三 日後、宏は千草を見舞う為に、道弦の診療所を訪れていた。

 普段、道弦が患者を看る部屋とは少し離れた一 室で、千草は、薄い布団の下に更に薄い体を横たえている。遊郭の納戸部屋より随分と良い場所に居るはずなのだが、病状は芳しくない。それでも、宏が来る と、布団から起き上がろうとする。

「寝ていてください、千草様」

「今、お茶を――」

「自分でやりますから。千草様はご無理をなさら ずに」

 千草を布団に戻し、宏は部屋の隅に置かれた火 鉢から薬缶を取り上げた。湯呑み二つに湯を注ぐ。ひとつの湯を冷ますように、息を吹きかけ、それを千草の元に置いた。

「申し訳ございません。宏様には面倒をおかけし ておきながら、わたくしだけ、休んでいるばかりで……」

「そのように思うことはありません。私が勝手に お手伝いしていることなのですから。私のほうこそ、千草様にご不便をおかけしているのではないかと思っていたのです。ここは道弦先生おひとりで、女手があ りませんから。困ることがあれば、手伝いの女を寄越しましょうか」

「いえ、もう充分でございます。これ以上、わた くしのことでお手を煩わせないでくださいませ」

「こうして互いに気を使っていたのでは、病に良 くありませんね」

 宏が軽やかに笑うと、千草も小さく微笑みを返 す。こうしていても、仇が見つからぬうちは気も晴れないだろう。

 廊下に声が聞こえぬよう、宏はぐっと声を低め た。

「竹興様は、ご老中様のお側にお仕えしていたと 仰いましたね」

「はい」

「つかぬ事をお伺いしますが、竹興様から千人首 という名を聞いたことはありませんでしたか」

「いいえ……父の口からは」

「というと、誰かに聞いたことはあるのですね」

「……遊郭の、お客様に」

「そうでしたか。嫌なことを思い出させて、すみ ません」

「あの……千人首は、確か辻斬りですよね。宏様 は、その辻斬りと父を殺した刺客に、関わりがあるとお考えなのですか」

「いえ。つい先ごろ、千人首の名を耳にしたもの ですから」

「もしも、父を討った刺客がその千人首だとした ら、父は、たまたま辻斬りに出遭ってしまった為に命を奪われたことになります。……大した訳もなく、ただ、斬り殺されたと……」

 千草の目が、見る間に赤くなる。これまで、父 親は政に関わることで抹殺されたのだと信じてきた。それが、辻斬りが下手人となれば、信じてきたことは一変してしまう。

 違う。父親を殺したのは、単なる辻斬りではな い――そうであってはならないと、千草の目は語っていた。

 宏は、その目元を隠すように、掌を置く。

「千人首の名は、忘れてください。単なる私の思 い付きなのです。さあ、お休みください」

「ですが、父を殺した刺客のことを……それをお 聞きになりに来たのではありませんか」

「また、日を改めましょう。それまで、しっかり 養生なすってください。――ああ、今度伺う時は、何か甘いものでも持って参りましょうね」

「……ありがとうございます、宏様」

 掌に温かいものが滲んだ。千草の眦に浮かんだ 涙をさり気なく拭い、宏は廊下に出る。ちょうど、廊下の先に居る道弦と目が合った。意味有りげに、ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべている。

「早いお帰りだな。もうちっと、ゆっくりして行 けや」

「道弦先生。千草様のこと、よろしくお願いいた します」

「医者としては、面倒みてやるがなあ。男として の面倒は、きっちりお前がみてやれ。お前が来ない日、あの娘、たいそう待ち焦がれた顔をしておる。寒いのに障子も開けて、誰か来たらすぐに分かるように さ」

「寒いと分かっていらっしゃるなら、布団をもう 一枚、お願いします。それから、火鉢の炭も、足していただけますか」

「てめえの女の面倒をみさせておきながら、図々 しいな、お前は。さすが、あの之春の手先だ」

「治療代でしたら、前払いしたはずです。足が出 たぶんも、きちんとお支払いしますから」

「金に関していえば、疑っちゃいねえ。お前は之 春と違って、金払いがいいからなあ。ただ、もうちっと、心を掛けてやれって言ってんだ。お前、娘の体を心配してるふうで、その実、別んとこに気がいってる んじゃないのか」

 まるで、仮病を見抜くような目だ。宏は、静か に笑みを浮かべた。

「咎めているのですか」

「咎められるようなことをしてるって、分かって んだな。だったら、俺が何か言うこともねえや。――おっと、いけねえ。表に、お前を待ってるお侍が居るんだがなあ、さっさと退けるように言っちゃくれねえ か。侍に立たれていたんじゃ、変な評判が立っちまう」

 侍と聞いて、すぐに丙左だと察しがついた。日 中は、伴ノ甫と共に店の掃除をしていたはずだ。急ぎの用でもあったのかと外へ出る。すでに日暮れとなっていた。

 丙左は築地の陰で、足元の小石を転がしながら 待っている。

「丙左さん、どうなすったのですか。中にお入り になれば良かったのに」

「いや、医者というのがどうも苦手で。それよ り、主殿が宏殿を呼んでいる。納戸にあるものを、寺に運び込んでくれと」

「伴ノ甫さんの粘り勝ちですね。ようやく供養す る気になったんだ」

「え?」

「いいえ。なんでもありません。さ、参りましょ う」

 歩き出した足が、すぐに止まる。わずかの間、 微動だにしなかったかと思うと、丙左の襟を引き、築地の陰に身を隠した。

「どうしたのだ」

「静かにしてください」

 唇に指を当てる。

 辺りは静かだった。人通りもなく、風の音ばか りが枯葉を揺らしている。砂埃が巻き、瓦を叩いた。空には、気の早い月が浮かぶ。

 その静けさの中で、宏は確かに感じていた。

ザ。

 微かな物音。

 ザ、ザ、ガタ。

 音は続く。

 耳を澄まして、それが道弦の屋敷裏からしてい るのだと分かる。

「丙左さん、行きましょう」

「あ、ああ」

 互いに顔を見合わせ、通りに滑り出る。軒先の 陰を選び、裏手へと回った。屋敷の右手は隣家と接しているものの、隣は空き家となっている。その間には、大人二人が並んで通れるくらいの細い道が通ってい た。家と家の間で夕陽の赤も届かない。暗い道先をそっと覗く。

 人の気配がある。察するに、五人ほど。

 道弦の屋敷裏には、小道に面した塀に木戸が設 けられていた。五つの影が、木戸を外して中に押し入ろうとしている。

「待ちなさい」

 宏は道の真ん中に進み出た。

 木戸を潜ろうとしていた男たちの動きが止ま る。明らかに驚いた様子で息を顰め、こちらを振り仰いだ。

「こちらへ用なら、表からお入りください。それ とも、表から訪ねることが出来ぬ用なのですか」

 問う相手は、一様に手拭いで頬被りをしてい る。問うまでもなく、悪しきことを考えての所業だ。

 しかし、声をかけたのが宏ひとりだと分かる と、男たちの間から低い笑い声が起こった。

「運の悪い奴だ。こんな所を通りかかったばっか りになあ」

 男のひとりが脇差を抜く。身を低くし、小道を 走り来た。

宏が半身を引く。素早く抜刀した。切っ先を相手 に向ける。狭い場所では、刀を払うことができない。突くのがもっとも有効だった。

 男は、たたらを踏んで立ち止まる。大刀相手に 脇差は不利だと、瞬時に判断したようだ。すぐに、後ろから仲間が駆けつけた。数で勝負する策に出る。

 だが、彼らは自分たちの不利が、獲物の違いば かりでないことを分かっていなかった。

「逃げられるとお思いでしたら、大間違いです」

 道を塞いで、宏が構える。

 男たちが同時に襲い掛かれるとしても、この道 幅では二人が限度。残りは後ろで団子になっているしかない。

 先に走り出た男が、跳躍しながら脇差を振り翳 した。

 宏が足を狙って刀を突き出すも、わずかに外れ る。頭上で太刀風が鳴った。素早く体勢を立て、落ちてきた脇差を、刃を使って滑らせる。刀同士が擦れる音が響いた。

 男が視界から外れた瞬間、新たな刀が宏の顔を 狙う。それを、中腰の姿勢でかわした。

相手は足元や腹に狙いを定め、二人がかりで次々 と斬りかかってくる。

限られた幅でどうにか避けたが、宏の足が石ころ を踏んだ。草履が滑り、塀に肩をぶつける。

「今だっ、逃げろ」

 男たちが、小道の奥へと駆け出した。すぐ闇に 紛れるつもりだったろうが、生憎、容易に逃げおおせることはできない。

 反対の道を、先回りした丙左が塞いでいたの だ。

「こちらも、易々と通れると思うな」

 狭い場所での、五対二という不利な状況にも関 わらず、丙左は淡々と男たちを見据えた。

「うるせえっ」

 ひとりが、勢いに任せて踊りかかる。

 丙左の長身が沈んだかと思うと、掴みかかった 男の体は、後方に投げ飛ばされていた。

「宏殿っ」

 男たちを間に挟んで、丙左が叫ぶ。

「宏殿、脇差を貸してくれまいか」

「脇差、ですか」

「槍がないと、丸腰になってしまうもので」

 例え槍を携えていたとしても、ここでは使えな いのだが。

苦 笑し、宏は脇差を放った。

男 たちは完全に逃げ道を失った。宏と丙左によって、次々と地に伏していく。最後に残った男にいたっては、宏が剣先を突きつけただけで降参した。

「運が尽きたのは、そちらのほうでしたね」

 にこやかに言い、男たちの頬被りを剥ぎ取る。 若い侍たちだった。

「どうして、この屋敷に押し入ろうとなさったの ですか」

 すでに逃げることも叶わぬというのに、彼らは 固く口を噤む。

 その時、木戸が開き、道弦が顔を出した。

「騒がしいと思えば、お前か。喧嘩なら他所で やってくれ」

 と、至極、迷惑そうだ。

「申し訳ありませんが、彼らの顔に見覚えはあり ませんか。こちらに押し入ろうとしていたのです」

「はあ? 押し入るだ? 押し込みに入るにゃ、 ちっと早い刻限じゃねえか」

「ただの押し込みとは思えません。皆、二本差し ですから」

「へえ、二本差しの盗賊かい。だが……見覚えは ねえな」

 一瞥しただけで、木戸の中へ戻ろうとする。丙 左がそれを引き止めた。

「もう少し、しっかりと見ぬか。己らが襲われた のだぞ」

「何遍見ても一緒だ。俺には襲われるいわれはな いからなあ。ほれ、さっさと番屋へ突き出して来い。後は任せた」

 やれやれと腰を叩き、道弦は屋敷へ戻ってし まった。残された丙左が、弱り果てた顔で宏を振り返る。

「こやつら、どうする」

「さて、どうしましょうか」

「番屋に連れて行くなら、俺が。宏殿には主殿の 用があるだろう」

「そうですね……」

 少し考え、男たちの表情を見回し、宏は顔を上 げた。

「このまま、逃がしましょう。番屋へ連れて行っ たところで、ここに押し入ろうとした訳を話してくれるとも思えません。これ以上、帰るのが遅くなると、之春さんに何を言われるか分からないですしね」

「しかし――それで良いのか」

「いいのです。さあ、どこへでもお行きくださ い」

 言うや、一歩、二歩と男たちの前から離れる。 彼らが疑心の目で宏を見たが、手出しする様子がないと悟るや、立ち上がり、散り散りに通りへ走り去った。

 その方向を確かめ、

「では、行きます」

 宏も、同じ方角へと駆け出す。

「ちょっ――待って。宏殿、逃がしたのではな かったのか」

「逃がしはしましたが、見逃すとは言っていませ ん。聞いても答えてくれないのなら、まずは相手がどこの誰かを知ることです。素性から、目的が分かるかもしれません」

「なるほど……そういうことなら」

 感心しきりに頷いて、ならばと、他の男が駆け て行ったほうへと目を向けた。

「あ、丙左さん」

「なんだ」

「私の脇差は、そのままお持ちください。何か あった時のために」

「すまない。槍がないと、本当に役立たずで」

 照れ隠しに頭を掻く。腰に脇差を佩いた様は、 落ちつかなげだ。

「刀を振るう姿というのも、良くお似合いです。 では、後程」

「ああ」

 高い背が、夕暮れから藍色に染まりかけた町を 走り去った。

 

 

 

 目の前を行く男は、つけられていると気付かぬ ままに、歩を早めている。

宵 闇はいっそう深くなる。二人が歩く川沿いの道は、店も少なく、月がなければ真の闇になっていた。それでも、気配を消しながら後をつけるには心許ない明るさ である。

 宏は、充分な間をとっていた。相手の背は薄ぼ んやりとしか見えないが、その足音や気配は身近を歩くもののように感じ取ることができる。辺りが静かなほど、神経が研ぎ澄まされる感覚があった。

 ――危ない。

 ふと気付き、襟巻きを引き上げる。一瞬、その 感覚に飲み込まれそうな気がした。懐かしさというよりは、恐怖が先に、体を駆け巡る。

 男から目を逸らして、頭を一振りした。その時 だ。

「――うああっ」

 悲鳴が、闇を斬り裂く。宏は素早く、そちらへ 駆け寄った。

 宏が追っていた男が、道の真ん中に膝をついて いる。風に乗ってくるのは、濃い血のにおいだ。

 宏は足を止めた。

 男を見下ろすようにして、抜身を携える男が居 る。目深に笠を被り、顔は見えない。

 月光に、キラリ、刃が煌めいた。同時に振り下 ろされた刀は、血飛沫を巻き上げる。

 今度は、断末魔の声さえ聞こえなかった。

 討手は、ゆるりとした動作で刀を鞘に納める。 立ち居を整え、ふと、顔を上げた。

 笠の奥から、視線を向ける気配がある。

 ――私に、気付いている。

 咄嗟に、刀に手を添えた。

 しかし、討手は何事もなかったように、踵を返 した。逃げるふうではない。男ひとり、殺したばかりだというのに、昂る様子もなかった。ただ、悠然とその場を立ち去る。

 相手が角を曲がった辺りで、ようやく、宏は息 を吐き出した。襟巻きで口と鼻を押え、少しでも血のにおいを消しながら斬られた男に近付く。

 始めの一刀で腹を横薙ぎにされ、次の太刀で左 肩から右脇にかけて斬られていた。抗う間もなかったのか、男は刀を抜こうともしなかったようだ。

 討手が消えたほうに、目を向ける。すでに、な んの気配も感じなくなっていた。

「辻斬り……いや、口封じ、か」

 押し込みが失敗に終わったことを、どこかで見 ていた奴がいたのかもしれない。彼らからなんらかの事情が明るみに出る前に、口を封じたのだろう。

 ――しかし、なぜそのようなことをしたのか。 そもそも、道弦先生の屋敷へ押し入ろうとした訳が分からない。

 道弦は、口は悪くても腕はいいと評判の町医者 だ。侍に、そこまでの怨みを買っているとは思えなかった。

 急に、道の端が騒がしくなる。芸妓とその客の 茶屋帰りらしい。この状況を見られでもしたら、下手に疑いをかけられる。宏は素早く、路地の奥に身を隠した。いつまでも長居は無用だ。さっさと踵を返し て、鴉堂へと急いだ。

 向島の店に戻ると、すでに丙左が戻っていた。

「宏殿、無事だったか」

「そう仰るということは、もしや、丙左さんが 追っていた男も」

「ああ。突然、別の男が現れて、あっと言う間 に。他の三人は、どうなったろうか」

「望みは薄いと思います。明日になれば、騒ぎが 広まっているでしょう。それで、せめて素姓が分かれば良いのですが」

「ねえ。帰って早々、あたしには何も言うことが ないのかい」

 溜息つきつつ、物憂げにこちらに視線を寄越す のは、言わずと知れた之春で、宏に用事を言つけたはずが、宏も丙左も夜更けの帰宅となったのだ。機嫌を損ねるのも無理からぬこと。

「あたしの用をすっぽかすとは、よくやるねえ。 夜の町を徘徊するのが、よっぽど楽しかったと見えるよ」

「申し訳ありません。実は、道弦先生のお屋敷が ――」

「丙左に聞いたさ。素性を探ろうと、せっかく捕 らえた奴らを解き放ったんだって? 馬鹿だねえ。ひとりでもいいから、ここへ連れてくれば良かったのにさあ」

「お店にご迷惑をおかけするのも、いかがなもの かと思いまして」

「迷惑だって? ふん。それこそ、あたしの楽し みじゃあないか」

「え?」

「口を割らせる方なんて、幾らでもある。井戸に 逆さ吊りにしてやるって手もあるし、一晩中、拷問の話を聞かせるって手もあった」

 ニヤリと、唇を歪める。揺れる明かりを受け、 たいそうな悪人面になった。

 それを横目で見、伴ノ甫がげんなりと肩を落と す。

「そういう危ない話、すんじゃねえよ。旦那さ ん、商売人なんだからさあ。誰かを拷問したって、金にはなんないんだぜ」

「あたしが楽しければ、それで良いじゃないか。 なんだい、旦那を楽しませようって気はないってことかい」

「旦那さんは、金儲けが一番楽しいって人で しょ。つまりさあ、曲者を拷問にかければ、金をせしめられると考えたんだよな? 黒幕を脅してさあ」

 ずばり、と言われ、之春はつと視線を逸らし た。

「やっぱり。旦那さんの考えなんて、お見通しな んだ」

「五月蠅いねえ。うんざりだよ」

後 ろ首を掻く。苦笑を浮かべる宏に、不機嫌そのものといった顔を向けた。

「宏、お前もお前だ。助けてやったんだから、道 弦から礼金せしめて来るのが筋だろうに」

「道弦先生には、襲われる心当たりがないそうで す。私も考えましたが、町医者を狙うのに、侍が五人がかりで押し込むというのは大掛かり過ぎます」

「ま、あの医者は藪だなんだと女に怨まれること はあっても、侍に闇討ちにされる程、肝の据わったことをする奴じゃないねえ。――なら、答えはひとつなんじゃないのかい」

 筆を指で弄びながら、目を細める。宏がそこか ら真意を読み取ろうとしていると、

「――ごめん」

 戸を開け、笠を被った男が、のっそりと姿を現 した。

 瞬時に、目の前で曲者を斬った男が頭を過る。 身構えた宏だったが、すぐに警戒を解く。

「守尾様でしたか」

「うむ」

笠 を取った顔を見れば、火付盗賊改方の与力、守尾彰正だった。之春と因縁でもあるのか、鴉堂を悪しく言う癖に、時たま店を訪れては商いの邪魔をするのを気晴 らしにしているのだ。

守 尾は店の中を一瞥し、クッとほくそ笑む。

「閑古鳥が鳴いているようだな、之春」

「うちには閑古鳥なんかいないよ」

「ここの鴉は、鳴くことも出来ぬようだな。飯を 食うことすら出来ぬのであろう? お前の商才も、ようやく尽きたな」

 之春の言葉遣いにも慣れた様子で応じると、宏 に鋭い視線を向けた。

「聞いたぞ。瀧峯楼から、若草という女郎を身請 けしたそうだな」

「それが、何か」

「若草は、儂が贔屓にしていたのだ。それが、病 だからと店に出なくなり、いつの間にかお前のような奴が身請けしていたとは……ひとつ、文句を言ってやろうと思ってな」

「それはそれは、ご苦労様でございます。守尾様 が、若草さんのお客様だったとは存じ上げなかったものですから」

「……やはり、お前は気に喰わんな」

 腰から扇子を抜き出す。それを、宏の顎先に突 き付けた。

 ひんやりとした風が、襟巻きの隙間を通り抜け る。

「先程、儂を斬ろうとしただろう。ほんの一瞬で も、分からぬと思うたのか」

「いえ、そのようなことは――」

「儂を甘く見るでない。この店で、瞬時にあれだ けの気を発せるのは、お前くらいだ。儂を斬って、若草とよろしくやるつもりだったのか」

「そのようなこと、思ってはおりません。若草さ んは、重い病なのでございます。身請けしたと申しましても、今は養生の為に医者の元へ――」

「恥をかかせおってっ」

 言うや、扇子で宏の頬を打った。力の強さに、 体は横へ倒れる。咄嗟に受け身を取るも、その手元に襟巻きが落ちる。

 解れた髪が、首に触った。

「おい、立て。儂の怒りは、これしきのことで納 まるものではないぞ」

「――お待ちな」

 宏が引き立てられる寸前、守尾の動きを止めた のは、いつもの気だるい口調の之春だ。

 斜に構え、嘲笑うかのような流し目をくれる。

「己で撒いた種に、己で憤慨してどうすんのさ。 それこそ、阿呆の極みさね」

「何ぃ?」

「あんただろ。女郎との寝物語に、鴉堂の話を持 ち出したのは。こっちはそれで、大迷惑だ」

「大迷惑だと。どういうことだ」

「あのねえ。聞いて来るんなら、ちゃんと最後ま で話を聞くんだねえ。――若草って女郎は、あんたが聞かせた鴉堂の宏に惚れちまったのさ。病で死ぬなら、せめて、宏と一緒になりたいってんで、女将に無理 を言ったんだよ。お陰で、宏は女に現をぬかすようになり、今夜だって主のあたしの用を差し置いて、女のとこに通ってたんだから。それもこれも、あんたが余 計な話を、ペラペラ外で喋るからだ。そんなに口が軽くて、よくもまあ、火盗改めの与力なんてやってるもんだよ」

「貴様……本当に、口のきき方を知らぬ男だな」

「おや、あたしを無礼討ちにでもする気かい。あ あ、哀しいねえ。春に、料理屋を狙った押し込みの居所を教えてやったってのに。あれで、随分と報奨金を頂いたそうじゃないか。それで吉原通いも出来てたん だろう。もうちっと、有り難がっても良さそうなもんだ」

「そのような話、どこで聞いてくるのだ。お前 は」

 呆れ顔の守尾からは、怒りの気配が消えてい た。

 すかさず之春が、呆気にとられている丙左に指 示を出す。

「さっさと、宏を奥へ連れてっておくれな。この 男ってば、宏があんまり良い男だから焼いてんのさ。顔を見なくて済むように、ほら、奥へ引っ込んでな」

「お、おう。分かった」

 丙左に肩を支えられた宏は、引き摺られる形で 店を後にする。後ろから、之春と守尾と、二人を諌める伴ノ甫の声が聞こえていた。宏を充分に痛めつけられなかった守尾が、店に居座ることを決めたらしい。 腹いせに、商いを邪魔しようと言うのだ。

「大丈夫か、宏殿」

「ええ。なんともありません」

 廊下の途中で、ふと、笑いが込み上げた。

「さぞ、驚いたでしょう。守尾様と之春さん。あ のお二人は、顔を合わせればいつもあの調子で。之春さんも、歯に衣着せぬ物言いをなさるものですから、相手は怒るか、怒りさえも通り越して呆れるかの、ど ちらかです」

「歯に衣着せぬと言っても、旗本を相手にあの話 し方では……寿命が縮むかと思ったぞ」

「しかし、あれでこそ、鴉堂の商いを続けていら れるのです。旗本、大名、殿様……誰が目の前にいらしたとしても、之春さんは変わらないでしょう。それが、あの方の武器なのです」

「武器か……。恐ろしい。侍の刀より、ずっと恐 ろしい」

わ ざとらしく震えて見せる。だが、丙左はすぐに笑みを消した。

「それよりも、宏殿」

「なんでしょう」

「その、首の傷は、どうしたのだ」

 咄嗟に首元を押える。襟巻きは解けたまま、胸 元に風が吹きつけていた。指先に、傷痕が触れる。左の耳の下から鎖骨の辺りに走る傷は、そこから溢れ出したであろう血の色を連想させた。

「それは誰につけられた?」

「さあ。忘れてしまいました」

「もしや――千人首ではあるまいな?」

「なぜ、そのようにお思いになるのです?」

「だって……千人首は、首を落とすと言われる。 前から斬られたなら、その位置が斬られるはずだ」

「首を斬り落とされたら、私は生きてはいません よ。綺麗に縫い合わせたら、くっ付いたとでも仰るのですか」

「宏殿、俺は信用に値しないのか」

寂 しそうな声音で、問う。口先だけの嘘は、この男には通じないだろう。

宏 は、静かに息を吐いた。

「私が話さなければ、これから毎日、そのような 目で私を見るのですか」

「ああ。そういうことになる」

「それは、辛い」

 ゆるゆると顔を上げる。口元に、微かな笑みを 作った。

 首の傷を月明かりに晒す。

「よくご覧ください。大刀で斬りつけたのなら、 もっと深く斬られたはずです」

「……確かに。短刀か、小刀のようなものか」

「脇差です」

「脇差で、そのような所を斬り付けられたのか」

「斬り付けられたのではありません。急所を狙っ たのですが、わずかに手元が滑ったのです」

 寸の間。

 丙左は息を吸うことも忘れたかのように、動き を止めた。たいそう間の抜けた顔だ。

「見苦しいでしょう。死に損なった傷ですから」

「自分で……やったのか」

「はい」

「どうしてっ」

「生きているのが、嫌になりました。息を吸うこ と、水を飲むこと、食うことも寝ることさえ、苦痛でしようがなかったのです」

「そんなことで――」

「丙左さんには、そんなことかもしれません。で すが、私は本気でした。この近くの、無縁仏が転がる廃寺で、己の命を絶とうとしたのです」

 その晩が、寒かったのか、暑かったのか、月明 かりがあったのかすら、記憶にはない。息も絶え絶えになりながら、目に飛び込んできた、崩れ落ちそうな廃寺。荒れた境内に、静かに膝をつく。

 そうして、己の脇差を抜いた。首に刃を押し当 て、一息に引く。

 ――これで、終わりだ。

 そうなるはずだった。

 しかし、傷は致命的なものにならなかった。

「私は、気を失ったようです。その後、どれくら いの時が経ったか……。寺の前を、あの方が通りかかったのです」

 いつもは、日に人ひとり通ることもないような 場所だ。それが、あの晩に限っては、三人も通る者が居た。

 之春と、彼を乗せた駕籠の駕籠かきたちだ。廃 寺の前の小道が、医者から鴉堂への帰路になっていたのだ。

「息があるのを確かめて、伴ノ甫さんが呼ばれま した。伴ノ甫さんが止血をして、医者にまで連れて行ってくださったのです」

「あの、餓鬼が……」

「伊達に、怪しげな店で働いているわけではない ということですね。助かったのは、止血の手際が良かったからだと、後で医者に言われました」

「だが、自害しようとしたのに、それを助けられ たのではな……」

「ええ。初めは、死ねなかったのかと気落ちしま した。……之春さんや伴ノ甫さんに、辛くあたったことも、あります」

「宏殿が? 信じられん」

「ずいぶんと前のことですよ。それに、痛みと熱 で錯乱していたようです。ですが、之春さんは私の暴言を怒るどころか、鼻で笑ったのです。面白いと仰って」

 死に損ないの顔を見ているのは、存外、面白い もんだねえ――そう、之春は笑った。

「酷い……主殿に、情けはないのか」

「今思い出しても、確かに非道な台詞ですね」

「そのようなことを言われたのに、どうして宏殿 は主殿の傍に居れるのだ」

「恩義――という感覚ではありませんね。強いて 言うなら、丙左さんと同じです。私は、ここで之春さんの商いを手伝うことで、この傷の治療代を返しているのです。借金の形ですよ」

「人助けも、全部、金にするのか。あの男は…… 神も仏も恐れぬ、金の亡者だな」

「それでこそ、鴉堂の之春さんですよ」

襟 巻きを巻き直す。一息ついて、長身の丙左を見上げた。

「話すことは、もうありませんが、得心していた だけましたか」

「その……無理に聞いて悪かったと思っている。 すまなかった、宏殿」

「謝ることはありません。丙左さんには、話して もいいと思ったのです」

「宏殿……俺を信頼してくれたのだな。ありがと う」

 しきりに感動する丙左に背を向け、宏は襟巻き で口元を隠した。

「ところで、明日の昼間、私に付き合っていただ けないでしょうか」

「なんだ。俺で出来ることなら、なんでも手伝う ぞ」

「それは頼もしい。之春さんに頼まれたことを、 しておかなければならないと思いまして」

「ああ。納戸のものを、寺に運ぶというのだな。 力仕事なら任せろ」

「本当に、心強い」

 ――いわくばかりが蠢く場所に、恐れずに踏み 込めるのだから。

 宏は、ゆるりと瞼を閉じた。


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