十二

 

 国軍統帥執務室には、ミルマとドゥイが揃って いた。珍しい組み合わせだ。揃いも揃って難しい顔をしている。

「フィアード宰領。遅いじゃないか」

ドゥ イが、冷ややかに言う。

「すまない。外に出ていたもので」

「どうせ女の所だろう。この非常時に、大した余 裕だね」

厭 味な奴だな、と心内でごちた。言い返すこともできないので、素直に聞き流す。

「で? 急なお召し、何事ですか」

「アジャルテが、オーレストへ進軍を始めた」

 ぶっきら棒にミルマが言った。アレクもさっと 気色ばむ。後を引き取ったのは、ドゥイだった。

「外官の報告では、南の要塞へ入るのは十日後だ ろうと」

「軍の規模は」

「先発が一千。後方に約一万」

「アジャルテにしては、編成が小規模だな」

「それで勝てるとでも思っているんだろう。馬鹿 にされたもんだよ」

苦 々しく言い捨てたのは、ミルマだ。

「ガヌーウ山脈の裾野には、四千騎を配置してい ます。先陣を押さえることはできましょうが、問題は後方一万です」

「先発に気を取られていると、その隙をつかれ る」

「なんとしても、南の要塞で喰い止めねば」

「クォーレン私官。喰い止めるだけでは、終結は 難しい」

「例の文書の件もある。それまで保てばいい」

 簡単に言ってくれる。不審は、一国だけではな かったはずだ。

「隣国のコモに、異変はあったのか」

「外官からの報せでは、コモはアジャルテが進軍 しているのを、傍観する策に出たようだ。コモの王なら、下手に手を出すよりも黙って行き過ぎてくれることを望むのは分かっていたがな。それから――コモの 塩の値が上がっているらしい」

告 げられた言葉が、妙に頭に響いた。アレクが眉根を寄せる。

「知っての通り、コモとは協定を結んでいる。年 に輸出する塩の量は予め決まっているし、今まで均衡がとれていたものが、コモ国内で値が上がっているということは、他国が塩を買い占めているということ」

「……アジャルテがこちらとの争いに備えて、塩 を買い占めていると?」

「それがアジャルテだけなのか、まだ調べている 最中だ。オーレストと戦争を起こせば、塩を止められるのは目に見えているから。よからぬことを考える国は、一国であって欲しいけど」

「南のカムッセィは? アジャルテと意を同じく してもおかしくない土地柄だろう」

「あちらは静観を決め込んでいるよ。心配ない」

ドゥ イの様子を訝しく思う。カムッセィ国に対して、あまりに無防備な発言だった。

し かし、彼の真意こそ、推しはかることは難しい。何かを企んでいたとしても、私官は手を明らかにはしない。国が一丸となるべき時に、孤独な男だ。

「王より、ミルマ統帥は全軍の指揮を一任され た。フィアード宰領は軍勢を整え、すぐにガヌーウ山脈へと赴き、敵の進軍を阻めと」

「宰領自ら先陣に入れとは、どんな戦法だ」

 私官の前で、ミルマは王の言を鼻で笑う。

「これは国王のお決めになったことです。誰にも 覆すことはできないのですよ。例え、ミルマ王子であっても」

 ドゥイが窘め、そうっとこちらを一瞥する。ア レクは素知らぬ顔を決め込んだ。

「とにかく、これは王の意。従って頂きます」

 表情を微かにも動かさず、鳩は部屋を出て行っ た。

 

 

 

 司令室で、ネイジェスが出軍の準備をしてお り、必要なものはあらかた揃っていた。椅子に畳まれた、真新しい軍服を取り上げる。ブーツもしっかりと編み上げ、サーベルを腰に佩く。襟を正していると、 ネイジェスがローブを持ってきた。軍服の正装である。

軍 色の紺地に、首元に銀糸で軍紋が施されている。羽のような軽やかさだ。ここまで整うと、女に現をぬかす男には到底見えない。

「やっぱり、宰領たる者、こうでなければ」

 輝く目を向ける文官などお構いなく、軍服の具 合を確かめた。

「地図と、火の用意も忘れるなよ」

「それは私が持って参ります」

 文官は、常に付く武官と共にある。国軍宰領付 を願い出た日から、覚悟はできていたのだろう。そうあることで、自分がアレクの傍に居る意味があると。当然、この出軍にも同行する気でいた。

と ころが、アレクは文官に非情な目を向けた。

「お前は残れ」

「そんな――どうしてですかっ。そりゃあ、戦力 にはなりませんが、文官としてアレク様のお傍にいたいのです。精一杯、頑張りますから」

「駄目だ」

 言下にない。涙目を堪え、ネイジェスも食って 掛かる。

「足手纏いになるのであれば、楯として持参する と思ってください。自分で歩ける楯です。値打ちものですよ」

「馬鹿を言え。――ネイジェス。俺はこの進軍、 裏があるようで気持ちが悪いんだ。……動きが派手過ぎる」

 幾ら軍勢に差があろうと、その力はガヌーウ山 脈で削がれる。少人数で密進したほうが賢い。まして、塩を買占めて相手に勘付かれるような真似をするとは。

「軍の指揮は、ミルマ様が執る。ミルマ様の補佐 を頼んだ」

「ですが――今、アレク様が仰ったこと、私官様 も分かっておられるのではないでしょうか。でしたら、ここに私の出る幕はありません」

「ドゥイは何を考えているか分からん。それとも うひとつ、お前に頼みたいこともある。カナシュの娼館に、月の輪というのがあるだろう。そこにいる者たちを守ってもらいたい。リアートという娼婦に取り次 いでもらえば分かる」

「私に、ですか。ご存じかと思いますが、私は剣 も何も、まったくの不得手で――」

「女だけよりはマシだ。それに、お前は鼻が利 く」

「その、守る相手というのは……」

ア レクがローブの襟を立て、そこにある印に触れた。国軍に仕える証に、心は反している。ぐっと、拳の中に握った。

「娼婦がひとり、文官がひとりと……ケイという 少年だ」

「少年?」

「鍵だ」

 ネイジェスの顔から血の気が引いた。体が震え 出す。咄嗟に、辺りを見回した。下衛の気配はなかった。

「……ネイジェス。お前がドゥイと通じているこ とは知っている」

 彼の目元が泳ぐ。喉を鳴らして唾を飲み込む。

「い……いつからですか」

「さあ、いつからかな。最初からだった気もす る。お前に、隠し事はできない」

「その私に、どうして鍵の在り処なんか」

「お前は、嘘が吐けないと言ったろう。だったら ここで、云と言うか、否と首を振るか。どちらにしても、俺には嘘が分かる」

「……でしたら、答えはひとつです。謹んで、ア レク様の意に従います」

「言っておくが、命をかける覚悟も必要だぞ」

「戦地に赴くのも、同等の覚悟が必要です」

「お前が尊敬する鳩まで、裏切ることになる」

「私官様は私に愛想を尽かしていらっしゃいま す。今更、勝手な動きをしたところで、気にも留めません」

「好都合か」

「はいっ」

 勢い、満面の笑みを見せた。憎めない文官であ る。宰領としては規格外のアレクと、釣り合いが取れているのかもしれない。

 装備を整え、部屋を出た。螺旋階段を下り、回 廊を行く。

中 庭に面した外回廊の先で、ミルマが佇んでいた。ローブはなく、白いシャツに女物のショールを羽織っている。

規 格外はミルマも同じ。この軍の上層部には、まともな軍人がいないと見える。

「風邪をひきますよ」

「そしたら、看病に呼び戻してやる」

「私は、ミルマ様のお世話係ではありません」

「国軍宰領らしい活躍を期待しているよ」

「采配を振るうのはミルマ様です。統帥というお 立場を忘れぬように。私の代わりに、ネイジェス文官を置いていきます」

「随分、緩い手綱だ」

 苦笑するアレクに、ミルマはゆっくりと手を伸 ばした。ローブの襟元を掴む。締め上げる強さではない。軽く、動きを封じられる。

「戦いに王がでしゃばるものじゃない。何がなん でも、軍の手で終わらせる。いいね」

「元よりそのつもりでございます」

「それと――あらゆる動きに注意することだ。目 先のことだけに囚われるなよ」

「……ミルマ様も、何かあるとお考えですか」

「アジャルテもそうだけど、俺が気に入らないの はあの私官さ。何をコソコソしているのか知らないが、危険は全部押し付やがって」

「戦地へ行くのは軍人として当然のことです。ミ ルマ様こそ、ここには思惑が知れない者が多い。お気をつけ下さい」

「優しいねえ」

 ポン、肩を叩いた。ショールが風に靡く。

 振り返らず、アレクは歩き出した。暫く戻って くることはないだろうこの廊下を、ゆるりと歩いた。

 

 

 

十三

 

 ネイジェスが、挙動不審ながら娼館を訪れる と、リアートは訳知り顔で彼を招き入れた。娼館に来たことがない文官は、おどおどするばかりである。

「そう怯えなくてもいいわ。別に、取って食いや しないから」

「お忙しい時間でしたでしょうか」

「いいえ。……南で始まった戦いのお陰で、商売 はあがったり。辞めちゃった子もいるわ」

 窓の外へ視線を向ける。静かな、夕暮れが迫っ ていた。

 南でオーレスト軍とアジャルテ軍の攻防が始 まって、二日が過ぎている。そこを突破されれば、応戦の地は王都だ。民は我先にとダインスタールを後にした。

「小鳥の声も、聞こえなくなったわね」

「異変を察知して、逃げたのでしょう。……リ アートさんは、逃げないんですか」

「どこへ?」

 その問いがさも可笑しいことのように、彼女は 肩を震わせた。

「ここが私の唯一の家で、ここで生きている自分 が一番好きですもの。逃げる必要なんてない」

 娼館の中には、店を閉めてしまった所もある。 客足が遠退けば致し方ないことだった。しかし、月の輪だけは灯りを点けない日はない。

 ネイジェスが、彼女の横顔を注視する。アレク よりも年上だという女からは、大人の色香が漂っている。艶かしいだけではなく、哀切さえ感じさせた。

「リアートさんは、アレク様と似ていらっしゃい ます。強くてお優しい。そして、どこか哀しげな所も」

「嬉しくないわ」

「アレク様も、きっとそう仰います」

「失礼な文官さんね」

 気持ちよく笑った。こういう笑顔を見るのは久 しぶりだ。城では、誰も声を上げて笑わない。アレクがここへ通う理由が分かる気がする。

「アレク様より、命を受けております。貴女方を 守るようにと」

「守る? 貴方が?」

 目を細めて、ネイジェスの頭から爪先までじっ くり観察する。値踏みをされているようだ。

「……強そうには見えないけど」

「文官ですから」

「ただの文官が、守れる?」

「私は、武術は苦手だし、馬も上手く乗れませ ん。でも、下衛の顔は分かります。それを買ってくれたのだと思います」

 こちらから連絡をする時も、あちらが何かをさ せる時も、繋ぎは下衛だった。すべてでないにしろ、顔は把握している。気配も察することができた。ここに下衛がいれば、すぐに分かる。

「苦手なものには、敏感に反応するんです」

 けらっと笑んだ時、

「――ネイジェス文官?」

 イリニエが、隣の部屋から姿を見せる。以前と 違う雰囲気に、ネイジェスは目を瞠った。

「姿を見ないと思ったら……娼婦に転向したと は」

「愉快な冗談ですが、笑えません」

「す、すみません」

 軽口が過ぎた。睨まれ、耳まで赤くする。

「……フィアード様は、行ってしまわれたのです か」

 思案顔で彼女は俯いた。どんな場所にいよう と、怜悧な表情は変わらない。彼女がいるだけで、ここが高尚な文室であるかのようだ。

 窓外に薄闇の手がかかる。橙色の空は、やがて 深い深い藍色に変化しつつあった。

「わたしたち、このままここにいて、いいので しょうか」

「いいも何も、アレク様はそれを望んでいるんで すよ」

 顔を上げて、イリニエがきっぱりと首を振っ た。

「もちろん分かっております。ですがわたくし、 とてもじっとしていることができないんです」

 ちらりとリアートを見る。彼女は、うっすら微 笑んで何も言わなかった。

共 に同じ想いだと、一緒にいるリアートにはすぐに分かった。

「でもっ、捕まってしまったら元の子もないと思 いませんか。どんなに強い想いがあったって、なんにもならない。言わば無駄死にです。そんな行為を、アレク様は喜びません」

「確かに。アレクは、誰かが自分の巻き添えにな るの、すごく嫌がるわ。まして女なら、手が付けられないくらいに落ち込むわね」

「だったら、わたしは……」

 イリニエが唇を噛んだ。

想 いだけが空回りしている。歯痒い思いが大きくなる。右手で自身の肩を抱いた。 

ラ イエメトで、アレクは自分の命を賭けた。女に対しては軟派な性格でも、信じる者にはどこまでも真摯な心で向き合ってくれる。己を信じる、確固たる強さを 持っている。城内で彼のような者を見たことがない。イリニエには、眩しいくらいの男であった。容易に近付くことはできなくても、心の内底でその強さに渇仰 していた。

「何も、できないなんて……」

呟 く声が微かに震える。

リ アートもネイジェスも、視線を逸らした。皆、想いは同じだった。

 重苦しい沈黙が降りる。こうしている間にも、 アジャルテ軍は南にヒタリと迫っている。

 と、イリニエの背後でドアが動いた。不揃いの 足音が遠慮がちに進み出る。ケイが顔を出したのだ。黄緑色のブラウスとネイビーのスカートという出で立ちで、すっかり街娘姿が板についている。

「アレクは?」

 幼い声で、そう問うた。

「――もしかして、その子が?」

「ダーダ・ヴェルニ。鍵よ」

「だって、足が――」

 声が上擦っている。

 ドゥイから聞いていた鍵は、足がない少年だっ たはずだ。

リ アートが、ふふっと笑う。

「義足なんですって。でも、やっぱり歩き難いみ たい」

「……そりゃあ、見付からないはずですよ」

 更に小奇麗な少女の格好をしていれば、“鍵” と結びつくことなど意識にない。

 あんぐり、口を開くネイジェスの顔が可笑しく て、ケイは満面の笑顔を見せた。

「……なんだか、普通の子供と同じですね」

「見た目はね。でも、この子、やっぱり違うと思 うわ」

 アレクの家で、あれほどに励んでいた花帽子作 りもしなくなった。自ら「何かをしたい」という感情が、ダーダ・ヴェルニにはないのだ。いつもアレクの行方を聞くものの、会いたいかと問えば小首を傾げ た。彼の中で、どんな感情が廻っているのかを判断するのは難しい。

 ケイが、イリニエの手を握り締めた。

「アレク、今日も来ない?」

「ええ。……早く帰ってくるといいわね」

「寂しい?」

 自問しているように聞こえた。

彼 は答えを言えない。だからイリニエは、彼の目を真っ向から見て頷いた。

「とても、寂しいわ」

「どうしたら早く帰ってくる?」

「そう、ね……」

 わずかに視線を外す。ここ数日、それを考えて いなかったわけではなかった。それが本当にアレクの想いに繋がるのか、不安が残っていた。

 だが、アレクが言うように、少年に未来を与え たいなら、そうする他ないように思う。

「光の波紋、なくしてしまいましょう」

 二人を振り返った。リアートが赤い唇を一撫で する。

「退屈で、気でも違えた?」

「いいえ。わたしは、光の力というのが単なる兵 器のように形あるものとは思いません。そういうものなら、長い歴史の中で形を保っていられるはずありませんし。贄が必要ということは、光自体、得体が知れ ないものということ」

そ うであれば、いつか本当に自国の脅威に成り得る。“鍵”を壊したとしても、懐に爆薬を潜ませているのと同じだ。

「得体が知れないのに、壊すっていうの?」

「壊すというより、無に帰す」

「できる?」

「学査ですもの。やってみせます」

 問題は、光の波紋がどこにあるかだ。衛兵は鍵 を探して血眼になっている。対ネイジェスでは、とても逃げ切れない。

「危険ですっ。戦いが終わるまで、じっとしてい てくださいっ」

 懇願するネイジェスを他所に、

「光の在り処が分かるの?」

 リアートが真剣な眼差しで聞く。それを真正面 に受けて、イリニエは頷いた。

「恐らく、という見当はついています。――以 前、フィアード様にはお話をしたことがあるのですが、光の波紋が発せられた記述の一部に、在り処を示す言葉が入っているんです」

 南高(なんこう)、空より光出づる。闇を貫き 不浄を薙ぎ、汚心なるものを滅ぼさん――。

 歴史の一説を口にする。

「これは、オーレスト国が今の領土を得る際の闘 いにおいて、光が発せられたという記述です。南の空から光が出現したという記載がありました。建国記の作者は不明ですが、城での闘いの様子がつぶさに分か ることから、記述者はダインスタールの城門内にいたと考えられます。つまり、そこから南のほうというと――」

 無言で窓を示す。南の要塞、ガヌーウ山脈の方 角だった。

「ちょっとちょっと、待って下さいっ。無茶です よっ」

 言うことが本当なら、これほど危険な場所はな い。イリニエはなんとかリアートの賛同を得ようと、ちらちらと視線を送った。

「……アタシも危険だと思うよ。あそこは今、戦 の真っ只中だし。……それにさ、もしも『光の波紋』とやらを見つけちゃったら、その子、力を使っちゃうんじゃないの」

 艶っぽい目線で返されて、リアートが頬を赤く する。

彼 女が言うことは最もだ。己の力を乞われている。それをケイは充分分かっていて、自ら城へ赴こうとした。その度、女たちが押し留めてきたのだ。彼にとって強 い願いは、聞き届けなければならないもの。“贄の一族”の、それが根底であった。

 イリニエは小さく嘆息した。その様子を見てい た少年が、ちょい、と彼女の袖を引く。

「僕、アレクが大好きなの」

 唐突に口をついた言葉に、三人、目を丸くし た。意味を図り損ねた者を諭す口調で、少年は続ける。

「アレクね、優しかったよ。傍にいてくれた時、 とっても優しい目をしてた。握ってくれた手も、温かかった。大きな背中も、すごくあったかい」

「アレクが、好き?」

「うん」

「会えないのは、否?」

「……」

 小さく、だが、確かに頷いた。

リ アートがその前に屈みこむ。綺麗に手入れされた指で、その髪を梳いた。ブルーグレーの瞳が揺れている。自分の中にある感情を、受け止めきれずにいる。心が 葛藤しているのを感じ、リアートは、そっと体を抱きしめた。

「だったら、力なんか使わないで。それは、貴方 の大好きなアレクが、望んでいることよ」

「……アレクの、お願い?」

「そう。貴方に生きてほしいんですって。だか ら、何がなんでも生きて帰ってくるの。そうでないと……彼、すごく悲しむわよ」

「泣く?」

「泣いちゃうわ。もう、号泣」

「なんか、可笑しい」

「可笑しくなんかない。彼は、そういう人なの。 優しい人なの」

 少しだけ、鼻の奥がツンとした。きつく瞼を閉 じる。体を離し、再び少年の目を見据えた。

「彼を悲しませることはしないで。これは、わた しからのお願い」

「――大好きなんだね」

 真っ直ぐに向けられた声。思わず微笑した。

「僕、帰って来るよ。アレクやお姉ちゃんたちが そう願ってくれているなら、絶対帰ってくるよ」

 満面の笑顔を見せる少年を、リアートはもう一 度抱きしめる。小さな鼓動が伝わってきた。生きている。アレクは、ただそれだけを望んでいる。

 ネイジェスが、深い深い、それは深い溜め息を ついた。上官には絶対に守れと言われている。宰領付になってから初めて頼りにされたことだった。ネイジェスにとって、彼の役に立てることが存在意義でもあ る。

 皆、同じなのだ。アレクが好きで、彼の役に立 ちたいと思う気持ちは。

「ああ、もう、分かりましたっ」

 ネイジェスが腹の底から叫んだ。不貞腐れたよ うに頬を膨らましている。

「私もご同行します。何かあっては、叱られます からっ」

「別に無理しなくたって――」

「いいえっ。絶対に一緒いたしますっ」

「……そう」

 リアートとイリニエが視線を交わした。どちら ともなく溜め息が漏れた。

 

 

 

十四

 

 ガヌーウ山脈の中腹。深い密林に遮られ、微々 たる光しか差さない場所に、オーレスト国軍は陣を張っていた。闇にも紛れる紺色のテントの中には、昼夜問わず、怪我をした者がひしめき合っている。

こ こに陣を張って、すでに半月近くが過ぎようとしていた。軍勢の違いに、よく守っているほうだと思う。

 山脈付近に、隙間なく兵を配備していた。頂を 越える辺りで相手の勢力が殺がれるとはいえ、不利なことに変わりはない。

「このままでは、我が軍の兵力は落ちる一方で す。これ以上持ち堪えるのは、困難かと」

中 央の一際大きな天幕を張った中で、数人の武官と文官が頭を寄せ合っていた。地図を置き、多くの印をつけている。難しい顔で唸っているのは、第二十師団長で ある。鼻の下の髭が滑稽だが、弓術の早撃ちで彼に敵う者は少ない。ミルマの采配で、新たに増軍された部隊だった。師団長付の文官たちも、思案顔で地図を見 下ろしている。

「やはり、相手の進軍を一箇所に限定するのがい いかと。国交路になっている、ナッギシード峡谷に誘い込むのはどうですか」

「いやいや、それよりこっちの断崖で一気に罠を 仕掛けたほうが早い」

「それでは、こちらも危険に晒される。ただでさ え、少ない人員だ。効果的な方法はないものか」

「皆さん、少し頭を冷やして下さい」

 第十七師団長付文官が冷ややかに言う。

「そも、我々はアジャルテの侵攻を遅らせるのが 役目。壊滅させることではないはずです」

「というか、無理な話だ。こんなに軍勢に差が あっては、勝てるわけがない」

「やはり、攻めては引きの戦法で時を稼ぐし か……」

 輪から離れた所で、アレクはひとり、佇んでい た。剣を支えに肘を付くという不謹慎な格好ながら、じっと耳を傾けている。

議 論は先ほどから、堂々巡りを繰り返していた。アレクの口から漏れた、小さな欠伸は数え切れない。

天 幕の外を見やった。深緑の中、ダインスタールの方向へと頭を廻らす。

 ミルマはこちらの状況を的確に把握していた。 戦況を逐一報告しているとはいえ、援軍の采配は素早い。それも、クリスタの守りを堅くしながらの配置である。クリスタの拠点はフィアードの屋敷になってい るのだろう。右往左往するネイジェスの姿が思い浮かぶ。

「宰領、何を不気味な笑みを見せておるのです。 こちらに来て、参加しなさい」

 年配の師団長たちに睨まれ、アレクは仕方なし に輪の中へ入った。

「貴方が軍の指揮を執っているも同じなのです よ。ちっとは自覚してもらわないと」

「そうです、そうです。そんなやる気のない態度 では、下の者が付いてきません」

 ここ何日かで、小言も言われ慣れてしまった。 ヨーダの苦言を毎日聞かされたお陰かもしれない。そこは感謝の念を抱き、視線を地図上に落とした。

 アジャルテ軍の侵攻は、思っていたよりも遅 い。山頂の気候がこちらに味方をしてくれているらしい。オーレスト軍は、あちらが疲れ果てて下山してくるのを待ち構えていればよかった。それでも、軍の規 模が違えば、こちらの手傷も増える。戦いが長引けば、後退は免れない。

侵 攻を食い止めるつもりで士官を配備してきたアレクだが、文官たちに言わせればそれはあまりに無謀だという。

「今は地の利がありますが、数で攻められたら勝 ち目はありません。これでは、士官たちの体力ももちません」

「後方一万が厄介なのです」

「山頂付近から徐々に迫っています。数で分散さ れればこちらが不利。やはり、路を絞ってしまうのが肝心だと思います」

 文官がアレクを一瞥した。あとは、宰領の返事 ひとつだと言いたげである。

当 のアレクは、顎に手をやり、片目を細めた。

「アジャルテ軍の動き……おかしいと思わない か」

 呟いた声に、武官も文官も一斉に顔を上げる。

指 が、滑らかに地図を這った。

「一万弱の軍勢に、こちらは四千で挑んでいる。 奴らが本気で攻め入ろうとすれば、幾ら地の利があるといっても、ここまで押さえられるものじゃない」

 互いの負傷者が同等だとしても、まだ相手方に 余力がある。このままの攻防が続けば、攻めず引かずの長期戦になるとも限らない。

「それならば、こちらの軍ももっと増兵して、 片っ端から潰していくことです。それには先ほど言いました、路を限定させる法をとるのが最もよいかと」

「どうやって? 路一本だけ手薄にして、他を今 よりも厳戒にしろと? 兵を増やして局地的な厳戒態勢を布いたところで、他の隙をつかれて王都への侵入を許すことになる。それに、これ以上ダインスタール とクリスタの兵を寄越してもらうことはできないと思ったほうがいい」

「でしたら、宰領はどうお考えなのですか」

「動きは派手なのに、気概を感じない。――まる で、陽動されているようじゃないか」

 その場にいる誰もが息を止めた。その可能性を 考えなかったのは、“南の要塞”の力を過信していたからだ。何より、相手方は豊かな国土を求めて、切羽詰っているはず。

だ が、囮である危険性を考えると――。

「宰領っ」

 軍部会議の不気味な静寂を破ったのは、若い中 尉だった。背中に弓を抱いている。アレクの前へ出、素早く略礼をした。

「北の空に、異変でございますっ」

「何!」

 叫んだのは師団長の誰かだったと思う。アレク はそれを確認する前に、走り出していた。

古 く丈夫な木を利用し、てっぺんに見張り台を設けている。細い梯子を器用に上った。枝と枝の間に板を組んだだけの簡素な造りながら、生茂る葉のお陰で周囲か らは目につかない。

 枝葉の間を掻き分けて、北の方角を睨んだ。山 裾野から平地を滑るように、白く煙っているのは霧だ。一見して、いつもの光景が広がっている。

「あれは――」

 絶句した。

北 の遥か彼方。霧の中から立ち上る、二筋の煙。

 ――やられたっ。

奥 歯を強く噛み締める。枝に拳を叩き付けた。ざわっと、葉が揺れる。下の士官たちが騒ぎ始めた。

「宰領っ、宰領っ。城からの伝令ですっ」

 見張り台の上まで駆け上がった士官から、無言 で文を奪う。表の筆跡はドゥイのもの。蝋印を破り、一瞥した。眉間に険しさが増す。士官が固唾を呑んで立ち尽くした。

「――すぐに、二千の騎兵をティエスタ海へ向か わせろっ」

「無茶ですっ。ただでさえ、アジャルテを押さえ るのでいっぱいなんです」

「こっちは囮だっ。本命は、北のアベル国」

 ティエスタ海を隔てた、大国である。

ドゥ イの書簡は、アベルがアジャルテと組み、警護が手薄になった隙をついて、クリスタへの侵攻を目論んでいるという内容だった。アベルの軍船は、すでに沖合い に着けているという。クリスタを押さえられてしまったら、戦いの意味がない。負けたも同じだ。

「何があっても、絶対にアベルをオーレストへ入 れるなっ」

「はっ」

 敬礼をし、士官が高見を下りていった。アレク はもう一度、北の空を睨み据える。二筋ののろしはオーレスト軍の合図ではない。南の方角を振り見る。そこに、つい先ほどまではなかった、一筋の煙柱が見え た。

 梯子を下りるのも、もどかしい。手摺を一気に 滑り下りた。そこに集まった師団長たちに、宰領の凛とした声を張り上げる。

「アジャルテとアベルが組んでいた。今、ティエ スタ海の後方に、アベルの軍船が停泊している。クリスタを攻略して、さっさとダインスタールを落としにかかる算段だろう。元々、クリスタを狙っていたのは アジャルテだ。アベルがそれに便乗した形で、手を組んだのだ」

「アベル国がクリスタを落とし、アジャルテ国が ダインスタールを目指す、ってことですか」

「ああ。侵攻が遅かったのは、アベルの軍船を 待っていたからだ。アベルが来たとなると、必然、今度は南が手薄になる。そこを狙って一気に軍を進め、ダインスタールを落とす気だ」

「奴ら、来ますか」

「来る。のろしが合図だ」

 鬱蒼とした枝葉は、姿を隠すには持って来いで ある。しかし、それは同時に、相手にとって都合が悪いものも同じように隠してしまった。地の利に甘えていた者たちが、悔しさで唇を噛んだ。

「山頂付近まで兵を進める。侵攻軍を叩き潰せ」

「それでは、我が軍も体力を奪われますっ。私官 様が言っていたではありませんか。その時が来るまで待てと――」

 必死に食い下がる文官の胸倉を、無言で掴み上 げた。文官が爪先立ちになる。

「待つ? お前はいつまで待つというのだ」

 冷ややかな声音。見据える眼に、反論を許さぬ 気配があった。

「いつ使えるかもしれないものを頼って、アジャ ルテ軍を黙って散らしていろというのか。それこそお笑い草だ。こうしている間にも、アベルは着々と侵略を始めるだろうよ。クリスタが占拠されれば、我らが 戦う意味がなくなる。加えて、アジャルテの軍にダインスタールまで侵攻されたら、もう完全なる敗北だ」

「で……ですがっ、それは王の御意思……我らは それに従うだけ――」

「国軍の主約は国を守ることにある。我々が守る のはこの国と民だ。違うか」

 否と首を振る者はいなかった。文官の首から手 を放す。開放された文官が咳き込み、その場に蹲った。

「ここにいるそれぞれが、大切な者を残してきた はずだ。守るものを間違えるな」

 脳裏にヨーダの顔が浮かぶ。ネイジェスもイリ ニエも、ケイも。

リ アートの困ったような微笑。「仕方がないわね」と背を押してくれる手。どれも失いたくない。

「全軍、山頂付近まで侵攻する。アジャルテ軍の 誰一人、山を下りさせるな」

 静かな声音で告げる。

師 団長及び、そこにいた士官たちが膝まづいた。

 

 

 

 人通りも絶えたカナシュの道を、ひとりの青年 が歩いていた。外套に手をいれ、歩む足取りに迷いはない。陽もなく、空には赤い月が浮いている。それだけの灯りでも、道ははっきりと見えた。両側に並ぶ店 は静まり返っている。窓は闇で覆われ、扉には外から板が貼り付けられていた。

 足を止める。振り仰ぐ先に「月の輪」の看板が 見えた。

扉 を押す。灯りが点されているものの、人の声はしなかった。無言で階段を進む。薔薇の細工が美しい扉を目の前に、ゆっくりとノックをする。

 扉が開かれた。

「どうぞ」

 リアートが、少し笑った。

「珍しい。私官様が女を買いにきたの?」

 言われたドゥイは、外套に手を入れた格好のま ま、唇を歪める。

「少し、やつれたんじゃないのかい。ちゃんと食 べているんだろうね」

「心配してくれてありがとう。大丈夫よ。この街 も無人になったわけじゃないし」

「主は?」

「お店の子たちを連れて、避難したわ。戻ってく るまで、私がここを守る」

「いち娼婦に、店を預けて行ったのか」

「私がここに残りたいって言ったの。待っていな きゃいけない人がいるから。帰って来た時に誰もいないと、あの人、落ち込むでしょう?」

「確かに。彼にとって、今の状況は気が狂いそう だろう。周りに男しかいないんだから」

「それで? 私官様は、何をしにいらしたの」

 ドゥイの目がすっと細くなった。

「誰かを、匿ってやしないかと思ってね」

相 手の心内までを見透かす眼に、リアートは正対している。静かに息を吐いた。

「さあ。ここには私ひとりよ」

「どこにいるのかも?」

「ここにいなきゃ、私は知らない」

「君の、国を想う心に期待するのは、無駄だろう か」

「私は国より人を愛しているの。無駄は嫌いで しょう?」

「ああ。――では、手っ取り早くいこうか」

 外套から右手を引き抜いた。ランプの下で剣先 が閃く。中剣の先を、リアートの喉元へ突きつける。

「言わなければ、命は保証しない」

 彼女は、ドゥイから視線を外さなかった。悠然 と笑んでみせる。

「私を殺せば、それこそ何も分からなくなるん じゃない? そんなことをするほど、馬鹿じゃないでしょう」

「馬鹿とは言ってくれる。これでも、少しは敬わ れているんだが」

「私はお城の女官じゃないの。こんなことされ て、貴方を敬うとでも?」

「……どうしても、言ってはくれないのか」

「知らないものを、どう答えるのよ」

 喉に、ひんやりと冷気が触れた。切っ先に力が こもる。リアートの頭がわずかに仰け反った。

「加減が分からないんだ。女に手荒な真似をする のは、嫌いなんだけどね」

「そう? 慣れているように見えるわよ」

「こういうことは、他にやってくれる者たちがい る」

「下衛ね。今も、無遠慮にお店の屋根裏でも歩き 回っているのかしら?」

「君が、嘘を言っているとも限らない」

「失礼な人。女に嫌われるわよ」

「君には、もう嫌われている」

「そんなの、ずぅっと前からだけど」

 ドゥイの手が動いた。同時に、剣が離れる。

 リアートは顎を引いて、相手を見据えた。

「……貴方に剣なんて、似合わないわ」

「仕方がない。こちらも必死だ」

 ここへ来て、初めて眉間に皺を寄せる。表情を 見れば、戦況が芳しくないことが察せられた。疲労の色が濃い。元から色白ではあったが、どこか蒼い顔色をしている。

「少し、休んでいったら」

 彼の頬に触れた。ひんやり、冷たい。

 誘惑に似たその誘いに、しかし、ドゥイは首を 振った。女の手もやんわり撥ね退ける。

「君が何を知っていようと、あれがここにないの であれば用はない。失礼する。――リアート」

 踵を返しかけ、再び振り向いた。

「こうなってはもう、鍵は間に合わない。それよ りも、敵の手に渡ることのほうが重大なのだ。――もしも、君が居場所を知っているなら、動かず、じっと隠れていろと伝えてくれ。事は私が何とかする」

「ひとりで?」

「それが私官というものだ」

 ふっと苦笑した。

私 官になる前、アレクと共にいた頃の文官の顔だ。

リ アートが唯一好きな、彼の表情だった。

 

 

 

 アジャルテ軍の侵攻を阻止せんと、オーレスト 軍は必死の攻防を続けた。既に軍勢は三分の二にまで減っている。各師団長までもが、前線に出ていた。

 “南の要塞”といわれるだけあって、ガヌーウ の山頂は、人が住める場所ではなかった。中腹を過ぎたあたりから木々が減り、代わりに冷気が周囲を包み込んだ。更に上へ上へと進軍すると、今度は霧で視界 がなくなった。道は岩場になり、道と呼べるものがなくなり、ついには岸壁を登っていかなくてはならない。そうして、肌を刺す空気が一層濃くなった所が、頂 だった。

指 も顔も、空気に晒せば一瞬で凍ってしまう気温である。マントの下に外套を着込んでいるものの、歯の根が合わない。火を熾して相手に居場所を知られては意味 がないと、焚き火をすることさえしなかった。

 今、深い霧の中、山頂からこちらへ黒い波が押 し寄せようとしていた。それは静かに、だが存外しっかりとした足取りで向かっている。フードの色はシルバー。アジャルテ軍一万の兵士が、オーレストへと足 を踏み入れた瞬間だった。

「思ったより、しっかり歩いているな」

 剣の柄を右手に括りつけながら、アレクがぼや く。隣で、師団長元帥が不適に笑っていた。

「ここが最後の砦です。お覚悟は、よろしいか」

「何を今更。国軍宰領となった時から、覚悟はで きている」

「前宰領も、そんなことを仰っていました」

「私は父とは違う。――が、尊敬はしている」

「会ったら、お伝えしておきます」

「……絶対に言うな」

 最後に歯でしっかりと結び目を作った。剣を肩 に乗せる。左手で国軍の印に触れた。

「月闇の群れ宰領、アレク・フィアードの名にか けて。――出軍っ」

 国軍から雄叫びが上がる。紺のマントが、一斉 に走り出した。

 

 

 

 突然の奇襲に、アジャルテ軍兵士が一瞬たじろ いだ。しかし、足場が悪い。斬り込もうとしても、容易に剣を振りかぶることができない。その隙が、相手に応戦の準備をさせた。剣を交える音、悲鳴が上が る。それが味方のものなのか、誰も判断がつかなかった。眼前の相手だけを見据えて、剣を振るった。

「おおおっ」

 周囲に目をやっていたアレクの前に、シルバー の外套が迫る。若い。まだ入隊したばかりであろう。向かっている相手が、一軍の宰領とは夢にも思うまい。頭上に剣を振りかぶった。大きく踏み出す。その足 元が岩肌で滑る。多々良を踏んだ兵士を、身を引いて躱した。

「このやろ――っ」

 体勢を立て直しざま、剣を右に薙ぐ。迫る剣風 を、アレクの剣が弾き飛ばした。火花が散る。刃先を滑る感覚。手に、腕に、微かな振動が伝わる。次の剣戟。下から振り上がる殺気に、一歩後退する。ブーツ が小石に滑った。わずかに気を逸らした隙を、相手は見逃さなかった。

 喉元に迫る切っ先。

ア レクは、息を止めた。手首を返す。剣を振り上げた。

 胴に剣が入った瞬間、濃い血の臭いが鼻をつ く。冷たい風の中で、温かいものが頬に飛んだ。途端に熱を奪われる。倒れた兵士の姿も、霧に隠れて見えなくなった。

 ひとりを薙ぐと、すぐに別の兵士が襲いかかっ てきた。相手の剣先が来る前に踏み込んで、その腕を斬り去る。

左。 肩を下へ裂いた。右で構えていた男が後退りをする。石に躓いて尻餅をついた。

一 瞥し、駆け出した。

 紺色のマントが、アジャルテ軍に飲み込まれて いる。そんな光景を見ているようだった。多勢に無勢とはこのことか、と頭の隅で思う。味方と競り合っている、アジャルテ兵の背を斬る。アレクは奥へと―― 敵の中心へと歩を進めた。

 左右前後、その隙からも、殺気は怒涛のように 降りかかってきた。手にした剣は、いくつか刃こぼれしている。斬れ味が悪くなった。代えの剣は用意していない。これだけでどこまでやれるか、だ。

 岩山の上で弓が鳴った。剣を払う。近くに矢が 落ちた。

 左手をマントの中に滑らせ、素早く抜き放つ。 矢を番えていた男の喉に、ナイフが突き刺さった。

 斬っては走り、止まっては、来る相手を片っ端 から斬った。顔を見ている余裕はない。どの眼も血走っていて、区別もなかった。手は痺れている。呼吸も荒い。全身、今にも倒れそうなくらいだ。動きを止め れば、そのまま膝をついてしまう。歯を食いしばった。

 冷たい空気の中で、不思議と身体の奥底だけが 熱くなる。額に汗が流れる。マントの裾が裂かれ外套が露わになっているが、寒さは感じない。剣戟の風圧だけが、鋭く頬を掠める。相手を飛ばしてから気が付 いた。頬を血が伝っている。拳で触ると、赤い色が甲を染めた。

 辺りを見回す。中へと走ったつもりが、だいぶ 敵陣から離れていた。怒号が遠くに聞こえる。

 周囲に殺気を感じず、戻ろうとした矢先、背後 で微かな物音が聞こえた。

 さっと振り返る。剣を構え直した。ジリジリ、 間合いを詰める。

「誰だ」

 問う。

霧 靄の中で、岩の間からひょっこりと顔が出た。

 初め、斬り飛ばした首が転がってきたのかと 思った。それほどに、彼がここにいることに現実味がなかった。

「――ネイジェス」

 呼ばれたほうは、呑気に頭を掻いている。

「お前――ミルマ様はどうしたッ」

「そのぅ。これには深い事情がありまして」

 緊迫した場には不似合いな男だ。緊張感がさっ ぱり欠けている。

「馬鹿野郎っ。ミルマ様のお傍にいろと、言った はずだぞ。上役の命令が聞けないのか」

「私は、アレク様の命を聞いて、今この場にいる のですよ」

 ネイジェスが隣を指し示した。覗き込み、―― 開いた口が塞がらなかった。

「……文官っていうのは、馬鹿ばかりなのか」

 イリニエは何か言う前に口を噤み、下を向いて しまった。彼女の腕に抱かれて、ケイがニコニコ笑っている。手を伸ばして、アレクの頬に触れた。

「アレク。血が出てるよ」

「……ケイ。力を、使いに来たのか」

 アジャルテとアベルが手を組んだ今となって は、“光の波紋”の力が切実に必要だ。それを作用させる“鍵”が出向いてきた。ネイジェスとイリニエの他に、余人はない。誰に見付かったわけでもなく、彼 自身の意思でここへ来た。そうであるなら、もはやアレクに何を言うこともできない。

 血糊が着いた剣を背の後ろへやった。また、気 を失われたら堪らない。辺りへ注意を払いつつ、三人を戦闘の場から引き離す。大きな岩の陰へ回ると、喧騒が薄れた。

「お前たち、いつからガヌーウへ?」

「山に入ったのは五日ほど前です。それからはひ たすら、ケイ君の言うがままに歩き回っています」

「よく無事だったな」

「この子は危機回避ができるみたいで。そっちは 誰かがいるとか、こっちの岩場は崩れやすいとか。意外とスムーズに、ここまで来れました」

「……お前の顔を見れば、よく分かる」

 ――俺の、この虚脱感など、こいつに分かるも のかっ。

深 い溜め息と共に、虚脱感を吐き出す。気を取り直して、イリニエに向かった。

「ケイの我が儘に付き合ってくれたのか。礼を言 うよ」

「いいえ、逆です。この子が、わたしの我が儘に 付き合ってくれたんです」

 イリニエは、しだいを話した。アレクの表情が 徐々に曇り始める。

 ケイと、リアートの想い。

 心内の熱かった部分に、ひやりと冷水を浴びせ られた気分だ。寒さに身震いする。

 隣で大人しく見上げる少年の頭を、撫でた。

「足は? 痛むだろう」

「ヌクテのおじいちゃんに、お薬を貰ったから大 丈夫だよ」

「そうか。――それで、光は?」

 問われたネイジェスが、渋い顔で頭を振る。

「それらしいものは全く。こちらの方角も、合っ ているものか」

「駄目だ。この向こうはアジャルテ軍しかいな い。アベルの力を借りて、一気に攻め入ろうと躍起になっている。見付かれば命はない」

「でも――」

「しっ」

 言葉を塞いだ。微かに聞こえていた怒声の中 に、違和感が混じる。明らかに足音が多くなっていた。

「アジャルテの増兵か」

 岩から身を乗り出して、そちらを注視する。

 否、それにしてはアジャルテ兵の動きがおかし い。あっちへこっちへ、まるで統率されていない。何かに追われて逃げているように見える。

 ――なんだ? 

乳 白色を透かし、紺色のマントが見えた。オーレスト軍の印、軍旗が掲げられている。シルバーがアジャルテ軍。

そ の入り乱れる中に、今まで見なかった軍旗があった。

「――コモ国の軍旗ですよっ」

 唯一の国交国、コモがアジャルテ軍に襲い掛 かっている。しかし、隊編成はせいぜいオーレストと同等。オーレストとコモなら、これほどまでアジャルテが規律を乱すことはない。

軍 旗はもうひとつ、あったのだ。

「カムッセィ国――」

 アジャルテの南隣に位置する国。それが、ア ジャルテの背後から奇襲をかけていた。カムッセィの規模は、アレクにも計り知れない。兵のほとんどが、カムッセィの兵に見えた。

「何が起きたのですか」

 恐る恐る顔を出して、イリニエがアレクを見上 げた。状況は説明に易いが、何がどうしてこうなったのか、アレク自身が説明してほしい気分だ。

 と、一気に終息へと向かった地を駆け抜けて、 文官がひとり、転がるように走り来た。宰領を見つけほっと胸を撫で下ろす。

「宰領っ、火急の伝書でございますっ」

 差し出す封書を受け取った。紫の蝋印。右手に 括りつけた剣を外すのももどかしく、ネイジェスに封を開けさせる。取り出した文を読み――、

「――ドゥイにやられたっ」

 思わず舌打ちした。

 封書の内容は、カムッセィ国と国約を結んだと いうものだ。

カ ムッセィにも塩を卸し、加えて、カムッセィの黒炭をコモルートでオーレストへ卸す確約をしたものだった。コモは塩の専売を失ったが、黒炭輸出の対価は年を 通じて安定している。一も二もなく賛同したろう。

 ドゥイは、ずっと手を回していた。相手が動き を明らかにした時、出来得る限りのことが成せるように。

 文の最後の一文を見、アレクが苦笑する。

 派手に剣を振り回すだけが闘いではない。陽動 はお互い様だ、と。

 皮肉な口ぶりが目に見えた。

 アレクは天を仰ぐ。そのまま、瞼を閉じてしま いたかった。

 

 

 

十五

 

 カムッセィ国が加戦したことで、アベル国は勝 てぬと判断したらしい。すぐに軍船を引いた。見捨てられたアジャルテは、なんとか踏ん張りを見せていたが、数の前では無力だ。

 戦いは粛々と終わりを告げた。

 ダインスタールに帰還して三日経ち、アレクは カナシュを訪れた。ひと気が戻らない街は閑散としていたが、扉に打ち付けた板を外す音が聞こえてくる。活気が戻るのも、もうすぐだ。

月 の輪の主も娼婦たちを連れて早々に帰館し、商売を再開していた。アレクを迎え入れる笑みは、戦いの前となんら変わらない。

 リアートは、部屋の窓辺で夜気に髪を揺らして いる。扉を閉めても振り返ろうともしない。無言で、背を向け続ける。

「リア」

 何か怒らせることをしただろうか。すぐに会い に来なかったのを、怒っているのかもしれない。

「リアート、何を怒っているんだ」

 ふぅと息をついて聞いてみた。女は何を考えて いるか、分からない。常々難しい生き物だと、頭を悩ませている。考えても男の自分に分かるわけもなく、だからアレクは聴くことを大事にしていた。謝って済 むなら安いものである。

「――怒ってなんか、ないわ」

 ひっそりと彼女が言った。

「ただ、外を見ていただけ」

「外?」

 見えるのは、月明りに浮かぶ町並みだけだ。

「貴方には見慣れた景色でしょうけどね。……一 時、視界一面から、灯りが消えたの」

 皆、逃げてしまった。黒の世界に、たったひと り取り残された気分だった。いつ、誰が押し入っても不思議ではない場所で、彼女は踏み止まっていた。それが、彼女の戦いだった。

「私官様、やってくれたそうね」

「こっちが赤っ恥をかいた」

「でも、それが一番早く終わらせる方法だった。 違う?」

「そうだな。ドゥイがしたことは正しい」

「手柄は私官ひとりのもの。悔しくないの?」

「まさか。……あのまま、アジャルテとやりあっ ていたら、どれだけの兵を失っていたか。あいつには、感謝しているくらいだ」

「ケイのことは?」

 一瞬、言葉を切る。鼻で笑った。

「あいつ、医官になるんだと言いやがった」

「まあ、お医者様。あの子なら優しい医官になる でしょうね」

「ヌクテについて勉強するのが、心配だがな」

「ああ見えて、腕は一流なんでしょ。大丈夫よ。 貴方がついていれば」

 リアートがやっと振り向いた。窓枠に背を預 け、腕を組む。

「光の力、そのままにしてきたって、本当?」

 問いに、苦笑で答えた。

「どうして? 加勢があったのなら、力に近付く こともできたはずよ」

「近付けば、ケイに負担をかけてしまいそうで」

「嘘ね。目を逸らしているもの」

 本当は、“光の波紋”自体を無くしてしまうこ とが、国にとって最善か分からなかったからだ。

今 回の戦のように、またいつ国が危険に晒されるとも知れない。軍や外交の力でもどうしようもなくなった時、最後の手段として、光の力が国を守ることもあるか もしれない。その可能性がゼロでない限り、“光の波紋”を滅ぼすことを容易に決断できなかった。

 ただ――ケイのことがある。

 力がどうしても必要となった時、ケイに鍵とし て「死ね」というのでは、なんの解決にもならない。

 KEY(ケ イ)を使わずに、光を発動させる法があればいいのだ。イリニエは、その方法を探る役目をかって出てくれた。

 例え光の力があろうと、それに心を奪われない 生き方を、ケイにはしてほしい。ダーダ・ヴェルニだということも、ケイという普通の少年であることも、どちらも彼であることに変わりないのだから。

 言うと、リアートが鮮やかに笑った。

「小難しく考えるようになったのね。文官に転身 するつもり?」

「文官が皆、頭でっかちだと思っていたら、大間 違いだ」

「だから言ったでしょ。イリニエも女だって」

「思い知らされたよ」

「情熱的で、芯があって。フィアード家の奥様に は、ぴったりじゃないの」

「ああ。そのうち、お誘いする気でいる」

 漏れなく、大量の古文書が付いてくるのが、痛 いところではある。

「……ケイを、隠し続けるつもり?」

「ああ」

「私官だって、貴方が関わっていると気付いて る。今度は、簡単にはいかないわ」

「今更、捨てるわけにもいかない。『拾ったもの には責任を持て』。昔よく言われてね」

「犬や猫じゃあないのよ」

 リアートの髪を指に絡み付けた。頬に触れる。 滑らかな肌。吸い寄せられるように、体を近付けた。

唇 が触れる一瞬、

「おかえりなさい。アレク」

「――ただいま」

 月の周りに、薄い光臨が滲んでいる。月闇は蒼 く、街を照らしていた。


≪了≫