――妖筆抄奇譚こぼれ 話――

 

石 標              深町 蒼

 

 

 

 

 新月の闇の中で、風はどこから吹くものか。

は らはらと、葉擦れの音をひそませて、漂い、消えゆく。

「ここで待っているのですよ。良い子だから、必 ず。必ず、待っていて」

 己の手元も見えぬ暗がりから、母の声が下りて きた。

 ――いやよ、いや。置いていっちゃ、いや。

 懸命に首を振り、母の手に縋り付いた。

「聞き分けのないことを言わないでちょうだい。 ほら、手を放して」

 ――だって、この手を放したら、独りぼっちに なっちゃう。

「すぐに、戻って来るから」

 ――いやだ、いやだ……。だって、だって…… そう言う人は決まって、戻っちゃ来ないんだもの。

 ぎゅう、と着物の袖を握り締める。放すもん か、放すもんかと強く念じた。

 すると、

「――放せってば」

 声が――母のものではない声が、怒声となって 降ってくる。

 ハッとし、瞼を開けた。

 月明かりが、目に飛び込む。半分の月を背にし て、眦を吊り上げた少年が、怖い顔でこちらを見下ろしていた。その袖を掴む手が己のものと分かり、おずおずと腕を引っ込める。

「まったく、なんだってんだろうねえ。どっから ついて来やがったんだか」

 面倒そうに頭を掻く仕草が、隣の長屋の良助兄 さんを思い出させた。良助兄さんは、虫を捕るのが近所で一番上手い。木登りも得意だ。長屋の子どもらを仕切る、親分みたいな兄さんだ。

 良助兄さんは、仕事をしていない。だから、お 母さんによく怒られている。その時に見せる仕草が、目の前の少年と同じなのだ。

 ――だけど。

 もう一度、少年の顔を窺い見る。似ているのは 仕草だけで、ちょっとキツイ目元や、色白のところなどは、良助兄さんと全く違う。髪はふわふわと柔らかそうで、何より、髷を結っていなかった。月光の明か りを透かすほど、髪の毛が細い。

 ――絹糸みたい。

 母が仕立て仕事に使っていた、上質の糸。滅多 にないことであったが、絹糸で仕立てをする母は、とても生き生きとしていた。まるで、自分が袖を通すものを、仕立てているかのように。

 実際、仕立て上がった日の夜、こっそりと羽 織っているのを見たことがある。それは真っ白な打ち掛けで、母にはちっとも似合わない代物だった。

 だから、そう言った。似合わない、と。

 母の手が飛んできた。左の頬が熱い。涙が出 た。

 痛みより、母の顔が怖かった。

「……泣くんじゃないよ。まったくさあ」

 少年に言われ、ようやく自分が泣いていると気 付く。瞼を擦るが、涙は後から後から、溢れてきた。

「ああ、鬱陶しいっ。ただでさえ、ジメっとして ヤな季節だってえのにっ」

 少年が踵を返す。

 ――置いていかれる。

 背を必死に追って、手を伸ばす。触れた袖を、 再び掴んだ。

 少年が足を止める。袖を見、次いでその先へ と、視線を向けた。

「放しな」

 細まる目。

あ の夜――頬を打たれた、あの夜と同じ、ザワザワとした感覚が、体中を巡った。

立 ち竦む。少年から、目を逸らすことが出来ない。

「……なんだ、気付いていないのかい」

 少年の口元に、陰惨な笑みが浮かぶ。

 ――イヤだ。聞きたくないっ。

 咄嗟に耳を塞いでいた。しかし、少年の暗い声 は、指の間を縫って耳に届く。

「どんなに待ったって、母親は帰ってきやしない よ。あんたは、捨てられたんだから。まるで、塵屑みたいにさあ」

 ――どうして、そんなヒドイことを言うの?

 はらはら、ほろほろと涙が零れる。頬を流れる 涙に、熱さも冷たさも、感じはしなかった。

 

 

 

 翌日の暮れ時、再び少年の姿を見かけた。背の 高い男と一緒で、凸凹、という言葉が浮かんだ。

辺 りは霧雨に濡れており、青年が少年に傘を差し掛けている。少年は、それを鬱陶しそうに振り払った。溜息をつきつつ、苦笑する青年の目が優しい。

―― あんなふうに。

あ んなふうに、誰かの優しさに触れてみたい。あんなふうに……、

―― あたしとあの子、何が違うんだろう。

体 の中が、熱くなる。息苦しい程に、胸が高く鳴った。

 

 

 

 

「御影。お前、何かしたか?」

 久々に慶吾の家を訪れた御影に、家主は出し抜 けに、そう尋ねる。

「は? 何かって、何さ?」

 正直、心当たりがあるような、無いよう な……。下手なことを言って無駄に怒られるのも、つまらない。御影は慎重に、相手の意を探る。

「つまりだな」

 珍しく、慶吾の歯切れが悪かった。

「私が寝ている間に、家に来ている、とか」

「……あのねえ。慶さんだって、寝る時はさすが に鍵かけてんだろう? 俺は、泥棒みたいな真似、しないよ。慶さんが居りゃ、声くらいかけるしさ」

 勝手知ったるなんとやらで、好き勝手出入りし ているものの、慶吾に不審を抱かせるようなことは、していない――恐らく。

「そうだよな。じゃあ、私の感違いだ」

「何だよ。俺に、何の疑いをかけようとしてたの さ?」

 素行宜しくない御影は、長屋でも、あるいは道 端でも、あらぬ疑いをかけられること、しばしば。慣れているとは言っても、慶吾に疑われるのは心外極まりない。彼だけは、無闇に疑いをかけたり、他人の噂 を鵜呑みにするような男ではないからだ。

 ――その代わり、何かと口煩いんだけどねえ。

 しかし、今回はまったくの「あらぬ疑い」であ る。

 腰に手を当て仁王立ちすると、慶吾がポリポ リ、首筋を掻いた。

「実は近頃、誰かが近くにいるような気がするん だ。決まって、寝ている時なんだが……」

「……女を手酷く泣かせたとか、そういう話か い?」

「ばかたれ」

「いつもいつも、色気がないねえ」

「今晩の飯は、いらないんだな」

「ひでぇっ。最初に俺を疑って、嫌な気分にさせ たくせにっ。こっちは、刺身でもつけてもらわなきゃ、割りに合わないっての」

 ――まったく。これだから大学の研究員なんて のは、お固過ぎる。冗談も通じやしない。

 御影は冗談より、皮肉や悪口のほうが多い。慶 吾に向けた言葉もまた、その類のものだ。

 さりとて、付き合いの長い慶吾のこと。不要に 目くじらを立てることもなく、御影の前に熱い茶を差し出した。

 ――猫舌の俺に、アツアツの茶だぁ? 俺への 厭味? 慶さんも、なかなかやるよう。

「で? 寝てる間に誰かが忍び込んで、何が盗ま れたんだい。この家にゃ、本くらいしか価値のあるもんはないだろ? ああ、ヘソクリごっそり、持ってかれたのか」

「いいや。何も盗まれちゃいない」

「はあ? じゃあ、忍び込んだ奴は、いったい何 をしてくって?」

「何もしていない。ただ、私を見下ろしているよ うな気がするんだ」

「見下ろすだけ?」

「ああ。気配がして目を開けてみるんだが、誰も いない。鍵も、開いている所はなかった。……だから、気のせいだって言ったんだよ。疑って悪かったな。御影」

「……本当に? 本当に、何も見なかったの?」

「ああ。何も」

「慶さん、夜目が利かないじゃないか」

「それでも、人がいれば分かるさ」

「でも――」

 ――慶さんは、見えないじゃないか。

 この世ならざるものの、姿が。

 御影には見える。死してなお、この世に強い想 いを残して留まるものたちの姿が。そこにありありと、見てとることが出来るのだ。

「私の傍に、何か見えるか?」

 慶吾が、何気ない口調で尋ねる。御影の力を 知っているだけに、仮に「見える」と言ったところで、動じることはないだろう。だから、御影も安心して、慶吾の周囲に視線を向けた。

「何も――」

「何も?」

「なぁんにも、いないね」

「そうか。そうなら、やっぱり、私の感違いだ。 今日の詫びに、晩飯には冷奴をつけてやるから」

 安堵した様子で、慶吾は水屋へと向かった。

 その背を見送って、御影が目を細める。雨戸を 開け放った縁側から、庭の隅の紫陽花へと視線を移した。サラリと降る梅雨の長雨を透かし、その先に、何かを見つけようと目を凝らす。

 ――本当に、何もいない……。

 だが、なぜか容易に安堵することは出来なかっ た。

 

 

 

 

 御影は、長屋の雨漏りが五月蠅くて寝られない という、適当な理由をつけて、慶吾の家に居座ることにした。長屋が雨漏りするのは本当でも、気になるのは雨音では、断じてない。

 慶吾に晩酌の酒と肴を用意してもらい、早々 に、奥の部屋に籠る。慶吾が休んでいる間に事が起きるのであれば、彼に葉早く寝て貰わねばならない。

「俺が騒いでちゃあ、休めないだろうからねえ」

 胡坐をかき、ちびりちびりと酒を舐める。行儀 が悪いと窘められそうだが、御影にしては随分大人しい飲み方だ。

 軒下の水溜りで、雨粒が弾ける。夜の闇は深く なり、静寂さが増した。慶吾も眠ったらしい。御影以外、意思を持つ者の気配が消えている。

 ――さて。鬼が出るか、蛇が出るか。

 杯になみなみと注いだ酒を、一気に飲み干した 時だった。

 肌に、微かな違和感。それは、産毛を風が撫で ていくような、そんな程度の感覚だ。御影には、特別慣れた感覚でもある。

 手にしていた空の杯を、盆に放り出す。勢い良 く、障子を開けた。

 ――来やがった。

 廊下の先に目を凝らす。暗くて何も見えぬはず が、それは確かに見えた。着物の袖のようなものが、慶吾の部屋に吸い込まれるのを。

 古い廊下が軋まないように注意しながら、そち らへと進んだ。慶吾の部屋の障子戸は、閉じられたまま。この世にある者なら、絶対に通り抜けることは出来ない。

 御影は、細く、戸を引いた。中を窺う。

本 が雪崩を起こしそうな文机。乗り切らない本や紙の束は、そのまま畳の上に山を作っている。唯一、本の山がない壁には、仏壇が置かれていた。慶吾はといえ ば、本の隙間にどうにか布団を敷いて、眠っている。長身には窮屈そうだ。論文や研究に勤しんでいる時は、よく見る光景である。

 そんな慶吾の傍らに立つ「姿」に、御影は苦々 しく表情を歪めた。

 童女だ。ほんの、五、六歳の子どもが、寝てい る慶吾を見下ろしているのだ。

 ――慶さんの隠し子が、化けて出やがったか?

 慶吾に聞かれたら、本気で打たれそうな軽口を 内心で呟き、鋭い視線を向けた。

 ゆるり、「それ」が振り返り、こちらを見る。 不意に姿がダブって見えた。御影がそれを認識する間に、息で蝋燭の炎を消すように、姿は掻き消える。

 ――あいつ、どっかで……。

 見たことのある奴だった。御影の日常に新たな 顔見知りが増える機会があるとすれば、それは、「この世ならざるもの」に他ならない。

 細い顎に手を当て、記憶の隅を突いてみる。合 致する顔を思い出し、嫌な心持ちがした。さりとて、このままにしておく訳にもいかない。御影は、そうっと裏口から外へ出た。

「結局、俺を疑った慶さんは、間違っちゃいな かったってわけかよ」

 ――俺が原因なんだから。

 憎らしいこの力に、吐き気すら覚えた。

 

 

 

 

 いつの間にか、夜の闇の中に戻っていた。

 膝を抱えて泣きながら、いったいいつから―― いつまで、こうしていなければならないのだろうと考える。

 ――おっかさんが、帰って来るまで? 迎えに 来てくれるまで? いつ来てくれるの?

 暗い、寂しい、悲しい、怖い、こわい……。

 体中を占めているものは、そんなものばかり だ。せめて、誰かの近くにいれば、そんな想いも薄れるかとも思った。だが、それは全くの逆効果だった。

「当たり前さね。慶さんには、見えないんだか ら」

 声につられ、顔を上げる。いつか見た少年が、 目の前に立っていた。冷たい目で、口元には嘲笑を浮かべながら言う。

「俺が羨ましかった? 慶さんに優しくしてもら おうと、あの家に近付いたのかい? 見えない人の傍にいたって、寂しさが増すだけ。そんなことも分からなかったのかい? 馬鹿だねえ。俺とお前を、一緒に するんじゃないよ」

 ――でも、でも、

 ――あたしと、おんなじだよ。

 途端、少年の顔から表情が消えた。色白の頬 の、血の気がさらに引いていく。

「俺とお前が同じ? 違うっ。お前は、母親に捨 てられて泣くことしか出来ない、弱虫だ。俺は、俺達を捨てた奴を――殺した」

 ヒヤリ。

 周囲の空気が、鋭さを増した。

 ――ああ。だから、どこか不安なんだね。

 自分と同じものを感じていながら、自分と完全 に重なることがないのは、そこだ。

 己のせいで失ったものがある。だから、再び失 うのではないかと、いつも怯えている。確固たるものへの不安で満ちている。

「勝手に、分かったようなことを……」

 苦虫でも噛み潰したような顔で言い捨てる。

 例え、不安と背中合わせだったとしても、やは り、少年が羨ましい。

 ――だって、何も失っちゃいないもの。

 「慶さん」も、「母」も。

 腕を伸ばす。少年の素手に、縋り付いた。

 ――羨ましい。あたしと一緒なのに……あたし よりも、ずっとヒドイことをしているのに、どうしてなんでも、持っているの?

 涙が零れる。拭いても拭いても、涙は止まらな い。

「ああ、もうっ。面倒だねっ」

 少年が、雨で濡れた髪を掻き上げる。雫が頬に 落ち、泣いているように見えた。

「俺にはちっとも関わりないけど、慶さんに迷惑 かけるようなら、放っとく訳にもいかないしねえ」

 口の中で何事か呟くと、少年は踵を返す。それ に引かれるように、こちらも少年の後ろについて行った。

「お前には、あれが見えないのかよ」

 あれ、とは一体、何をさしているのか。

 少年を見上げる。彼の目は、すぐ隣に向けられ ていた。

 ――何? 何があるの? 暗くて何も見えない のに、一体、何が見えるの?

「ふうん……お前には、あれが見えないのかい。 妄執に取り憑かれた奴は、周りが見えなくなるんだねえ。ま、その目を閉ざしていたんじゃ、無理もないさね。だから、言ったんだ。俺とお前は違うってな」

 手を伸ばす。その掌が、一瞬、自分の瞼の上を 撫でる。

 思わず閉じた瞼を、再び開けた。やんわりと、 闇が薄くなったような気がする。そのまま、少年が示す方角を見やった。

 見えたものは、砂利を敷き詰めた地面と、そこ に立つ大きな石標。

 ――これ、知ってる。

 母親と別れたのは、確かに、この石標の前だ。 だから、ずっとこの場所で待っていたのに、いつの頃から見失っていたのだろうか。

「お前の探し人だ」

 少年が石標を回り込んで、指さす。石の陰に隠 れて、蹲る姿があった。

 その着物には、見覚えがある。別れた日、母が 着ていたものと同じだ。

 思わず、駆け寄っていた。背に手を置く。その 小さく震える背から、悲しみと後悔の念が伝わってきた。

 そして、自分を呼ぶ声も――。

 ――おっかさん。

 力の限り、呼んだ。顔を上げた母親の頬には、 止めどなく、涙が伝う。自分と同じ涙を流す母に、抱きすくめられた。

 ――あったかいや。

 胸の中にあった暗いものが、晴れていく気がし た。

 

 

 

 

「まったく、面倒ったらないねえ」

 御影は背丈以上もある石標を見つめながら、大 きな溜息をつく。そこには、メソメソと泣く童女の姿も、蹲る女の姿もない。自分の影を映す、水溜りがあるだけだ。

 目を閉じる。静けさに浸りながら、口唇を開い た。

「いつまで、そこにいる気だい」

 ほんの微か、空気が揺れる。風ではない。

 石標の、さらに奥。暗がりに浮かび上がるの は、赤い着物を着た女だった。紅を引いた唇が、ニィと歪む。

 借金を残して子どもを捨てた挙句、男に捨てら れて野垂れ死にした女だ。

「……いくら、俺の前に現れたって、俺を殺すこ となんてできやしない。諦めて、さっさとあの世とかに逝っておくれな」

 うんざりだった。見殺しにしたとはいえ、御影 を怨むのは筋違いというもの。

「そもそも、始めっからあんたを母親だなんて 思ったことは、ないんだから」

 ――あのガキ、何も失ってないなんて言いや がって……。

 きっと、亡くなった母親が今でも傍にいるこの 状況を羨ましがったのだろう。だが、御影にとって、目の前の女は「母」ではない。御影と、姉のみやこを捨てた女。憎み、蔑み、こんな力を持つ御影を産み落 とした、呪うべき存在。

「消えな。――慶さんに近付いたら、あんたが幽 霊でも、もう一度殺してやる」

 風が吹いた。

 女の姿は消え、御影は闇に取り残された。

 

 

 

 

 画商の穂栄堂に捕まったのは、それから数日後 のことだった。

「近頃、めっきり店に来なくなったと思ったら、 カビの生えそうな部屋で、日長一日、ごろころと。絵を描きなさいな、絵を」

 御影の長屋まで押し掛け、絵を催促するのはい つものこと。本来なら、ほとんど買い手のつかない絵を引き取ってくれる穂栄堂は、御影にとって神様仏様と崇め奉るべき相手である。しかし、御影は真面目に 仕事をするどころか、穂栄堂を鬱陶しいとさえ思っている罰当たりであった。慶吾の例もあり、口煩いのは我慢もできようが、こと金が絡むと容赦のなくなる商 人根性が苦手とでもいおうか。

 ――ついていけなくなる時が、あるからな あ……。

 絵の買い手が見つかるや否や、御影から絵を絞 り取って行く。恐ろしい男である。

「五月蠅いなあ。雨ばっかで鬱々とするからっ て、俺にあたらないでおくれな」

「なんですと?」

 思わず呟いた言葉に、すかさず穂栄堂が睨みを きかせた。

「ほほう。わたしにそんな口を聞いても良いと?  絵を売るも売らぬも、わたし次第だということを、どうもお忘れのようで」

「売らなきゃ、旦那の金にもなりゃしないじゃな いか」

「こちらは、単に蔵のガラクタが増えるだけです んでねえ。おっと、さっそく店に飾ってある絵を、裏へ引っ込めなくては」

 周囲と一線を画して生きているとはいえ、稼ぎ がなくなっては困る。頻繁に、慶吾に食事をたかりに行くことも出来ないし、また、慶吾が御影の面倒をみる義理もない。

「――ああ、もうっ。絵なら出来てんだよ」

 言うや、穂栄堂の前に絵を投げ出す。大人の背 丈程の石の前で、幼子が蹲っている絵だ。こちらに向けた背の左半分が、朽ちている。

「いつもながら、不気味な絵ですな」

「化生絵師だからねえ」

「しかし、この石はなんですか?」

「迷子の石さ」

「迷子……ああ、迷い子の標(しるべ)というや つですな」

 寺や神社の境内にある、迷子や尋ね人を探す、 告知板である。石標の片方には「たづぬる方」、他方には「しらする方」と彫り込まれている。迷子や、または行き方知れずになった者の特徴を貼り出すこと で、情報を得ようというのだ。

「ということは、この子は迷子ですか?」

「さてねえ。そうなんじゃないのかねえ」

 ――迷子を探すための標の前に捨てられたなん ざ、哀れな子だねえ。

 永い、永い時を待ち続けていた。自分を捨てた 者の言葉を信じて。

 母親が改心したのが、子が生きているうちだっ たのか、子が死んだと分かった後だったのか。今となっては分からないし、御影は知りたいとも思わない。結局、二人は生きている間に、再会出来なかった。

 どちらも、弱かったから――。

 どんな事情があれ、子どもを捨てた母親――死 して、なお、想いを残した場所は、子を捨てた石標だった。悔やんで泣く、その身勝手さに、吐き気がした。

 捨てられたにも関わらず、現実を受け止めずに 待ち焦がれて、ついには死んだ童女――自分の母親は馬鹿だ、阿呆だと、さっさと見切りをつけるべきだった。そして、笑って生きる方が、何倍も、身勝手な母 親を苦しめることが出来る。

 子を捨てた、母親の弱さ。親を見限ることが出 来なかった、子の弱さ。

 弱い故に、その想いに取り込まれ、あの場に縛 られていた。

 ――どっちも、馬鹿さね。俺には、ちっとも理 解出来ないや。

「だって、俺は、慶さんと一緒にいる時、笑えて るもん」

 声に出している意識はなかった。気が付いた時 には、言葉はすでに、穂栄堂の耳に届いた後だ。

 穂栄堂は、一度、目を瞬かせ、

「分かっておりますよ。そんなこと」

 当然、といった口調で相槌を打つ。

 その途端、妙に恥ずかしくなった御影は、慌て て明後日のほうを向く。

「さあっ、早く出てっておくれなっ」

「おや。いくらで売るか、お聞きにならないん で?」

「いくらでもいいっ。――とっとと帰れっ」

 転がっている筆を投げつける。それを慣れた様 子でかわし、穂栄堂は長屋を出て行った。

 戸が開いた一瞬、雨が土間を濡らす。そこに気 配を感じて、ふと、目を細めた。

 左半分、体が朽ちた、あの絵の幼子が立ってい る。

「……俺に取り憑くなんて、無駄なことは考える んじゃないよ」

 しかし、声が聞こえていないかのように、幼子 はじっと、御影を見つめた。暗い瞳には一点の光もない。空虚な穴としか、言いようのないものだ。

「俺は、あのガキとは違うって言ったろ? お前 みたいな奴に、取り込まれたりしない」

 石標の前で母親と消えた童女の後ろに、黒い影 が付き纏っていた。慶吾の家で見かけた時……いや、その前に見かけた時から、童女の影となって重なっていたのだ。それが、あの子の視界を塞いでいると気付 き、無理やり引き剥がした。

「寂しいからって、同じように寂しい奴を引き込 もうなんて、なんて間抜けた考えなんだろ。寂しさは、寂しさじゃあ埋められない。お前に言ったって、言葉が通じるとは思っちゃいないけどねえ」

 ここまで固執してしまっては、何の音も聞こえ ていないだろう。

 ――なら、分からせてやろうかねえ。

 御影はこれでもかというほど――清々しく、 笑って見せた。


≪了≫