鴉堂を訪れてから、二度目の晩を迎えた。寄り合いを終えた奥太郎は、丁稚と共に深川への家路を急いでいる。月はすでに中天に差し掛かっており、丁稚も先 ほどから目を瞬かせて眠気を押し殺していた。

「待たせて悪かった。お前だけでも、先に帰して やれば良かったのだが」

「旦那様を置いて帰ったら、番頭さんに叱られて しまいます。今日の寄り合いは、さぞ難しいお話だったのですね。旦那様も、たいそうお疲れの御様子ですもの」

 七つで佐島屋に来て四年になる丁稚は、主を気 遣いつつ、しかし、欠伸だけはどうしても口を出てしまうようだった。

 奥太郎もつられて、欠伸を噛み殺す。

「暖かくなったせいか、料亭なんかを狙うけしか らん盗人がいてな。気を付けるようにと、お奉行所からお達しがあった。その話をしていたのだ」

「その話なら知ってます。大川添いの舟宿もやら れたとか」

「うむ……うちも気を付けねば。変わったことが あったら、すぐに儂に知らせるのだぞ。良いな」

「はい――あ、そういえば、ここ二、三日、同じ 男が通りを行ったり来たりしているような……」

「何?」

「あ――いえ、見間違いかもしれません。……で も、もしかしたら、そいつが盗人の一味なのでしょうか?」

 恐る恐る尋ねる丁稚の頭を、ポンと叩く。

「いいや。その人は盗人ではない。好きにさせて 良いのだ」

 ――そやつが、鴉堂の手の者に違いない。

 大金を出しただけあって、奥太郎が望んだ通 り、店の者たちに知られぬよう調べを進めているのだろう。前金の五十両は、半ば溝にでも捨てる心持ちだったが、之春が口先だけの男でなくて何よりである。

 いつになく機嫌の良い主の言葉に、丁稚は首を 傾げつつ、足元を提灯で照らすことに集中した。川縁の土手の上は、道が悪い。両端に等間隔で大きな木が植わっており、月明かりを遮っていた。さかりのつい た猫はどこで鳴いているものやら。蛙の間延びした鳴き声も聞こえる。

「何をビクビクしているんだい」

 寄り合いの席で飲んだ酒のせいで、ほんのり赤 い顔をした奥太郎が、面白そうに丁稚を見る。すぐ前を行く丁稚は、先ほどから、草木が葉擦れの音を鳴らすたびに、きょろきょろ辺りを見回しているのだ。そ の動作が小動物めいていて、奥太郎は大口を開けて破顔した。

「まさか、幽霊が怖いというんじゃあるまいな。 そんな時期はまだ先だぞ」

「幽霊はいつだって怖いもんです。置いてけ堀な んて、この辺りじゃありませんか」

「馬鹿だねえ。あれは、また、幽霊とは違うもの だ。それに、そうやって怖がっていると、なんでもかんでも幽霊に見えてしまうぞ。もっと、しゃんとしなさい」

「は、はいっ」

 丁稚が己を鼓舞し、背筋を伸ばして先の道を見 つめた時だった。

 土手沿いの木々の間から、黒い影が道の真ん中 に踊り出たのである。犬や猫の類でないことは、闇の中でも明らかだ。

 いち早く気付いた丁稚は、身を固くしてその場 に凍りつく。

「だ、旦那様――誰か、い、居ます」

「誰か?」

「ほら、あの、大木の横に」

 丁稚の手から提灯を受け取り、自らそちらへと 灯りを差し向ける。淡い光の端が人影を捉えた。ずんぐりした侍の姿が、浮かび上がる。

 晩に編み笠を被る訳は、ただひとつ。お月様に 顔向けできないことをしようとしている証だ。腰に大小の刀があるのも、嫌な気配を感じさせた。

「……申し訳ございませんが、道を通らせていた だきます」

 表だけは丁寧な物腰で礼をし、立ち竦む丁稚を 促す。

 男に近付く二人の足はひどく重い。腰を屈め て、男の横を通り過ぎんとした。

「待て」

 くぐもった声が、奥太郎たちの動きを止める。

 編み笠の男がやおら刀を抜いたかと思うと、手 にした提灯が地に落ちた。

「ヒッ――」

 奥太郎の袖にしがみついて、丁稚は息を飲ん だ。歯の根が合わず、ガタガタと震えている。

「つ、辻斬りです……旦那様、旦那様っ」

「お前は黙っていなさい」

 幼い丁稚を背に庇う。叱咤する声も、わずかに 上擦っていた。

 道の上で、提灯はみるみる形をなくす。炎は編 み笠を照らすだけで、男の顔を露わにすることはなかった。

「黙ってあり金、置いていけ」

 目の前に突き出された刀の刃紋が、眩い色を返 す。

 人斬りが目的ではない。ならば、言う通りにさ えしていれば、命は助かる。

「分かりました。金は置いて行きます。ですか ら、どうぞ命だけはお助けくださいませ」

 懐から紙入れを抜き出した。怖々と、差し出 す。

 すると、

「――それを渡しても、助かる証にはなりません よ」

 奥太郎と丁稚、編み笠の男以外ひと気がなかっ た小道に、新たな声が下りた。

 編み笠が忙しなく振り返る。奥太郎も、新手の 人影に強張った顔を向けた。

 炎の明かりが届く中に、薄ぼんやりと浮かぶ影 がある。髪は長いままひと括りにし、片側に流していた。一見、少年のような雰囲気であるものの、背はひょろりと高い。だが、第二の追剥ではないとは言えな い。腰には刀を差しているのだから。

「どうしましょう、旦那様……今度は幽霊ですよ う」

 もはや半べその丁稚は、目の前の幽霊に足があ ることを見逃していた。

 奥太郎は慌てて紙入れを引き戻し、新たに現れ た者を注意深く見据える。羽織袴のいでたちで、首元に暖かそうな毛織の襟巻き。髪さえ結っていれば、武家の子息といった身形だ。

 優男は、奥太郎の様子を鼻にもかけない様子 で、編み笠に相対する。

「あなたも、この辺りでやめておくことです。こ のようなことをして得たお金など、しょせん、泡銭です」

 怖いもの知らずというのか。声はひどく落ち着 いている。

 奥太郎は丁稚を急かして、編み笠男との間を空 けた。この緊迫した場にあって、浮世離れに現れたその優男こそ、仏が遣わした救いの者にさえ思えた。

 編み笠の男は珍客を前に、刀を構え直す。

「聞く耳、持たずですか」

 優男の声音は、楽しげにすら聞こえる。

 ――こんな状況で、まさかな。

 体格も腕力も、見るからに編み笠のほうが上。 こんな切羽詰った状況を楽しめる奴がいるものか。編み笠が妙な男に気を取られている隙に逃げてしまおうと、算段をつける。

 ――あのお方はどうなる?

 一瞬、頭の隅を掠めたが、そんなこと、知るも のか。よしんば命を落としたとしても、声を掛けたのは向こうの勝手。こちらを恨むのは筋違いというもの。さ、ささ、お早くあっちへ行っちまってください と、心の中で二人をけしかける。

 声が聞こえたわけでもあるまいに、その瞬間、 編み笠が動いた。いきなり斬りかかって行ったかと思うと、力任せに相手の体を跳ね飛ばす。優男がよろめいて、明かりの外に消えた。それを追って、編み笠の 男も闇に溶ける。

 道の真ん中で皓々と燃える炎だけが、さらに濃 い闇を作る。二人の影は完全に見えなくなった。地を滑る草履の音と、どちらのものとも分からない声がしじまに掠れる。優男も応戦しているらしい。やはり武 家の出なのだろう。

「この隙に、逃げるぞ」

 奥太郎が丁稚の尻を叩いた。

「でも、あのお方が――」

「馬鹿者。生きていたら礼をする機会くらいあ る。とにかく今は、さっさとこの場を離れるんだ」

大慌てで踵を返す。

 途端、背後で大きな悲鳴が上がった。一里四方 にまで聞こえるかと思う大声は、下方へ下方へと移動していき、やがて、ドボンと川面を叩く音がする。

 どちらかが手傷を負い、土手を転げて行ったの だと分かった。

優 男が勝つ保証はない。武芸に秀でているようには見えなかったからだ。だとしたら、闇の中から再び姿を見せるのは、やはり追剥……。

 ――逃げる間さえ稼げないとは、仏も役立たず を寄越したものだ。

 勝手な悪態が頭を過ぎる。それでも、炎に背を 向け、少しでも遠くへ逃れようとした。

「お待ちください。逃げる必要はありません」

 不意に、柔らかな声が動きを止める。思惑とは 逆に、言葉に反応して足がたたらを踏んだ。

 丁稚と二人、ゆるりと振り返る。

 辺りの小枝を拾い上げ、松明を作っている優男 の姿に目を瞠った。

「さっき、転げてったのは……追剥のほうで?」

「ええ、まあ。私がここに居るのなら、そういう ことです」

 奥太郎の問いに、小さく頷く。手製の松明に火 を移し、それを丁稚に手渡した。

「これをお持ちください。灯りがないと、夜道は 危のうございます」

 と、清々しいほど屈託のない笑みを浮かべる。

「あの、なんとお礼を申し上げたらいいのか。わ たくしは、この先の料亭、佐島屋の――」

「お礼は結構です。通りがかりの気まぐれですの で。さあ、早くお行きください。今度こそ、お気を付けて」

「あ――ちょっと、待ってくださいなっ」

 背を向けかけた青年を、奥太郎は咄嗟に引き留 めていた。

「店まで、一緒に来てくれませんか。今の一件 で、この通り、丁稚がすっかり縮み上がってしまった。迷惑かと存じますが、一緒に店まで来てくれるとありがたい」

小 首を傾げるこの優男が、頑強な追剥を仕留めたとは信じられないことだが、目の前で見せられては信用する以外にない。しかも、礼は要らぬと言う。今時珍しい 好青年だ。

「よろしいのですか。私も結構、怪しい者に違い ありませんが」

「儂は、あなたの腕を見込んでお願いしているの です。声をかけてくれた優しさに、縋ることは出来ませんかな」

「そこまで仰っていただけるなら、喜んで」

 満面の笑みを見せた。

「宏(ひろ)と申します。どうぞ、よろしく」

 無邪気な目の青年に悪意は見えず、奥太郎は ほっと胸を撫で下ろした。

 

 

 

 宏と名乗る青年は、真に、気の良い男だった。 よく笑い、夜闇を怖がる丁稚を励まし続けてくれた。

 佐島屋に辿り着いても、礼金話を持ちかけるわ けでもなく、「では」と踵を返すものだから、奥太郎はまたもや、慌てて引き留めることになった。

「せめて、酒でも飲んで行ってはくれませんか。 このまま帰したのでは、罰があたりそうだ。な? 儂を助けると思うて」

「そのようなつもりではないのですが……お言葉 に甘えて、少しだけ、ご馳走になろうかな」

 佐島屋の稲荷寿司は、日銭程度の稼ぎでも買い 求めることができるものの、座敷に上がるとなると、そう易々というわけにはいかない。酒と料理、芸妓も呼ぶと、十両ではとても足りないのだ。

 育ちの良さそうな青年ではあるが、この宏に、 それほどの持ち合わせがあるとは思えなかった。佐島屋で一晩過ごすだけで、充分な礼になる。

 宏を番頭に案内させ、奥太郎は着替えを済ませ る。馴染みの客が来ていたので顔を出し、挨拶をしていると、追剥に襲われたのが嘘のような、常と同じ佐島屋の夜を感じる。気付けば半刻ほど、宏を放ってお いたままだった。

 あらかた客も引いた刻限になり、奥太郎はいそ いそと宏の座敷へ向かう。

 宏は膳で出された料理に舌鼓を打ちつつ、盃を 傾けていた。酌をしていたのは娘のあすかで、傍には女中のおなえもいる。

 娘の、これほど和やかな表情を見たのは、久方 振りだ。

「遅くなってすみません。どうですかな、うちの 料理は」

「とても美味しくいただいています。お嬢さんに 話し相手になっていただいて、夢のようです」

 空の銚子の数を見るに、かなりの酒を飲んでい るはずだが、宏はまるで酔っているふうでもない。水を飲んでいるかのように、盃を傾ける。

 上機嫌の宏に対し、あすかはわずかに頬を膨ら ませた。

「お父様、命の恩人を放っておくなんていけない わ。本当なら、お料理だけでは申し訳ないくらいですのに」

「お礼は要らないと、私が断ったのです。このよ うに華やかな場所は私には不釣り合いで、少し、居心地が悪くて」

「そんな堅苦しく思わずに、どうぞ、寛いでくだ さいませ」

「ありがとうございます」

 煮物を美味そうに口にする宏を見、奥太郎は、 ふっと相好を崩す。

「あなたは不思議な方ですなあ」

「そうでしょうか」

「お侍さんなのに髷も結わずに、あすかにまで気 さくに話してくださる」

「髷は、結うのが面倒なので……迫力が足りない と、良く言われます」

「誰に対しても、そのように接するのは、どうし てですか」

「そんなに、可笑しいことですか」

「可笑しなことです。下手をしたら、我々が無礼 者として手討ちにされちまう」

「そういうものですか」

「そういうものって……あなた、分かっていない のですか」

「この話し方は癖ですので。侍とはいえ、うちは 代々の無役。浪人なのです。ですから、商いをされている方は、心の底から尊敬しています」

 ニコリ、微笑する。その場にいる者すべてが、 つられて微笑んでしまう笑みだ。

「今日も、人足場のお仕事を終えた帰りだったん ですって。お父様は運が良かったのよ」

「人足場だって? あなたほどの腕なら、そんな 仕事をしなくとも――」

「もう、刀で食べていける世ではありませんよ。 腕一本で食べて行こうと思ったら、今夜の追剥のようなことをしなければなりません。仕官もしていない身で、活かせるのは体力のみです」

 彼はそれを卑下する様子もなく、晴れやかに言 う。

「それにしても、もったいない。顔見知りの口入 屋に、口をききましょうか」

「そこまでしていただいては、私に罰があたりま す。私は、この酒と料理で充分に満足です」

「まあ、なんて無欲なんでしょう」

 あすかの横に座していたおなえが、感心したよ うに息をつく。空いた銚子を盆に並べ、新しい酒をとりに、部屋を出ていった。

「それにしても、あなたは本当に酒が強いです な。まったく酔う気配がない」

 奥太郎の言に、宏は苦笑しつつ、後ろ頭を掻い た。

「そんなことはありません。こう見えても、酔っ ているんですよ。こちらのお酒は上等ですから、悪い酔い方はしないのでしょう」

 人足が集まる飯屋では、安酒に、さらに水を混 ぜて客に出すという。そんな酒を飲み慣れていれば、佐島屋でなくとも、きちんとした料理屋が出す酒はどれも上等に違いない。金がない武士とは、なんと不憫 なのか。

 ――それなのに、この人は……人助けをして金 をせびるわけでもなく、ただ、実に美味そうに酒を飲んでいる。

 脳裏に、鴉堂で会った之春の顔が浮かんだ。薄 暗い店で蝋燭の炎に照らされた顔は、金に取り憑かれた守銭奴だった。

 ――世の中には、己の力量を過信した強欲者も いる……あんな奴らと競り合っては、この人は敵うまい。

 宏がこの先、仕官するか否かは分からないとし ても、この純朴な青年の手助けができないものかと、奥太郎は腕を組んだ。

「そうだ。明日、儂の商いに付き合ってはもらえ ませんかな」

「構いませんが、何か?」

「うちをご贔屓にしてくださるお客様には、お武 家様も多い。明日は、そちらのお屋敷に出向いて、お代を頂戴する日なのです。いくつかお屋敷を回る為、帰りには数百両が懐に集まることになります。今夜の ように襲われでもしたら、佐島屋はお終いだ。明日だけで結構。どうか用心棒になってくれませんか。もちろん、手間賃は払いますよ。どうですかねえ。やって くれませんかな?」

「私なんかが用心棒で、よろしいのですか」

「当たり前です。その人柄を見込んでのことです から」

 回る屋敷は、大身ばかり。上手くいけば、宏の 仕官先も見つかるかもしれない。

 ――これぞ、一石二鳥。

 己の考えに満足げに頷く。

 対して宏は、わずかに表情を曇らせていた。

「どうしたのですか。商人の用心棒は嫌です か?」

「いえ……こんな私の為に、気を使っていただく など初めてのことで。……嬉しいのです」

「嬉しいのなら、笑えばいい。あなたの笑顔は、 他を和やかにします。なあ、あすか?」

「そうです。笑ってくださいませ」

 戸惑う宏は、それでも、ぎこちない笑みを浮か べる。今まで見せていた笑みよりも、よほど人間くさい。

 宏も、自分で分かったのだろう。すぐに盃を 煽って、表情を隠す。

「佐島屋さんはお優しい方です。今夜、あの場を 通って、本当に良かった」

「それは儂も同じ。こんな良い方に用心棒になっ てもらえるとは、追剥に遭ったのも良き縁だったと思える」

「きっとこちらのお店で働いている方々も、ご主 人と同じように優しい方ばかりなのでしょうねえ。あの可愛らしい丁稚さんも、おなえさんも、働き者ですから」

「おなえは、ほんの子供の頃からあすかを姉のよ うに慕っていました。あの子の母親は浅草寺脇の茶店で働いていたんだが、二年前に流行り病で亡くなってしまいまして。可哀想な子ではあるが、明るい、気立 ての良い子です」

「あら? もしかして、宏さん、おなえのことが 気に入ったのですか」

「お嬢さん。それは、おなえさんに失礼ですよ」

 宏が軽やかに言って、首を振る。

 しかし、この青年とおなえならば、侍と町娘で はあっても夫婦としてお似合いだ。いずれはおなえも、佐島屋から嫁に出してやろうと考えていた。宏がその気ならば――と考えを巡らし、

 ――出逢ってまだ、一日も過ぎていないの に……。

 思わず、自嘲する。

だ が、宏を見ていると無性に手を貸したくなるのも、正直な心境なのだ。

 ――こんなに、他人を惹き付ける人がいたとは な。

 人柄も良く、武術も一人前。仕官していないの が不思議なくらいだ。いや、むしろ武家の世の中では純粋すぎて、馴染めなかったのかもしれない。

 浪人としてでも、その純粋さを生かすことがで きればいいのだがと、奥太郎は上機嫌の宏を見ながら考えていた。

 

 

 

 朝になり、奥太郎は居間であすかと二人、朝飯 を食べていた。昨夜の残りではあるが、芋の煮っ転がしや菜っ葉のおひたしの皿が並び、豪勢である。

 飯のおかわりをよそい、あすかが何かを思い出 したように、ふっと笑った。

「どうかしたのか」

「はい。先ほど客間へ、宏さんの食事をお持ちし たのだけど、宏さんったら、寝ている時もあの襟巻きを外さないんですって。よっぽど寒がりなのね」

「四六時中、巻いているってのかい。ああ、それ が仕官できない訳なんだな。それより、あすか」

「はい?」

「甲士郎のことだが」

 茶碗を渡しかけた手を止め、あすかは奥太郎を 見つめ返す。目の中に、言いようのない不安の色が広がった。

 奥太郎から手を伸ばし、茶碗を受け取る。

「心配は要らない。必要な手は打った。だから、 お前が案ずることはないのだ」

「……必要な手って?」

「表に店の様子を窺っている者がいるはずだ。そ の人が、文の謎を解いてくれる」

「どのような方なの? お父様……大丈夫な の?」

「不安になることはないと言ったろう。この父に 任せておきなさい。お前はいつも通り、店のことをしっかりな」

「……はい」

 まだ、何かを聞きたそうな雰囲気ではあった が、それ以上、話す気はなかった。第一、鴉堂なる店を、どう説明していいか。あのような店が真実あるなどと、話しだけで誰が信じよう。己が真に必要としな い限り、その価値は分からぬものだ。

 飯を済ませ身支度をし、奥太郎は店のほうへ顔 を出す。古株の番頭と、今夜の客の好みなどを確かめ合った。祖父の代で佐島屋の丁稚となり、父の代で番頭になった男で、奥太郎にとってはこの世でもっとも 信頼を置く人である。商いに関しても、彼からほとんどを教えてもらったと言っていい。ただ、歳が歳だけに、そろそろ番頭見習いでも立てたいところだ。

「旦那様、今日も夜道には特にお気を付けくださ いませ」

「分かっている。その為に、用心棒を連れて行く のだからな。ところで、宏さんはどこだ」

「ああ。あの方でしたら、料理場のほうへいらっ しゃるかと」

「おや、朝飯が足りなかったのかね」

「いえいえ。先ほど、稲荷は届けてもらえるのか と聞いていましたので、その件でございましょう」

「ほう。土産というわけか」

 奥の料理場へ顔を出すと、もうもうと立ち上る 湯気の中、料理人たちが忙しく立ち働いていた。その中で、料理人のひとりを捕まえて、にこやかに話す宏を見つける。彼もこちらに気付き、近付いてきた。

「おはようございます。美味しい朝餉を、ありが とうございました」

「稲荷を頼まれたそうだが、ご家族にでも?」

「家族というものでもないのです。こちらの稲荷 が好きな者が居りまして、食べさせてあげたいと思ったものですから。お代はもう、番頭さんへお支払いしてあります」

「稲荷だけと言わず、宏さんがお客様ならば、い つでもお座敷を用意しましょう。ここへ連れていらっしゃい」

「いえ、実は足を患っておいでなので、出歩くの は辛いかと」

 年寄りの面倒でも看ているのかもしれない。 女、子供どころか年寄りにも好かれていそうだ。

 ――いっそ侍なんぞやめちまって、お医者でも 務まりそうだな。

 今から修業するには遅いかもしれないが。

「さあ、では行きましょうか」

 奥太郎と宏は、佐島屋を出て武家地のほうへと 歩き出す。

暖 簾を潜った際、宏はちらりと、向かいの天水桶の影に視線をやっていた。少し歩いた所で、

「佐島屋さん、店を見張るように怪しい男が。昨 夜も居たように思います。追い払いますか」

 声を低めて言う。

「あれはいいのです。こちらから頼んだことです ので」

「……そうなのですか?」

 訝る宏にそれ以上は答えず、土埃舞う前の爽や かな風渡る道を進んだ。

 

 

 

 奥太郎が大名屋敷を出ると、外はすっかり暗く なっていた。武家地を巡り、五つの屋敷を回ってようやく終いである。門前で待つ宏は、にこりと微笑みかけた。

「お疲れでしょう。駕籠を用意しておきました」

 見れば彼の後ろで、駕籠かきたちが並んでい る。

「駕籠だなんて。歩いて帰っても、そう遅くはな りませんよ」

「懐のもののことをお考え下さい。できるだけ、 人目に晒さないほうが良い」

「なるほど。まあ、たまには良いでしょうな」

 さあさあと促され、駕籠に乗り込んだ。左右の 筵を下ろされ暗くなったところで、駕籠が大きく揺れる。体が浮く感覚と、駕籠かきの足音が心地良い。

 行き先を伝えた気配はなかった。宏が事前に伝 えていたのだろうか。

 ――なんと出来たお人か。

 屋敷を回っている時も、己はこのような身形だ からと、決して門から内へ入ろうとしなかった。佐島屋の連れなのだからと言っても、

「私のような者が、殿様の目に触れでもしたら、 お目汚しです。まさか屋敷内で襲われることもないでしょうし、私は表でお待ちしております」

 着物はどうあれ、髷を結わない頭を見、良く思 わない者もいるだろうと言う。佐島屋の客に対する配慮も、抜かりはなかった。言葉の通り、奥太郎が出て来るまで大人しく待っているのだから、忠犬のようで ある。

「それにしても、質素倹約の折、皆さま、豪勢に 金を落として下さいますね」

 外を歩く宏が、駕籠の中の奥太郎に話しかけ た。

「これでも、めっきり減ってしまいましたよ。た だ、身に付けるものと違い、喰い物は人目に触れるものではありません。容易に見咎められるものじゃないからこそ、たまの贅沢に金払いが良くなるのです」

「ありがたいことですね」

 それから、ぽつりぽつりと話しをしていたのだ が、奥太郎は不意に不安を感じた。とっくに佐島屋に着いていてもいい刻限だろうに、駕籠は一向に止まる気配がない。

「宏さん」

 指先で筵を開けるも、見えるものは夜の闇ばか り。近くを歩く宏が、

「もうすぐ着きますよ」

 優しく言ってくれるのだけが、救いだった。

 やがて、駕籠が止まる。

「さあ、佐島屋さん。着きました」

「ああ……腰が痛い……」

 随分、長い間、駕籠に乗っていた。駕籠から 出、思いきり体を伸ばすと、体がギシギシと軋む。

「いやあ、宏さん。無事に帰り着くことが――」

 顔を上げ、奥太郎は絶句した。目の前にあった 店は、佐島屋ではなかったのだ。

「ひ、宏さん……ここは」

「ご存じでしょう。鴉堂です」

「どうして、宏さんがこの店を知っているんです かっ」

「どうしてと言われても。さあ、とにかく、中 へ」

「いや――しかしっ」

 知らぬ間に後退っていた。咄嗟に、駕籠に乗ろ うとし、すでに駕籠の明かりが遠く去って行くのを、絶望的な面持ちで眺めるしかなかった。

「騙すようにお連れして、申し訳ありませんでし た。ですが、今夜、どうしてもお連れするようにと、鴉堂の主に頼まれていましたので」

 笑みを浮かべて言う宏は、今朝となんら変わら ない。変わらぬのに、その笑みに隠れた本心が見えず、不安が募る。

「宏さん……あなた、鴉堂の手先なのか」

「こちらでお世話になっています。さあ、行きま しょう。主が待っています」

 宏が示す先には、いつかと同じ、鴉堂の明かり がある。闇の中で、その明かりだけが存在を誇示していた。

 ――鴉に捕まってしまったか?

 親鴉が子鴉の為に、巣に餌を運ぶ姿を想像し た。宏の場合、親と子が逆である気がするが、奥太郎にとっては大した違いはない。

 ――ええいっ。悩んでいたところで始まるま い。鴉堂が儂を呼んだということは、文の一件で何か分かったのだ。

 その為に、大金も支払っている。やり方は気に 入らないが、この際、目を瞑ってやろうと、心を決めた。

 宏が戸を開けて、こちらを見つめている。わざ と大股に近付き、戸口を潜った。

「やあ。待ちくたびれたよ。佐島屋の旦那」

 そこが所定の位置であるかのように、数日前と まったく同じ姿勢で座す之春が、薄い笑みを浮かべている。

 これまた之春の隣にいた伴ノ甫は、奥太郎の背 後に宏の姿を見つけると、安堵の溜息を吐いた。

「やっと帰って来てくれたよう。お帰り、宏さ ん」

「ただいま戻りました。すみません、伴ノ甫さん ひとりに、店を押し付けてしまって」

「そんなあ、いいんだよ。宏さんは、もっとずっ と面倒なことを言い付けられてんだもん。旦那さんのことは、おれ、慣れてるし」

 この、丁稚とも下働きともつかない少年のほう が、年上の宏を労っている。その珍妙な様子を前に、奥太郎の頭は混乱した。

「おやおや、今にも目を回しそうだねえ。伴ノ 甫、佐島屋の旦那にお茶と稲荷を出してやんな」

「稲荷……?」

「あんたんとこの変わり稲荷だよ。さっき届けて もらってねえ」

「……そうか……今朝、宏さんが頼んでいた稲荷 は、ここへ届けるものだったのか……」

「せっかく佐島屋に行くんだから、土産を買って 来いと、宏に頼んでいたのさ。評判通り、美味い稲荷だった」

「そいつは……ありがとうございます。だが、こ んな、人を騙すやり方は、同じ商人として賛同できんっ」

 ふつふつと湧き上がる怒りは、一度捌け口を見 つけると、どうすることもできない。奥太郎は両の手を握り締めた。

 ――いっそ、殴りかかってやりたい。その性根 を叩き直してやろうか。

 しかし、その気配を察した宏が、奥太郎と之春 の間に立ち塞がった。

「宏さん……あなたは今日、儂の用心棒のはずで はないのですか」

「ですから、佐島屋さんが手を出さないように、 こうしているのです。もしも之春さんに手を出せば、私は佐島屋さんを捕まえなくてはなりません。用心棒としては、心が痛いのです」

「いけしゃあしゃあと、よく言えたものだ。儂を 騙していたくせに」

「――だってそりゃあ、あんたがそうしてくれと 言ったんじゃないか」

 之春が欠伸を堪えながら言う。

「店の者に知られぬようにしてくれと、言ったん だよ。覚えているかい? だから、こうして手間かけて、宏に出向いてもらったんだ」

「ならば、儂にだけでも鴉堂の名を明かしても良 かったはずだ。そうすれば、調べもし易かろうに」

「敵を騙すには、まず味方からって言うだろ。 ま、味方として括られるのは、旦那は嫌がるだろうがね。それに、あんたはどうも、鴉堂を心から信じていないようだ。そんな人がいくら演じようとも、常と同 じには接することができない。そういう所、娘や奉公人が見たら、警戒するじゃあないか」

「申し訳ございません。之春さんから、佐島屋の 皆さんには絶対に気付かれるなと、念を押されたものですから。少し、強引な手段をとらせていただきました」

「つまり……あの追剥もお前らの仲間か……」

「金を払えばなんでもしてくれる人が、居たもの で」

 申し訳ありません、と殊勝に頭を下げる宏が腹 立たしい。

「そうやって、取り入りおって……」

「じゃあ、聞きますけどねえ――」

 奥太郎の呟きを聞きつけた之春は、涼しげな眉 をわずかに上げた。

「宏が、店に連れて行けと、一度でも言ったか い? あんたが、自ら進んで宏を引き入れたんだよねえ。頼まれてもないのに用心棒にして連れ回したのだって、全部、あんたが言い出したことだ。違うかい?  え?」

「そ、それは――」

 答えに窮する。之春の言っていることは、正し い。去ろうとしていた宏を引き留めたのは、紛れもない――奥太郎だ。

「だったら、つべこべ言うんじゃないよ。こっち はあんたの望む通りに事を運んでやったんだ。責められるいわれはない」

 はるか年下の之春に貶され、奥太郎は体が熱く なるのを感じた。怒りを抑えようと、深く息を吐き出す。

「――それで? 偉そうに言うからには、文の怪 異を突き止めたのだろうな。大した成果もなかったら、手付けの金は返してもらうぞ」

「怪異ねえ……目の前にあるものほど、見えにく いもんだって教えてあげたのに、まだ気付かないの。あんたはどうも、せっかちでいけないな」

 之春は悠々と、煙管に火を入れた。揺るぐ、煙 に、伴ノ甫が眉を顰めている。宏は相変わらず、微笑むだけであった。

 奥太郎がせっせと周りを見回す。どこにも、文 に関わる真があるとは思えない。

 やがて業を煮やした之春が、

「これ、これ。これだってば」

 指をさすのは、佐島屋自慢の変わり稲荷だ。

「稲荷と文と、何か関わりが?」

「ま、正しくは、稲荷を持って来た娘だ。――も ういいよ。出でおいでな」

 背後に設えた内蔵に向かい、言い放つ。

 次の瞬間、重々しい扉が開くと同時に姿を見せ たのは、奥太郎には見慣れた者であった。

「おなえ……お前、このような刻限に何をしてい るんだ」

「私が、おなえさんに稲荷を届けてもらえるよ う、番頭さんにお願い致しました。帰りが遅くなることも伝えておりますので、騒ぎにはなっていないでしょう。――さあ、おなえさん」

 宏が手招きする。

おなえは奥太郎から目を逸らしつつ、店の隅に ちょこんと座った。

「さあて、では、文のいわくを解いて差し上げま しょうかねえ」

 にやりと笑む之春の顔は、薄暗い蝋燭の明かり を受け、凄味を増す。奥太郎は喉を鳴らして、唾を飲み込んでいた。


→続く