翌日。

 宏と丙左は、納戸の整理に追われていた。伴ノ 甫は遠くから指示をするだけで、決して手を出そうとしない。

「なんだ、あの餓鬼は。自分は楽をしおって」

「賢明なのです。自分に害があると感じるものに は、近付かないのがいい」

「害? 俺がそんなに怖いのか」

 首を捻る丙左を横目に、宏はフフと苦笑する。

 掛け軸や壺、焼物、鳴物の類で、表に置いた大 八車が三つも埋まってしまった。よくもまあ、あの狭い納戸に押し込めたものである。

 汗を拭いつつ、

「これは、運ぶのが大変だな」

 丙左は、すでにうんざりとしている。

「伴ノ甫さん、手配はしてくれましたか」

「うん。宏さんに言われた通りに」

「お手数をおかけしました」

「宏さんの頼みなんて、旦那さんが言うことに比 べりゃ、どうってことないよ」

 エヘン。得意気に鼻を擦る。その脇には、少年 を守るように、屈強な人足が六人も控えていた。大八車を運ぶ人手である。

「やはり、伴ノ甫さんは用意が良い。私たちだけ では、日が暮れても運びきれないでしょうから」

「旦那さんが物ぐさだから悪いんだ。納戸がいっ ぱいになる前に、少しずつ、寺に持って行きゃあいいのに」

「お寺はいつもの、林松寺でよろしいのですね」

「あすこの丸重和尚には、話を通してあるから。 あの人、話が長いんだよなあ。人足相手にだって、長々と喋り出すに決まってる」

「山の上にお寺があっては、訪ねる方も少ないの でしょう。寂しいのですよ」

「近頃じゃあ、階段の上り下りが辛いからってん で、店に顔見せなくなったけどさあ。ありゃ、暖かくなったら、また来るんだろうな」

 巷の噂話を聞き入れては、之春と伴ノ甫に話し に来る。それが、丸重和尚の暇潰しらしい。

 伴ノ甫に指示を受けた人足たちは、次々と大八 車を引いて行った。宏ひとりではびくともしない荷が、軽やかな軋みと共にどんどん先へ行く。

「では、私たちも」

 丙左を促し、二人はついて行くだけだ。

「これなら、俺が行く必要はないのではないか」

 道すがら、大八車を目で追いながら丙左が呟 く。並んだ宏は、小さく頷いた。

「私たちが向かうのは、林松寺ではありません よ」

「では、どこへ?」

「こちらです」

 二人は大八車と別れ、畑の真ん中を突っ切っ た。稲が刈られた田を迂回する。見えるのは、葉を落とした山と森ばかり。どれも同じ形に見える木々の中に、宏は迷わず入って行く。

「宏殿。本当に、こっちで大丈夫なのか。周りが 暗くなってる気がするのだが」

「もう少しで、開けた場所に出ます」

 丙左の不安を笑い飛ばし、ひたすら草むらを掻 き分ける。

 やがて、行く先に、崩れかけた寺が見えた。そ の辺りだけ木々が開け、宏が言うように陽光が差し込んでいる。人が通わなくなり、久しいのだろう。境内には、枯れかけた雑草が疎らに生えている。

「ここは……まさか」

 丙左が戸惑いの表情を作る。昨夜の話を思い出 していたに違いない。

「お察しの通りです。ここで、私は命を絶とうと しました」

「最後に選んだ場所が、こんな寂しい所だったと は」

「人目を避けていました。ここへ辿り着いたのは 偶然です」

「とにかく、良かった。宏殿の命が助かってくれ て」

「そのように言ってくださると、こちらの心が痛 むのですが」

 不意に、堂の中から二つの影が姿を見せた。

道 弦と、彼に支えられているのは千草だ。

「宏殿、なぜ彼らが――」

「之春さんに言われましたので」

「それは、納戸の荷を寺に運ぶことだろう」

「昨夜、之春さんが言われたことを覚えていらっ しゃいますか。道弦先生に襲われる訳がないのなら、答えは、ただひとつなのだと」

 あの時、屋敷内には道弦と千草しか居なかっ た。道弦ではないなら、千草が狙われたのだ。

「丙左さんに、千草様と会っていただきたかった のです。千草様のお父上、竹興様は、二年前刺客に襲われ命を落とされました。私は、その刺客が千人首ではなかったのかと、考えています」

「宏殿……俺が千人首を名乗った訳は説明したろ う。辻斬りのような真似をしたのも、伊東先生に命じられて、仕方がなく――」

「千草様、いかがです」

 丙左の言を遮り、千草に呼び掛ける。千草は崩 れそうになりながらも、必死に右腕を伸ばす。

「宏様――この人です。この人が、父を斬り殺し た刺客に、間違いありません」

「やはり――」

 振り向き様、宏の頬を掠めるものがあった。咄 嗟に体を捻る。その一瞬の隙をついて、腰に差した大刀が引き抜かれる。

「良い刀だな、宏殿」

 丙左が、大刀と脇差を手に、こちらを見据えて いた。

 鋭い視線、極限まで息を殺した気配。彼を取り 巻く雰囲気のすべてが、久瀬丙左とは違ったものになっていた。

「どこで気付いた? 俺が、あの侍たちの一味だ と」

「昨日――道弦先生が侍たちを見て、見覚えがな いと言った時、あなたが言ったのですよ。狙われているのは、己らだ、と。あの状況では、狙われたのは道弦先生ひとりと見るのが普通です。道弦先生のお屋敷 だったのですから。それに、屋敷内に先生以外の誰が居たのか、丙左さんには分かるはずがなかったのです」

「言葉の上げ足を取るのか」

「それだけではありません。侍たちを斬ったの も、あなたです」

 襲撃が失敗に終わったことを一番に知ることが でき、また、彼らを見失わずに追えた人物。宏と別れた後、彼は他の四人を追い、その手にかけた。

「ただし、私が追っていた方を斬ったのは、丙左 さんではありませんね。あれは、私が立ち合ったことのない太刀筋でした」

 一度、立ち合った者の前で刀を振るうのは、己 が誰かと示すことになる。

し かし、その人物の太刀筋が、丙左への疑念を抱かせる要因となった。

「丙左さん。あなたは本当の、千人首です」

 千草が息を飲む。

 誰もが目にしたことのない辻斬りが、今、目の 前に居るのだ。さすがの道弦も、蒼白な顔で瞬きを繰り返す。

 丙左が、唇の端を吊り上げた。白昼に見るに は、あまりに陰惨な表情だ。

「ならば、どうする。番屋にでも届けるのか。そ れとも、あの火盗改にでも知らせるか」

「私は、千草様の助太刀としてこの場に居るので す。竹興様の無念、晴らさせていただきます」

「どうやって。丸腰ではないか。その辺りにあ る、枝でも振り回すつもりか」

「まだ、残っています」

 宏は右手で腰に触れる。鞘を帯から抜くと、刀 を構えるように、丙左に突き付けた。

「馬鹿か。鞘だけで、俺に敵うとでも? 言って おくが、前に立ち合った時は、お遊びのつもりだったのだ。本気ならば、あの晩に宏殿は死んでいた」

「分かっています。ですが、それは私も同じこと です」

「……何?」

「行きます」

 と、丙左が構える前に駆け出した。間合いに 入ったところで、不意に身を屈める。膝の位置で鞘を水平に薙いだ。

膝 の手前で、鞘の軌道を脇差が阻む。宏は態勢を起こすと、振り向きざま、上段に構えた。振り下ろすと見せ、くるり、手首を返す。

丙 左の左脇に、鞘が食い込んだ。

「ぐっ――」

 すかさず、鞘を切り上げる。丙左の左の腕を弾 いた。

 手にしていた大刀が飛び上がる。刀は、廃寺の 軒下に突き刺さった。

「道弦先生。刀を、千草様に」

「あ――だが、お前は」

「私は、鞘だけで充分です」

 このような場にあっても、宏は笑う。

 膝をつきかけ、どうにか踏み止まっていた丙左 が、ペッと唾を吐いた。

「余裕だな。子供騙しのような立ち合いで、お前 は満足か」

「立ち合いに、子供騙しも何もありません。言っ たでしょう。私は、千草様の仇討を成就させたいだけ。それ以上、あなたを相手に立ち合う訳はありません」

「千人首を目の前にして……お前には、剣客とし ての誇りはないのかっ」

「剣客としての私は、ここで死にました。今の私 は、鴉堂の宏です」

 すう、と息を吸い込む。長く、深く、静かに。

 鞘は、刀を持ち慣れた右手には軽い。相手が脇 差とはいえ、交えれば押し負ける。

 ――ならば、交えなければ良い。

 宏は左手を腰に添え、鞘の構えをわずかに上向 きにした。

「――小太刀の構えか……舐められたものだな。 千人首に、小太刀で勝てると思っているとは」

「丙左さんも、お忘れではありませんか。こちら には地の利があるのです」

「しかし、武器はない。武器がない戦など、始め から負け戦だ」

「生憎と、之春さんは負ける戦を好みません。私 がここで負けでもしたら、さぞ、悔しがるでしょう。私に費やした治療代を、ふいにしてしまうのですから」

「ああ、そうか。自害の続きという訳だな。己の 手では死ねなかったから、俺に殺されようとしているのだろう。――良かろう。千人首の手で、その首を斬り落としてやるわ。脇差では一太刀というわけにはい かんな。恐怖と苦痛を充分に味あわせてから、死なせてやる。覚悟――っ」

 真正面に居た丙左が、一瞬にして、右手に移動 していた。そうかと思えば、次は左。右と、気配が変わる。動きが早い。目で追うのは難しい。

 宏は、視線を動かすのを止めた。呼吸を整え、 襟巻きを引き上げる。己の息を止めることで、相手の息遣いが肌で感じられた。

 風が、上空で逆巻いている。枯葉が舞い、人の 気配とは違う動きをする。

 道弦の荒い呼吸。対して、千草は息を詰めてい る。そして、丙左の息――。

「――っ」

 脇差の刃が見えた。右上から斜め下へ斬り下ろ す軌道が、はっきりと分かる。

 宏はわずかに上体を逸らした。後ろに引いた右 足を踏み止め、一気に前へ踏み出す。

 鞘の先は――丙左の顎の下を捉えていた。

「――」

 声を出す間もなかった。

 丙左の長身は、後方へとひっくり返る。つい今 し方まで宏の命を狙っていた脇差も、離れた場所まで飛んでいた。

「あなたは、本当の千人首です。ですから必ず、 首を狙うと思っていましたよ」

 丙左の言い方を真似れば、相手の首を落とすこ とが千人首の誇りなのだ。脇差で狙うからには、そうとう近くに踏み込まねばならない。ならば、その一瞬に集中していれば良い。間合い深くに入った時、それ は、丙左自身が隙を晒してくれる唯一の時だった。

「さあ、千草様。こちらへ」

 道弦の支えを借り、千草は境内に下りる。手に は、宏の大刀を握っている。

「竹興様を殺害した、下手人でございます」

「宏様……わたくしが本懐を遂げたい相手は、こ の男ではありません。この男に、父を殺せと命じた者でございます」

「聞き出すことは叶わぬかと存じます。喉を潰し てしまいましたので」

「え――」

 天を仰ぐ丙左が、にやりと笑んだ。語ることが 出来ない代わりに、悠然とこちらを嘲っている。

 ――抜かったな、宏。喉を潰しては、せっかく の黒幕の名も分かるまい。

 そう、哂っていた。

「宏様――いえ、宏様を責めることは出来ませ ん。わたくしの為に、お命を賭けてくださったのですから」

「いいえ。これは、私の一存です」

「それは……どういうことですか」

「千草様の仇討。私に預けてはいただけません か。それが、私への礼だとお思いください」

「何を言っているのです。わたくしの代わりに、 仇を討つと仰るのですか」

「残念ですが、私にそれだけの力はありません。 精々、千人首を捕らえるのが精一杯。黒幕はきっと、表に出ることはないでしょう。ならば、その遂げることのない仇討への執念を、私にすべて預けてくださ い。そして、これからはもう、病を治すことだけをお考えください」

「ですが、宏様にそこまでのことを託すのは ――」

「私も、同じなのです。ですから、どうか」

 頭を下げる。目に、千草の足が見える。草履は 脱げ、足袋は土と泥に塗れている。これまで彼女が歩んできた道も、また、このように険しいものだったのだ。

 これから、どれだけの時を生きていられるか は、分からない。その間だけでも、何にも心を乱されることなく、平穏に過ごしてもらいたい。それだけが――宏の願いだった。

「――分かりました」

 千草が、小さく頷く。

「わたくしの仇討を、宏様にお預けいたします」

「ありがとうございます。これで心置きなく、千 草様は養生なさってください。道弦先生、お願いいたします」

「うむ。分かっておる」

 道弦は千草を伴って、踵を返した。裏に、乗っ てきた駕籠が、待っているはずだ。伴ノ甫が手間賃を弾んだと言っていたから、どんなに遅くなっても上機嫌で客を送り届けてくれるだろう。

「あの――」

 去り際、千草が顔だけを振り向ける。

「お聞きしてもよろしいでしょうか」

「はい」

「なぜ、わたくしの父の名を、知っていらっしゃ るのですか」

 丙左を引き上げていた手が止まった。頬を歪め る。

「千草様からお聞きしましたが」

「そうでしたでしょうか……。宏様には、父が亡 くなった時のことをお話しただけで、その後はほとんど父の話はしませんでした。父の名が竹興だと、話した覚えがないのですが」

「忘れていらっしゃるだけです。私は、ちゃんと 聞きましたよ」

 にこやかに、答えた。

「――そうですか。そうですね、わたくしの思い 違いでしょう」

 小さく頭を下げ、千草は道弦と共に、廃寺を後 にした。

 

 

 

 秋深まる景色を眺めながら、日暮れを待った。

 千草が帰った後、使いを出した先が、ひとつあ る。もうすぐ、相手が現れるはずだ。

 喉を潰された丙左は、柱に括りつけている。始 めは暴れもしたが、相手にされないと分かると、無駄な抵抗を止めた。どう足掻いたとて、丙左に逃げる方はない。

「丙左さん、寒くはないですか。もう少しですか ら。辛抱なさってください」

 殺されかけたとはいえ、笑みを浮かべて案じる 様子を見せる宏に、丙左が不気味なものを見る目付きを向けた。

「そんなに睨まずとも、迎えが来たら、丙左さん を引き渡すつもりです。安心してくださいな」

「――ッ」

 命を助けると言うのに、丙左の顔からみるみる と血の気が引いていく。それを見、宏はかすかに息を飲んだ。

「やはり、いまだ変わらないのですね……。千人 首が事を仕損じるなど、あってはならないこと。それがあり得た時、その千人首は死ななければならない。――なんという、悪習なのでしょう」

 千人首は、人を殺める為の人形なのだ。己の感 情で動くことも、失敗することも許されない、ただの人形。そのゼンマイが壊れた時――同時に、人形は動かぬものとなる。

 宏が、境内に視線を転じる。西日を受けて赤く 色づくその場所は、自分の首を切った時と同じ、どこまでも静かだ。

「実は、昨夜、言っていないことがありました。 私がここで、刀を首にあてた時、道の向こうで私を見る者と目が合いました。とても温かい目をしていらした……あの方は、私を最期まで見守ろうとしてくだ さったのです。私は、あの方の傍から逃げたというのに、捕らえることも出来たのに……私に、自害することを選ばせてくれました」

 首を切った直後、遠退く意識の只中でわずかに 目を開けると、道を戻って行く背中が見えた。

 宏を捕らえ、人知れず口を封じるか。

 あるいは、自害した宏の首を持ち帰るか。

 そうでもしなければ、宏が死んだことの証には ならなかったはず。

 ――だが、あの方は、そうしなかった。

「その方の名は、郷右近竹興様。千草様のお父 上。千人首が殺した方。その千人首とは――私ですね」

 寂しげに微笑む。立ち上がり、境内に下り立っ た。

 夕陽を受け、長い影が近付いてくる。足取りか らは、その心内までは知れない。ただ、その目に宿る光は、昨夜と変わらず冷然としたものだった。

「お待ちしておりました。伊東先生」

「用があるなら、お主が出向いて来るのが筋であ ろう」

「人の多い所では、差し障りがあるかと存じまし て」

「なんだというのだ」

「おひとりでいらしたということは、すでに、察 していらっしゃるのではありませんか。丙左さんは、そちらにいらっしゃいますよ」

 伊東が、寺の内を一瞥する。別段、表情を変え はしなかった。

「久瀬丙左が千人首と知れたか。まあ、良い。い ずれは気付くと思うていた」

「丙左さんは、二年前、郷右近竹興様を亡きもの にしました。伊東先生も、覚えておられるはず」

「仇討でもしようと言うのか。だが、丙左や儂を 殺したところで、仇討になろうものか」

「ええ。仰る通り。千人首である丙左さんに竹興 様殺害を命じた方は、伊東先生ではない」

「千人首を動かすことが出来る方は、ただひと り。――お主のほうが、よう存じておるであろう? お主も、千人首だったのだからな」

 その言葉は、常にはない響きを持っていた。失 くしたはずのものが、在り処を探し求めて戻って来たようだ。

宏 は笑みを貼り付けたまま、伊東を見つめる。

「どうした。驚いて声も出ぬか」

「……いいえ」

「ああ、そうか。お主が逃げようなどと考えなけ れば、郷右近様も死なずに済んだのだ。お主がしくじりさえしなければ、なあ」

 ――まったく、その通り。

 否定も出来ぬほどに、伊東は正しいことを言 う。

 千人首とは、代々受け継がれていく名である。 表向きは単なる辻斬りと噂されるが、その実、公儀の隠密のような役割を担っていた。千人首を動かすことが出来るのは、筆頭老中のみ――故に、筆頭老中の私 兵とも言われかねないが、それを知る者は、城内でも数少ない。千人首の素性も、顔も、声も、その存在すら、噂に過ぎなかったのだから。

 噂ではない、実際に千人首と相対することが出 来たのは、筆頭老中の他には、たったひとり。代々の千人首にひとりずつ、目付けとしてつけられた者だけだ。

 何代目かの千人首を名乗った宏の目付けとなっ たのが、竹興だった。

「千人首が、その任を果たせなくなった時、新た な千人首が選ばれる。丙左の前にその名を名乗った者は、歴代の誰よりも若くして千人首となったと聞かされていた。そして、わずか一年余りで死んだとも」

懐 に手を入れ、伊東がゆるりと足を踏み出した。一歩、二歩、宏に近付く。

 こちらの反応を窺っているのだろう。宏は、薄 い微笑を浮かべたまま、静かに問う。

「どなたに、お聞きになったのですか」

「分かっておろう? 代々千人首が居れば、それ を見張る目付けも、代々居るのだ。お主の目付け、郷右近竹興から聞いた。我が目の前で自害した、と。人を殺めることを、躊躇うようになったそうだな。その ようなことでは、刺客として、使いものにはならん」

「伊東先生は殺せるのですか。年端もいかぬ子 を、その刀で殺せるのですか」

 藩を取り潰す為に、世継ぎとなる子を殺せと命 じられた。人の顔も判別出来ぬほど幼いその子は、刀を向けた相手にも、笑いかけていた。

 政に不要とされた者、あるいは敵勢と目された 者たちの首も、落としてきた。謀反を企てた頭目は、己とそう歳の変わらぬ若者だったりもした。

 ――頭がおかしくなる。

 命が下れば、赤子でも女でも、友とて斬らねば ならない。

日 々、怯えていた。――宏自身が、千人首を恐れていた。

 一年という、他の比にならぬほど短い時の間、 そうして何人の命を奪ったろうか。

「だから、逃げたのだな。目付けの目を盗んで、 逃げ出した」

「その通りです」

 しかし、すぐに討手がかかった。当然だ。政の 裏を知る者を、のこのこと市井に逃がす馬鹿は居ない。

そ して、宏を追って来たのは、竹興だった。

 己の判断もないまま、千人首に仕立てられ、人 殺しを命じられる日々。竹興だけが、宏の話を聞いてくれた。苦しみも、迷いも、彼はすべてを知っていたのだ。

 宏は襟巻きに手をかけた。露わになった傷に、 赤い陽の色が重なる。

「ここで私が首を切ったのを見届けて、竹興様は 去っていかれました。……竹興様ご自身も、同じ悩みを抱えていらしたのでしょう。あの方は、真に賢明な方でした。それ故に、闇討ちという手段が許せなかっ たのです」

「それで、お主の生死を確かめず、首を持ち帰り もしなかったと? 役立たずの千人首が生きていると知れたら自分がどうなるか、分からぬ馬鹿ではあるまいに。それとも、そうなってもいいと、考えていたの だろうか。だとしたら、郷右近竹興の死は、自害と言えよう。仇討ちも、今こうしていることも、すべてが無駄なこと」

 話しているうちにも、伊東はどんどん近付いて 来る。あともう少し、伸ばして手が掴めそうな所まで来ていた。

「強いて仇と呼べる者が居るとしたら、それはお 主のことだ。お主が死んでさえ居れば、郷右近も死なずに済んだのだ。千人首が己の首を落とせずに、むざむざ生きているとは。なんと恥を知らぬ奴か」

 伊東が、音もなく、抜刀する。その切っ先が、 宏の首の傷に触れた。

「まさか、本当にお主が生きているとは思わなん だ。郷右近を闇討ちする前、あ奴には命を落とす以外に、もうひとつ選択肢があったのだ。お主の居所を見つけ出し、殺害する方法がな。だが、郷右近はそれを 断った。だから、新しい千人首に殺されることになったのだ」

「どのようにして、私が鴉堂に居るとお分かりに なったのですか」

 宏を助けた者たちには、固く口止めをしてい る。鴉堂を敵に回して公言する命知らずは、この世に居ないと思っていたが。

「この春、深川の佐島屋という料亭で用人棒をし たことがあったろう」

「用人棒というほどのものではありません。た だ、一日だけ、主殿の外出にお付き合いしただけです」

「さる藩の御用人から聞いた。佐島屋の主が、腕 の良い用人棒の仕官先を探していると。その主の褒めようが並みではなく、儂にその剣客の素性を知らぬかと訊ねて来たというわけだ。名の通った剣客なら知っ ていると思ったのだろうが……確かに、儂はお主を知っていた。ずっと探していたのだからな」

「宏という、名ですか?」

「儂らが始末を命じられた千人首の名は、佐々木 広基といった。ひろ、という名の剣客、そして歳も同じくらいだ」

「鴉堂の宏が、本当に千人首かどうか確かめよう としたのですね」

 鴉堂との繋がりを得るために、伊東は金を借り た。そうして、今度は丙左という目付けを送り込んだのだ。その一方で、二年前、丙左の顔を見た千草に危害を加えようともした。

「だが、結局、こちらの正体を感付かれるとは な。儂が、丙左の目付けだと、どうして分かった」

「道弦先生のお屋敷に押し入ろうとした輩を、私 の目の前で斬ったのは、丙左さんではありません。ですが、その太刀筋の随所に、丙左さんと同じものを垣間見たのです。師と弟子なら、太刀筋が似ていても不 思議ではありませんから」

「なるほど……太刀筋を読むのか、この出来損な いの千人首は」

 刃が、押し付けられる。ひんやりとした感触 は、しかし、それ以上、肌を傷付けることはなかった。

 じっと宏を注視したまま、伊東の手が止まって いる。

「――伊東先生に、私が斬れますか」

「お主はどうだ。儂を斬ることが出来るのか」

「恐らく――」

「恐らく?」

 ――出来る。

 首に触れる刃を避け、己の刀を抜き、それを伊 東に向けることは容易い。伊東の腕では、宏を殺すことは出来まい。伊東自身が、それを良く承知している。

「お主、ここで自害のやり直しをする気はない か。仮にも武士の端くれなら、首ではなく腹を斬れ。儂が介錯してやろう」

「……そうか。腹を斬れば、命を長らえることも なかったのですね」

「郷右近も死なずに済んだ」

 伊東が刀を引いた。鞘に納め体を離す。

「伊東先生。このまま、丙左さんを引き取ってく ださい。それから二度と鴉堂と、私の前に現れないと、お約束を。お約束いただけなければ、伊東先生の首に刀を突き付けることになります」

「仇討ちは良いというのか」

「千草様も仰っておいででした。討つ相手は、黒 幕だと。私も、伊東先生や丙左には、なんの恨みもありません」

「我らを退けたとはいえ、また、お主を狙う千人 首は現れよう。そやつらから逃げ続けるか」

「いいえ――もう、逃げません」

 己に降りかかる火の粉は、己で振り払う。どの ような者が来ようと、退けてみせる。何度でも、何百回でも。

 相手が諦めるまで、真正面から迎えうつ覚悟は 出来ていた。

「それから、ご老中にお伝えいただけますか。こ れまでのように、千人首を動かせるとお思いのようなら、大間違いだと。この先、千人首を名乗る者が現れたなら、その時は、どこからともなく鴉がやって来 て、その傀儡の糸を立ち切るでしょうから。――ああ、ご老中も、どうぞ夜道にはお気を付けくださいませとも、お伝え願います。寝所に居たとて、安堵しては なりません。鴉は、闇に隠れておりますれば」

「その脅しが、お主の仇討ちというわけか」

「脅しかどうか、試されますか」

 宵闇が迫る最中、伊東はクッと唇の端を上げ た。宏の脇を通り、堂内の丙左を一瞥する。

「喉を潰したか。相手の首を狙う習慣は、なかな か消えぬようだ」

「早く手当てをしてあげてください。丙左さん は、私と正々堂々と立ち合いました。その立ち合いで負けたのなら、ご老中も、よもや役立たずとは言わないでしょう。どこかでゆるりと静養されるのが良いか と」

「声が出ぬのでは、秘密を易々と漏らすこともな い、か? お主が討手と立ち合った時、どれだけ退けることが出来るか――楽しみになった」

 宏は振り返らなかった。薄墨に落ちたような境 内を、静かに歩む。

 首に、しっかりと襟巻きを巻いた。

 

 

 

「宏、仕事だよ。道弦の所へ行ってきな」

 之春にそう命じられたのは、丙左との立ち合い から五日後のことだった。夕暮れも迫り、伴ノ甫に支えられた之春がいつもの場所に座す。宏は、表の掃除を終えたところだった。

「道弦先生のお屋敷ですか」

「ああ。さっき、使いが来たからね」

「では、さっそく」

「そうだ。人手が要るだろうから、伴ノ甫も一緒 に連れていきな」

 足の悪い之春にとって、身の周りの世話をする 伴ノ甫は、彼の足代わりだ。店を開ける時はもちろん、伴ノ甫の手助けは欠かせない。

 不安の表情を見てとったのか、之春は眉根を寄 せた。

「なんだい。伴ノ甫が居ないと何も出来やしない とお思いかい?」

「いえ。ですが、万が一の時、お困りになるか と」

「あたしの足は、まったくの役立たずじゃない よ。お前と一緒にしないでおくれな」

「旦那さんってば、また宏さんに憎まれ口をたた いて」

 呆れる伴ノ甫は、すでに出る用意が出来ている ようで、之春の傍に火鉢と薬缶を置くと、進んで草履を履き始めた。

「宏さん。そんな奴、放っておいても大丈夫だ よ。さ、行こう。道弦先生ってば、遅くなると怖いんだ」

 帰りの為の提灯を手にして、二人は外へ出る。

 夕暮れに押されるように、道行く人の足は早 い。夕餉のにおいに空きっ腹を掻き立てられつつ、宏と伴ノ甫も先を急いだ。

「旦那さんってば、人をホイホイ使いに出してさ あ。飯くらい食わせろっての」

「仕事ですから、我慢は出来ますよ」

「例の金、宏さんが立て替えて返すことにしたん だろ。今からそんなに張り切っちゃ、後で息切れしちゃうよ」

 伊東道場へ渡した千両は、宏自身が肩替りする と、之春に申し出ていた。伊東に鴉堂へ近付くなと申し渡したのは、宏の勝手に違いないことであったし、何より、これ以上、昔の呼び名を知る者と関わりにな りたくなかったのだ。結果、宏の借金は、首の傷の治療代と共に跳ね上がってしまった。

「可哀想だから、利子はまけてやるよ。精々、あ たしの為に働くんだね」

 特に訳を聞くでもなく、宏の申し出を受け入れ た之春は、そう言ってニヤリと笑っていた。

「之春さんだとて、千両が丸々無駄になることは 避けたいでしょう。近頃頻繁に、用を言い付けるのは、その手間賃で幾らかでも金を返してほしいからなのです。私は、ありがたいと思っています」

「本当、宏さんってば人がいいんだから。宏さん の腕を活かした仕事を探したほうが、実入りはいいんだぜ」

「それでも、一生かかったとて千両も稼げはしな いでしょう? 之春さんは、時に法外な手間賃を出してくれることがありますからね」

「それって、かなり面倒な用か、旦那さんが気に 入るような話の時だろ。そんなの、一年に何度あるか。今夜の用だって、金にはならないだろうし――」

 言ってから、ハッと気付いたように伴ノ甫は口 を押える。罰の悪そうな顔の少年に、宏は微笑を向けた。

「道弦先生がお呼びということは、恐らく、野辺 送りの用意のお手伝いですね。きっと、その供養代も伴ノ甫さんへのお礼も、私が出すことになるかと思います。わずかな額になりますが、お手伝い願います」

「そんなこと――おれは宏さんから金を受け取ろ うなんて、思っちゃいないよ」

「之春さんは、仕事だと仰ったのです。伴ノ甫さ んが受け取らなくても、どの道、鴉堂へ入る金です」

「……そんなに、悪かったの? 千草って娘」

「はい――」

 一昨日辺りから、息も絶え絶えの様子だった。 道弦には、今夜か明日にでも――と言われていたのだ。どうにもならないほど、体力が落ちていた。

「だったら、どうして傍に居てやらなかったの さ。宏さんが看取ってくれたら、少しは安らかに逝けたかもしれない」

「昨日、お見舞いに行った時に、千草様に頼まれ たのです。もう二度と、ここへは来ないでくださいと」

「なんでさ」

「女だからですよ。やつれて死んでいく姿を見ら れたくはないと仰いました。――本当は、供養も要らぬと言われたのです。道弦先生に、無縁仏として寺に運んでくれるよう頼んであるからと……」

「亡骸も、宏さんには見てほしくなかったんだ な。けど、それなら道弦先生は、なんで鴉堂に野辺送りの手伝いなんか頼んだんだろ。そういうの、慣れてるはずなのに」

「私に、供養させてくださるつもりなのです」

 鴉堂に手伝いを借りれば、来るのは決まって宏 だ。手伝いの為に仕方なく呼んだのだから、千草との約束を破ったことにはならないと考えたのだろう。

 千草は得心しないだろうが、宏にとってはあり がたいことであった。

「宏さんってば、惚れられたもんだね」

 茶化す風ではなく、伴ノ甫が言った。しかし、 そう言われては後ろめたい気になる。

 千草は、父親が千人首の目付け役をしていたこ とも、千人首が逃げた為に制裁を加えられたことも、その千人首が宏であったことも知らずに死んだ。始めに目論んだ通り、千草は父の仇に身請けさせること に、成功していたのだ。

 同時に、彼女は仇討ちを成し遂げていた。

 宏は、竹興が亡くなっていたことを知らなかっ た。否、自分が生きていることが知れれば、次の千人首が竹興を狙うことは予想出来たはずだ。だが、それをあえて考えようとしなかった。

 逃げていた、確かに――千草の文を読むまで は。

 あの文には、竹興の名も、千人首とも書かれて いなかった。何が、宏を突き動かしたのか、未だに分からない。だが、何かが心の引っ掛かりに触れたのだ。

 竹興の死を知らされた宏に、これ以上、どうし て逃げることが出来ようか。

 宏の居所は、老中にも知れたろう。討手がかか るのに、そう時はかかるまい。姿をくらますことは容易だ。しかし、借財を踏み倒された鴉堂之春がどんな手に出るか――千人首より恐ろしい相手になるのは確 かだ。

 ――借財がなくても、逃げはしないが。

 どこから狙ってくるか知れない討手を、待ち続 ける日々。それが宏の、己への仇討ち。それに、大切な役目が残っている。

 千草の、供養だ。

「竹興様のお墓の傍に、千草様のお墓をお作りし ようと思っているのです」

「ああ、それが良い。無縁仏っていっても、縁あ る人が皆、亡くなってるだけだもの。せめて、並んで眠ってほしいしな」

「いいえ、それは違いますよ。彼女の縁者は、確 かに居ります」

「は? 何、言ってんのさ」

 伴ノ甫が振り返る。

 藍色の空が迫る中、宏は、ほろほろと笑んだ。

「私と千草様は、心ひとつ。夫婦も同然なので す」

 

参 『心ひとつ』了