さくらは昼前に、浅草の成進道場を訪れてい た。

 成進道場は音羽の道場と違い、周りを寺社に囲 まれた道場だ。香や線香のにおいがそこら中に漂っている。

 早春の冷えた朝には、水溜まりに薄く凍りが張 りそうな、薄暗いあぜ道を抜ける。

成 進道場の門前に立った。中から竹刀がぶつかり合う音が聞こえる。

「お待ちしていました。三峰師範代ですね」

 出迎えたのは、さくらと同じ年格好の青年だっ た。男としては華奢な、細い体付きをしている。顔立ちは浮世絵の役者を見ているようだった。

「お世話を致します、新井です。今日はわざわざ 来て頂いて、本当にありがとうございます。ささ、こちらへどうぞ」

 さくらは足袋に付いた土埃を払うと、新井につ いて長い廊下を進んだ。

「侃斎道場といえば、剣客で知らぬ者はいない道 場ですよね。その師範代が、まさかこんなお若い方だとは。いやあ、まだ未熟者の自分とは格が違いますね」

「若くて、しかも女だから、不安ですか」

「あ、いや。そうじゃなくて」

 慌てて、新井が振り向いた。

「なんだか鼻が高いというか。自分も努力した ら、それなりになれるのかもしれないと。あ、でも三峰師範代は天賦の才をお持ちですから、自分とは最初から違うのでしょうが」

 さくらは、うっすら笑みを浮かべた。

目 を細め、新井の顔を真っ直ぐに見つめる。

「天賦の才も磨かなければ光りはしない。何かを 成し遂げたいと願うならば、その想いの分だけ努力することです。そうすれば必ず、道は開ける」

「自分にも、まだ道はあると?」

「諦めるには早すぎるでしょう」

「はい――そうですね」

 新井がにこりと笑んだ。笑うと、どこかいたず ら好きの少年のように見える。

 濡れ縁を抜け中庭に面した廊下を行く。中庭に は井戸があり、傍らで汗を拭く二人の男がいた。

 なんの気なしに歩いていたさくらと新井の耳 に、彼らの話し声が漏れ聞こえてくる。

 男のひとりが言った。

「今日、侃斎道場から女の師範代が来るそうだ」

「ほう。女が刀を握る、か。この道場も馬鹿にさ れたもんだな」

 将棋の駒を思わせる角張った顔の男が、相槌を 打った。

 さくらの足が止まる。

「侃斎先生も何を考えておるのやら。女に我らの 相手をさせるとは─」

 手拭いを強く絞る。ふと、顔を上げた。

 さくらと目が合う。

 将棋駒の男は、不敵に唇を歪めた。

─ 気が知れん」

 その言葉は、はっきり彼女に向けられていた。 わざと聞こえる声で話していたのだ。

さ くらは不快感を押し隠しつつ、男から視線を外さなかった。

「久万殿っ。失礼ではありませんか。三峰師範代 は、わざわざ出稽古に来て下さったのですから─」

「おいっ、新井! 貴様、新参者のくせに、俺に 意見する気か」

「そうではありませんが─」

「それに、お前は悔しくはないのか。女に剣の手 解きを受けるのだぞ。お前、それでも男かっ」

「三峰師範代は、侃斎道場で修行を積まれたお 方。剣の腕も一流と聞いています」

「女は、茶や花でもいじっておればいいのだ。剣 客などとは、笑わせる」

 ハンと、鼻で笑う。

「久万殿っ─」

 なおも言い返そうとする新井を、さくらは右手 で制した。これ以上言い合っては、彼がこの道場に居辛くなる。

そ れに、この程度のことは侃斎道場で修業し始めた当初から言われてきたことだ。とうに、言われ慣れている。

「久万殿、と申されたか」

 さくらが、頬をわずかに歪めて、言った。

「ここで話していても埒が明きません。一度、お 手合わせ願えませんか」

「ほう。師範代自ら、某に手解きをして下さる と? 言っておくが、俺は成進道場でも五本の指に入ると言われる男ぞ。相手が女だからといって手加減はせんが、それでも宜しいか」

「私も手加減するつもりはありません。それで も、宜しいですか」

「ふん。後で泣いても知らんわ」

 余裕の態で、久万は頷いた。 

 

 

 

 ヒュッと、音が鳴る。

 空を斬った竹刀が、太刀風を起こし、静止し た。

 踏み込んだ右足を戻し、息を吸う。足裏から伝 わる床板の冷たさが快い。

 正体に構える。

 切っ先よりも先を見据え、相手との間合いを窺 う。相手の肩が上下していた。

 竹刀をゆるりと持ち上げ、踏み込みながら左下 へ振り下ろす。振り切る前に右手を素早く返し、今度は右上に振り上げた。

 額を、汗が伝う。

 目を閉じて、呼吸を整える。

 どこかで鳥が鳴いていた。名は知らないが、澄 んだ声だと思った。

「それまで」

 脇腹に入っていた竹刀を引き、さくらは静かに 息を吐き出した。

久 万が、その場に蹲る。

 周りに控える門弟たちの間から、息が漏れた。

「脇が甘いようです。だから、脇を狙った早い攻 撃に対応できない」

 まだあどけなさが残る顔を上げて、彼女が言 う。

「クソッ」

 久万は脇腹を押さえ立ち上がると、竹刀を杖代 わりに稽古場を出て行った。背を丸め、先程までの威厳はどこにも感じられない。

彼の後姿を見送りながら、さくらは深々と溜め息 をついた。虫の居所がよくなかったせいで太刀筋が雑になっていたことを反省する。

実 力があれば、見下す奴を見返すことができる。

そ う教えてくれたのは侃斎である。まだ幼かった彼女を道場に引き取り、他の門弟と分け隔てなく指導してくれた。

女 だから、子供だからという甘えは一切許されなかった。今思えば、強く生きるための術を教えてくれていたのだ。

し かし、剣客としては腕を磨くことができても、心は弱いまま。

苦 笑し、顎を伝う汗を袖で拭う。

「三峰師範代、これをお使い下さい」

 末席に座っていた新井が、真新しい手拭いを差 し出した。

「ああ、ありがとう」

「これからは乱稽古になりますから、ご指導宜し くお願いします」

「ハイ、承知しました」

 手拭いを受け取り、場を空ける。門弟たちが竹 刀を手に、方々に散った。新井も隅へ走り素早く構える。

─ 始め」

 さくらの声で、稽古が始まった。

向 き合った者同士が竹刀を交える。掛け声と怒号が響く。竹刀がぶつかり合う音。踏み込む振動。殺気に似た緊張感が、その場に満ちる。

 心地良い風が、庭から入ってきた。

 汗ばむ肌に風を受けながら、さくらは一人一人 の動きに視線を配る。皆、筋がいい。

 そんな中で、ひとりだけ目に付く者がいた。

 竹刀の振り方もなっていない。踏み込みも甘い のに、相手に一太刀も入れさせない者。

 新参者の新井だった。

 今まで様々な流儀を見てきたが、彼の太刀筋は そのどれとも違う。

 構える姿は、隙だらけなはずだった。なのに、 竹刀を下ろすと紙一重のところで躱されてしまう。その躱す際の動きが、相手にも、そしてさくらにもよく分からないのだ。目を離しているつもりはないのに、 どうしても掴めない。

「明らかに、ここの流儀ではないな」

 どこか別の場所で修行をしたのかもしれない。 侃斎に聞いてみようかと、思案に耽っていた時だった。

 風の中に、

 ─ リン。

 鈴の音が、ひとつ混じる。

 目を庭に転じる。

 明が立っていた。髪は乱れ、息も上がってい る。よほど急いで来たらしい。

「明、どうしてここに」

庭 先に下りると、明は今にも泣き出しそうに顔を歪めた。

「音羽の道場に行ったら、こっちだって言われ て。走って、来たの」

「何かあったのか」

 明は必死に首を振る。さくらの胴衣を遠慮がち に掴んだ。その姿は、まるで母親に縋る子供のようでもある。

「さくら様、怪我なんかしてないよね? 大丈夫 よね?」

「怪我なんかしてないよ。稽古で、擦り傷くらい は作ったかもしれないけど」

 もう一度、「どうした?」と問う。

… センセイの着物から、さくら様の匂いと一緒に――血の臭いがした」

 目にうっすら涙が光る。

さ くらは一瞬、息をのんだ。

 明の嗅覚が人並み外れていることは知ってい た。その明が、総に移った血の臭いを嗅ぎ付けた。

 ――だったら、今の私には血の臭いが染み込ん でいる。

 着物を変えても、体に染み付いたものは拭いき れなかった。自身では感じないほどに、血の臭いに鈍感になっているらしい。あれだけの惨事の場に居合わせたのだ。血の風呂に入ったようなものだろう。

「明」

 ふわり、少女の頭を撫でる。

「これは、私の血じゃあないんだ」

乱 れた髪を梳きながら、優しく言った。

 明が顔を上げる。表情には、不安が色濃く残っ ていた。

「大丈夫、明。私は大丈夫だよ」

 呪文のように唱える。微かに震える少女の手に 自分の手を重ね、さくらは微笑みを浮かべた。

「だから、ほら。笑ってくれないか」

「さくら様」

 ぎゅっと目を瞑り、涙を拭う。明の顔がみるみ る輝きを取り戻す。エヘヘと照れ笑いを浮かべて、胴衣から手を放した。

「アタシったら、また早とちりしちゃったかな あ」

「心配して来てくれたんでしょう。ありがとう、 明」

「さくら様に見つめられると、なんか照れちゃ う」

 頬を紅潮させた。

 明がさくらに寄せる、絶対的な信頼感。そう やって誰かを信じていた頃の自分を見ているようで、とても愛おしい。そして、明の想いを感じるたび、さくらは思うのだ。

 この信頼を裏切ってはならない─と。

「そうだ。この稽古が終わったら、後は空いてる んだ。遅い昼飯になるけど、一緒に食べようか」

「いいの?」

「もちろん。私の身を心配して駆けつけてくれた のに、このまま帰す事はできないからね」

「うんっ、行く!」

 万歳をして跳び上がる明は、まるで毬だ。ころ ころと、そこら中を跳び回る。

「でも、まだ稽古中だから、ちょっと待ってても らえるかな」

「はいっ! じゃあ、門の前で待ってるから」

 頑張って、と手を振って、彼女は走って行っ た。

 明の喜怒哀楽は、普段から面白いほどはっきり している。見ていて飽きないし、目が離せなくなる。彼女の喜び方は半端ではないのだ。特に、さくらの目の前では。

そ こら中を跳び回り、駆け回り、最後にはさくらに抱きついてくる。彼女に何度押し倒されたことか。そのつど、明は総に引っ剥がされるのだが。

 人様の道場でそんな失態を見せることだけは避 けたい。素直に待っていてくれるのであれば、何はともあれ一安心である。

「三峰師範代の、妹さんですか」

 背後から新井の声がした。

竹 刀を手に、にこやかに明が走り去った方向を見やっている。

「いえ、彼女は知り合いのお弟子さんで」

「ああ、やっぱり。全然似ていないと思ったんで すよ。でも、可愛い子ですね」

「多少、じゃじゃ馬なところはあるけどね」

「あれは、猫でしょう」

「猫?」

「ええ。表情がコロコロ変わって。気まぐれな猫 みたいですよ」

 新井の目が、わずかに細まる。

 ――なるほど、猫か。だったら総さんは、よほ ど猫に好かれる性質らしい。

 どちらの猫も、好みはさくらだ。

 小さく笑った彼女に、新井が言った。

「師範代、自分にもご指南願えませんか。是非、 お願いします」

「そうですね。私も、貴方と立ち合ってみたいと 思っていたところです」

さ くらが笑みを引っ込める。

 立ち合ったところで、彼に竹刀を入れられる自 信はない。よくて引き分け、という結果になるかもしれない。それでも、彼の剣を受けてみたいと思った。

「そりゃ、光栄だな」

 照れたように、頭を掻きながら顔を俯ける。

 

さ くらには、見えなかった。

 新井の口元に浮かんだ、微笑が。

 

 

 

「ねえ、さくら様」

…」

「さくら様ってば」

 頬杖をつき、どこか遠くを見ていたさくらは、 明の声にふと視線を戻した。

「なんだ、明?」

「今、アタシのこと忘れてたでしょう」

「そんなことないよ」

「嘘。心ここにあらずって感じだし。それに、お 酒、溢してる」

─ うわあ」

 白磁の杯に満たしたはずの酒が、卓の上に染み となって広がっている。

「まだ、一口も飲んでなかったのに…」

 バツが悪そうに、さくらが苦笑した。蕎麦を前 にした明は、呆れた表情で口をへの字に曲げている。

 両国にある、壱屋という飯屋だった。稽古を終 えたさくらは、明を連れて真っ直ぐここへやって来たのだが、

―― アタシという可愛い娘が目の前にいるっていうのに、何を考えてるのよっ。

 明が怒るのも無理はない。

 成進道場を出たさくらは、門前で待っていた明 に目もくれなかった。腕を組み、歩いている事自体無意識な様子で、何度名を呼んでも返事もしない。思案に没頭しているのは明白だった。

 さくら様って考え事をしている時は周りが見え ていないから、と明は慣れたふうに諦め、大人しく後をついて来たのである。ひどい時には寝食も忘れて、総に世話をやかれたこともあるくらいだ。

 それでも今日は明がいるせいか、「一緒に飯を 食う」約束は忘れなかったらしい。壱屋に入り奥に座ると、上の空の声で、

「蕎麦と酒」

 それだけ言って、頬杖をついた。

 来た酒に関しては、これも無意識としか言いよ うのない手つきで酒を注ぐと、杯を持ったままの格好で沈思し始めたのである。

 しまいには、口を付けていない酒を溢す始末。 溜め息をつくしかない。

「ああ、勿体無いことをしたな」

「アタシを忘れるから。自業自得よ」

「返す言葉もない。お詫びに、もう一品好きなも のを頼んでもいいから」

「アタシの機嫌は、食べ物なんかじゃ直りませ ん」

 頬を膨らませるものの、壱屋の主人を見つける と「焼き魚ちょうだい」と叫ぶ。

 無邪気な素振りに、さくらは目を細めた。

「明は、魚が好きだよねえ」

「うん、大好き。一番好きなのはお刺身なんだけ ど、今日はやめておいてあげる」

「ほう。それはお優しいことで」

 再び杯に酒を注ぐ。今度はちゃんと口に運ん だ。人肌に温められた酒が胃の腑の辺りに落ち着くと、香りいい匂いが鼻を抜ける。

─ 美味い」

 料理を持って来た主人が、にこりと笑いかけ た。

「ありがとうございます。三峰様」

 歳は四十をひとつ、二つ越えたくらいだろう か。眦に刻まれた皺が、人のよさそうな店主の人柄を表していた。

「私を知ってるんですか」

 キョトンと目を丸くするさくらに、彼は笑顔で 頷く。

「はい。前に一度、風間先生とおいでになった師 範代の先生でしょう」

「ああ、確かに師範のお供をした時に、この店を 教えて貰ったんだけど。でも来たのはその一度だけで、ひと月以上も前のことだよ」

「自分には学はありませんが、人様の顔を覚える のは得意なんで。商売人にとっては、必要なモンだとも思いますし」

「凄いな。いや、お世辞抜きで凄いよ」

「そう言っていただけると、素直に嬉しいです」

 満面で笑い、奥へ引っ込もうとした時、

「――そうだ」

 ふと思い出したものが、さくらの口をついてい た。

「確かここには、女の子がいたでしょう。明と同 じくらいの歳で。周りを明るくする、お天とう様みたいな子だったから、よく覚えているんです。今日はあの子は?」

「アタシと言う者がありながら、他の女を心配す るなんて……」

 明がぷうと頬を膨らまして、焼き魚を突付く手 を止めた。

 そんな悋気など知る由もないさくらの目は、先 程まで笑顔だった主人の顔に向けられている。

 主人から、愛想のいい笑みが消えている。盆を 握る手が震えていた。血の気が引いた顔色に、噛み締める唇だけが赤い。

「ご主人、どうかしたんですか」

 再度問うたさくらに、彼は顔を顰めた。

「…カ ヨは、もう、いません」

「いないって、どういうことです」

 ただならぬ様子に、さくらの顔もしだいに険し くなる。

「お客様には、関係のないこと。どうぞ、ごゆっ くり」

 目も合わせず、やっとの思いでそれだけ告げ る。そそくさ、背を向けた。

奥 へと消える背を見やりながら、明がぼそりと呟く。

「お客に対して、もっとマシな言い方があるで しょうに」

「まあ、そう言ってやらねえでくれや」

 隣の席で飲んでいた老人が、目を細めてさくら 達のほうに向き直った。

「清次(せいじ)も、辛いんだ」

 店主を名で呼ぶ。壱屋の常連なのだろう。

「おカヨという娘に、何かあったんですね」

 さくらが、顔を老人に寄せた。だいぶ飲んでい るようで、目が赤い。

主 人には聞こえない低い声で彼は言った。

「消えたのさ」

「消えた?」

「ああ、かどわかしにあっちまったんだよ。おカ ヨは」

「かどわかし…」

 瞬間、カヨという少女の笑顔が頭に浮かんだ。     

 アカギレの手で重い盆を持ち、懸命に働いてい た少女。あの子の笑顔と生き生きとした声は、壱屋の明りだったに違いない。

 本当に、楽しそうにそこらを走り回っていたの に。

―― まさか、あの子が?

 俄かには信じ難いものの、主人の暗い顔を見れ ばそれが事実だと分かる。

「裏の稲荷のほうへ、歩いて行く姿を見てた奴が いたんだがなあ。そこからどこへ行っちまったんだか。まるで、神隠しみたいに消えちまって…」

 老人は、目を憂いに染めて酒を口に運んだ。

「清次も、かみさんのおみつさんも懸命に探した んだが、結局手掛りはなし。おみつさんは心労のあまり寝込んじまうし、清次はひとりでこの店切り盛りしてさ」

 グスン、鼻を啜る。

「あの親子が、何したっていうんだろうなあ。清 次だって、おみつだって、悪いことなんてできねえ性質だ。おカヨも、親思いの優しい子だよ。まだ十になったばかりなのに、店を手伝ってなあ。それなのに…いったい、誰がこんな惨い仕打ちを…」

 言葉が細く消える。老人は徳利を手に持ったま ま、突っ伏して寝息を立て始めた。

… さくら様」

 明が気遣わしげに声をかける。

「さくら様、大丈夫?」

 さくらはわずかに微笑んで、静かに杯を重ね た。

 明が蕎麦を食べ終わると、すぐに壱屋を後にし た。主人にかける言葉も見つからず、ただ「ご馳走様」だけを言って店を出る。彼は「またお越し下さい」と笑顔を見せた。その笑顔が痛々しくて、さくらは直 視できなかった。

「さくら様、帰りましょう」

 沈むさくらの心情を読み取って、明が袖を引い た。

「ああ、帰ろう」

 そろそろ夕餉の買い物をしようかという女たち が、往来に溢れている。青菜売りの威勢のいい声が辺りに響く。

荷 を引く馬の蹄。荷車の軋み。人足達の怒声。

 その間を縫って、他愛もない話をしながら二人 は歩いた。

 石原町を抜け真っ直ぐ行く。堅川を渡ると、深 川林町一丁目と二丁目の辺りだ。更に道なりに行き橋をいくつか渡ると、左手に寺院が見えてくる。その辺りで右へと曲がる。

「じゃあ、さくら様。アタシはこの辺で失礼しま すね」

 永代町まではもう少し。相生橋の袂で、明が立 ち止まった。

「ああ、そうか。明の長屋は永代寺の方角だった ね。送るよ」

「とんでもない。さくら様、疲れてるでしょう?  まだ明るい刻限だし、門前町は賑やかだから大丈夫。今日は、ご馳走様でしたっ。じゃあね!」

 くるりと踵を返し、飛ぶように駆けていく。

そ の背に向かい「気を付けるんだよ」と言葉をかけた。やがて、明の姿は人波の中に見えなくなる。

「本当に……気を付けるんだよ」

 呟いた。

ふ と、顔を上げる。

逢 魔ヶ時が、近付きつつあった。



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