〜おぼろ〜

                                   深町 蒼

 

 

 

 

炎が闇空を焦がす。

漆黒の中に爆ぜる、赤の飛沫。そこここに降り注ぎ、燻っては手を伸ばす。

火影に惑う、人の足音。

柱が焼ける。視界を遮る、煙と砂の風。熱風に肌が焦げる。

大路には、家財道具を運び出す人の群れが行列を作っていた。誰も彼も顔中を煤だらけにし、着物 を乱し、逃げ惑う。口をつくのは怒声と悲鳴だけ。われ先に恐怖から逃れようと、前を行く者を押し退ける。

その真ん中で、泣き崩れる少年が居た。

親とはぐれたのだろう。寝巻きのまま、独り立ち尽くしている。右にも左にも、大人はたくさん居 るのに、手を引いてやる者は居ない。裂けんばかりに開かれた口に灰が舞い込む。それも気に留めず、涙は止めどなく溢れる。

やがて、泣くことにも疲れてしまったのか。

少年がその場に座り込む。流す傍から乾いた涙の跡に、嗚咽だけが漏れる。

このまま火に巻かれるか、或いは荷車の車輪に巻き込まれるか、どちらにしろ、命が尽きんとした 時、

 

少年が顔を上げた。

赤く、眩しい光の中。何かの影が火の粉を遮った。

背に光を負っている。見上げるも、その姿は影でしか見えない。腰を屈め、すらりと伸びるのは人 の手だ。

指先に、少年は恐る恐る自身の指を重ねた。

 

その指は、微かに冷たかった。

 

 

 

 

 焼け跡を目の前にして、香上隲十郎(かがみ しちじゅうろう)は不機嫌な顔をますます歪める。焼け落ちた壁や柱がそこにあった店の大きさを示すばかりで、広 がるのは黒い墨と燻る煙のみだった。焦げた臭いに眉根を寄せる。

 溜め息と共に見上げた曇空に、再び溜め息を漏らした。

「香上の旦那」

 手下の与一が駆け寄る。見向いた香上の顔を見て、一瞬、身を竦めた。

「旦那、いつにも増して人相が……」

 とても、善良な定廻り同心とは思えない。上役の与力からは、どこぞのやくざ者かとブツクサ言 われる程だ。

つい最近手下にしたばかりの与一は、元は小金井町一帯を取り仕切っていた岡引の下で働いてい た。若いが、持ち前のはしこさで、何かと重宝している。

そんな男が言うに曰く、

「本当に恐ろしい奴ってえのは、たいてい無害って顔してるもんです」

 香上の仏頂面も、慣れてしまえばどうということはない。普段から人相悪い男だから、今更相手 の反応を気にするような香上でもない。

 与一の無駄口を聞き流し、腕を組んだ。

「なんだ、与一?」

「あ、ええと。やっぱり付け火らしいです。裏手に油の臭いがプンプンする布っきれが落ちてたそ うで」

「この燃え方は、そうだろうさ」

 とっくに見当がついていたことだ。

 このふた月、三月の間に、同様の付け火が続いていた。

 最初は小火騒ぎだった。異変に気付いた家主に消し止められ事なきを得た。それがいつしか大火 に変わり、火消しでも手に負えない程の勢いと化した。

 火付盗賊改方も動いている。しかし、今だ下手人の手掛かりさえ掴んではいない。

「しっかし、昨日は日が悪いや。あんな風じゃあ、まるで火付け日和ってえもんですよ」

「与一」

 低く呼ばう。それだけで相手の軽口を封じる威圧感がある。

 冗談で口にするにはあまりに火が大きすぎた。火を付けられた店はもちろん、その背後にあった 長屋まで消失してしまったのだ。何十人という者が家を失っている。死者が出ていないのが奇跡としか言いようがない。

 ――それも時間の問題だろうが。

 火盗改が焼け野の探索を始める。不愉快な視線を感じて、香上は踵を返した。その後を与一が駆 けて追う。

 ――一介の同心は手を出すな、か。こんな場所で、喧嘩もねえよなあ。

 黒羽織が風にはためいた。

 懐手に大股で向かったのは、焼き出された者達に炊き出しを施している寺だった。家を失くした 者は、一時、この寺に身を寄せているらしい。本堂にひしめきあった人々は、境内にまで溢れ出ていた。

 香上が門に軽く寄りかかる。疲れきった人々の様子に目を細めた。

「お前が沢山居るだろう、隲」

 後ろから呼び掛けられ、静かに振り向いた。頭をつるりと剃った老人が香上を見上げている。

「喜柘(きつげ)和尚」

 寺の主である。歳はもう七十近い筈だが、気丈にも腕まくりをし、手に杓子を持っている。炊き 出しの汁を盛っていたものらしい。昔から若僧に負けじと気負っていた男だ。こういう場ではむしろ生き生きとさえしている。

「元気そうで何よりじゃ」

 香上の口元に苦笑が浮かぶ。

「和尚もお元気そうで」

「まだ逝かぬかと思うておるのじゃろう?」

「滅相も無い。ぜひ長生きしていただいて、私の出世を見守っていただかなくては」

「孤児のお前が、もう充分に出世しておろう。これ以上の高見を目指しておるのか」

「身の丈に合わぬ……そう思いますか?」

「否。お前ならやれるだろうさ」

 眩しそうな喜柘の目が皺と同化した。

 二親を亡くし親類もなかった隲少年は、この寺で過ごした。そして十の時、跡取りのいなかった 香上家の養子となったのである。これは南町奉行所内でも有名な話であり、今更感傷に浸ることでもない。ただ、香上の飽くなき出世欲はこの辺りに起因してい るといっていい。

「ところで、あれはなんです」

 ぐいと顎で示す先に、簡素な掘っ立て小屋が立っている。開いた障子から窺えるのは一間の広い 部屋だった。畳も敷かれている。しかも、まだ青々と新しい。子供らが縁側に足を投げ出して座っていた。

「まあ、仏様のお導き、とでも言っておこうかの」

 喜柘は穏やかに笑い、炊き出しの輪に戻って行った。

 

 

 

 

 三月前の大火で焼け野になった岡崎町辺りは、おおかた平穏を取り戻している。大路には暖簾が 並び、通行人の量も多い。

「一度何もなくなって……でも、皆、頑張らなきゃって思ったんでしょうねえ。すげえ力ですよ」

 与一は関心しきりだ。

「そうだなあ」

 ぶらりと歩きながら、香上は気の無い返事をする。

「なんだってそんな気の抜けた様なんですかい」

「あ?」

 と、今度は欠伸を噛み殺す。やる気ない態度に、与一は深い溜め息を漏らした。

「旦那は下手人を捕まえたくないんですか?」

「それは火盗改の仕事だろう」

「でも――」

「手え出したら、こっちの手が後ろに回っちまう」

「旦那ぁ」

 こちらはいつもの見回りをするだけと言う。若い与一はそれが気に入らない。

「まあ、そう不貞腐れるんじゃねえよ。派手に立ち回るのが火盗なら、俺ら定廻りはそれと悟られ ないように動くだけさ」

 後ろをつく与一には分からなかったのだ。香上の目が、鋭く左右の様子を窺っていることに。

 ふと、足が止まった。

 無言で道を外れ、入り口の半分を簾に隠した小店に足を踏み入れる。菓子屋だ。店先に、箱に 入ってとりどりの菓子が並んでいる。花の形をしたもの、一口大の饅頭。香上が買い求めるには、どれも不似合いなものばかり。

 店の奥に、狭いながら座敷が設けられていた。買った菓子をその場で食べられるようになってい るようだ。店とは衝立ひとつで仕切られている。

 香上の足は、真っ直ぐそちらへ向いていた。

 衝立に肘を掛け、そこに座す面子を見下ろす。

「よお、師範代」

 総髪の黒髪を揺らして、娘が振り仰いだ。

「旦那」

 瞳がみるみる大きくなる。そうすると一層幼い印象が強くなった。

 三峰さくらという、顔見知りの娘である。向かいには、琴の演者で総(そう)という男が座っている。こちらは微笑 で小さく会釈をした。

「外から姿が見えたんでな。まったく、優雅なことだ」

 いつもの厭味に、さくらはムッとした顔をする。

「ここは私の友人の店です。だいたい、こっちがどこで何をしようと、旦那に咎め立てされる覚え はありません」

「別に咎めちゃいねえよ。こっちはそんな暇じゃねえからな」

「付け火、ですね」

 総がやんわりと問うた。一瞥し、香上は口の端を上げる。

「するどいな」

「微かに煙の臭いがしますから」

「なるほど」

 加えて、ここが以前の現場だとすれば、簡単な算盤である。

 衝立を脇へ寄せる。その場にどかりと腰を下ろした。手下はというと、物珍しそうに菓子箱を眺 めている。

 さくらがあからさまに眉根を寄せた。

「昨晩も半鐘が鳴っていましたね。一体、いつまで続くのか……」

「そいつはこっちも知りたいね。まあ、下手人を上げちまえば済む話だろうが」

「それまで、いつ襲ってくるか分からない恐怖に、耐えなければならないという訳ですか」

「お前も言うねえ」

「言いたくて言ってるんじゃないですよ。焼き出された人の苦労を思えばこそ、言ってるんです。 この店のお千代ちゃんだって――」

「お千代?」

 ちょうど、奥から茶を運んできた娘が足を止めた。

「……何か?」

 恐る恐る、黒羽織の背に問いかける。この娘が千代だ。さくらと同年齢だろうか。小柄な体に袖 を襷がけにしている。細い腕が露わになっていた。

 目を合わすと、怯える色が濃くなった。

 元々人相が良いとはとても言い難い。お世辞を大盤振る舞いしたところで、初対面の女・子供に 懐かれた記憶もない。

 バツの悪い咳払いをして、

「別に、何もありゃしねえよ」

 香上が茶を受け取った。

 千代がそっと友人の顔を窺う。さくらは少し肩を竦めるも、苦笑で頷いた。安堵した様子で千代 は与一へと残った茶を運ぶ。不揃いな下駄の音がする。

「火から逃げる途中で、足を痛めたんです。ご不快に思われたのでしたら、申し訳ありません」

 香上の視線に気付き、千代は自らそう言った。

「お千代ちゃんが謝ることないよ。悪いのはこの目付き悪い狸」

「さくらさんっ」

 さすがに、総が慌ててそれ以上の暴言を止めた。

 ただの戯言だ。香上はまともに取り合う気もない。ぬっと手を伸ばし、さくらの皿から団子を一 本失敬した。

「あ、泥棒」

 ほんのり焦げ目が付いた餅に上品な餡が絡んでいる。甘過ぎず、辛党の口にも美味いと思う。

 言うと、さくらは当然とばかり、

「だってこの辺りじゃ名の知れた菓子屋だもの。前のお店は火事で全焼しちゃったけど、由緒ある お店なんです」

「だったら儲けてんだろ。いっそ通りに面して出せば良かったじゃねえか」

「それが、そうもいかないんですよ」

 友人の境遇を思い、さくらが溜め息混じりに言う。

「こんな時だから仕方がないのかもしれないけど、木材の値が上がっているんです。付け火騒ぎの 前と比べても三倍近くの値がついているんですって」

「どの問屋も品不足なんだろう」

「本当にそればかりでしょうか」

 総が、沈鬱な表情で顔を上げた。

「今ならどんなに値を上げても買い手はつきます。それを良いことに、売り手はどんどん値を吊り 上げる。また火事が起きて買い手は更に増える」

「悪循環ってわけかい」

「……お千代ちゃんだって、火で大半の財を失った。――この店が、ありったけなんだ」

「お前が、そんなおっかねえ顔するんじゃねえよ」

 さくらの頭に大きな掌を乗せる。ぽんと軽く叩いた。

「子供扱いしないで下さいっ」

 とは言われても、香上から見ればまだまだ子供だ。彼らに背を向け、店を出た。

 

 

 

 

朝から、しとしとと雨が降っていた。付け火が横行してからこっち、こういう天気は実に有り難 い。皆、今夜は安堵して眠りにつける。

見回りをしていれば、自然と活気がある店とそうでない店が分かる。木材を扱う店で最も活気に溢 れているのは、江戸の材木を一手に扱う吉岡町の来須屋だった。来須屋は、既に広大な土地の森林を買い占めているという噂まである。

藍染の暖簾はひっきりなしで、人と物の出入りを繰り返す。木材を積んだ荷車が到着し、更に大勢 の手代がそれを囲んだ。まるで砂糖にむらがる蟻である。

 紛れもなく恵みの雨の中、香上はひとり、来須屋の暖簾を潜っていた。朝の忙しい時である。そ れでなくても、材木問屋は暇がないと言われていた。番頭に話をつけ、奥の部屋へと通されるも、主はなかなか現れない。

「失礼いたします」

 暫くして姿を見せたのは、主ではなく、徳十という番頭だった。柔和な顔つきの男で、歳は四十 を回ったかと見える。働き盛り。それでいて腰が低い。

「お待たせしております。主は只今参りますので、もう少しお待ちいただけますでしょうか」

「ああ、忙しい時に来たのはこちらだ。気にせず商いを大事にしてくれ」

「ありがとうございます。何かございましたら、どうぞお呼びくださいませ」

 深々とお辞儀をして、その場を後にする。障子は開けたままだ。

 さすが大店の番頭である。気遣いにも抜かりない。面した庭に白い大輪の花が咲いているのが見 えた。なんと言う名か香上には分からない。ただ、待つ時を短いと感じさせるには充分な美しさだった。

「失礼いたします。来須屋主、俐平でございます」

 現れた主は、思っていたよりも若い男だ。三十の手前だろう。その歳でこの大店の主を務めてい るのか。だとしたら、相当のやり手であるか、もしくは――。

 面に出ていたのだろう。俐平が唇の端を上げた。

「主にしては若い。そう思われますか」

「まあ、なあ」

「わたくしは父が歳を重ねてからの子ですから、父が隠居してこの店を継いだのが二十五の時でし た。未だにわたくしを、番頭か若旦那と間違われる方もいらっしゃいます」

「気分が悪いだろうねえ」

「もう慣れました。それに、相手に若造と思われる方が、何かと利がありますので」

「来須屋といえば大店だ。その主が未熟さを武器にしているってのかい」

 俐平の眉がぴくりと動いた。

だが、すぐに薄い笑みを浮かべる。

「商いで儲けが出るのであれば。――今日はどういったご用件でしょうか。わたくし共の商いに、 何かございましたか」

 内心で、香上は舌打ちする。商売人は感情を抑制するのが上手い。武士の方が、力を持っている と錯覚している分、感情的になりやすいものだ。しかし、香上もそこらの武士よりは面の皮が厚い。

「今や飛ぶ鳥も落とす勢いの来須屋の商いに、何かあるわけがない。俺はそう思っているが……あ んたはどうだい」

 わざと問いを重ねる。

「もちろん、やましいことなどあろう筈ありません」

「そういえば、この火事騒ぎで店は大繁盛だそうだな。付け火様々か」

「いくらお役人様でも、言って良いことと悪いことがあるのではないですか」

 やんわりと笑って、来須屋が応じた。大っぴらには言えないものの、そうであることは店をみれ ば明らかだ。

 香上が来須屋に目をつけた理由は、いくつかある。

 今まで付け火によって消失した店の中に、必ずといっていいほど、材木問屋が含まれていた。そ して、最初に火を付けられたと思しき場所は、火の手が回り易い条件が揃った場所なのだ。風向きはもちろん、火種に使われたのが木屑と油だということも知れ た。木屑が大量に出るのは、大工か桶屋か、材木屋か。

 付け火が一度きりなら疑いのかかる者は多い。しかし、度重なるとなんらかの利害が関係してい るとしか思えない。

 材木問屋が最初に疑われて当然だった。火盗改も馬鹿ではない。既に幾つかの材木問屋には目を 付けている。

 香上が来須屋を疑う理由――それは、ここが大店だからである。

 火付けからこっち、儲けている云々は別にして、来須屋はそれ以前から大店と呼ばれていた。今 更火付け騒ぎを起こして儲けを上げるなんて危険は冒すまい。

 ――だから、だ。

「だいたい――」

 俐平が口を開いた。

「火が付けられるのは木戸が閉まった後でしょう。木戸番に聞けばわたくしがその刻限に出入りし ていたかどうか、分かるのじゃないでしょうか」

 ――狸が。

 香上はすうと瞼を細める。

「例えばだが」

 ゆるりと腕を組んだ。

「木戸が閉まる前に入り、火事騒ぎでごった返している中、逃げる者に混じって木戸を抜ければ、 誰にも見咎められずに行き来できる。お前、それに考えが及ばない馬鹿でもあるまい」

「買い被りでございます。わたくしには思いもつかないこと。――申し訳ございません。もうすぐ 荷が届きますので、これで失礼いたします」

 一礼してさっさと部屋を出て行った。

 香上が横目でその影を睨みつける。不快な色を目 元に滲ませていた。



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