七
「ちょっと、寄ってみるか」
さくらがそう思い立ったのは、道場からの道す がら、一枚の讀賣を手にしたのがきっかけだった。
粗 悪な薄い紙に刷られた、地獄絵図のような惨状。一昨日押し込みに入られた、あの辰巳屋の事が書かれていた。
辰巳屋が面した道は比較的人通りが多い。川縁 に着けた舟から、人足達が荷駄を運びあげている。荷が運ばれるのは辰巳屋の二軒隣の海産物問屋だ。
普段通りの風景なのだろう。大店の娘が小僧を 連れて小間物屋を冷やかす姿も、簪職人が路地先に品を広げる姿も。
ただひとつ違うのは、辰巳屋が店を閉めている こと。それだけだった。
雨戸はすべて立てられ、竹棒で封鎖されてい る。内の調べはすでに終わっているらしい。表には、役人の姿も岡引の姿も見えなかった。
あの夜と同じ場所に立つ。
見上げる先に掲げられた大きな看板。美しく浮 き出た木目は、もう何十年も店の者によって丁寧に磨き上げられてきた証。
立 派な店構えだからこそ、住む者がいない空しさは大きい。
懐に押し込んでいた讀賣を広げて、わずかに眉 を顰めた。
目の当たりにした惨劇を、思い出さずにはいら れなかった。こんな言葉や絵で表せるものではない。もっと陰湿で、息苦しいほど血の臭いが充満していた。その場にいるだけで、残る断末魔を聞いてしまいそ うだった。
目を閉じる。
闇に交じって、死に逝く者達の顔が浮かんだ。
奥歯を噛み締める。
「── 下手人は現場に戻るってやつかね」
隣に立つ者が、からかう口調で言った。
姿を見なくても分かる。顔を上げたさくらは、 不機嫌そのものの顔を向けた。
「お勤め、ご苦労様です。旦那」
さくらを辰巳屋殺しの下手人と疑った狸同心、 香上だった。
「手下も連れず、おひとりでお散歩ですか」
腹の虫が納まらず、ついつい厭味を口にする。
香 上同心は口をヘの字に曲げた。
「言ってくれるじゃねえか」
「昨日のお返しですよ」
「なんでお前がここにいるんだ。俺の経験じゃ あ、現場を目撃した奴は二度とその場所には寄り付かないもんなんだがな。特に女は、人死にがあった所なんて気味悪く思うもんだ」
「別に。通りかかっただけです」
「それが、気になったか」
さくらが何気なく畳んだ讀賣を、同心は目聡く 指差す。
「辰巳屋、皆殺し、鬼蜘蛛の修藏一味の仕業、 か……まったく、派手に書きやがる」
「下手人が割れたんですね」
「奉公人から女子供まで皆殺し。金は根こそぎ奪 う急ぎ働き。こんな非道な真似する奴は、あいつらしかいねえよ」
苦々しく言下に吐き捨てた。
鬼 蜘蛛の修藏。
京 での修行の際にも、その名は耳に入ってきていた。悪逆無道な盗賊で、堺の大店などは腕のいい用心棒を雇い警戒しているという話だった。
押 し込まれた店もあった。辰巳屋と同じに、助かった者はない。
目 を付けられたら最後。蜘蛛の糸にかかった蝶と同じ運命を辿ることになる。
そ う恐れられていた奴らが、今度はすぐ近くで非道を行っていた。今もどこかに潜んでいて、次の獲物に狙いをつけているのかもしれない。
「四、五ヶ月前まで上方にいたが、ぷっつりと姿 を消しやがった。用心していたところへ辰巳屋の押し込みだ。……あいつら、舞い戻ってきやがったん だ」
「もしかして、前にも押し入られた店が?」
「三年前か。ここから近い蛤町で呉服問屋の染広 屋が襲われた。やっぱり、主人夫婦から奉公人まで皆殺し。ただ主人夫婦には三人子供がいたんだが、その子達だけが見付からなかった。どこかに隠れていた か、あるいは店の誰かが逃がしたかして生きているんじゃねえかと、必死に捜したんだがな。――二、三日して亡骸がひとつ、仏間の床下から見付かった。恐ら く、死んでいる娘をまだ息があると勘違いした店のもんが、床下に隠したんだろうさ。可哀相に。まだ五つだったんだ。それから床板全部引っくり返して捜した が、あとの二人の姿はどこにもなかった。一味の者が連れ去った、っていうのが大方の意見でな」
「どうして子供を? 逃げるには足手まといにな るでしょうに」
「大店に奉公に出すには、子供のほうが容易い。 年端もいかない子をうまいこと仕込めりゃ、使いもんになる。……引き込み役としてな」
「そんな…… 子供を使うなんて」
「それが鬼蜘蛛一味の仕業だと知れた時には、も う奴らは上方に発った後だった」
「情けない……」
心の中で呟いたつもりが、しっかり口に出てい た。
ただでさえ人あたりがいい人相とは言えない香 上の顔が、ますます凶悪な面構えになる。
「奴らは何も残さない。手下の人数も分からない 相手を見つけるのがどんなに大変か。一遍自分で、江戸中走り回ってみな」
「でも、ひとりくらいは破目を外してボロを出す 奴がいたでしょう。そいつから当たりをつければ──」
「そんな馬鹿な奴、初めっから鬼蜘蛛の一味じゃ ねえよ。奴らの掟は厳しい上に絶対だ。それを守らない奴は、消される。どんな訳があろうともな。だから上方も手をやいてたんだろうさ。今頃厄介払いができ たって、喜んでるのかね」
ケッ と、唾を吐く。
「とにかく、早いとこ奴らをお縄にしないことに は、辰巳屋の連中も浮かばれんだろうさ」
香上が、静かに辰巳屋の看板を見上げた。遠く を見つめるその目に怒気が帯びる。自分達の縄張りで好き勝手にやられ、相当頭にきているらしい。いや、もしかしたら、自分の不甲斐なさに腹が立っているの かもしれない。
拳に握った両手が、わずかに震えていた。
厭味で人相もよくないが、そう悪い人間ではな いとさくらは思う。
「旦那! 香上の旦那っ」
背後から名を叫ぶ声がする。振り向くと、小さ な橋の上で若い男がこちらへ手を振っていた。まだ岡引としての貫禄もないから、恐らくは手下の下っ端の下っ端。遣いっ走りだろう。
「おい、お前」
呼ばれた香上が踵を返しかけ、不意に振り返っ た。
にやりと笑んで、言う。
「酒はほどほどにしとけ。幻にいいように遊ばれ てたんじゃ、剣客としての名が泣くんじゃないのか」
「五月蠅いっ」
去って行く背中に、さくらは思い切り言葉をぶ つけた。
あ の厭味は死んでも治るまい。狸野郎めと呟く。
不 愉快さに握り潰した讀賣が、何とも無様な音を立てた。
さくらが辰巳屋を後にした、ちょうどその頃。
午 後の稽古のために、総は深川元町へ足を向けていた。
芸 者衆の中にも彼の弟子がいる。酒宴の席で琴を披露するものらしい。三味線や踊りなどは平凡でつまらない、酒席で琴など珍しいからと、総のところに稽古を頼 みに来たのだ。
芸 者は昼も夜も忙しい。踊りに三味線、唄の稽古に、夜は遅くまでお座敷が入る。そんな合間にわざわざ平八長屋まで稽古に来るのは辛かろうと、こうやって総自 らが深川に出向くこともざらにあった。
始 めは易しい曲から始める。それこそ弦を撫でていればいいような曲だ。たいていの者は弦の場所を覚えるのに苦労するが、それに慣れてしまえばじっくり譜面と 睨めっこをしながら弾ける。他に難しいのは、弦を押す力加減くらいのもの。これはもう、体が覚えるまで押すしかない。左手人差し指と中指の皮が捲れ、硬く なって初めて安定した音が出る。中には、指が弦で切れてしまうのではないかと、本気で心配する者もいた。指が切れる云々は大袈裟にしても、指の肉が凹んで しまうことはままあった。
「わたしも、そうだったな」
総 は思い出していた。
琴 を始めたのは、彼が二つになるかならないかの時だ。代々楽師をしていた屋敷には、いつも様々な楽器があった。琵琶や竜笛などは当たり前で、巷では見られな いような珍しく高価な楽器もあった。
そ んな、楽器を玩具代わりに育った総が、本格的に琴を習い始めたのは、三つの頃。師は父だった。
父 の弾く琴の、なんと美しいことか。
音 につられて風が吹き、鳥が歌い、花弁が舞う。
そ の音に、総の心も奪われてしまった。
父 について、懸命に弦を弾く。弦の位置を覚えると、次に弦を押すことを教わった。
小 さな指で弦を押す。意外に太い弦は、まだ柔らかい指皮で押すには硬すぎる。それでも父は、確かな音が出るまで何度も何度も繰り返し弦を押させた。しだいに 指の肉が凹み、皮が剥け、新しい皮が張る。新しい皮は前のものより丈夫になるらしく、再生するたびに指の皮は硬くなっていった。
楽師の子として生まれた以上、琴以外の楽器も 弾けねばならない。六つにして、屋敷中にあった楽器はすべてを弾きこなすことができた。しかし、やはりもっとも上手としたのは琴を奏すことだった。
万年橋へ差し掛かる。この辺りは、昼間でも人 通りが少ない。それでもまだ、陽が高い内は散歩にもってこいの場所なのだが、夕方になると単に人寂しい薄気味悪い場所になってしまう。
不意に立ち止まり、左手の親指で人差し指に触 れた。
硬い、瘡蓋のようになっている。今ではいくら 思い切り弦を押したところで、痛むものではない。
―― もうずっと、弦を押し続けた指。心と同じに、痛みなど忘れてしまったか?
この地へ辿り着くまでの長い時。
幾多の琴を弾き、幾度弦を押しても、この指は 何も感じはしなかった。痛みに慣れて、弦に触れる感覚さえ失い始めていた。
その頃には、もう涙を流すことも忘れていた。
夕刻が迫る。薄紫に染まり始めた空に、鴉が一 羽二羽、黒い影を映して去って行く。
「──総弥(そうや)殿」
久 方ぶりに、そう呼ばれた。
懐 かしさに似た感覚を、左手で握り潰す。
砂利道に長い影を落とし、男は立っていた。昨日、橋の上でこちらを見ていた様子と変わりなく、着崩れた胸元から白い肌が覗いている。
「駄 木(だき)……」
総が喉の奥からようやく絞り出した声を、
「オ レは、駄木なんて名じゃあない」
駄 木と呼ばれた青年は、心底、憎々しげに一蹴した。
「駄木なんて、勝手に付けやがって。オレには胡 凪(こなぎ)って名がある。総弥殿が呼んでくれた、この美しい名が」
涼 やかな目元を細めて、笑った。
紅 い唇が、ニタリ、三日月を描く。
「お久しぶり、雅平(まさひら)殿。雅平──総弥殿」
「何をしに、来たのですか」
声がわずかに上擦った。震えを止めんと、両手 を握り締める。
「何をしに、とはご挨拶だねえ。長い付き合い じゃないか。そんな邪険にしなくても──」
「わたしを、殺しに来たのですか」
駄木の顔から不意に笑みが消えた。軽やかに歩 を進める。
冷 たい指先が、総の頬に触れた。
「ああ、総弥殿は温かいんだねえ」
口角がニィと上がった。指先が総の左目に触れ る。
「あの堅物者の道場の師範って奴に、話してやれ ばよかったのに。総弥殿の、昔をさ」
「貴方は……なんでもご存じなのですね」
「総弥殿のことなら、なんでもお見通しさ。だっ てオレの左目は――総弥殿の目なんだから。そんなことまで、忘れたの?」
「差し上げたのは、とうに昔のこと。それに、わ たしが失ったのは左目の光だけ。貴方の左目自体は、わたしのものではないはず」
「光を失った目は、何も映さない。同じことじゃ ないか」
総 の顔に影が落ちた。
「オレにくれた左目。何も映さないこの目に映っ ているのは、オレだけでしょう?」
冷えた指先。
甘い息。
赤い唇。
上目遣いの瞳に映っているのは、漆黒の闇。
「何も聞かれないことを幸いに、安穏とした暮ら しを手に入れたって、虚しいだけじゃない。総弥殿は気付いているんでしょう。黙していることは、相手の好意を裏切ることだって。だったら言っちまえばいい んだ――自分は最愛の人を死に追いやった、哀れな男だってさ」
薄い嘲笑を浮かべる。
総の顔から血の気が引いた。夕暮れの色が、駄木の唇を一層紅く染める。目を焼く色彩に、思わず顔を背けた。
「言 えないの? あんなに快く受け入れてくれた人達なのに。そうやって、ずっと騙し続けるつもり?」
「騙 し続けるつもりはありません」
「悟 られそうになったら、逃げ出すんだろう? 今までもそうしてきたんだから」
「そ うかも、しれません」
「ま あ、オレにとっちゃ逃げたって一緒だけどねえ。どこまでも追いかけて行くことに、変わりはないもの」
駄木は道端に生えている雑草を引っこ抜くと、 それを回しては楽しそうに目を細めた。
「でもさあ、最初はびっくりしたよ。目え覚めた ら、総弥殿はどっかに消えちゃってるんだもん。方々を探し回ったねえ。やっと探し当てたと思ったら、こんなところまで来ちまってた。まったく、ここは町中 が五月蠅くて敵わないよ」
「ご苦労様と言えば宜しいですか」
「オレが寝てる間に、随分、図太くなったじゃな いか」
総を睨み上げる。容赦ない嗤笑が注がれる。
そ れを正面から受け止める総もまた、自身を嘲笑う笑みを浮かべた。
「そうでしょうね。わたしはずっと、沢山のもの を諦めてきたのですから。――駄木。なぜ、わたしの命を奪わないのですか。それが目的で、こんな所まで追ってきたのでしょう」
総の言葉に、男は瞠目した。やがてフフと笑み 崩れる。
吐 息に混じって、甘い匂いがした。どうも好きになれない。白粉の海に溺れたら、こんな匂いがしそうだ。
「そんなことより、聞いたよ。総弥殿が住む長屋 に、女だてらに剣客なんてやってる酔狂人がいるそうだね」
「それが?」
「随分仲がいいって、ねえ。総弥殿をあの長屋に 連れて来たのも、その女だっていうじゃないか。気に入った男を長屋に連れ込むのが、その女のやり方?」
「さくらさんは、なんの関係もないでしょう」
思わず声を荒げる。
駄木が片眉を上げた。
「そう、三峰さくらって女だよね」
唇に冷笑が浮かぶ。
「そんなに大事なんだ? そのさくらって女。オ レの名は呼んでくれないのに、その女の名は何の抵抗もなく呼ぶんだねえ」
「違──」
「いい? 総弥殿。貴方はオレの物だ。そうだよ ね? オレが貴方の所業を包み隠さず話したっていいんだよ。だけど、そんなことしたら総弥殿を追い詰める楽しみがなくなっちまう。貴方はオレ以外の誰にも 心を許しちゃいけないし、できるわけもないんだ。さくらって女も、例えどんなに強かろうと、オレに敵うはずないんだから」
持っていた雑草を、飽きた玩具を捨てるように 川に投じた。
男が手を伸ばす。
慣れた手付きで、総の左目に触れた。
「この目に光が戻らない限り、あの盟約は有効だ よ。ちゃんと、覚えておいてよね」
薄闇に染まりつつある中で、紅い唇だけが鮮やかに映った。