Christmas Carol 

深 町 蒼

 

 

 

 

 

 薄暗い階段を上がる。換気もしていないよう な、埃っぽい空気が喉に絡み付いてきた。小さく咳き込む。そろそろ掃除でもしたほうがいいだろうなと他人事のように思いつつ、佐野翠は淡々と足を運んでい た。

 クラブ棟の四階で一息つく。右手の廊下を行く と、突き当たりに彼女の目指す部屋はあった。ドアに掛かるプレートにはクラブの名が書かれている。「羽の倶楽部」という、紳士クラブを思わせるような怪し げな名である。だが、怪しげなのは名だけではない。その活動内容もクラブ員以外、生徒も、教師すら知ることがなかった。そもそも、羽の倶楽部に顧問はおら ず、たった三人の生徒がこのクラブを動かしている。

余 人が滅多に触れることがないそのドアの前に立ち、翠は小さな笑みを作った。何の躊躇もなく勢いよく扉を開ける。 

「メリークリスマス」

 翠の満面の笑顔を見、奥の席で本を繰っていた 有千(ゆうぜん)翼がにこやかに応じた。

「今日はイヴだけどね」

「いいじゃないですか。街中、気分はすっかりク リスマスなんですから」

「……早くドア閉めろよ。寒い」

 ソファに寝そべって無愛想に言うのは、部長の 要 翔である。いつもの定位置で悠々と――と、思いきや、分厚い毛布をぐるぐる巻いて達磨のように丸くなっていた。

「翔先輩、寒がりですねえ」

「うるさい」

 そっぽを向いてしまった。翠と翼が顔を見合わ せてクスクス笑う。

「翠君、コーヒー淹れてくれますか。ついでに翔 の分も淹れてもらえると、ありがたいんですが」

「……ついでって何だよ」

「まあまあ。今、用意しますから、喧嘩しないで 下さい」

 翠が笑って、三人分のカップを用意した。

 二人の些細なじゃれ合いはいつもの光景だ。一 年の翠が入部するまで、このクラブには翔と翼しかいなかった。本当に仲が悪ければ、羽の倶楽部など存在していない。

―― 喧嘩する程、仲がいい、ってね。

 翠にはこのじゃれ合いが、可笑しくてしょうが なかった。

濃 いコーヒーを注いで二人へ持って行く。翔は、何やら悔しそうな顔を翼に向けたまま、無言でカップを受け取った。部長も、参謀には弱い。その参謀はといえ ば、己に向けられた視線などまったく無視して、翠に微笑みかけた。

「ありがとう。やはり、翠君が淹れてくれたコー ヒーは美味しいですねえ」

「ありがとうございます。翔先輩もこれくらいお 世辞が言えないと、女の子にもてませんよ」

「翔は笑顔だって見せないから。知っています か。翔に近付いたら殺されるっていう噂が、学園中を回っているんですって」

「あ、それ知ってますよ。私の教室にも回ってき てました」

「……お前ら、俺に喧嘩売ってんのか」

 翔が目元きつく睨んでくるが、その格好が達磨 なものだから、滑稽なことこの上ない。

「喧嘩なんて、翔に売る訳ないでしょう。そんな 無意味なことして何になるんです」

そ れを楽しむのが翼である。人当たりのいい笑みでさらりと言う彼の本性が、言葉とは別なところにあることくらい、翠も翔もお見通しだった。

「勝手にしろよ……」

 憮然と溜め息をつき、翔はコーヒーに口をつけ た。その鼻先に、

「あ、そういえば」

 翠が一通の封書を差し出す。

「ラヴレターです」

 平然と、なんの想いもなく言うが、このクラブ 内でラヴレターは他とまったく違う意味を持っていた。

 挑戦状。

 勇猛果敢(無謀ともいう)な学園関係者がクラ ブに宛てた怪文書である。内容は様々だが、だいたいが中傷文だ。規律がなく、校則すら「自由」の一言で終わらせるような学園において、こういった怪文書は 日常茶飯事だった。顧問もいない羽の倶楽部は、その標的になりやすいのである。

 だが、御愁傷様。書いた本人は素性がバレない と思っているだろうが、その考えからして大間違いだった。

 教師や生徒会以上に、学園内部に精通してい る。あらゆる情報から、必ず怪文書を書いた本人を突き止める。学園一の天才と名高い翼にかかれば、訳もなくできてしまう。天才もここまでいくと、犯罪者め いて見えるものである。

 封書を手にした翔はと言うと、

「……今度はどんな脅しだ。前は確か、クラブ棟 を爆発してやるとか、ふざけたこと書いた奴がいたな」

「そういえば、夜道に気を付けろって不気味な脅 しだけしてきたのもいましたけど、書いた張本人が夜道で坂から転げ落ちたそうですよ。他人を呪ったら、自分にも同じ報いがあるって、どうして分からないん でしょうね」

「それって、翼先輩が手を回した――とか、言い ませんよね?」

「僕がそんな幼稚なことをするとでも? ねえ、 翔?」

「どうでもいいが、自分に報いが返ってくるよう な真似はするなよ」

 飽き飽きした態で封を開ける。摘み出したの は、何の変哲もない白い便箋だった。さっと目を走らせる。

「羽の倶楽部ご一同様。本日、十二月二十四日午 後十一時、高等部本学棟屋上に来られたし。正々堂々の勝負を願う――だと」

 翼が、翔の手から便箋を受け取った。一瞥し、 眉を上げる。

「封筒も便箋も、学園内の購買で売られているも のですね。使っている人は五万といる。文字は……印刷から見て、情報演習室のパソコンを使って作られたものに間違いないです」

「だったらデータが残っているかもしれません よ。調べてみましょう」

 嬉々として言った翠に、翼が首を振る。

「それが駄目なんだ。クラブのパソコン、うっか りウィルスにやられたみたいで。一昨日から修理に出してるから」

「そういえばパソコンがありませんね」

 翼専用の大きな机の上には常時、三台のパソコ ンが置かれているが、今は綺麗になくなっていた。

「ちょっとは、この部屋にあるものを把握してほ しいんですけど」

 と、翼は微苦笑を漏らす。もともと、機械音痴 な翔と、使いこなせない翠に、パソコンは専門外なのだ。

「じゃあ、なんの手掛かりも得られないってこと ですか……」

「そういうことですね。しかし、ここまではっき りと決闘の意志を見せるラヴレターも、珍しい」

「ああ、いつも下手な脅し文句ばかりだしな。直 接呼び出されたこともねぇし」

「文を最小限に抑えているのも、慣れた感じがす るね。この長さじゃ、語るに落ちられない」

「――で、どうするんですか? 誘いにのりま す?」

 広げた便箋を囲んで三人は顔を見合わせる。三 人寄れば文殊の知恵と言いたいところだが、何やら悪魔的な知恵が浮かびそうなメンツだ。

「そうですね……」

 気乗りしなさそうに翼が唸る。

「何かおかしいと思いませんか。このラヴレ ター」

「おかしい?」

「ええ。『勝負を願う』ってことは、簡単に言え ば喧嘩をしようってことですよね。その場所が屋上っていうのがね……。それにこちらは三人もいるんですよ。まあ僕や翠君は戦力外としても、喧嘩慣れしてい る翔がいます」

「大人数で来る可能性もありますよ」

「その可能性は、ゼロではないですが、限りなく 少ないでしょう。大人数では人目につきます。それに、袋叩きにするつもりなら、やはり屋上というのはおかしいですから」

「……そうかなあ」

 ううむ、と顎に手を当てて、翠が考え込む。

「でも、そんな深い意味があるとは思えないんだ けどなぁ」

「何はともあれ、触らぬ神に祟りなし。僕はパス します」

「翼先輩、行かないんですか。ラヴレターです よ、ラヴレターっ」

「連呼しても行きません。他人の策略にはまるの は真っ平なんです」

 微笑んで背を向けた。

「じゃあ、翔先輩は?」

「俺も」

「翔先輩までっ」

 即答に、翠が目を丸くする。売られた喧嘩は大 枚叩いてでも買う男だと思っていたのだ。

 それを察した翔が憎憎しげに言う。

「翼が言うことも、もっともだ。何より相手の性 根が気に入らない」

「性根……」

「正々堂々と書いておきながら、自分の名は名乗 らない。それのどこが正々堂々なんだ」

「それは――」

 言いかけて、翠は口を噤んだ。

彼 が言うことはごもっとも。しかし、羽の倶楽部宛の挑戦状に名を書くなんて真似をすれば、後々どんなことになるか。よくよく考えてのことと、理解願いたいも のである。

「お二人は、どうあっても行かないんですね。 せっかくのラヴレターなのに……」

 翠がしょんぼりと肩を落とした。

 そんな彼女の顔を見て、翼がひとつ溜め息をつ く。

「翠君。ラヴレターだからって、何でもかんでも ほいほい受けていたら、忙しくてやってられないでしょう。ここは決闘クラブじゃないんですから。相手も本気で僕らが相手をすると思っていないから、こんな 挑戦的なことを書いてきたんでしょうし。馬鹿正直に出向いたって、すっぽかされるのがオチですよ。こんなのは適当にあしらっておけばいいんです」

「そんな、すっぽかすなんて――」

「いいから。決してひとりで行っては駄目です よ」

「……はーい」

 唇を尖らす。

 翔と翼は、ちらりと目配せをした。

 

 

 

 

 しんと静まり返った廊下に足音が響く。かじか んだ指先が冷えた手摺りに触れて、痛さに顔を顰める。掌に息を吐きかける。目が慣れ、息が白くなるのがわかった。

 午後十一時を回っている。グラウンドの照明も 消え、学園はその巨大な校舎を闇に包んでいた。

 階段を上がる。目の前に重い大きな扉が現れ た。鍵が壊れているのか、警備員がここまで上がるのを嫌がるのか、扉はいつも開いている。

 大きなノブに手をかけ、押し退けるようにして 扉を開くと、冷たく重い外気が隙間から漏れ出てきた。

ピ ンと張り詰めた空気。雪が降る前の、湿ったにおい。コンクリートの屋上に足を踏出せば、下から冷気が立ち上るのを感じる。風は止んでいた。外は一面の深い 藍色で、遠くに家々の明かりが見えるばかりだ。

 そんな夜色を背景にひとり佇んでいた翠は、扉 が開いた音に、ゆるりと振り返った。

「先輩?」

「やはり、ひとりで来ていましたね」

「どうして先輩たちがここへ?」

 翼が、呆れたと溜め息をつく。その後ろでは、 翔もむっとした表情を見せている。寒さのせいか、眉間の辺りが少々不機嫌だ。

「ひとりで行くなと言ったはずだがな」

「……ごめんなさい。どうしても相手の真意を確 かめたくて……――ハックション」

「ほら。風邪をひきますよ」

 すかさず、翼が脇に抱えていたブランケット を、翠にかけた。

「いや、駄目ですよ。先輩たちが使ってくださ い」

「これは君の為に持ってきたんですから。遠慮は いりません」

「でも――」

 ちらりと翔に目を遣った。パーカーに薄手のブ ルゾン。ポケットに両手を突っ込んでいる。いかにも寒そうに体を縮めていた。視線に気が付いた翔は、何事もなかったかのように腕を組み直す。

 それを横目で一瞥して、翼が思わず失笑した。

「翔のことは気にしなくていいんですよ。寒がり のくせに、あんな薄着で来るほうが悪い。ほら」

 と、翠の体にしっかりと巻き付ける。

「……あったかいや」

 口元まですっぽり覆われる。翼の体温でほんの りぬくめられたブランケット。砂糖のように甘い温かさで、凍えていた指先が徐々に赤みを帯びていく。

「やっぱり、翼先輩が言った通りでした。デー ト、すっぽかされたみたいです」

 藍の空間を見つめながら、翠が呟いた。

「残念だなあ。せっかく相手の顔を拝めると思っ たのに」

 大きく息を吐き出す。言葉とは裏腹に、唇には 微笑が浮かんでいた。

 その姿を認めて、翔がわずかに口元を歪める。

「じゃあ、ここで何をしていたんだ」

「……星を――」

「星?」

「はい。星を、見ていたんです」

 言われて、二人は初めて顔を空へと向けた。

「……――これは」

 思わず翼の口から言葉が漏れる。

 暗闇だと思っていた空。月だけが遥か彼方から 光を放つ中で、ちらちらと輝くものが上空に散っている。細かい、細かい光の砂。天全てが、光の粒の細かい膜で覆われている。

「すごい」

 満天の星に、知らず知らず顔がほころぶ。

「そうでしょう? まるで降ってきそうですよ ね」

「気が付きませんでした」

「ああ……」

 あの無表情男の目元も穏やかに見える。

「ゆっくり夜空を見上げることなんて、そうない ですから…。ずっと、星を見ていたんです」

 翠が満足げに目を細める。瞳の中が、降る光と 同じくらい輝いていた。

「でも、体が冷えちゃって……」

 グスン。

 鼻を啜る。

「当たり前です。こんな寒空の下でずっとなん て。部室の暖房をつけてきましたから、もう中に入りましょう」

「はい」

 ブランケットに包まれながら笑顔を向けた。ひ とつ大きな息を空へ投げかける。淡く消えていくのをゆっくりと確かめて、翠は静かに踵を返した。扉へと向かうその背に、

「翠」

 不意に翔が声をかける。

 いつもより、ほんの優しい顔つきで空を見上げ たまま、彼は言った。

「あの手紙書いたの、お前だろ」

 一瞬、沈黙する。

 やがて、翠の顔からゆるりと笑みが零れた。

「……バレていました?」

「ご一同様なんて、クラブに悪意がある人間は使 わない。この学園で羽の倶楽部を目の敵にしていないのは、ここにいる三人くらいだ。パソコンが駄目になったのを見計らったようなタイミングっていうのも、 クラブに精通した人間を臭わせたからな」

「ああ、そうか。失敗しちゃいました」

 悪びれた様子もない。翔がふと、視線を翠へ向 けた。

「……で、俺たちをここに呼び出した理由は?」

「理由?」

「こんな回りくどいやり方で呼び出したんだ。何 か理由があるんだろう」

「んー……そうですねえ」

 眉根に皺を寄せ、首を傾げる。

「強いて言えば、クリスマスだから、ですかね」

「クリスマス?」

 答えになっているのかいないのか分からない返 答に、翼が聞き返した。その訝しげな表情に、翠は楽しそうな笑みを見せる。

「この星全部、私からのクリスマスプレゼントで す」

 言って、くるりと踵を返した。

 

 

 

 

 屋上には呆け顔の部長と参謀だけが残った。

「……クリスマスプレゼント、だそうですよ。 翔」

「……だってな」

「眉間の皺を伸ばせってことですかね」

 揃って顔を上げる。

 小さく瞬く星。

いっ たいどれだけの人の願いを、その身に負っているのか。今この瞬間に、どれだけの人が祈りをかけているのだろう。儚いその輝きに願いをかけるのは、何だか不 憫に思えた。

―― その重圧に耐え切れなくて、星は流れるのかもしれない。

 翼は、隣に視線を向ける。

 ブルゾンのポケットに両手を入れて、翔は夜空 を見上げていた。無愛想で無口で面倒くさがりな男が、飽きもせずに星の瞬きの音を聞いている。

―― 感傷がこれほど似合わない奴も、珍しいね。

そ れでも、茶化すのはやめておいた。年に一度、見られるかどうかの貴重な光景だ。

「おい、翼。見てみろよ。――雪だ」

 翔が顎で上方を示す。

 小さな星屑に混じって、白い雪が舞い散り始め ていた。音もなく、静かに舞い落ちてくる。

「翠はこれを見せたかったのかもしれない」

 そういう口元に、微笑が浮かぶ。

「……珍しい」

 ぼそり。ついに翼が呟いた。

「何が」

 振り向いた翔に、彼は笑いを堪える。

「別に」

「その顔は別にって顔じゃねえだろ」

「おや。じゃあ、どの顔が別にっていう顔なんで すか」

「上げ足を取るな」

 仏頂面に戻り、顔を背けた。

―― 言っても、きっと分からないでしょうから。

 翔の口元に浮かんでいた微笑。心底からの、穏 やかな笑みに見えた。そんな顔をしていたことに、きっと本人は気が付いていない。

「さてと。僕たちもそろそろ中に入りませんか。 このままいたら、雪だるまになっちゃいますよ」

「ああ。そうだな」

 心なしか名残惜しそうに踵を返す。

 翼が、ふと雪舞う空を見上げた。

 この雪は積もるだろうか。積もったら、明日は 翠の為に雪だるまでも作ってやろうかと思う。翔の顔をした雪だるまなど、手を叩いて喜びそうだ。それくらいの礼はしてもいいかもしれない。

―― ただし、僕たちを騙そうとした礼も、きっちり受けてもらいますからね。

 さて、どうしてやろうか。

 彼の策略に満ちた微笑を、翠はまだ知らない。

 

 

 

 

 

《了》