―― さくらヱ草紙 ――


       花 む し ろ

                                                 深町 蒼

 

 


 

 月光がさらさらと降り注ぐ。

 闇を渡る一条の光。揺れる水面に、影が散る。

 それはまるで、風に散り行く無数の花弁。

 世の醜さを覆い隠す、

 

 花の筵。

 

 

 

 

 カヨは、井戸端で皿を洗っていた。

 たらいに水を張り、藁を束ねたもので汚れを落 とす。井戸から汲み上げたばかりの水が、アカギレの手にしみた。息を吹きかけ、両手を擦り合わせる。

 水面に月が映っている。ユラリユラリと揺れ る、歪な月だ。

 店は今が一番込む時刻である。仕事を終えた人 足たちが大半を占めていた。店のほうから、下手くそな歌が聞こえる。カヨは、盥の水を替えながらクスクスと笑った。 

 小さな飯屋だが、親子三人食うには困らないだ けの稼ぎはある。そのぶん、両親は朝から晩まで忙しく立ち働く毎日だった。カヨも日が暮れかかる頃から店を手伝っている。酔っ払いは嫌いでも、父親の包丁 さばきを見るのは好きだった。

 最後の皿を洗い終える。前掛けで手を拭いて、 立ち上がった。

 その時。

カ ヨの耳に、店の喧騒とは違うものが聞こえた気がした。

 顔を上げ、耳を澄ます。

 人の泣き声に聞こえた。

 聞こえるのは目の前の路地からだ。先には、小 さな稲荷がある。

 カヨは暫く迷った。

 店の皿はなくなりそうだったし、次の洗い物も 溜まっているだろう。

 それでも、視線は暗い路地から離れない。

 耳に、泣きじゃくる声が痛々しく響き渡る。胸 が締め付けられる。幼い子の泣き声だ。それは甲高く、時にすすり泣きに変わる。

 不意に、カヨの周りから店の喧騒が消えた。ひ どいだるさが体を襲う。頭がボンヤリと霞がかり、力が抜けた。足が意思とは無関係に動く。

 まるで、雲の上を歩いているみたいだと思う。

 ふわふわ、ふわふわ。

心 地良い感覚が、足裏から伝わる。本当に土の上かと足元を見るも、暗くて何も見えなかった。

 暗い、暗い道だ。

 風の音も鳥の鳴く声もない。耳に絡みつくの は、悲痛な泣き声だけ。

 ――泣かないで。今、行くから。

 どこに向かっているのかも分からないが、確か に声は近付いている。

 泣かないで、泣かないで、一緒にいてあげるか ら――。

 やがて、足が止まった。

 視界の中に、小さな稲荷が現れる。その前で、 赤い着物を着た少女が蹲っていた。両腕でしっかり膝を抱え、顔を埋めている。肩が小刻みに震えていた。

「どうしたの? どこか痛いの?」

 顔を覗きこんで、カヨが声をかけた。

 少女の体はカヨよりももっと小さい。カヨは十 になったばかり。この子は六つくらいだろうか。

 迷子かなと、カヨは漠然と考えた。

 すすり泣きが小さくなる。少女の肩がわずかに 動いた。

 顔を、ゆるり、上げる。

 頭上で、鴉が飛んだ。

 

 

 

 

 早春の夜半。

 清夜の月光が皓々と降り注ぎ、風に流れる雲の 形までも、はっきりと見てとることができる。

 通りに面した商家はどこも行燈の火を消し、雨 戸を立てていた。町中が水の中に沈んだかのように、ひっそりと静まり返っている。星々の瞬く音さえ聞こえそうだ。頬を撫でる風は、幾分暖かくなってきたと 感じさせる。

 手に提灯も持たず、天を仰ぎながら、三峰さく らは永代橋を渡っていた。月明かりを浴びて、頭の高い位置に無造作に結んだ髪が艶やかに揺れる。表情も体つきさえ、若侍というにはあまりに幼い。袴姿のそ の細い腰には、脇差だけが威容ないかつさ添えていた。

 はぁ。

 わざと大きく息を吐き出す。息が白くなるのを 見、にこりと笑う。

 川面に月が反射する。魚が跳ねたのか、小さい 波紋が広がった。

 さくらは橋の中程で立ち止まり、夜気を深く吸 い込んだ。

酒 でぼんやりとした頭が冴える。火照った体にも今宵の風はちょうどいい。このまま雲のように流されてしまえば、どんなに気持ちいいだろうと思う。目を閉じる とあまりの心地良さに眠ってしまいそうだ。

 ――早く帰ろう。

 ゆらゆらと、いい気分のまま眠りにつきたい。 足取りも軽く歩を進めた。永代橋を渡りきる。

 そこで、軽やかに運んでいた足が止まった。驚 いたふうに片眉を上げる。

 橋の袂の、佐賀町に入る辺り。

 少女がひとり、立っていた。

 飲みすぎから幻を見たのかとも思ったが、そう ではないらしい。二、三度頭を振っても、少女は確かにそこにいる。

 女ひとりの夜歩きもはなはだ珍しいが、童女の 夜歩きはもっと珍しい。

 朱色の着物に同色の鼻緒。決して充分な明るさ ではないのに、それでもはっきりと認めることができた。身につけているものの仕立てもよく、髪も綺麗に結われている。大店の娘を絵に描いたような姿だ。

 それにしても、こんな刻限にいったい何をして いるのか。まさか家出ではあるまい。歳はどう見ても五つか六つだし、家出ならば何かしら手荷物を持っているはずだ。

 眉根を寄せ、首を傾げていると、少女が駆け 寄ってさくらの袖を引いた。

「な、何」

 少女は答えず、口元をぎゅっと引き結び、さく らの目を真っ直ぐに見つめる。

「どうしたの」

 再度問うても答えはない。小さな手がしっかり と袖を握り締める。大きな黒目がちの瞳が、縋るように揺れた。

 ふと、さくらの心がざわつき始めた。体の奥底 から、言いようのない不安が沸き起こる。

 息を詰める。

酔 いが引くのが分かった。知らず知らずの内に、目元が険しくなる。

 少女が一際強く袖を引いた。

 ゆっくりと歩き出す。手を振り払おうと思えば 簡単にできた。しかし、そんな気など微塵もなかった。

 ――とにかく、行かなければ。

 気持ちの悪い感覚が、歩を進めるごとに増して いく。気が急いて仕方がない。袖を引かれながらも、歩が早くなる。

 熊井町に差しかかった時には、二人とも駆け足 になっていた。

 夜のしじまに足音だけが響く。少女の袖が、パ タパタと揺れていた。

 小さな橋をひとつ渡り、右に曲がる。川端には いくつもの店が軒を連ねているが、今はどこも灯を落としている。このような刻限まで灯りをともしている場所があるとすれば、吉原くらいのものだ。

 少女の足が、とある店の前で止まった。

 暖簾はしまわれ、戸も閉めていた。掲げた看板 に目を凝らす。米問屋・辰巳屋と読める。

「ここ?」

 少女が頷いた。

そ れ以上の意思表示はなく、ただただ、さくらを見つめるだけだ。

 困り果てたさくらは、仕方なく戸を叩いた。

こ んな小さい子が夜中にここまで案内してきたことは、どう考えても尋常ではない。何か、よほどのことがあったに違いないと思ったからだ。

 何もなければ、謝れば済む話。そう自分に言い 聞かせ、拳を叩きつける。

 ドン、ドン、ドン。

内 の様子を窺う。誰かが動く気配は感じられない。

 もう一度、戸を叩こうと拳を握ったさくらは、 何気なく横に視線を動かした。

 一番右の雨戸が斜めになっている。目を凝らす と、立て掛けられているだけと分かった。

 息をのむ。

 不安が、どす黒い確信へと変わる。無意識の内 に、左手が脇差に触れていた。

 背をぴたりと戸に付け、中の様子を探る。

静 かだ。

人 の息遣いも、瞬きの音さえない。店の前を流れる、川の水音だけが耳についた。

右 手を戸に掛ける。音を立てぬよう、ゆっくりと動かす。

土 間を支配していた闇に、月光が一筋落ちた。中に滑り込む。素早く目を走らせた。慣れた動作で闇に浮かび上がるものをひとつひとつ確認していく。

そ の視線が、土間の真ん中で止まった。

何 か、黒いものがある。

周 りに注意を払いながら、足音を消して近付いた。左手は、油断なく脇差の鍔に添えている。

傍 らに膝をつき目を眇めて、やっと何か分かった。

男 だ。

う つ伏せに倒れた男。割れた背から流れ出した黒い血が、一面を染めていた。

男 の首筋に触れる。

 冷たい。もう、死んでいる。

 立ち上がり、帳場に目をやった。空の銭箱が ひっくり返っている。

 盗賊に襲われたのは一目瞭然。殺された男の状 態からみて、相当前に入られたようだ。

 チッ、と小さく舌打ちする。

 足音に構わず、奥へと進んだ。片っ端から障子 を開け放つ。

 どこも、血の臭いが鼻をつくだけだった。

 折り重なり、倒れる奉公人たち。

 寝込みを襲われたらしく、白い寝間着が血に黒 く染まっている。

目 を見開き、虚空を見つめる者。

 畳に爪を立てる者。

 幼子を腕に抱いている者。

 縄で縛られ、喉笛を裂かれた者。

 女も子供も両手を広げ、苦悶の表情を浮かべな がら息絶えていた。

 それはまるで、地獄絵図。

 恐怖と悲しみと、生への執念が渦巻いている。 耳を澄ますと、彼らの最期の悲鳴が聞こえてきそうだ。血の臭いと共に、体に黒く絡み付いて離れない。

 軽い眩暈が、さくらを襲った。

 奥歯を噛み締めきつく瞼を閉じる。

 

 風が、流れる。

 庭木の葉擦れの音が、心を一層ざわつかせた。

 

 

 

 

「だから、下手人は私じゃないって、何度言えば 分かってくれるんですか」

 大島町にある、自身番でのこと。

 さくらが、怒りに震える拳を畳に叩きつけた。

向 かいに座る南町の定廻り同心は、苦々しい顔で熱い茶を啜っている。

「しかしなあ、どうも腑に落ちねえ。暮れ六ツま で日本橋音羽の道場にいて、その後、酒を飲みに行ったというところまではいい。だが、その店を覚えていない、特徴も思い出せないなんて言われて、はいそう ですか、お帰りをといくわけねえだろう」

 同心の言うことは、もっともだ。さくらだっ て、言えるものならとうに言って疑いを晴らしている。

 心に隠すことがあるというのは、なんと不便な ことか。それも、男との逢引なんて色っぽい話ではないから厄介だ。

 一抹のやましさを、良心の呵責と共に、平静の 下に押し込む。

 あからさまに不機嫌な顔をしているさくらを認 め、同心が更に言葉を続けた。

「しかも、お前さんのうちは永代町の平八長屋 だって言うじゃねえか。日本橋からの帰りで永代橋を渡って来たんなら、なんで長屋とは反対方向にある辰巳屋にいたんだ」

「何遍も言ってるでしょう。橋を渡ったところに 女の子がいたんです。その子が私を辰巳屋に連れて行ったんですよ」

「ほう。だったらそいつは、いったいどこにい るってんだ? 現場に駆けつけた者の話じゃあ、子供なんていなかったそうだが」

「それは──」

 勢いで反論しかけ、慌てて言葉を飲み込んだ。 彼女自身、明確な答えを持っていなかった。

 昨夜。

 辰巳屋の惨状に酔いも醒め、自分の為すべきこ とに思い至ったさくらは、急いで踵を返した。

土 間に下手人の足跡が残っているかもしれない。壁際を選んで歩き、月の光が漏れる戸の前で、ふと足を止める。

 目を閉じた。

 闇の中に、残像が広がる。

 それを振り払うように、一度、頭を強く振っ た。表に出る。あの少女が待っているはずだった。

通 りには柳の影が落ち、川を渡る風は心なしか冷気を帯びている。

見 渡せども、視界の中にあの童女の姿はなかった。念のため辺りを探したものの、見つけることはできなかった。

 あの子がどこの誰だったのか、さくらは知らな い。黙って消えた、朱色の着物の少女。

 いや。そもそも、あの子は本当にいたのだろう か。

 そんな思いが頭を過る。

 陽が落ちたらどこも闇に染まる。路地には月明 かりも届かない。昼間の喧騒は、嘘のように消えてしまう。あんな小さい子供がひとりで出歩くことなど、容易にできるものではない。

 ――よもや、幻覚?

 自身番へと走る道すがら、そんなことを考えた りもした。飲み過ぎて、見えるはずのないものを見てしまったのではないか、と。

 その度に、さくらは袖を見つめた。

小 さな手が一生懸命握っていた場所。わずかに皺が寄っている。

「お前、相当飲んでたんだろ。酔って幻でも見た んじゃないのか」

 口元に小馬鹿にした笑みを浮かべて、同心が 言った。嘘をつくならもっとマシな嘘をつけと、顔に書いてある。

 さくらは背筋を伸ばし、小憎らしい同心の顔を 真正面に見据えた。

「いいえ。あの子は確かにいた。私の袖を確かに 引きました」

 袖の皺がある以上、夢でも幻でもない。朱色の 鼻緒も、何かを訴えかけるような目も、はっきりと覚えている。

「もしも嘘なら、私だってもっともらしい嘘をつ きますよ。でも、いくら腑に落ちないと言われても、それが実際に起きたことなんです。あの子が姿を消したのが、自分の意思かどうかは分かりませんが」

「かどわかしにあった、と言いたいのか」

「いえ。むしろ、あれは――」

 神隠し。

 そう思えた。

し かし、それこそ現実味を欠いている。言ったところで、鼻で笑われるのがオチだ。

「……なんでもありません」

 半ば諦めの溜め息をつく。

 さくらを窺っていた同心の様子が、わずかに変 わった。

「フン。また、かどわかし、か」

 憎々しげに吐き捨てる。顰めっ面のまま、控え ていた手下に茶を言いつけた。

「ま、飲みな」

 湯気立つ湯呑みが、さくらの前に置かれた。

「念のために言っておきますが、茶一杯で、やっ てもいないことを認めるようなことはしませんよ」

「そんな睨むことはねえだろ。俺が下手人なら、 自分から自身番に来るような真似はしないし、何より辰巳屋が襲われたのはお前さんが駆けつける二刻も前だ。検死した医者の見立てだ、間違いない。お前さん が下手人じゃないってことは、先刻承知だったってことだ」

 余裕の顔で茶を啜る同心に、さくらの眉がぴく りと跳ね上がった。

 ――からかっていやがったのかっ。

 呆れた狸野郎である。

自 分など調べるよりも先に、やるべきことがあったのではないか。

 胸中にふつふつ湧き上がる怒りを抑え、さくら は静かに立ち上がった。

「私が伝えるべきことは、すべて伝えました。帰 らせてもらいます」

 わざと、足音荒く土間に下りる。明るい日差し に障子戸が白く輝いていた。とうに明け六つを過ぎている。

 狸同心は、無言で湯呑みを傾けた。

「失礼っ」

 力任せに戸を閉める。

拳 を握り締めながら歩き出した。肩の辺りに怒りが滲む。

「まったく、馬鹿にしてるよ」

 もちろん、探索に当たっているのは狸同心ひと りではない。他の同心や岡引といった連中が、夜通し駆けずり回っていたことだろう。それはよく分かっている。分かっているのだが。

「クソッ。あの狸めっ」

 この怒りは消し難い。

 大島町から黒江町に差し掛かると、すでに暖簾 を出した大店がいくつもあった。まだ人影薄い通りに、丁稚が使う箒の音が響く。

蜆 売りの少年が横を過ぎた。夜通しの商いを終えた二八そばの親爺は、疲れた顔で長屋に帰って行く。

 あと半刻もすれば、ここにもいつもと変わらな い、かしましい時が流れる。陽の下では当たり前のようにある、喧騒と活気。

 ――皆、まだ知らない。

 目覚めを奪われた人達のことを。

 あの丁稚にも、蜆売りの少年にも、二八そばの 親爺にも、いつもと同じ朝が廻っているのだ。

 自分にとっても、同じ朝なんだろうか。

さ くらは空を見上げた。

色 まだ薄い空に、昨夜とは違う雲が浮かんでいる。土埃舞う前の、澄んだ空気を吸う。体の中の言いようのないどろどろしたものが、浄化されていくようだった。

 瞼を閉じる。

 命を絶たれた者の想いが耳に残っている。風の 音に混じるといっそう耳につき、胸の奥を締め付けた。

「道の真ん中で、どうしたんですか。さくらさ ん」

 そう一声あって、背後から肩を叩く者がいる。

 ふと我に返った。

 見慣れた長身の青年が穏やかに微笑んでいる。

「総(そ う)さん」

 風が、ゆるりと流れた。

「おはよう。早いね、総さん」

「ええ。仕事帰りなもので」

「ああ、吉原帰りか」

「……さくらさん、その言い方はちょっと。誤解 を招くような……」

 総が困り顔で苦笑する。

「でも、吉原帰りってのは当たってるでしょう」

「まあ、そうなのですが」

反 論を諦め、また緩々と微笑んだ。つられて、さくらの目元も柔らかくなる。

 総は彼女と同じ長屋に住まう、琴の奏者であ る。均衡のとれた体躯は、着流しに薄手の羽織姿。髪は襟足の辺りで切り揃え、一見、見習いの医者かと思わせる風体をしていた。武士や商人にある気忙しさは なく、かといって坊主のように達観したふうでもない。

 周りを包むのは、緩やかな空気だった。

総 の稼ぎの殆どが酒席での奏楽だ。花街、船宿など声がかかればどこへでも行く。本所深川界隈では、彼を呼んでの宴席が流行りになりつつあった。一晩に三つ、 四つと宴を回ることもざらにある。流行り好きの吉原の客にも、ご贔屓さんが大勢いた。

 ――そんな、安売りするような音ではないの に。

 正直、さくらは思う。

 弟子を幾人か増やせば、教授代だけで充分食べ ていけるはずだ。素人耳にも、彼の音色は他のどんな奏者も真似できないものだと分かる。

強 さ、穏やかさ、憂い、そして深い闇。

そ れらはすべて、彼自身から滲み出ている「音」。

 彼の元を訪れる者は少なくない。総の音に魅せ られた者は、それを我が手にしようと教えを乞う。それでも、少しでも経験のある者はすぐに気が付くのだ。教えられて出る音ではない、と。

 ひとり辞め、二人辞め。今は弟子が三、四人い るばかりになってしまった。

「朝までお座敷とは、大変だね」

「お金をいただいていますから。それより、さく らさんこそ朝早くこんな所で、いったい何を」

 不意に、さくらの表情が曇った。忘れかけてい た怒りが、再び湧き起こる。

「狸野郎に、下手人にされかけてた」

「狸、ですか」

 何も知らぬ総には、まったく話が見えない。構 わず、さくらは両の手を振り回した。

「あの野郎、人を一晩番屋に留め置いた挙句、小 馬鹿にしやがって。許せないっ」

 怒りの炎が、音を立てて燃え上がる。

 触らぬ神に祟りなし。

 総は「狸野郎」の話に触れないほうがいいとい う、賢明な判断を下した。「そうだ」と、大袈裟に手を叩き、さくらの注意を狸から自分へと向けさせる。

「さくらさん、道場へ行かなくて宜しいのです か」

「道場?」

 あまりの腹立たしさに頭が働かなくなっている らしい。こめかみに手を当て、何かあったかなと考える。

「ほら、前に言っていたでしょう。朝稽古の当番 が回ってくるって」

「――しまった。すっかり忘れてたっ」

 朝の稽古は明け六つから始まる。開始の刻限は すでに過ぎていた。いつもは道場に間借りをするのだが、当番など綺麗さっぱり忘れていたさくらは、ついつい調子よく酒を飲み、そのまま帰って来てしまった のだ。

「……い、急いだら間に合う、なんてことはない だろうか」

表 情を一変させ、引きつった笑みを浮かべる。一縷の望みをかけて見上げた総の顔には、「お気の毒に」と書かれていた。

「走って、誠意をみせるしかないのではありませ んか」

「やっぱり、そうだよねえ……」

 深々、溜め息をつく。

「大丈夫ですか、さくらさん。寝ていないので しょう?」

 心配気な総の言葉に、

「大丈夫。一日くらい徹夜したって、どうってこ とない。ちょうどよく酒も抜けたし、これからひとっ走りしてくるよ」

「無理はしないで下さい。さくらさんにもしもの 事があったら、わたしがひづきに叱られます」

 ひづきとは、総の飼い猫のことだ。彼の住まい に居着いた猫は、飼い主よりもさくらにご執心だった。

「とんだとばっちりだね、総さん」

 小さい猫に手を焼く長身の男。

 その姿を想像して、さくらはくすりと笑った。

 

 

 

 さくらを見送った総は、長屋がある永代町へと 歩を進めていた。

 花が咲くには少々早い時期だ。暖かくなってき たといっても、朝は冷える。

凛 とした空気に腕を懐に収めた。

 それにしても、さくらの体力は並外れている。 あの華奢な体で、酒を飲んだ上に夜通しの詮議の後でも稽古を怠けようとはしない。一心に剣に向かう表情は、とても十五の少女ではなかった。

「体を壊さなければいいが」

 意志がどれだけ強かろうと、体は正直だ。

 夜は蜆の味噌汁でもお裾分けしようと、蜆売り の棒振りを探す。

 そこへ、

「センセー」

 爽やかな朝風の中に、総を呼ぶ声と小さな鈴の 音が混じる。

 振り見ると、こちらへ走り来ながら手を振る女 の子がいた。鈴の音は、彼女が肌身離さず帯に挟んでいるものだ。

「明(あ き)

 微笑んで、総がわずかに手を上げる。

「そんなに血相を変えて。いったい、どうしまし た」

「センセイ、センセイ、センセイッ」

 息つく間もなく、明は総に掴みかかった。

「ちょっと、明。落ち着いて下さい」

「落ち着いてなんかいられませんっ。センセイ、 さくら様が帰って来ないんです」

「はい?」

「どうしよう。もし辻斬りなんかに遭ってたら。 ああ、でもさくら様だったら返り討ち……ってそうじゃなかったら、どうしたらいいのかしら。ねえ、センセイ。どうしよう。こういう時って、お役人様に届け たほうがいいのよね。そういうものなのよね」

 縋る目は、微かに涙ぐんでいる。

 さくらの事になるといつもこうだ。必要以上に 心配性になる。さくら以外のことには、ほとんど我関せずなのだが。

 さくらに対してだけ極端に感情豊かなこの少女 は、総の数少ない弟子のひとりだった。

「明。さくらさんは――」

「きっと、かどわかしよ。さくら様ったら油断し たんだわっ。だって、あんなに素敵なんですもの。あの、竹刀を構える立ち姿。汗を拭う仕草。道場のむさ苦しい男たちをバッタバッタと倒す、しなやかな動 き。皆が目を奪われて当然よ。かどわかしだったら、大変! センセイ、どうしたら――あれ?」

 おもむろに、掴んだ総の着物に顔を近付ける。 そうすると、まるで女の気を探られている亭主のようだ。

し ばらく、クンクンと匂いを嗅いだ後、険しい顔で総を見上げた。

「……センセイ」

「はい」

「今まで、さくら様と一緒だったでしょう」

「さすが」

 呆れ苦笑しつつ素直に頷く。

反 して、明は更に強く襟を引っ張った。

「苦しいですっ、明」

「センセイ、さくら様……怪我をしていたの?」

「なんですか?」

「だから、怪我をしていたのか、聞いている の!」

「していなかったようですが。明、何か――」

「センセイ、さくら様はどこよっ」

 手を放した明が、嫌なものを見るように顔を顰 めた。先ほどまでの、眩いばかりの明るさはすっかり消えている。彼女の中を、焦りと不安が支配し始めていた。

「音羽の、道場ですが」

「アタシ、行かなきゃ」

 踵を返す。

「あっ、明」

 総が声をかけた時には、すでに彼女の背中は小 さくなっていた。一瞬の内に、姿が人波に消えた。

 事情を飲み込めないまま、総は首を傾げるしか ない。

 気を取り直し永代町までの道を歩きながら、総 は小さな溜め息を何遍も繰り返した。

 自分の間で話を進めるところは、さくらも明も 似た者同士。そもそも、明は琴よりもさくらが目当てで総の弟子になったようなものだった。

「さくら様とずっと一緒にいたい。傍にいたい。 でも、それはアタシには無理だから、せめてセンセイの弟子にして下さい」

そ う懇願したあの時の必死な様子を思い出すたび、微笑してしまう。

 できるだけ近くにいたいから、興味もない琴を 習おうと言い出した明。

さ くらだけを、ひたすら、一途に想い続けている。

 明がさくらを慕う理由を、総は聞いたことがな い。聞いたところで、

「センセイには教えません」

 一蹴されるのは目に見えている。さくらとの思 い出は、それほどまでに大切なものなのだろう。

 しかし、誰かの傍にいたいという明の気持ち は、総にもよく分かる。だから、彼女を弟子にしてしまったのかもしれない。

 当初は真面目に稽古をしていた明も、近頃は めっきり琴に触れなくなった。さくらを追いかけ回し、甘えてはゴロゴロと至極幸せそうに喉を鳴らしている。

 ――軟弱者。弟子というからには、せめて稽古 するフリでも見せてごらんなさい。

ぼ やきを零しながら進めていた歩が、静かに止まった。周囲は総を残して、慌しく流れ始めている。荷車が巻き起こした風塵から顔を背けながらも、視線だけは道 の先に据えていた。

辿 る道の先には小さな橋が架かる。その欄干に背を預けて、こちらを見やっている青年がいた。

濃 紺の着流しをさらりと身に纏い、夜鷹のように顔を濃緑の手拭いで隠す。わざとそうしているものか、肌蹴た襟から白い首元が覗いていた。

川 風が、緑の手拭いを巻き上げる。

ち らり、認めた顔は、笑っていた。総の視線を斜に捉えて、ちょいと小首を傾げてみせる。

紅 を引いたかのような赤い唇が、開いた。

み、 つ、け、た――。

二 人の間は、声が届くものではなかった。だが、総にははっきり彼の声が聞こえていた。ゆうるりと、甘い香が言葉と共に流れてくる。

総 が思わず、眉を顰めた。

男 が笑う。

不 意に、強い風が通りを薙いだ。巻き上がる塵に、道行く人が顔を覆う。総も袖で目を塞いだ。

風 が過ぎ、ほっと息をついた人々が、またせかせかと歩き出す中で。

総 が再び顔を上げた時には、橋の上に、あの青年の姿はなかった。



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