暗夜の鴉 〜鴉堂雑記〜
深町 蒼
壱『恋文』
向 島にある鴉堂は、奇妙な店であった。
他 が商いを終える夜更けから店を開けることも、鴉堂が何を商いにしているのかも、全て人伝に聞いて初めて分かったことである。
「生きていく中で、他にどうにもならない事態に相対した時、訪ねてみるといい。命を絶つよりはマシだろうて」
人 伝の最後は、決まってそう締めくくられていた。その言葉が気になりはしたが、それ以上問うても、答えは返って来なかった。
日々の暮らしの中ですっかり忘れていたその店の名を彼が思い出したのは、春まだ浅く、肌寒い時季のこと だ。まさか己の身に「どうにもならない事態」なるものが訪れるとは、考えもしなかった。そういうものとは無縁だと、信じて疑ったこともなかったからだ。
――このようなこと、町名主に申したとてまともに取り合ってもくれんだろうし……笑われるのがオチじゃ。
軽々しく吹聴すれば、己の商いに関わるというもの。
悩んだ末、夜もとっぷり更けた頃、鴉堂を訪ねることにしたのである。
しかし、深川で長年、商いをしてきた男も、向島のどこに「鴉堂」なる店があるのかを知らずにいた。代々、太鼓橋 の辺りに暮らす者に訪ねて、ようやっと、店を知っていたくらいだ。なんでも、平素の暮らしの中ではまったくといっていいほど、用のない店だという。陽が明 るいうちには店が開いているところを見た者すらなく、もしや、そのような店自体、この世に在りはしないのではないかと、本所の七不思議のような怪しい噂ま で聞かされた。
兎にも角にも、滅多なことでは近付かないのが得策らしい。こちらから訪ねなければ、一生、見つけることもない店 だという。
「一度、その店の明かりを見たら最後……鴉に骨の髄まで喰われちまう。気ぃ付けな……気ぃ付けな……」
脅し文句まがいの忠告を受けたものの、もはや己の力ではどうしようもなく、他に頼りになる者もない男は、闇夜の 中、提灯ひとつを掲げ、鴉堂を探していた。
昼間は浅草寺から流れる参拝客、夜は芸妓をあげての大尽遊び。何かと人の出入りの多い向島の地も、子ノ刻近くに はさすがに静かだ。花には早い時節のこととて、遊興の人出も盛りほどではないのだろう。
――さて、この辺りのはずだが。
ぐるり、暗がりを見渡す。人っ子ひとり、犬の影すら見当たらない道の真ん中で、鬼か蛇でも探している心地にな る。
見たくない。
見たくはないが、見つけなくては、怖さは薄れることがない。
己を奮い立たせ歩を進めると、田畑が広がるその向こうに、小さな小さな明かりが見えた。
こんな遅くに明かりが漏れている場所など、盗人宿か、目指す鴉堂くらいだ。男の足は、自然と早くなる。
やがて田畑と林が途切れた場所に、表に透かし門を設けた、小さな庵が現れた。門の前に小さな板がぶら下がってい る。看板というほど立派なものではない。そこらの小道に落ちているような木っ端を削って作られており、書かれている屋号は「鴉堂」である。
「ほう。ようやく見つけた」
安堵の息を吐きつつ伸ばした手が、ヒタと止まった。
人伝に聞いた話を繋ぎ合せると、鴉堂はまともな商いをしている店ではない。そのようなところに乗り込んで、果し て、無事に帰ることなどできるのであろうか?
―― 鴉に骨の髄まで喰われちまう。
――気ぃ付けな。気ぃ付けな……。
嫌なことばかり、頭を巡る。
先への一歩を逡巡すること、暫し。
男の手を動かしたのは、両袖に入れた熊野大社のお札だった。鴉は熊野の神の使いだ。鴉堂の者が例え妖の類であっ ても、熊野の神が守ってくれる。
震える手に守り札を握り締め、いよいよ、戸を引いた。
「もし……誰か……」
恐る恐る、顔だけを覗かせる。
「そんなに怯えなくったって、取って喰いやしないよ」
ほの明るい中にひとり座し、文机に頬杖をついた青年が気だるい声で応じた。ほっそりとした体付きで、女が好みそ うな役者顔だ。夜商いでなければ、店先に女たちの人垣でもできていたかもしれない。
――この者が、鴉堂の店主なのか?
思っていたよりも、若い。白髪の混じった老人を想像していただけに、自分よりも遥かに歳若いこの男が、噂通りの 恐ろしげな店の主とは信じ難い。
「その……ご主人は居られるか」
「目の前に居るだろうに。あんた、目が利かないのかい」
「な――」
薄笑いを浮かべる店主に対し、カッと頭に血が上る。手にした提灯が上下に震えるほどの怒りを覚えていると、
「なんてこと言うんだ、旦那さんっ」
突如、奥から飛び出してきた少年が、店主の頭を思いきり叩いた。
「っ――おい、伴ノ甫(はんのすけ)。お前、主になんてことするんだい」
「五月蠅いっ。旦那さんこそ、お客に向かってなんてこと言うんだよ」
「おや、聞こえてたのか。奥の納戸を掃除しとけって言っといたはずだけどねえ。……もしや、怖くなって逃げ出して 来たんじゃなかろうね」
「こ――怖いなんてこと、あるわけねえだろっ。いっつも出入りしてるんだから」
「お前が納戸に近付くのは、陽があるうちだけだろうに。まったく、そんな怖がってばっかりじゃ、お化けに笑われる よう」
「人に後ろ指を指されるより、マシだっ」
「それって、あたしのことかい?」
「他に誰が居るのさっ。なあ、そう思うだろ?」
呆気にとられ成り行きを見ていた男に、伴ノ甫が同意を求めた。
「いや……あの、儂にはよう分からぬが……」
「おっと、いけない。お客さんの前だった。どうも、いらっしゃい。こんな奴だけど、正真正銘、鴉堂の旦那、之春 (ゆきはる)に間違いないから、どうか安心してよ」
言葉遣いも何もかも、品もなければ、客に対する礼儀もない。店の信用を考えれば、このような者を丁稚するべきで はないと、店主としての考えに至る。
――そもそも、主からして胡散臭い。
丁稚風情に叩かれたことを叱るでもなく、客の前で平然としているとは、店を預かる者の自覚が足りないとしか考え られなかった。これが商いをする者の態度かと訝っていると、之春が唇の端を上げる。
「さぞ、胡散臭い男とお思いのようだ。佐島屋の奥太郎旦那」
「な――」
こちらが名乗る前に、素姓を言い当てられた。瞬時に息を飲む。容易に応えることができなかった。
「おや。なぜ、と言いたいのかい」
「そりゃ、初めての人はびっくりするさ。――ささ、お客さん。こっちへ座んな」
「あ……ああ」
促されるまま、腰を下ろす。伴ノ甫がすかさず茶を淹れ、差し出した。その間に早打ちを繰り返していた胸も、落ち 着きを取り戻す。
「確かに、儂は深川で佐島屋という料亭をやっている。はて、どこかで会ったことがあるのか」
「あんたがここに来たのが初めてなら、外ですれ違うことはないよ」
「では、どうして儂のことを知っているのだ」
「種明かしをしちまえば、笑っちまうことさ。佐島屋っていやあ、変わり稲荷が有名だ」
佐島屋には名物がある。之春が言う、変わり稲荷がそれだ。見た目は普通の稲荷寿司でも、季節毎に酢飯に混ぜるも のが違う。筍が盛りになれば、柔らかく煮た筍を刻んで入れる。桜の花びらを塩漬けにして飯に混ぜ、桜稲荷を出したこともある。料亭を訪れた客達が、帰りを 待つ妻子への土産として持ち帰り、その珍しさと味が広まることとなった。近頃は稲荷寿司だけを買い求めて行く客も多いのである。
ちなみに今は、梅漬けを混ぜた稲荷寿司が店に並んでいた。
「前に、おたくの稲荷を貰ったことがあってね。あんたから、お揚げを炊く出汁と、酢のにおいがしたもんで」
「におい……気付かなかった」
「毎日毎日、その中にいるもんには分からないもんさ。油問屋は油のにおい、漁師は磯のにおいってね」
「では、屋号は? いくらなんでも、出汁のにおいだけで佐島屋と分かったわけではあるまい」
「それこそ、笑いの種なんだけど」
と、その手元を指差した。火を消した提灯を見、奥太郎は、ふっと笑み崩れる。
「なるほどな。提灯に屋号が入っていたのを失念していた」
「すぐ目の前にあるもんは、目に入らないのさ。こんな刻限に奉公人が、おいそれと出歩けもしないしねえ。あんたが 佐島屋の旦那だって思うのは、自然じゃないかい。佐島屋の旦那の名は、夜商いだって知ってんだよ」
「儂はてっきり、怪しげな術でも使ったのかと――」
ハッとし、口を噤んだ。之春が面白そうにこちらを見つめている。
「あたしが、千里眼でも持っていると思っていたのかねえ。誰ぞに、鴉堂は魑魅魍魎の住処だとでも教えられたかい」
「いやいや……そんな」
首を振る奥太郎の横で、
「あながち、間違っているとも思えねえな……」
伴ノ甫の呟きが、奥太郎の心内を再びざわつかせる。懐に入れたものが、音を立てるようだった。
――ええい。今さら悩んだところで、引き返すことも出来ぬわ。
意 を決し、之春へ身を乗り出す。
「ここは、誰もが匙を投げるようなことでも引き受けてくれると聞いた。相違はあるまいか」
「ただの萬屋さ。なぜか、七面倒臭い頼みが多いだけで」
「……どのようなことでも、引き受けてくれると聞いた」
「やるかどうかは金と相談だ。二束三文で命はかけられない」
「金次第で、死ねと言われれば死ぬのか」
「あたしの命が欲しいと言うなら、千両箱じゃ足りないよ。国くらい、差し出してもらわなけりゃ」
「己には、それだけの価値があると言いたいのか……」
――なんと、自信に溢れた奴か。
口先だけとはいえ、その傲慢さは並みではない。
わずかだが、嫌悪の色が顔に出ていたらしい。目聡くそれを認め、之春は薄く笑う。
「それくらいの覚悟がなくて、人に死ねなんて言うなってことさ。まあ、あたしを殺そうなんて物騒な頼み事は今まで なかったから、日頃の行いがいいんだろ。なあ、伴ノ甫」
「いっそ、一回死んできたらどうだよ。始末に困った妙なもんばっか集まってきてさあ。お陰で、鴉堂には魔物が巣 食ってるって言われるようになっちまって……」
奥太郎は、大きな溜息をつく少年が、不憫に思えてきた。どうやらこの店で最もまともでないのは、店主の之春らし い。
――だからどうしたというんだ。儂が今、抱えている悩みも、まともなものではないのに。
さっさと肩の荷を下ろしたい、というのが、正直なところ。奥太郎は懐から取り出したものを、板間に並べた。
「これなのだが……」
「文か。伴ノ甫」
之春が何も言わぬ間に、伴ノ甫は並べられた文をひとまとめにし、主の手元へ運ぶ。
文の表には女の字で、長崎正流館、甲士郎様と書かれていた。裏には、あすか、と女の名が記されている。鼻を近付 ければほのかに香の香りもして、中を読まずとも恋文であることは明白だ。
「差出人のあすかというのは、儂の娘だ。十七になる」
「確か佐島屋さんは、女房が亡くなっているんだよねえ」
「……本当に、なんでも知っているのだな」
「この店には、いろんな人が出入りするんでね。聞かなくても困らない話を、聞かせてく奴もいるのさ。特に、大店に 関する話は皆、好きでねえ。やれ、あすこの米問屋は左前だとか、あっちの酒屋は混ぜ物がひどいとか。ま、妬み半分なんだろうが」
「うちの店も、そのように悪しきことを?」
「大店になるってことは、少なからず羨望の的になるってことさ。ありがたく、好きに言わせておきな。――で? 旦 那の可愛いひとり娘が、この恋文を書いたってのは分かったが、その文をどういうわけで、うちに持ち込んだんだい」
「……言わねばどうする?」
「頼みが文を置いて行くだけというなら、それでも構わない。だけど、金を置いて行くあんたは、それでいいのか」
いいはずがない。文を手放したところで、要因が分からぬのであれば、何も変わりはしない。
知らぬ間に溜息をついていた。それを横目で捕らえた之春は、ニタリ、片頬を歪める。
「どんな訳があるのか知らないけど、娘が書いた文を鴉堂に持ち込むなんざ、よほどのことだ。そう考えたから、わざ わざここまで来たんだろう。今さら、何を懸念することがあるんだい」
「例えば……話が漏れて、佐島屋の暖簾に傷がつくようなことにはならないか?」
「そんなこと案じる必要もない。知っての通り、ここは夜更けにだけ店を開く。聞き耳を立てる奴も、とうに寝ている 刻限さ」
「そなたたちが、他の客に話すことはないのか」
「こんな怪しい店に出入りしてるってだけで、冷たい目を向けてくれる世の中だからねえ。うちに来る客は、あんたと 同じ。己のことだけで頭がいっぱいだ。他の客のことなんて、構ってる場合じゃないのさ。だから、あたしらと商いの話以外はしないよ。さっさと金を払って、 己はさっさと知らぬふりを決め込むんだから」
ま、それが賢いやり方だよねえ、と言葉を結び、奥太郎を見据えた。蝋燭の炎が揺れる度に、之春の表情が、笑んで いるようにも哀しんでいるようにも見える。魅せられてしまいそうになり、奥太郎は娘の文に視線を移した。
「……見ての通り、それは恋文だ。娘には、許嫁が居るのだ。浅草寺裏の料理屋、沖緒屋の二男で、今は長崎の正流館 という料理屋に修業に出ている。帰ったら娘と祝言を挙げ、佐島屋を継ぐ約束なのだ」
「なんだ、婿殿宛ての文かい。つまらないねえ。密会相手なら、面白かったろうに」
「旦那さんっ」
奥太郎が顔を上げる前に、之春の頭を伴ノ甫が叩いていた。
ひとつ、咳払いをし、奥太郎は話を進める。
「娘は、甲士郎へまめに文を書く。その文が、どういうわけか、戻ってくるのだ」
長崎で正流館といえば、子供でも知っている料理屋である。飛脚が店を見つけられず持ち帰るといった話ではない。
飛脚に預けたはずの文は、二、三日すると、佐島屋の店先に、ぽつりと置かれているのだ。初めは頼んだ飛脚が落と したものを、親切な誰かが届けてくれたのだろうと思ったのだが、以来、何度文を書いても、店に戻ってくるようになった。
甲 士郎が、受け取りを拒んでいるということでもない。そもそも、文は長崎まで運ばれていないのだ。どのようなわけがあって、文が店に戻るのか――。
「……考えれば考えるほど、不安になる。もしやこの縁は、結ばれぬほうが良いと、神仏が言っているのかとも……」
「ひとつ聞くが、娘と甲士郎の縁談は、誰が?」
「儂だ。甲士郎は人柄も申し分なく、料理人としての腕もいい。沖緒屋も、決して大きな店とは言えぬが、真面目な商 いをしてきた店だ。沖緒屋の跡取りも、それは店想いの男で……」
不意に、言葉に詰まる。探る目線を寄越す之春から顔を逸らし、奥太郎は咳払いをした。
「とにかく、婿にはぴったりの男なのだ」
「腕はいいのに、わざわざ修業に出たのかい」
「甲士郎の伯父が長崎に居るそうな。婿に入る前に、長崎の華やかな料理も見ておきたいと、頼み込まれてしまって な。いずれ佐島屋の役に立つかもしれぬし、何より若い二人だ。急いで夫婦になることもないと思い、長崎へ行くことを認めたのだ」
「なるほど。婿に入る前に、誰の目も届かない地で、羽を伸ばそうって魂胆だねえ」
「……それならば、それでも良い。しかし、甲士郎へ宛てた文が、届かずに戻ってくるというのは、不気味で仕方がな い」
「その手の類は、寺か神社に持ち込むのが当たり前だと思うんだが」
「先ほども言ったように、このような話が外に漏れるのは困る。商いは信用が第一。そのような気味の悪いいわくがあ る店で、気持ち良く酒を飲もうなんて思うまい。……それに、このことで、娘に何か良からぬことがあっては……儂は、どうしたら良いのか」
「つまり、こういうことだな」
伴ノ甫が得意顔で頷いた。
「誰にも知られないように、娘さんの文が戻って来ないようにしてくれ、と。容易い話だと思うけどなあ。娘さんに、 文は書くなって言えばいいんだ。どうせ、時期がきたら、許嫁だって江戸に戻って来るんだし、まめに文なんか書かなくたって、いいじゃないかよ」
はい、お終いとばかり、掌を打とする伴ノ甫の頭を、今度は之春が叩く。
「そんなことで済むなら、この人はうちになんか来てない。商売人が、家内の弱味を話しているんだ。そんな始末 じゃ、金なんて貰えないぞ」
「だって、他に何ができるって?」
「文がなぜ届かないのか。その要因を突き止めなけりゃ、納得はしないだろう。もしも神仏がその原因なんだとした ら、甲士郎って男との縁を切るつもりだからな」
怪異が続く仲の二人を一緒にさせるほど、奥太郎は豪胆ではない。小心者で、大店の主人ではあるものの、根はいつ も不安でいっぱいだ。
――娘に、妙なものでも憑いているのだとしたら? いや、もしかしたら、佐島屋そのものが、何かに呪われている のかもしれない。
考えるだけで、夜も眠れないほどだ。娘のあすかだとて、不安でないはずがない。それを隠して、気丈に振舞ってい るというのに。
――父親の儂が、動揺してはいけないのだ。
事は、早いうちに決着させなくて。それがあすかの為だと、己の心を鼓舞した。
「いくらで、この怪異の元を突き止めてくれるのだ」
懐に手を入れる。紙入れを取り出そうとすると、
「ちょいとお待ちよ」
之春が奥太郎の動きを止めた。
「金を出すのは、値を聞いてからにしたらどうだい。商人が、一度出した金を引っ込めるのは格好悪いからさ」
「佐島屋の財を根こそぎ持って行く気か。……笑わせるな。佐島屋はお前のような者に、継げる店ではないわ」
「笑わせないでもらいたいのは、あたしのほうさね。佐島屋なんか、いらないよ。言っとくが、この鴉堂をそこらの表 長屋の店と同じに見ないでほしいねえ。今、あんたの目の前に、千両箱だって積み上げることができるんだよ」
嘲笑し、之春は右手を突き出す。奥太郎に向け、立てた指は三本だ。
「三両か……どれだけふっかけるかと思えば――」
「馬鹿をお言いでないよ。三両なんて、餓鬼の小遣いにもなりゃしない」
「では、三十両……」
「三百両。先に言うが、一文だってまける気はない。さあ、どうするんだい、佐島屋の旦那さん?」
――三百両だって? 何を馬鹿なことをっ。
出かかった言葉を無理やり飲み込んだ。喉が盛大に鳴ったほどだ。
顔を赤くした奥太郎を見、伴ノ甫が呆れた様子で首を振った。
「お客さん……悪いことは言わないから、他所に行きな。ほら、どっかの辻に卜占が得意な奴が居たような……居な かったような……。とにかく、旦那さんがあんな値を言い出すなんて、面倒に違いないんだ。面倒に関わると、いろいろと始末が多くってさあ。ね、後生だから 他所をあたってくれよ」
「面倒……ならば、三百両を出せば綺麗に始末をつけてくれるのだろうな」
之春を睨み据えた。これまでの商いで、百両、二百両の金を動かしたことは、一度ではない。必ず成果があるなら ば、一時の散財を惜しみはしない。
奥太郎の決意ある視線が、之春にはどう見えたのか。内心を見せぬ顔のまま、切れ長の目を細めた。
「あんた、さっき言ったよなあ。商いは信用だって。あたしが口先だけの奴だったら、今頃、この鴉堂は跡形もなく消 されてるだろうよ。いや、店だけじゃあないねえ。あたしも、生きちゃいない。こっちもそういう覚悟で、値を言ってんだ。さあ、どうするね?」
この場の――之春との間にある空気が変わった。すっと背筋が寒くなる。その感覚を払拭しようと、唾を飲み込む。
覚悟はできているはずだ。あの暗い道を歩んで来る間、何度も引き返そうとした。だが、引き返しはしなかった。店 まで辿り着いたことが何より、己の覚悟の現れだ。
紙入れを取り出す。手にした五十両を、之春に差し出した。
「手持ちはこれだけだ。文の謎を解いてくれた暁には、残りを渡そう。それで、良いな」
「ふうん。ま、天下の佐島屋の旦那が約束を反故にするはずもないか。いいよ、証文ひとつ、書いてくれれば」
手際良く、伴ノ甫が筆と紙を持って来る。之春が証文を作っている間に、伴ノ甫は大きな溜息と共に、五十両を手文 庫に納めた。
「それで、どのようにして謎を明かす気なのだ。できれば、店の者にも内密にしてもらいたいのだが」
「心配は無用さ。こっちが上手くやるよ。近いうち、店のもんを佐島屋に向かわせる。そいつが、あたしの目になって くれる」
「この、子供を?」
「こいつは、そういうのには向かないんでね。別の奴を行かせるよ。――さ、名を書いて」
有無を言わせず投げて寄越した証文を確かめ、鴉堂之春の隣に、佐島屋奥太郎の名を連ねた。
「これであんたも、鴉の餌食だ」
そういう声が聞こえた気がして振り向いたが、店の戸はしっかりと閉じられたままだった。