(二)

侃 斎道場で軽く稽古をした後、さくらは幡多屋を訪ねていた。振袖ではなくいつもの袴姿で、主、喜衛門を呼び出す。二人で近くの蕎麦屋に入った。

昼 もだいぶ過ぎた店内は、ひどく閑散としている。人足風情の男がひとりと、道場帰りと思しき侍がひとり、それぞれに酒を飲む姿しかない。

 二人は奥の座敷に座った。酒と肴は適当に見 繕ってもらう。

「ここの酒は美味いんです。さくらさんに、是非 召し上がっていただきたいと思っていましてな」

 若い娘を誘うにはあまりにむさ苦しい場所では あったが、酒の匂いにとんと御無沙汰だった身には何よりの褒美である。

「そりゃあ、嬉しい。実は振袖で酒を飲みに行く わけにもいかず、めっきり晩酌が減っていましてね」

 と、つい本音が出た。喜衛門が、豪快に笑う。

「ご迷惑をお掛けしてますねえ、どうも。ささ、 一杯」

 早速、銚子を傾ける。無骨な少し大きめの杯に 酒が注がれた。さくらは迷わず一気に煽る。さらりとした冷たさが、喉を流れた。

「――美味しいっ」

 冷酒ながら風味は豊かで、少し甘めである。非 常に飲みやすい。肴の小鉢をつつきながら、喜衛門は嬉しそうに頷いた。

「そうでしょう。ここは、夏の暑い盛りには、冷 酒でもきちんと井戸水で冷やしてくれるんです。それがなんとも美味くてね。あたしも常連なんですよ」

「知らなかったな。こんな美味い酒を出す店が あったなんて」

「肴も美味いんです。ささ、どうぞどうぞ」

「いえ。これ以上飲んだら、いい心地になってし まいそうです。酒は後にして……先日は本当に申し訳ありませんでした。私がしっかりしていれば、おさ枝さんを怖い目に遭わせることもなかったのに」

 鬼火を見た晩、おさ枝を送り届けたさくらは、 叱責されることも覚悟していた。だが喜衛門は、無事に帰って来てくれさえすればと、責めようともしなかったのだ。おまけに、おさ枝が部屋を出たがらないこ とをこれ幸いと、喜んでもいる。

 さくらには、それが不自然に思えてならなかっ た。

「喜衛門さん……私は、貴方がおさ枝さんを、家 の中に閉じ込めておきたいように思えるんですが」

「なんとも、子供じみた考えですな。もしそれを 願っているならば、わざわざさくらさんを供につけたりはしないでしょう」

「おさ枝さんだって赤ん坊ではないんです。自ら の意思でどこへでも出て行ける。だから、私という見張りが必要だったんじゃありませんか」

「おさ枝は、さくらさんと外へ出るようになって 明るくなりましたよ。以前のあの子に戻ったようだ。やはり、貴女に頼んでよかったと、家内とも話していたのです」

「しかし、こんなことはいつまでも続けられるも のではありません。鬼火の恐怖が薄れれば、またおさ枝さんを閉じ込めておくつもりですか。その前に、無理やりにでも佳助さんと祝言を?」

「そんなことをしたら――おさ枝は、家を出てし まうんじゃないでしょうか」

や けに必死な目でさくらを見つめる。おさ枝の縁談を案じる以外に、喜衛門にはまだ心に掛かることがあるらしい。そもそも、祝言の前に話がこじれることもあ る。それを心配して人を雇うなど、親馬鹿の範疇を超えていやしないだろうか。

「そういえば、道場で話をした時から、駆け落ち する気じゃないかと心配していましたね。芝居見物の帰りだって、店に帰って来ることにだけ気を揉んでいたようだし……もしや、他にそういう話を知っている んじゃありませんか」

 駆け落ちならば、さくらには思い当たる節が あった。

「神田の筆屋の娘さんが駆け落ちしたこと、喜衛 門さんもご存じなのですか」

「……その通りですよ、さくらさん。もっとも、 あたしが駆け落ちを危惧しだしたのは、田崎屋さんのことは関係ありませんがね。あれは、さくらさんに事を頼んだ後に起こったことですから」

「そういえば、そうでした……では、他にも誰か 駈け落ちなさっていると?」

「田崎屋さんより前に、駆け落ちした娘がいるの です。浅草の米問屋で、名はお松さんといった」

 米問屋の主と喜衛門は顔見知りで、たまに酒を 酌み交わすこともあった。ところがある日、友の様子が一変していた。十九になる娘が駆け落ちしたというのだ。お松に好いた男がいたなど、身内も店の奉公人 も気づく者はなかったらしい。行方を探しようもなく、米問屋の主は、娘は死んだものと諦めていた。

「あんな思いは、ご免だと思いましてね。侃斎先 生にご無理を言って、さくらさんをお借りした次第なのです」

「身近でそんなことがあったのなら、危惧するお 気持ちも分かりますが……」

「ええ……でもそれだけではないのです。実はあ の夜――おさ枝とさくらさんを待っていたあたしらの所に、蔵前の岡っ引きが来ました。蔵前のさる御旗本のご息女が、書き置きを残して駈け落ちしたのだ と……ちょうど、同じ三味の先生に教えを乞うていたので、駈け落ち相手について何か知らないかと聞きにいらしたのです。後でおさ枝に聞いてみたら、同じ師 範に習っていたとはいえ顔を合わせたこともないとか。でもねえ、さくらさん、考えても見てください。今か今かと娘の帰りを待っていたところへ、他家の娘さ んが駈け落ちしたと聞かされた親の心境を……もう、肝を潰しましたよ」

力 なく笑う顔が、泣いているように見えた。娘と同じ歳のさくらを前に、娘に弱い己を蔑んでもいた。さらに、おさ枝が祝言を渋る事情を話さぬことも重なって、 喜衛門の心中は相当切羽詰った状態だろう。

 根拠のない気休めだけでは、彼の心を安らかに することはできない。

 さくらは、盃に残った酒の一滴を飲み干した。

「おさ枝さんのことですけど……以前、女中さん が見たという若侍に、私も会いました」

「そ、それでっ」

 勢い込んで身を乗り出す。箸が畳に転がった。

 それを拾い上げながら、さくらはゆるりと首を 振った。

「どこの誰と分かるような代物は、身に付けちゃ いませんでした。訊ねたかったのですが、別に気を取られている隙に、機会を逃してしまって」

「なんてことだ……ううん、しかし本当にそんな 男がいたとは」

 期待半分、いなければいないで安堵できたもの を――。複雑な顔で顎を擦る。

「だが、本当に男がいるのであれば、おさ枝に聞 くのが早い。さくらさんが気落ちする必要はありません」

「いえ、そう簡単な話ではないんですよ」

「どうしてです。好いた男の話だ。こんなに簡単 なことはありますまい」

「おさ枝さんは、男の名も素性も知りません。声 すら、はっきりとは聞いたこともない」

「はあ?」

 さくらは、茶屋でおさ枝が話したことをなぞっ て聞かせた。

 始まりは、おさ枝が日本橋小町と評判になった 四月ほど前にさかのぼる。小町娘として評判になったおさ枝見たさに、本所深川界隈はもちろん、向島からも人が出るほどの騒ぎがあった。瓦版にも書かれ、あ ちらこちらで指を指される。好奇の目に晒されて、おさ枝はひどく疲れてしまっていた。

「おさ枝さんが言うには、商売柄、綺麗な着物を 着て、お客様に挨拶をしなければならないことも、自分までが幡多屋の商品と見られているような気がしていたと。毎日届く祝いの品が、自分の値のような気が してならなかったと言っていました」

 母親はおさ枝に美しい着物や小物をあつらえ る。父親は娘の評判をダシにして、客を呼び込もうとしていた。見知らぬ男に絡まれたこともある。仲がよかった娘の許嫁がおさ枝に文を出したとかで、友にひ どく罵倒されたこともあった。

 しかし、愚痴などは一言も零さなかった。

 小町娘に選ばれることは、若い娘にとっては名 誉なことなのだ。ここで愚痴を言っては、選ばれなかった者たちに反感を買ってしまう。友を失うのは、もう嫌だった。

あ る日、彼女はひとり、頭巾で顔を隠し家を出た。ひとりになりたかったそうだ。ちやほやされるのも他の客に気を遣うのも、家人の様子を見るのも辛い。何もか もから逃げようと思い、気がつけば裏木戸を出ていた。

 どこへ行くあてもなく思うままに足を進め、や がて小さな社の前に出る。鳥居があるわけでもなく、ただ祠がそこに鎮座していた。名も刻まれていない社は、今にも崩れそうな雰囲気である。

 歩き疲れ、社の段に腰掛ける。近頃なかった静 かな時に、おさ枝は心から息を吐き出した。

 その時、不意に社の裏手で物音が聞こえた。

 おさ枝はドキリとし、その場を離れようとし た。だが、その行く手を遮るように男が飛び出してきたという。

「その男が、さくらさんと女中が見たという、若 侍なのですか」

「はい。相手は二本差しですから、おさ枝さんは 急いで頭巾を取った――」

 自分の素性を明かし、決して非礼を働く気はな いと告げる。

 と、男の手がおさ枝の肩に触れた。

 一瞬にして緊張が走り、おさ枝は容易に顔を上 げることができなかった。ここで無礼討ちになるのかと泣きたい気持ちになっていると、男は社のほうを指し示しているではないか。そこは、先ほどまでおさ枝 が腰かけていた場所だった。男が示す通り、そこに腰を下ろす。男も無言で隣に座した。

 年頃の娘が男と二人きりで並ぶことなど、滅多 にない。まして、相手は名も知らぬ侍だ。本来なら恐ろしさを感じてもいい状況なのだが、不思議と安心感があった。

「相手がまったく知らない人だったからでしょう ね。おさ枝さんは思いつくままに、心の内を話してしまったそうなんです。その時感じていた、息苦しさや憂鬱を」

 男は相槌を打つわけでもない。終始、無言だっ た。それが、おさ枝にはありがたかったのだ。

 しょせん、他人にはおさ枝の苦しみを分かって やることはできない。贅沢な悩みだと、一蹴されてしまう。男にしたところで、真に理解してはいなかったろう。話している間中、男はおさ枝ばかりに目を向け ていたという。見惚れているふうではなく――、

「なんというか……心の底から安堵しているよう な様子だったそうです。見つめられているおさ枝さんが切なくなってしまうくらい、無防備な様子だったと」

 ――ふと、男が笑った顔が見たいと思った。

 今し方まで愚痴をついていた口を、緩々と綻ば せる。男が興味を惹かれる話題を探し、様々なことを語った。家の商いや、芝居の話、子供の頃に失くした花簪のことまで、思い付く限りの話をした。ついに話 の種も尽き、それでも懸命に話を繋ごうとしていると、男がおさ枝の頭を優しく撫でた。まるで幼子にするような態度だ。しかし、おさ枝は胸が熱くなるのを感 じていた。

 陽が暮れかけ、家に戻らなければならない時刻 になった。何度も名を訊ねたが、男は一言も声を発しなかった。

 諦め、社を少し離れたところで、

「――さえ」

 風に流れて、声が聞こえた気がした。

振 り返る。だが――男の姿はどこにもなかった。

「そこに行けば男に会えるかもしれないと、何度 か行ってみたそうですが、結局、再び会うことはできませんでした。おさ枝さんは佳助さんとの祝言も決まっていましたし、男のことは忘れようとしていたらし いのです。……でもおさ枝さんは、近くにあの男がいるのではないかと、そう感じています」

「さくらさんが見ているのですから、男がおさ枝 に近づこうとしているのは、確かなことなんでしょう。しかし、おさ枝が男と通じているなど――いくらさくらさんでも、聞き捨てなりませんよ」

「いいえ、おさ枝さんは男と言葉を交わしたこと もありません。一方的に話していただけ。男の姿を見たのも社での一度きりで、女中や私が男を見かけた時、おさ枝さんはその場にいなかった。男はおさ枝さん だけには、姿を見せていないんです」

「なぜだ……好いているなら、直に話したいと思 うだろう。相手に見つからぬように、その傍にいるなど……気味が悪い」

 苦い想いを飲み下すように、なみなみと注いだ 酒を一気に煽る。さくらは竹林の中で見た、男の様子を思い出していた。

「私は、あの男から妙な気配を感じることはでき ませんでした。ただ、表も内面も静かで、大切なものを真綿に包んでいるような――そんなふうに、おさ枝さんがいるほうを見つめていました。おさ枝さんも同 じように感じているのではないでしょうか。損得一切勘定なく、純粋におさ枝さんを気遣ってくれた、その心に惹かれているんです」

「そんな、馬鹿げた話……。じゃあ、なんです か。おさ枝はその男と、一緒になることを望んでいるとでも?」

「それはないと思います。おさ枝さんは、自分の 立場をよく分かっていますから」

 幡多屋のひとり娘で、婿をとり、店を後世に繋 がなければならない。だから例え、心がどんなにあの男に惹かれていても、一緒になれるなんて夢のまた夢――決して叶わぬことなのだ。

「こんな気持ちのままで佳助さんと夫婦になるな んて、佳助さんに失礼だと言っていました。だから、祝言は待ってほしいと」

「待って決着することなんですかね。さくらさん は、おさ枝の気持ちが晴れるまで、何年でも待てと仰るんで?」

 父親としては、そんな荒唐無稽な話で、むざむ ざいき遅れにさせることなどできはしない。だったら、目に見えない気持ちの面なんかさっさと封をして、佳助と祝言を挙げたほうが、後々いいと断言する。

「今、無理に祝言を挙げたとしても、おさ枝さん の中にはずっと、あの男が居続けます。自分の中で区切りをつけない限り、佳助さんと手を取り合って店を守っていくことはできません。祝言に関しては、少し 間を置いていただけませんか。私が、男の素性を探ってみます。それで、おさ枝さんにどんな想いがあるのかを問い質しますから。真相が明らかになれば、おさ 枝さんだって心に決着をつけることができるかもしれません」

「おさ枝に頼まれたのですな?」

「おさ枝さんの名誉のために言っておきますが、 相手の素性を知って手に手を取って、なんてこれっぽっちも考えちゃいませんよ、おさ枝さんは。ただ、心を知りたい――それだけなんです。それに、あの子が 親を捨ててどこかへ行くような娘じゃないって、よおく分かっていらっしゃるでしょう」

 芝居小屋で高価な品の中から、母のためにと選 んだ羊羹。手にしたおさ枝は、喜ぶ二親の顔を思い浮かべていた。

駆 け落ちは、親はもちろん、それまで培った人の縁をすべて断ち切る行為だ。好いた惚れたの心だけで、容易に決断していいものではない。

「……あの子がそう言うのなら、きっと」

 喜衛門の安堵の顔には、一抹の不安が滲んでい た。

 朝から薄曇りだったのが、ついに雨音が落ちて くる。

「これで涼しくなってくれりゃあ、いいんですが ねえ」

 ぼやく喜衛門に勢いはない。佳助に祝言を延ば す訳を、なんと伝えようか。本当のことを言ったところで、佳助を傷つけるだけであった。

 頭が痛い、頭が痛いと盃を空け続けた。

 

 

 

 日暮れ近くになり、さくらは行きつけの料理屋 に立ち寄った。若い夫婦だけで商いをしている店で、「寿屋」というなんともメデタイ名である。女将の作る小鉢はどれも美味いし、何よりさくらがここに通う 理由は、上等の酒を安く出すということだった。

 喜衛門が案内してくれた店も酒は美味かったの だが、話の中身が重要だったがために、飲んだ気にもならなかった。ジメジメとした暑さは変わらず、細糸のような雨だけが降り注いでいる。こんな気だるい日 には、気晴らしが必要だ。

 と、自分に都合のいい言い訳ばかり頭の中に巡 らせて、揚々と暖簾を潜る。

「おや、さくらさん。いらっしゃい」

 板場から旦那の大声がかかり、客の間を忙しく 立ち回っていた女将もにこやかな笑みを向けてくれた。さして広くもない店内は、ほとんど客で埋まっている。座れる場所を探して頭をクルリと向けた先で、総 がひとり、銚子を傾けている姿を見つけた。

 女将に酒と肴を頼んだ後、総の向かいに腰を下 ろす。

「珍しいね、総さんが外でお酒を飲むなんて」

「おかえりなさい、さくらさん」

「ただいま――あ、ひじきの煮物、美味しそう。 私もそっちにすればよかった」

「ここの肴はなんでも美味しいのでしょう? 教 えてくれたのは、さくらさんですよ」

 ほろほろと笑っている間に、さくらの前にも酒 と揚げだし豆腐の皿が並んだ。生姜の爽やかな風味が、辛口の酒によく合う。

 さくらが手酌で盃を満たすのを見、総は眉を顰 めていた。

「もしかして、もう出来上がっていませんか」

「幡多屋さんに美味い酒を出す蕎麦屋を教えても らってね。ちょっと、寄ってきた」

 これが娘が口にする言葉かと、総は心底、呆れ 顔になる。

「お酒をやめろとは言いません。ですが、飲みす ぎは体に毒ですよ。きちんと食べるものは食べなければ、稽古にも力が入らなくなってしまうでしょう」

「うぅぅぅん。説教が年寄りくさいよ」

 唇を尖らせながらも、煽る飲み方をやめた。少 しずつ口に含み、少しずつ飲んでいく。たまに肴を摘み、頬杖をついた。

「さくらさん……この前、鬼火を見たと仰いまし たよね」

「まあ、ねえ」

「それを見て、どう感じました?」

 唇に運びかけていた盃が、その手前で止まる。 問いの意図が見えず小首を傾げた。

「どうって言われても……不気味な感じがしたの は確かだけど、しっかり見ていたわけじゃないし。どうしたの、総さん?」

「実は、わたしのお弟子さんが、気がかりなこと を言っていまして――」

「へえ。そりゃ、お上が出張る話かい」

 唐突に、話に割って入った輩がいる。ぶっきら 棒な言い方に、さくらは勢いよく振り返った。

「香上の旦那っ、なんでここにっ」

「これから夜回りなんでな。腹ごしらえに寄った んだ。……なんだい、その顔は。何か文句があるような顔じゃねえか」

「別に」

 店は、八丁堀に近い場所でもあった。黒羽織が 休んでいるのを、何度も見たことがある。だが、

 ――どうしてだろう……馴染みの店で香上さん と鉢合わせるのは、落ち着かなくて嫌だなあ。

 さりとて、追い出す権利があるわけもない。早 くあっちへ行っちまえと、心の中で毒づいた。

 そんなさくらの心境など露も知らぬ香上は、同 じ卓を囲む形で腰を据えてしまった。

「ちょっと、旦那。相席なんて認めちゃいません よ。腹ごしらえなら他でやってください」

「まあまあ、さくらさん、いいじゃありません か。お店も込み合っていることですし。さ、香上様。おひとつどうぞ」

「総は話が分かってるねえ」

 香上は、花街の世話人にも顔が利いた。総が酒 宴の席で琴を弾けるのは、彼の口利きがあったからこそである。だから総は、香上に頭が上がらない。

「それで、さっきの話だが、何か厄介事か?」

「いえ、香上様の手を煩わすようなことではあり ません。お弟子さん――お武家のご隠居様なのですが、その方が幽霊道中の中に亡くなったご子息の顔を見たと言うものですから」

「そりゃあ、早いとこ医者に診せたほうがいい。 何か重い病かもしれない」

「いえ……死期が近いという話ではありません よ」

「分かってるさ。言ってみただけだ」

 絶対、嘘だ――と思ったものの、さくらは口を 挟むのをやめた。労力の無駄だ。

「しかし、こんな身近な所にまで、幽霊道中が横 行しているとはな。世も末なのかね」

 目の前にした蕎麦には手をつけず、肩をしきり と回している。よほど疲れているのだろう。昼は昼でお勤めがあり、夜遅くまで幽霊道中の探索では、相手が香上でも不憫に思えてくる。空になった香上の盃に 銚子を傾けながら、さくらが首を傾げた。

「もしかして、幽霊騒ぎの探索が上手くいってい ないんですか」

「今、手下を走らせて幽霊の類が出たって場所を 洗い出している。その数が半端なもんじゃないんだ。中には怪談めいた昔話もあるもんだから、選別すんのが一苦労さ」

 香上の有能ぶりを褒める気にはならないが、こ れだけ手を尽くして何も分からないとなると、この騒ぎは単なる夏の風物詩というだけでは済まない話なのかもしれない。

「だったら、夜の見回りくらい他の方に代わって いただいたらいいじゃありませんか。見たところ、他の定廻りは血色いい顔つきで夜もお暇なようですし」

 ちょうど、店に入って来た黒羽織の同心は、香 上に一瞥をくれただけでさっさと奥へ消えてしまった。女将が銚子を三本、盆に載せて運んで行く。

 さくらの厭味を、総が咳払いで窘めた。

「いくら本人が見えない所にいるからって、誰が 聞いているか分からないんですから」

「放っておけ、総。こいつに何を言っても無駄だ よ。それに、さくらが言うことはもっともなことさ。俺も代わってくれるなら、代わってもらいたいくらいだね」

「もしかして、幽霊道中の探索は香上様おひとり で?」

「生憎と、奉行所内で俺を煙たがる奴は五万とい るが、利もなく手を貸そうって奇特な奴が皆無でなあ」

 まるで他人事のように言う。さくらは呆れて、 これ見よがしの溜息をついた。

「日頃の行いが、こういう時に分かるんですよ ね。だけど……いいんですか。ひとりで勝手に探索なんかして」

「いいわけねえだろ。近頃、とみに奉行所に居辛 くなった」

「自業自得」

「なんだって?」

「いえ、何も。ただ――どうしてそこまで、幽霊 道中の探索に拘るのかなと思って。十八年前の火事の話は大変なことだったと思いますけど、今、旦那が孤立無援に陥ってまで調べることなんですか」

 蕎麦を一口啜っただけで、香上は箸を置く。横 目でチラリ、さくらを見た。

 ――また、はぐらかすつもりかな。

 肝心なことと危ない話は口外しない。これまで 何度となく話を聞き出そうとし、何度となく煙に巻かれてもいた。期待せずに酒を飲んでいると、

「俺が八つか九つかの頃だったな――あの火事 は」

 卓の真ん中に視線を据え、香上が口を開く。

「もう、十九年も経っちまった。たまに、すっか り忘れてることだってある。火事で焼け出されて、死ぬかもしれないって思った瞬間を」

「その火事って……鬼火騒ぎがあって、大火に なったっていう? でも、あれは江戸の西側を焼いたって。八丁堀は無事だったんでしょう」

「俺は、火事で父親と生き別れたんだ。父親は手 習い所の師範だったよ。だが、今はどこでどうしているのか……せめて、元気で生きていてほしいと思うね」

 さくらも総も箸を止めていた。知らぬ間に、居 た堪れない表情をしていたらしい。香上が唇の端を上げる。

「可哀想な奴だと、憐れんでくれるな。あの時は ほとんどが家族と生き別れたり、死に別れたんだ。俺だけが可哀想じゃなかったよ。それに、運よく八丁堀の香上家に養子として引き取られた。今考えると何が 幸いするか分からないねえ」

「幸いだなんて、本当は思ってもいないくせに」

「そう考えでもしないと、やっていられなくな る。いつまでも悲観してたって、状況が変わるわけじゃねえんだ。だから俺は不運も幸いに思うことにした。せっかく助かった命を無駄にしちゃ、罰が中るって もんだろ」

 なるほど、香上が南町奉行所の中で疎まれてい る理由はそこにあるようだ。元は町人の分際で、花形である定廻り同心を拝命し、あまつさえ手柄も立てるのでは可愛くもなかろう。口の悪さと厭味の数を差し 引いても、香上は少しばかり目立ちすぎるようである。とにかくも、香上が幽霊騒ぎを軽視していない訳に得心したさくらの向かいで、総は浮かない顔を作っ た。

「どうしたの、総さん。もう酔った?」

 酒は弱くないはずだがと、空にした銚子を数え ていると、

「いえ。……香上様のお話が、お弟子さんの境遇 に似ていたもので。もっとも、お弟子さんのほうは、五年前の火事でご子息を亡くし、養子をとったのですが」

「さっき言ってた、お武家のご隠居って人?」

「はい。ですが、想いは香上様と正反対のような 気がします。ご隠居様は、過去を悲観し続けているのです。琴を習う訳も、亡くなったご子息の想いに近づきたいから――どんな訳で琴を習おうと、わたしはと やかく言うつもりはありませんが……ご隠居様にとって楽を奏することが、苦痛になりはしないかと心配なのです」

「結局、琴を心配するところが総さんらしいとい うか、優しいというか」

「あ、いえ、わたしはご隠居様に楽しんでいただ きたいと思って――」

 香上が、言葉が上手く見つからず四苦八苦して いる総を一瞥した。すっかり伸びている蕎麦を、握り箸でグルグル掻き回す。

「俺だって初めっからこんなふうに思えたわけ じゃない。諦めるにはそれなりの時が必要さ。しかし、気に病み過ぎて亡き者の姿を見たなんて吹聴するようじゃ、少し気をつけてやるべきだろうな。死んだ奴 に引かれるって言うし」

「ちょっと、旦那っ。縁起でもないことを言わな いでください」

 さすがに、さくらが声を上げた。だが、総本人 はまったく気にしていない様子。それどころか真剣に眉根を寄せている。

「まあ、何かあったら遠慮なく言いな。幽霊の類 はいい加減、腹いっぱいだがな」

 散々弄んだ挙句、蕎麦をそのままに香上は店を 後にした。

 どんぶりの脇に一分銀を見つける。ずいぶん、 気前よく置いていったものだ。

 ――人の好意は素直に受け取れって、師範に教 わったんだよなあ。嫌だなあ、香上さんの奢りの酒は。

 嫌々、唇をひん曲げつつ、内心の嬉しさを隠し 切れていない。意気揚々と銚子の追加を頼もうとしていると、総が不意に顔を上げた。

「さくらさん。今から、一緒に行っていただきた い所があるのですが」

「……なあんか、ヤな予感がするんだけど。もし かして、そのご隠居さんの所?」

 云、と頷く。

「あのさ、総さん。旦那の話を真に受けたんじゃ あないよね」

 死者にあの世へ連れて行かれる、か?

 そんな話を心底案じるのは、相手が危篤の状態 になってからだ。話を聞く限り、隠居は新しい手習いを始めるほど元気な様子ではないか。

 呆れるさくらをよそに、総はさっさとお代を支 払っていた。香上の一分銀では釣銭が多くなると、律儀に自分の懐から銭を取り出している。一分銀は、後で香上に戻す気だ。

「そういうところ、融通利かないよね、総さん」

「ちゃんと聞こえてますよ。ほら、さくらさん。 空の銚子を名残惜しそうに見つめないで」

 腕を引っ張られ、否応なく外に連れ出された。 いつの間にか雨が上がっている。少しは暑さが洗われていた。

ほ のかに体に回り始めた酒は心地よい浮遊感を与える。総の足取りも手伝い、次第に舟の上にいるような感覚に陥った。体が軽い。

―― ああ、そうか。今日は振袖じゃないんだ。

久 々の心地よさに、総に手を引かれていることも忘れていた。


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