を作った。

「なら、こんな所で油売ってないで、さっさと探 索に行けばいいじゃないですか」

「フン。言われなくてもそうするさ。だがなあ、 鬼蜘蛛ばかりにもかまっていられないのさ」

 ぐいっと湯呑みを飲み干す。甘いものを飲んだ はずが、こちらに向けた顔は苦々しい。

「かどわかしさ」

 コトリ。

 湯呑みを置く。混ぜ棒が縁を滑って、板床へ落 ちた。

 汁粉の椀を口に運んでいたさくらが、その手を 止める。

「かどわかし? いったい、どこで」

「ここ、日本橋平松町だ」

 薄い茶を、甘ったるくなった喉へ流し込んだ。

「この裏の古着商、井筒屋。四つになる一太って 倅の姿が、昨夜から見えない。家の者も近所の者も誰も姿を見ちゃいない。またひとり、ガキが消えやがった」

「八丁堀の目と鼻の先…

「厭味な奴だねえ」

「旦那よりはマシですよ。でも、かどわかしが、 そうそうあるものでしょうか。自分から出て行ったってことはないんですか」

「そいつはないな。木戸番も子供の姿なんか見 ちゃいねえし、何より四つのガキが家出でもなかろう」

「じゃあ、一体誰が何の目的で?」

「それを調べてるんだ。鬼蜘蛛の行方も捜さな きゃならねえっていうのに。まったく、どこのどいつだっ」

 渋い面で、もう一杯甘酒を頼んだ。

「こんなむしゃくしゃする時は酒に限るんだが、 生憎、昼間から酒を飲むわけにゃいかないんでな。甘酒で自分をごまかしてんのさ」

「そんな甘いもので、ごまかせるんですか」

「そう思い込むことにしている。それに甘味処っ てやつは、世の憂さを忘れさせてくれそうでな。――いいだろ。俺がどこで和もうと」

「そりゃかまいませんが。ひとつ聞きますけど…ここ、馴染みなんですか」

「いや、今日が初めてだ」

 内心ほっと息をついて、さくらは汁粉を飲ん だ。馴染みだったら、またいつ顔を合わせるか分かったものでない。会う度に憂さ晴らしをされたんでは、こちらが滅入ってしまう。

「いなくなったのは、飯屋の娘に次いで二人目 だ。どっちも迷子って様子じゃねえし、手掛かりもない」

「二人にはなんの繋がりもないように思えますけ ど」

「繋がりなんて、端っからないのかもしれない。 目に付いたガキを、手当たりしだいに攫って行ってんのかもな」

「それじゃあ、どう頑張ってみたって下手人の目 星が付かないじゃないですか」

「かどわかしがどうでもいいとは言わねえが、せ めて鬼蜘蛛がお縄になってから出て欲しかったな」

 不穏当な言葉だとは思ったが、あえて聞かな かったふりを決め込む。厭味を言ったところで、倍以上の愚痴が返ってくるのがオチだ。

「人手が足りゃしない。夜通し走らされて、皆、 限界だ」

「お疲れ様で」

 言われて見れば、彼の目の下には隈ができてい た。土埃に汚れた羽織も、どこかクタクタとしていて張りがない。走り回っているのは本当らしい。

 甘いものがほしくなる気持ちも分かる。

「ところで、お前。あの娘は見つかったのかい」

「あの娘?」

「あの夜見たっていう、幻の」

「幻じゃないって」

 口をヘの字に曲げた。馬鹿にされているよう で、いい気分ではない。椀の中の小さな餅を口の中へ放った。

「その様子じゃ、まだ見つかっていないようだ な」

… うっさい」

 モチモチした触感を、甘い汁で喉に流す。椀が 空になり、茶を啜ってようやく一息ついた。

「あれ以来、気を付けて見てはいるんです。辰巳 屋の辺りを歩き回ってみたり、あの晩と同じ刻限に永代橋を通ったりもしました」

「それでも見つからねえのか。お前も暇だね。幻 覚を捜すなんて、どだい無理な話だ。そろそろ諦めちまいな」

「あの子は確かにいた。私がこの目で見たんだか ら、確かなことです」

「まあ、そいつはお前しか見ちゃいないわけだ し。お前が捜したいって言うなら、止めねえよ。─そのついでと言っちゃなんだが」

 香上が、ぐいっと顔を近づける。張りがある地 声を、ぐっと落とした。

「かどわかしの件、気に留めておいてくれ」

 さくらの眉がわずかに上がる。

「それは、私に旦那の手下になってかどわかしの 件を調べろ、ということでしょうか」

「そう言っちゃ、元も子もない」

 さも面白い小噺を聞いたふうに、彼はからから と笑った。

「さっきも言っただろ。こっちも手が足りねえん だ。二兎を追うものは一兎をも得ず。俺は鬼蜘蛛、お前はかどわかし」

「どんな理屈ですか、それは」

 盛大に溜め息をついてやった。

 ――体よくこき使おうって魂胆が見え見えだ。

 さくらが捜す少女の件は、どうでもいいに違い ない。ただ、自分の持ち駒を増やしたいだけなのだ。勝手な言い草に、呆れるほかない。

「お断りしますよ、旦那。私には、稽古がありま すから」

 立ち上がりかけたさくらを、「まあ、待ちな」 と引き止める。

「お前が捜している、朱色の着物の娘。かどわか しにあったみたいに、いなくなったんだろう」

「ええ……まあ」

「歳は五つか六つだそうだな。飯屋のおカヨは 十。一太は四つだ。年頃も近い。何か繋がりがあるとは思わねえかい」

「さっきは幻だと言っていたのに」

「まあいいじゃねえか。これで大っぴらに稽古 放って、人捜しができるんだぜ」

 確かに、時間はいくらでもほしいところ。

あ の娘に会って聞きたいことがある。彼女がどこの誰で、なぜ、辰巳屋の惨状を知っていたのか。そしてなぜ消えてしまったのか。

あ の娘にしか問いただせない。それが疑問として残っている限り、辰巳屋の残像を拭い去ることができなかった。

「かどわかしを調べたら、何か分かるかもしれな いってことだ。闇雲に捜し回るより、ずっといい手だと思うがな」

 香上が立ち上がり、懐から銭を取り出した。無 造作に落ちた銭が、硬い音を立てる。

「貸しとくよ」

 両手を懐に収めると、颯爽とした足取りで店を 出た。先程まで見せていた疲れなど微塵も感じさせないその足取りは、さすがだと思う。

 視線を卓上に移す。

 甘酒と、汁粉の代金が転がっていた。

「仕方ない。貸されとくか」

 借りは返さなくてはならない。

 その借りが汁粉分とは、なんとも安いもんだな と、さくらはひとり呟いた。



→次へ