(二)


 来須屋の入り口を見渡せる路の隅で、与一が腕組みをしている。店から長身の影が出てくるのを 認めて、すぐに駆け寄った。傘を差し掛ける。

「旦那、どうでした」

 首を二、三回鳴らすと、香上は大きな息をついた。懐に入れていた右手を差し出す。

「やる」

 手下の掌に小さな包みを落とした。紙を小さく折りたたんだものだ。注意深く開く。

 中に銀色の粒が入っていた。

「うわぁ、良いんですか、旦那っ」

「最近走り回って貰ったからな。これで美味いもんでも食べな」

 出掛けに番頭が袖にすり入れたものだ。こんな金を受け取ったからといって、手心を加えるつも りは当然ない。

「ありがとうございますっ」

 大事大事に懐に収めて、来須屋の暖簾を振り返った。

「それにしても儲かってんですねえ。巷には、火で焼け出された人がたくさんいるってえいうの に」

「まるで、こうなることが分かっていたようじゃないか」

 隣で与一も頷いた。

「こんなに儲けて。許せねえ」

「……ん?」

 的外れな応えに、呆れた顔を見せる。二人はゆるりと歩き出した。

「単純に、そういうことじゃねえよ。火盗がどうして来須屋を探索の対象から外しにかかっている か、分かるか」

「そりゃあ、裏にずうっと偉いお人がいるからじゃないんですかい」

「それも、一理ある」

 あれだけの大店となれば、上との繋がりも抜かりない。まして古くからの店ならば、先々代以上 前からの付き合いもあろう。

「だが、それだけなら火盗は手を引くまい。お前も見ただろう。喜柘和尚の所で、妙な小屋を。あ そこで、焼け出された者が寝起きしているらしい。救済小屋というんだそうだ。あれを建てたのが、来須屋だ」

 それも喜柘の寺だけではない。付け火があったほとんどの所に、あれと同じものが建っていると いう。

 なんと慈悲深い。寺社奉行所からも目をかけられ、結局、火盗改の探索からも外された。

 木材の値が張るこの時期に、幾ら端材だからといって、あれだけの数の救済小屋を建てる余力が ある。香上には、それが気に入らない。

 元々、流れには逆らってみたくなる性質である。皆が白をというものを、黒にして見せ付ける瞬 間が堪らない。しかも、来須屋に限っていえば、白よりも灰色に近い。容易に黒へと変貌を遂げそうだ。

「全くの善意ってやつが、この世にあるもんか。何を考えてるか知らねえが、思惑があるなら白日 の下に晒してやるまでよ」

 雨粒が勢いを増した。

 このままずっと、この天気が続けば良いのに。与一が呟く。そうすれば、火事など恐れることは ない。夜、眠ることが怖いこともない。

 しかし、香上は渋面を造った。

「それじゃあ、何も終わらねえよ。一時の安らぎを求めて大罪を犯した奴を取り逃がしたんじゃ、 後々同じことが繰り返されるとも限らない。そうだろう」

「……まったくで」

「犯したことの大きさを、知らしめなきゃいけねえよ」

 それが同心として十手を預かる者の役目と、義父から教えられた。

 左の肩だけを雨に深く濡らして、二人は喜柘和尚の寺へと向かう。庭先にはまだあの小屋があ る。庇の下で水溜りを覗いている子供が二人。それを微笑ましく見遣るのは、子供の母親だろう。焼け出され、家を失くした者たちとは思えない。穏やかな空気 が流れる。

 玄関先で傘の雨粒を払う。手拭いで足を拭いていると、

「おお、これはこれは。このような雨の中、どうされたのじゃな」

 若僧に呼ばれて出てきた和尚は、香上の姿を認めてニコニコと表情を崩した。和尚の年齢からす れば孫のような存在なのだ。しかも、香上は小さい頃からやんちゃ坊主だった。手がかかる子ほど可愛い、そういう心境なのかもしれない。

 まあ、今は可愛いというには程遠い顔をしているのだが。

「さあさ、暖まりなさい」

 奥の部屋に通され、熱い茶を振舞われた。与一はひとり水屋の方へ行ったはずだが、火鉢にでも 齧りついていることだろう。まだ若い、少年のような小坊主が、香上から羽織を受け取っていく。濡れた所を乾かしてくれるらしい。

「人手が足りているようで、安心しました」

「あの小屋で寝起きしているおかみさん連中がよくやってくれているだけのことさ。お陰でこちら は、至れり尽くせりの極楽気分だ」

 言葉が罰当たりに聞こえてしまうのは何故なのか。香上が苦笑した。

「あの小屋の件ですが。あれは来須屋が建てたものなのでしょう」

「それは、お役目で聞いておるのか」

「ええ」

「そうか」

 他の寺社では、管轄外の同心が探索を行うことは難しい。しかし、ここは以前香上が世話になっ た場所である、多少の無理は聞いて貰える。

 和尚が湯呑みを手にした。一口、二口と啜って、目を細める。

「そう。材木の一切を提供して下さった。有難いことよ」

「何が目的なのでしょう」

 単刀直入に問うていた。相手に後ろ暗いことがなければ、こちらが手心を加えることも必要な い。喜柘和尚が来須屋と手を組み何かするとは考えられなかった。

 和尚の目が真っ直ぐに香上を注視する。受け止める目は、真摯そのものだ。

 やがて、和尚の目元が和らぐ。

「曲がったことが嫌いな性格は、変わっていないようじゃの」

「いえ、他人のことはとやかく言えるのですが、自分のことには甘いですよ」

「いいや。お前は小さい頃から自分にも厳しい奴だった。立派な同心になったな」

 香上は小さく微笑した。

そんなに綺麗な生き方はしていない。本当は、和尚の顔を真っ向から見ることも憚られるようなこ ともしてきた。

 喜柘が、庭の小屋を見遣った。

「あの小屋を建てる時、寺社奉行様からお話があった。どうやら奉行へ来須屋が直々に申し出をし たらしい」

「そうやって、取り入ったわけですか」

「儂らにとっては、嬉しいことじゃ。――例え、どんな思惑があっても、あれのお陰で生きられる 人がいる。仏は、その行いを見ているものだ」

「極楽に行ってもらっちゃあ、困るなあ」

「隲っ」

 さすがに、喜柘は渋面を作る。

 若僧が羽織を持ってきた。すっかり乾いた黒羽織はしなやかに体に馴染む。

「では、失礼します」

「気をつけるのじゃよ。敵を作るのも、お前の得意だったことだから」

「今更、生き方を変えることはできません。そう生きるのは俺の本望です」

 軽く一礼し、部屋を出た。

 

 

 

 それから十日が経った。

 暫くは愚図ついた日が続き、湿った風に皆安堵の息を漏らしていた。この日も朝からすっきりと しない。

 甘味所の奥に座し、ひとり甘酒を啜っていた香上が、気配に顔を上げる。

 来須屋が佇んでいた。傍らで、番頭が傘を畳んでいる。

「まあ、座りな」

 隣を示す。

 若い主が腰を下ろすと、番頭は少し離れた場所に腰掛けた。

「すまねえな。忙しいのに、呼び出しちまって」

「いえ。わたくしひとり居ないだけで立ち行かなくなるような、柔な店ではありませんので。…… それで、御用の向きは」

「お前さんに、聞きたいことがあってな」

「お応えできる範囲でしたら」

「なあに、簡単なことさ。お前さん、火事見舞いと称して、あちこちの寺社に救済小屋を建ててる そうじゃないか。感心なことだねえ」

「使っているのはどうせ捨てるだけの木っ端です。金の問題ではありませんので」

「育ての親には、何かしてやったのかい」

 ふと降りた沈黙に、外を行く荷車の軋みが響く。すぐ裏の河原では、小さな子供がこの天気の 中、釣りをしている。きゃっきゃと声を上げて笑っていた。

 俐平が笑む。だが、何を言うこともなかった。

香上は構わず言葉を次ぐ。

「上手く隠していたが、こっちは色んな所に顔が利く。――お前が来須屋の主の元に来る前のこと だ」

 後半部はやや低い声音だった。二人意外、内容が聞き取れないほどである。

「火事ってやつは、怖いもんだな」

 上目で俐平を見遣る。

 微かに色を失った顔が見えた。

「――前島町の材木問屋の噂、聞いてるかい」

 唐突に、香上は話題を変えた。妙に声高な調子に、番頭もこちらを振り見る。甘酒を酒のように 飲み干した。その様は豪快なのだが、なにぶん、甘酒なだけに妙な感じだ。

「この木材不足の中、万一の時の為に材木の取り置きを始めたらしい」

「……存じております。もしも火で家が焼けた時、優先的に使える木材を確保しておくとか。まっ たく、妙な考えを持つものだと……」

「だが、取り置いた分の置き代はかなりのもんだっていうぜ。それだけ皆、切羽詰ってる証だろう さ」

「早く、下手人が捕まってほしいものです」

「そうだねえ」

「でなければ……、また、親を失う子が増える」

 俐平が呟く。ゆるりと瞼を閉じ、一瞬後、顔を上げた。眼元にわずかな力を込める。

「お話が済んだようですので、わたくしは失礼いたします」

「ああ、悪かったな」

 俐平の背を見送るその唇が、にやりと歪んだ。

 

 

 

 

 月が出た。

 雲陰を透いて月光が降り注ぐ。往来に人はなく、皆、寝床に潜り込んで早数刻が過ぎていた。ど この屋からも物音ひとつ聞こえない。木戸もとうに閉めている。時折小石が転がり、その後に猫が駆け去る。犬の遠吠えも消えた、その夜に、

 ――天水桶の陰から滑り出るものがひとつ。

 身を低くし、家々の壁を沿うように走る。滑らかな動作に、足音さえ消える。

やがて、影が足を止めた。

そこは人ひとりが通るのが精一杯の、狭い路地裏だった。背後には長屋との仕切り塀が迫る。月の 明かりも遮られ、やはり闇が落ちている。

ふと、影がしゃがみ込んだ。慣れた動作で腰の袋から何かを取り出す。チッチッと鳴る度、闇の中 に赤いものが飛沫する。

「何、してやがんだ」

 影の動きが止まった。否、胸の鼓動も止まったようだ。背後からかけられたその声に、恐る恐る 振り返る。

 月光の中、痩せた足を露にして、与一が立っていた。手にはしっかり棒切れを握っている。実は まだ、十手を任されていないのだ。これを持って行けと渡されたのが、この棍棒だった。

 そりゃないぜ、旦那――。

 正直、足が震えていた。

 影が立ち上がる。明るい中に居る与一の様子が、はっきりと見て取れた。へっぴり腰に構える棒 の先は微かに震えている。しかも、彼以外、応援の気配はなかった。おおかた、見回っていて、姿を見られたのだろう。

 ――勝てる。

影が笑んだことも、与一には見えない。

「おおお大人しく、縛につきやがれいっ」

 言う台詞は威勢が良い。しかし、声が上擦っていては迫力は微塵もない。

 影が懐から匕首を取り出す。煌くその刃に、与一は明らかに身を竦めた。

 影が土を蹴る。真っ直ぐに繰り出された手は、不運な若き正義者の顔を狙っていた。

「ううわっ」

 与一は間一髪で躱したが、勢いで尻餅をついた。すぐ脇を影が走り去る。

「ま、まて――」

 といって、待つ馬鹿者も居ない……と思われたが。

 意に反して、影は立ち止まっていた。

 路地から大路に出た辺り。その姿を月光に晒して、わずかに後退りをする。

 ――まさか、まさか、旦那っ?

 ひとりで行けと言っておいて、やはり来てくれた。やはり俺の目に狂いはなかったんだ――与一 の目が喜々と輝き、彼は急いでそちらへと走り寄った。

「旦那っ」

 草鞋が滑る。砂埃を上げて影の後ろへ出ると、与一はそこに華奢な人物を認めた。

 相対する、小さな立ち姿。肩は細く、首も下手したら折れてしまうのじゃないかと思う。だが、 侮るなかれ。与一も知っているその人物は、女だてらに剣術の師範代を務める剣客である。

 さくらは、腰にした脇差に手も触れず、ただそこに立っているだけに見えた。自然に、なんの力 みもなく。

 風に、総髪の髪が靡く。その糸のごとき美しさは、与一に天女を思わせた。

 女だと影にも分かったのだろう。口元が歪む。匕首を構え直した。

「……家でネンネしてたほうが良かったなんて、後悔するんじゃねえよ」

 嘲笑にも、さくらは眉ひとつ動かさなかった。

 影が足を踏み出す。両の手でしっかり握った匕首は、確実にさくらの喉元を狙っていた。

「三峰さん――っ」

 与一の声が絶叫に変わった。

 あと、数寸。否、紙一枚の差まで、さくらは微動だにしなかった。

 雲が流れる。猫がどこかで鳴いていた。

 喉元に迫る殺気。確かに感じるそれを、さくらは軽く腕を動かしただけで難なく退けた。

 彼女の細腕のどこに、そんな力があるのか。手を払われ均衡を崩した影は、無様に土の上に滑り 倒れた。

土埃が舞う。袖に掛かった埃を無造作に払い、少女は影を一瞥した。

「――私はあの狸の手下じゃないけど、あんたのやってきたことは、赦せないんだ」

 その目元には確かな怒気が滲んでいた。ゆっくりとした動作で脇差を、鞘ごと抜く。

「み、三峰さんっ。斬っちゃ駄目だああ」

 与一が駆け寄るのと、さくらが脇差を振り下ろすのは同じだった。

 硬い音がしじまに響き渡る。

 鞘の先が、影の鼻先を掠めて、土に突き刺さっている。影は口から泡を吹いて失神していた。

 与一が安堵の溜め息をつく。

「……本気かと思ったよ」

「本気だった。こんなもんじゃ赦せない……なんで私が、旦那の手下みたいな真似を――っ」

 どうやらその怒りの矛先が違うと察して、与一はどこに行ったとも知れない香上の心中を思っ た。

 

 

 

 庭先でひとり佇む男に、俐平が声をかける。

「こちらに御酒の用意ができております」

 自ら手にした盆を縁側に置く。それを認めて、香上が首を傾げた。

「御手ずから、用意してくれたのか」

「皆、寝ておりますので」

「すまないな。夜分遅くに」

「いいえ。――今宵、いらっしゃるだろうと」

「覚悟はできていたってえのかい」

 云とは言わず、微苦笑を見せた。

 香上が来た訳を、この男は分かっている。ならば焦る必要もあるまい。誘われるまま、酒が満た される杯を口に運んだ。皿には煮物と開きの炙りと、塩が盛られている。摘まんだ塩をちろりと舐めて、杯を傾けた。

 月を見上げる。静かな夜だった。

「番頭は、捕まったのですね」

 天気の話をするような、なんでもない口調で言う。空になった香上の杯を、絶妙の間で満たし た。

「番頭は前島町辺りに行くのだろうと、そう思いました。旦那の誘いに乗るとは、浅はかな男で す」

「番頭の徳十は、この屋に来てまだ五年だそうだな」

「はい。ちょうど、父が病で臥せた時でございました。まだ若い番頭しかなく、わたくしも急なこ とでどうしたらよいのかと、途方に暮れておりました。徳十は大阪の商家の奉公人であったのですが、前の店が取り潰しになり、江戸に出て来たと」

「それも、あの男が店の金を使い込み、あまつさえ有り金掻っ攫ってきたからだ。あいつに、人の 情なんてもんはないんだよ」

「――例え、そうだとしても、徳十が采配を振るえば、店が立ち行きました。傾きかけた店はあっ という間に元通りになり、以前を凌ぐ賑わいとなりました。父も徳十に任せれば安心と、安らかに亡くなりました。せめてもの恩返しができたと、思っておりま す」

「本当に、それが恩返しなのか」

 鋭い視線が突き刺さる。俐平は唇を引き結んだ。

「詭弁だよ。お前は利用されていると判っていて、そう思い込もうとしていただけだ。お前は徳十 が火付けしていたことを、知っていたな」

 はい、と首を折った。

 火付けをし、他の材木問屋が巻き込まれれば、必然、来須屋に落ちる金の額が跳ね上がる。徳十 はその金を狙っていた。

「主が怪しまれようと、あの男には関係がなかった。いや、むしろそう仕向けていた節がある。危 なくなりゃ、己ひとり、溜め込んだ金を持ってさっさとトンズラしていただろうさ。自分は良い顔をして主を売るなんざ、奉公人の風上にも置けねえ野郎だ」

「黙認していたわたくしも、同罪でしょう」

「なぜ、黙認していた。火付けで落ちる金が目的とは言うまい?」

 一瞬、俐平は目線を落とした。膝に据えた手の甲を見つめる。

「……己の心を守りたかったのです」

 ぽつりと落ちた声に、香上が目を眇めた。

「こういう晩は、どこかで半鐘が鳴らないかと不安でした。半鐘が鳴れば、親を亡くす子が出る。 その子はどこに行きます? 頼る者があれば良いでしょう。しかし、誰もが余裕あるわけではありません。焼き出され、自分の生計もままならない時、どうして 他の子の面倒を看られましょう。……せめて、雨風をしのげる場所を与えてやることしか、わたくしにはできませんでした」

 それが、あの救済小屋だった。

 あれは、俐平が徳十の行為に目を瞑る条件だったのだ。せめて暫くは安眠できる所を――。俐平 が心から望んでいたことだ。

「わたくしは幸せ者です。火事で、家と二親を失った日、逃げる力もなく死を覚悟した時でし た……差し出された大きな手。義父の手は、微かに冷たかった。火に怯えるわたしを抱き上げ、力強く抱きしめてくれた――。後で知りましたよ。義父の妻と腹 の子が、あの年の先年亡くなっていたと」

 差し出した手は、俐平にではなく、生まれてくるはずだった我が子へと向けられたものだった。

 それでも良い。この人は自分を拾ってくれた。眠る場所と温かい飯と、生きる時を与えてくれ た。

「義父が、大好きでした」

 哀しい笑みだった。見ている香上のほうが顔を逸らす。

「わたしは幸せ者だ。ですが……大半は家を失い、その人生を負のほうに狂わされる。家というの は、生きるのに必要なのです。眠る、食べる、雨風と寒さをしのげる場所。――温かい家族の場所。そこに居れば、笑顔が浮かぶ。例え微力でも、そういう形で 力になりたかった。それが、拾われたわたしの、せめてものことです」

 香上はそれを詭弁と言わなかった。俐平が徳十の所業を知りながら黙っていたことは、罪に問わ れて余りある行為だ。しかし、その根底にある強い想いだけは、誰も侵すことができない。

 何が良くて、どこで間違っていたのか。俐平は分かっているのだろうか。その想いに固執しすぎ て、大切なものが見えていなかったのではないか。

 まるで、朧の月のように。

 杯を傾ける。

 注されるままに、酒を重ねた。

 

 

 

 

 長屋に顔を出す。出掛けのさくらを呼び止めて、この前の礼を言った。

「それが礼を言う態度に見えないのは、不思議ですよねえ」

 苦笑する少女に、香上は渋面をつくる。

「人相が悪いんだ。仕様がないだろう」

「眉間に皺がいけないんです。心から笑ったことって、ないんでしょう」

「五月蠅いねえ。じゃあ、これ。飴でも買いな」

 さくらの手にわずかな銭を握らせると、さっさと踵を返した。

 金の為に、香上の頼みを引き受けたのではない。救済小屋を建てたのが来須屋の本心と知ってい たから、真に腹の黒い者が赦せなかったのだ。俐平が時たま寺へ来ては、切なげな、しかし穏やかな顔でそれを見遣っていると、住職らは言っていた。

 ほうと、溜め息をつくさくらの後ろから、

「人相が悪いというよりは、そう見せているといったほうが良かったのではありませんか」

 総が顔を出す。

 わずかに見向き、さくらは微笑した。

「そう言ったら、絶対怒ると思うから。矜持を傷付けるのは、本意じゃないよ」

「そう悪い人ではないと思いますが」

「悪い人なもんか。――ただ、皮肉屋なだけ。それが一番厄介なんだけどね」

 胴衣の入った風呂敷を携え、長屋を後にする。

 手を懐に仕舞い、総は空を見上げた。香上が真に笑える日がいつか来るのだと。それを初めに見 るのは、どんな女だろう。

 それを思うと、笑まずにはいられない総だった。

 

 

 

                                                       《了》