宏の数歩後を、丙左が歩いている。重い、重い 足取りだ。口をつくのは溜息ばかりで、いつか夜の闇すら吹き飛ばしてしまうのではないかと思うほどだった。

 鴉堂は、常と同じ、常夜塔のような明かりを灯 している。

「ただいま戻りました」

「お帰り、宏さ――」

 出迎えた伴ノ甫が、目を瞠る。当然だろう。宏 の背後には、声をかけるのを躊躇うほど気落ちした男が、柄の折れた槍を携えて立っているのだから。

「宏さん、宏さん。―――誰?」

「久瀬丙左だ」

 答えたのは宏ではない。仏頂面の丙左が、声に まで不機嫌さを滲ませて答えていた。

「客?」

 と、伴ノ甫が不審がる。

「いいえ。違いますよ、伴ノ甫さん。こちらはそ の……少し、困ったことになってしまいまして」

 奥で煙管をふかす之春は、聞いているものや ら、いないものやら。天井に消える煙に視線をやるばかりで、こちらに目をくれようともしない。それでも、耳はこちらを向いていると信じ、宏は経緯を語っ た。

 聞き終え、伴ノ甫があんぐりと口を開ける。

「つまり、この人をやるから、金は返さんってこ と? そんなの、約束と違うじゃないかっ。なんて勝手な。要らないもん、おっつけられても、商いにはならないのに」

「伴ノ甫さん」

 さすがに、要らないものというのは、丙左を目 の前にして言い過ぎだ。怒った丙左が店の中で槍を振り回しでもしたら、大事になりかねない。

 そんな心配をよそに、丙左はひどく落ち着いた 様子で之春を見据えている。

「こちらの、店主か」

「ああ、そうだけど?」

「伊東道場へ渡した千両の代わりに、俺をここで 働かせてくれ。なんでもする。――頼む」

 勢いをつけて頭を下げた。商人相手に頭を下げ るなど、武士としては屈辱なことだろう。見れば、足を踏ん張り、拳が白くなるほど両手を握り締めている。

 その様子を横目で一瞥しつつ、

「あんたに、槍を振り回す以外に何が出来るって んだい。こっちも、使い物にならない形を置いてやるほど、甘くはないんでねえ」

 之春は頬杖をつく。相手の神経を、わざと逆な でしようという意図が見えた。

「俺は、伊東道場では飯の支度もしていたし、掃 除も、洗濯も出来る」

「そんなの、餓鬼だって出来るさ。うちの伴ノ甫 だって出来るくらいだもの」

「用心棒でもいい」

「宏が居るからねえ。商いで手が要る時も、用は 足りる」

「俺は――人を殺せる」

 不意に、沈黙が下りた。伴ノ甫は瞠目し、之春 は緩やかに煙を吐き出す。宏は前を見つめたまま、うっすらと微笑んだ。

「店主が命じれば、誰であろうと命を奪おう」

「へえ。じゃあ、将軍様のお命でも、いただいて 来てもらおうかねえ」

「旦那さんっ、そりゃ駄目だってっ」

 慌てたのは伴ノ甫だ。軽口と聞き流していたら 本気だったということが、これまでに幾つもあったからだ。いかな鴉堂でも、幕府を相手に喧嘩を吹っ掛けるのは、無謀というより馬鹿の極みである。

 本気か否か分からぬ表情のまま、之春は宏に視 線を移した。

「どうだい。宏なら、将軍様のお命、取って来て くれるかい」

「お断りいたします。私には出来ぬことです」

「そう。なら、そっちの人を置いていても、損は しないね」

「ちょっと、旦那さんっ――」

「五月蠅いよ、伴ノ甫。道場の看板を形にするっ て言っても怒り、そっちの人を形にするって言っても怒り。どうしろって言うのさ」

「無茶な金貸しはやめろよ。そもそも、千両貸せ だなんて、胡散臭いにもほどがある」

「胡散臭いもんか。愛宕下の伊東道場っていった ら、たいそうな道場だもの」

煙 管を銜えながら、之春が薄く笑う。

「そんなご立派な道場で、至急に千両もの大金が 要るってのは、どんな訳だよ。きな臭さが見え見えだ」

「好き勝手を言うのはやめてくれ」

 丙左は、鋭い目で伴ノ甫を睨んだ。怯えた少年 が、いそいそ、宏の背に隠れる。

 丙左は宏よりも頭ひとつ分背が高い。そこに 立っているだけで、威圧的でもある。

「伴ノ甫さんの言い方が気に障りましたか。私か らお詫びいたしますので、そのように睨まないでください」

「あ、いや……睨んでいるわけではないのだ が……」

「ちなみに申しますと、伴ノ甫さんは私よりも古 株で、之春さんの右腕です。決して丁稚奉公ではないので、お間違えなく」

「誰が好き好んで、こんな店で奉公するもん かっ」

 同意を示すためか、現にこの店で働かざるを得 ない身を嘆いたものか。伴ノ甫が頬を膨らませている。紅潮した頬が丸くなると、歳相応のあどけない表情になった。

「では……宏殿は、元はどちらのご家中か?」

「さあ。忘れてしまいました」

「そんなはずはあるまい。まさか、あの身のこな しで、農夫というのも考えにくい。――いや、すまない。聞いてはいけないことだったのだろうな」

「そんなの、聞く前に気付けっての」

 と、例によって伴ノ甫が悪態をつくものだか ら、丙左に睨まれ、再び宏の背後に回った。

「なんかこの人、おれにだけ怖くないかいっ」

「丙左さんは立派なお侍なのです。言葉遣いに、 気を付けてあげてください」

「なんで借金の形に、そこまで気を使わなくちゃ ならないのさ」

 確かに、とは思いつつ、不貞腐れた伴ノ甫をど うにか宥める。

 之春が煙管の先で、宏と丙左を交互に指した。

「宏。そっちの人を空いてる部屋に案内してやっ ておくれ。このまま伴ノ甫とやり合ってもらったんじゃ、商売の邪魔だからさ。納戸の隣が空いていたろう。お前が寝ている、反対側のほう。陽当たりは悪い が、寝られりゃ文句はないよねえ」

「無論だ」

「ああ、それとねえ。その槍、置いてっておくれ な」

 手を出しながら、何気なく言う。

 言われたほうは、一瞬、表情に不審の色が浮か べた。

「槍は俺の、命の次に大事なもの。どうするつも りだ」

之 春の目が、すうっと細くなる。

「これは、あたしが預かっておくよ」

 言うや、丙左の手から槍が消える。

 宏が何気ない動作で、槍を取り上げていた。そ の動きがあまりに自然で、丙左もすぐには動けなかったほどだ。

 槍は、之春の手に渡る。

「待てっ――それは」

「あたしが、あんたを千両の形にしたと、本気に していたわけじゃあないよねえ? あたしはこの槍の穂先に、それだけの価値があると踏んだだけだよ」

「では、初めからそれを奪うつもりでっ」

「大丈夫さ。あの先生が金を返してくれりゃ、す ぐ返すよ」

「先生には、金を返す気など……」

「だったら、あんたが責任を持って、金を返して 貰って来な。それまで、ここに居て良い。槍が心配なら、近くで見張っているのが、一番良いだろう」

「それは……そうだが……」

 気遣いに礼を言うべきか、騙されたことに腹を 立てるべきかと、丙左は複雑な顔で宏を振り返った。

 ――なんなのだ、この男はっ。

 心内の叫びが聞こえるようだ。

 助けを求めるような表情に、宏も曖昧に微笑み を返す。

「之春さんがそう言うなら、あなたに黙って売っ てしまうようなことはしないはずです。借金の形ではなく、ただ預かってもらっているだけだとお考えになってはいかがですか」

 これと決めた之春には、誰も敵わないのだか ら。

「……宏殿が、言うならば」

「では、こちらへ。部屋へご案内します」

 渋々、頷く丙左を奥の廊下へと促す。後ろで、 伴ノ甫があっかんべえと舌を出していた。

 小さな蝋燭だけで濡れ縁を行く。納戸は家の奥 にあり、伴ノ甫などは容易に近付きたがらず、宏も、之春に頼まれてたまに品を物色しに来るだけだった。いわく付きの品がたっぷりと詰まった納戸の隣部屋も また、不気味な雰囲気が漂っていると、伴ノ甫などはよく口にする。

 しかし、それは納戸に納まっている物が何かを 知っているから感じることであって、何も知らぬ丙左は、

「少しカビ臭いな」

 この程度にしか感じないようだ。

「風を入れましょう。布団の類は押し入れにあり ますので、お使いください」

「ありがとう」

「これから、よろしくお願いします」

「……あの、忘れてほしいことがあるのだが」

「なんでしょう」

「辻斬りのことだ。あれは出来心だったのだ。い くら先生の命とはいえ、闇に紛れて襲うなど、武士に有るまじき行いだったと反省している」

「忘れましょう、お互いに。それにしても、出来 心で千人首を名乗るとは、命知らずではありませんか。捕まりでもしたら、天下の大悪党として、調べもろくに受けずに獄門になってしまいますよ」

「それを、少し、望んでいたのだ」

淡 い蝋燭の明かりの中、丙左が薄い自嘲を浮かべた。縁側から入る風の音の他に、隣の納戸から小さな物音が聞こえてきたが、宏も丙左も、気にする様子もなかっ た。

「先ほど、俺のことを立派な侍と言ったが、我が 家は代々、無役の浪人で長屋暮らしだ。あの伴ノ甫とかいう者に、威張れる身分ではない」

「伊東道場に通われていたのでしょう。立派なこ とではありませんか」

「いや、いや。違う」

 違うのだ――と呟いて、今度は悲しげに苦笑す る。

「宏殿は伊東道場がどういう道場か、知ってる か」

 口調が、わずかに砕けたものになっている。宏 はそれに気付かぬふりをした。

「愛宕下といえば、大名家の上屋敷が多い所です ね。身分の高いお武家様が多く通われていると、聞いたことがあります」

「本当に、根っからのお武家衆が大半でな。俺の ような裏長屋の浪人には、敷居が高すぎたんだ」

「ですが、その伊東道場の門人になられたのです よね」

「腕を見込まれてのことではない」

 投げやりな言い方だった。

丙 左は、一刻も早く裏長屋の暮らしから逃げ出したかったのだ。仕官を望むものの、なんのツテもなければ金もない男を、仕官させてくれる屋敷などない。せめて 他人より秀でているものでもあればと、槍の腕を磨くことを決めたという。江戸にある道場という道場を周り、入門を願い出たが、名の通った道場にはにべもな く断られた。こういう場でも金が動くことを、丙左は初めて知った。

 それでも諦めきれずに、ようやく辿り着いたの が、伊東道場だった。

「師範の伊東先生が、直々に話を聞いてくれた。 俺に強い決意があることを知り、入門を許してくれたのだ。それから、道場の一室に住まわせてもくれた。……嬉しかったさ。やっと、あの暗い長屋から出られ たと思ったら、涙が出るほどに、嬉しかった」

 宏はじっと、目を伏せている。丙左は構わずに 続けた。

「もちろん新入りだから、なんでもやった。掃除 に洗濯は当たり前のこと。道場の修繕や胴衣の繕いも……。厠掃除だろう、出稽古のお供だろう、あと兄弟子の言伝を持って行ったこともあったな。その時は、 渡した女に殴られてしまってな。どうやら別れ話の文だったようだ」

「それは、稽古に関わりあることなのですか」

「殴られて得たことは、面の皮が厚くなったこと だな」

 厚かましいという意味で言っているのではな く、言葉通り、顔の皮膚が分厚くなったという意味だろう。

 兄弟子たちに利用されているだけだ。それは、 宏が口にせずとも、丙左自身が最も分かっていることだった。それを受け入れても、彼は伊東道場に居たいと願った――惨めな生活には戻りたくなかった。

「雑用ばかりを言い付けられて、稽古をつけては もらえなかったが、隙を見つけては庭でひとり、槍を振っていたのだ。門前の小僧がどうとか言うだろう。努力を続けていれば、きっと自分も先生のような一流 の武術者になれると信じていた。――だが、そう信じていたのは、俺だけだったんだな。俺は悟ったよ。伊東先生にとっても、あの道場にとっても、俺はそれだ けの価値しかない。先生も言っていたろう。俺のことを下男だと……結局、俺は何も得られず、何にもなれず……いや、最後に役目を与えられただけ、マシなの かもな」

「そのようなこと、ありませんよ。丙左さんは、 立派な腕をお持ちです」

「だがこのままでは、名もなく死んでいくばか り……」

「まさか、それが千人首を名乗った訳なのです か」

 再び自嘲を見せる。それが答えとなった。

「千人首は、裏長屋の幼子までが知っている。俺 が千人首として捕まっても、久瀬丙左の名も共に、知れ渡ることになるだろう?」

「人違いで殺されても、構わないというのです か」

「生きていた証を残せる、大きな機会である気が したのだ」

「そこへ、私が通りかかったのですか……」

「槍を折られた時、肩の荷が下りた気がした。天 に、槍を諦めろと言われたのかもしれぬな」

「運がなかっただけです。もっと他に、良い道場 がありますよ」

「確かに、運はついていなかった。先生の意は絶 対だ。一世一代と心に決めたはずなのに、惨めにも道場に引き返したら、今度は俺に借金の形になれと言う。下男の次は、金を借りる形だと……先生にとって俺 は、もう、命あるものでもなくなっていた」

 もっと前に、怒るべきだったのか、と丙左は自 問する。

 だが、感情を露わに出すことはできなかった。 伊東道場を追われたら、どこの道場へも入門は叶わない。仕官の道も、絶たれたも同然だ。

「それに、少しばかり興味もあったのだ。怪しげ な主が、俺を千両の形として受け取るのかどうか」

 結果は、言うまでもない。彼は、人生で見るこ とがないような大金と、同等の価値だと認められたのだ。

「希望が湧いたよ。この身を、認められたと思っ た。実際には、俺が持っていたあの穂先が目当てだったが。……だが、少しばかり、ほっとしている」

「なぜですか」

「先生に、俺に千両の価値があったと思わせるこ とができたからな」

 二カッと、歯を見せて笑った。泣き笑いのよう に見え、宏も同じような顔をして笑った。


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