風もない夜は、静か過ぎる。押し潰されそうな静寂の中で、鴉堂の店主、之春だけが生き生きとしていた。

「出したはずの文が、いつの間にか店先に置かれ ている――こんなもの、不思議でもなんでもない。文は出されていなかった。端から、そういうことなのさ」

「しかし、あすかは文を書いていたのだ。儂も、 書いている姿を何度も見ている」

「良くお聞きったら。あたしは、文は出されてい ない、と言ったんだ。書いていないとは言っちゃいない」

「……では?」

「飛脚に渡していないってこと。そうすれば、文 は佐島屋の中に残るだろう。ねえ、おなえ?」

「――はい」

 唐突に名を呼ばれ、一瞬、息を飲んだものの、 おなえはしっかりと返事をした。

「あんたは、お嬢さん付きの女中だったね?」

「そうです」

「お嬢さんの文を預かったのは、あんただね?」

「ちょ、ちょっと待て」

奥 太郎は置いていかれまいと、急いで口を開く。

「先ほどからうちの大事な奉公人を疑っているよ うだが、根拠は何もあるまい?」

「根拠? ふん、いちいち面倒なお人だ……。あ のねえ、年頃の娘が書いた文だよ? 大事な大事な想いを込めて書いたもんだ。男の奉公人の手に預けたいとは思うまいよ。せっかく香まで焚いたのに、稲荷の においがする奴らには触らせたくないってのが、女心ってやつじゃないか。丁稚も同じだね。子供の手に渡して、汚されでもしたら台無しだ。そんな大切な恋文 を預けるとしたら、仲の良い女中だけ。まさか、あんたの娘は、自分の手で飛脚に頼みに行くのかい? 愛しいあのお方への文を、どうかどうか届けてくれろ と? 名の知れた料亭のお嬢さんが、そんなこと、できやしないよねえ。ほうら、どうなのさ、おなえ? 言ってごらん。あんたが、お嬢さんの文を、飛脚に届 ける役だったんだろ?」

「……はい」

 か細い声だった。いや、声だけでなく、その小 さな体まで消えてしまうのではないかと思った。

「しかし……しかしだ。文を届けぬ訳が分かるま い? こんなことでは、二百五十両の後金は払えぬ」

「分かってる。ちょっと黙ってなよ」

 うんざり気味に言い放ち、之春はおなえに、視 線を向ける。

「おなえ、あんた、旦那の娘とは幼馴染だって ね。佐島屋で奉公する前は、まるで姉妹みたいに遊んでいた仲だって、宏が聞き拾ってきたけど?」

「……仲良くして頂いていました。お嬢さんは、 本当に優しくて可愛らしくて、屈託がなくて――」

「その縁もあって、佐島屋に奉公に来た。嬉し かったかい?」

「はい、はい。もちろんですっ」

 これまでで一番、声高に答える。その目は真剣 で、輝きを持っていた。

「……だったら……だったら、なぜなのだ。どう してお前は、恩を仇で返すような真似をしたんだっ。あすかや儂がどれほど悩んでいたのか、お前は知っていたろうっ」

 思わず、奥太郎は声を張り上げた。おなえに手 を伸ばしかけたが、その手は宏に押し止められ、空を掻く。

 おなえはふと、顔を伏せた。腿の上で握った手 は、震えている。蝋燭のわずかな明かりでも分かるほどに、彼女の顔から血の気が引いていた。

「……文を届けさせなかったことはあっさりと認 めておきなら、訳は話さぬというのか。言え――言いなさい、おなえ。はっきりと、この儂を見て、答えなさい」

「ちょっと、本人に話させたら、鴉堂の出番がな くなっちまう。伴ノ甫、おなえの口に猿轡でも噛ませておきな。そうすりゃ、旦那だって、あたしに心置きなく後金払えるってもんさ」

「旦那さん、そりゃあ、やりすぎだって」

 さすがに猿轡を噛ませはしなかったが、之春の 脅しが効いたらしく、おなえはすっかり口を閉ざしてしまっていた。

 仕方がなく、奥太郎は之春に向き直る。

「さっさと教えぬか。勿体ぶったところで、おな えを許すことはできんのだぞ」

「許しておやりよ。おなえは好いていたんだも の。だから、文を届けなかったんだ。憎くてしたことじゃあないんだし、高が恋文ひとつのことでこの娘を放り出すのは、佐島屋ほどの店の主がすることじゃな いだろうよ」

「高が? 高がだと? このことでどれだけあす かが悩んだことか。いや、あすかだけではない。儂とて、この縁が禍々しいものなのではないかと、心底、案じていたというのに。それが……まさか、女中の横 恋慕が要因だとはな」

 唾を吐き捨てたい気分だ。

 ――今までの恩を忘れ、素知らぬ顔で儂らを騙 していたなんて。

 なんて奴だ、と呟いていると、

「待ちなって。せっかちなお人だね」

 之春が、これみよがしに長く煙草の煙を吐い た。

「おなえは、甲士郎に横恋慕なんかしちゃいない よ」

「何? しかし、さっきは――」

「ところで、あたしは、沖緒屋の反応が気になっ ていたのさ。文の件に関していえば、不安を感じているのは佐島屋のほうだけ。旦那のことだ、沖緒屋に甲士郎の安否を確かめに行くくらいはしたろう?」

「あ、ああ……それとなく、訪ねた」

「だけど、沖緒屋はいつも通りだった。そうだ ね?」

「沖緒屋には、甲士郎からの文が届いている と……見せてもらったが、確かに甲士郎の手であった」 

 親の元には元気な文が届いている。それを知 り、あすかの文が知らぬ間に戻っているなどとは、言えなくなってしまった。

 ――これは、佐島屋に怪異の要因があるの だ……。

 そう決まったようなものだ。愕然とし、家路を 辿るのが精一杯だった。

「だから、鴉堂に泣きついてきたって訳だ。ま あ、本来なら、沖緒屋のほうが異変に気付きそうなものだけどねえ。だって、愛しい許嫁から文が一通も来ないんだ。親に、娘は病じゃなかろうか、店が大変な のではなかろうかと、聞きそうなものだろうに。それで、佐島屋へ向かう前に、宏には浅草に行ってもらっていたのさ」

「二日もかかってしまいましたが」

 宏が照れ笑いを浮かべる。首の後ろを指先で掻 き、悪戯を見つけられた子供のようだ。

「ずっと引っ掛かっていたんだ。甲士郎が長崎へ 修業に出たってこと。いずれは料亭の旦那に納まるんだもの、己で包丁を持つことはない。それなのにどうして、こんなにも唐突に長崎へ?」

「主だとて、料理に明るくなければ――」

「だったら、佐島屋で修業するのが筋ってもん じゃないのかい。いっくら親類縁者が長崎に居たとしても、己が主となる店の味を覚えるのが先だろうよ。何か腑に落ちなかったんだ。まるで、婿入りから逃げ ているように思えてねえ。そこでさ、婿になる奴の話を聞き込ませた。他に女でも居て、駈け落ちしてんじゃないかと考えたんだけどねえ」

 ほんに残念と首を振る。人の不幸のあら探しを して、楽しんでいるのだ。

「……甲士郎はそのような男ではない。儂が見込 んであすかの婿にと決めた男だ。女の噂があれば、婿などに決めようものか」

「宏も、そんな話ばっかり、聞いてきたみたい だ。誰に聞いても、真面目で、親を想う良い息子だとさ。だけど――宏、話しておやり」

 之春は、肘置きに右腕を預け、気だるい様子で 煙管を銜える。代わって宏が、奥太郎に顔を向けた。

「話のついでにと、沖緒屋さんについて小耳に挟 んだことがあります。甲士郎さんの兄――盛市さんという沖緒屋の跡取りですが、このところ、すっかり姿を見かけなくなったと言います。なんでも、鍋をひっ くり返し、煮え立った湯を顔に浴びてしまったとかで、療養中だそうですね」

「ああ。顔の皮は爛れ、酷い火傷だと……」

 初めて鴉堂を訪れた時、沖緒屋の跡取りについ て口籠ってしまったのは、そのせいだ。奥太郎には、盛市の火傷すら、文の怪異の災いかと案じていた。どうして――と、苦しむ娘の姿を見ているのも、辛い。

「盛市さんにお会いして、甲士郎さんの事を伺い たかったのです。それで、薬売りに扮して火傷薬を売りに出向いたのですが、沖緒屋の旦那さんに突っぱねられてしまいました。確かに、療養中では無理も言え ません。忍び入るにしても夜を待たねばならず、その機会を窺っている間に日が暮れ、人通りもなくなった刻限でございました。沖緒屋の裏木戸を叩く者が現れ たのです」

 宏は一旦、言葉を切る。わずかに目を細め、夜 の闇の中にいた者を思い出そうとしていた。

「目付きの悪い、やくざ者のようでした。男は沖 緒屋の木戸を叩き、何度か内を伺う素振りをしていました。しかし、中から応えがないのを確かめると、ブツブツと悪態をついて帰っていったのです。ですか ら、後をつけました」

 一歩間違えば、命も危うくなりそうな場面であ るのに、宏は平然と言う。奥太郎は、若干、背筋に寒気を覚えた。

「あ……後をつけて、どこへ行ったのですか?」

「行き着いた先は、古いお堂のような所でした。 お察しとは思いますが、中は賭場です。客のふりをして中に入り、追ってきたやくざ者を探しました。彼は、お堂の奥――衝立の向こうで、胴元の男と何やら深 刻な顔で話し込んでいたのです。何を話していたか、気になりますよね?」

「もちろんだ」

「ただ、容易に近付ける雰囲気ではなく、相手が どのような目的で沖緒屋を訪ねていたのか分かりませんから、無闇に目立つことはできませんでした。ですが、あのやくざ者が、沖緒屋と関わりあるのは事実で す。それが、沖緒屋の誰かということなのですが……」

「気味の悪い言い方をしないでくれ。……まさか 甲士郎が賭場に出入りしていた、と?」

「そう思われますか?」

「……甲士郎の素行は、縁談話を持ち込む前に調 べてあります。……では、盛市のほうか?」

「そう、思われますか」

 意味有りげに笑むのが、不気味だ。

薬 売りに扮したままの宏は、沖緒屋に火傷薬を売ったという出まかせを、周囲の博徒を相手に口にしたという。相手が沖緒屋の名を聞いて、どう反応するか、適当 に博打に興じながら様子を見ていると、

「胴元が呼んでいる、話があると、あのやくざ者 が私を呼びに来たのです」

 まるで、釣りで大魚を得た者のように、満面の 笑みを見せた。

「胴元は私に、沖緒屋の様子を尋ねました。盛市 の火傷の具合や、話は出来るのかと尋ねました。私が、火傷を直に見たと思ったのでしょうね。ですから、私も話を合わせることにしたのです。火傷はかなり酷 く、唇が曲がるほどの傷が残っていると。喉の奥も焼けているようで、声が出せないと言っておきました」

「よくもまあ、咄嗟にそのような嘘をつけるもの ですな」

「このくらいのことができなければ、之春さんの 手伝いは出来ませんよ」

「はあ……そうですかね」

感 心というより、呆れてしまう。

「それで、胴元はなんと?」

「どうやら沖緒屋の息子が、かなりの借金をして いるそうです」

「甲士郎と同様、盛市に関しても悪い話は聞かな かったが……。賭場に出入りし、金遣いも荒いなど、聞いたことがありませんでしたよ」

「私も同様です。盛市さんは、沖緒屋をよく支え ていると評判でした。ですが沖緒屋では、少し前から店を広げたいとお考えだったようです。賭場に行ったのは、その辺りの金を工面する為だったのではないか と。それに、私の見たところ、あれはイカサマ博打です。嵌められて、借金を負わされたのです」

「木戸を叩いていたやくざ者は、その借金を取り 立てに来ていたというわけですな」

 しかし、奥太郎の問いに、宏は微笑むだけだっ た。

 訝しんで、之春に顔を向ける。

「どういうことだ? 盛市に借金があることと甲 士郎への文が、どう関わっているというのだ?」

「まあ、そう焦りなさんな。ところで、佐島屋は 大丈夫かい?」

「は? 何が」

「盗人さ。近頃、料理屋や料亭を狙う盗人がいる んだってね。夜中に雨戸を外して忍び込み、金だけを奪って逃げる盗人。でも、それって、金の在り処や家の内情を前以て知っていなけりゃ、出来っこない芸当 だよねえ」

「……そう、かもしれぬ」

「誰が教えたんだろ? 奉公人かな。それとも馴 染みの客?」

「さあな」

「ああ、こういう考えもあるよ。餅は餅屋。料理 屋のことは料理屋に聞けって、ね」

 さらりと言われた言葉に、目を見開いた。之春 がいわんとしていることが、分かったからだ。

「同業のことは、他の奴より詳しいだろう? い つ頃、どんな客が来て、どれだけ金を落としていくか、ある程度は分かるはずだ。親しい所なら、家の中にだって入って行けるし、見取り図だって書ける。金の 在り処にも察しがつくってもんさ」

「お前は……それを、盛市がやっていたとでも言 うつもりか」

「昨今さあ、倹約倹約ってそればっかり。息が詰 まりそうじゃないか。羽目を外したいどこぞの若旦那とか、お大名の若様とか、こっそり芸妓あげて遊んでるんだろ。今時、盗みに入るなら、それなりに格式あ る料亭か舟宿だ。それに、利がなけりゃ、わざわざ誰かに借金を負わせるなんてやらないよ。そもそも鴨があの賭場に飛び込んだのだって、店を大きくする金を 工面するのが目的だ。店を大事に思うなら、店を畳んで借金を返すなんて念頭にない。借金を帳消しにするには、相手の言いなりになるより他、なかったんだろ うさ」

「その賭場の胴元が、盗人だという証はあるま い? お前の話は、それが前提のこと。証立てができなければ、お前の話は妄想にすぎん」

「証立て? そんなもん、あたしがすることじゃ ないんだけどねえ」

 言いつつも、之春は楽しげに唇の端を上げた。

「盗人が次に狙っていたのは、あんたんとこの店 だったようだ。ほら、店の様子を窺っていた男が居たろう? あいつが盗人の一味さね。まったく、下手な見張りを立てたもんだよう」

「あれは、お前が寄越した者ではなかったの かっ」

「あたしらが、そんなお粗末な真似をするもんか ね。今夜辺り、懐の大金を持って店に帰っていたら、盗人の餌食になっていたかもしれないよ。ここへ寄って良かったろ?」

「何がいいものかっ」

 こうしている場合ではない。店には、娘や奉公 人たちが居るのだ。

 ――鴉堂の者だと思って捨て置いたのに……こ のようなことになろうとは。

 己の浅はかな言動が、ひどく腹立たしい。

「儂は帰る」

 勢い、立ち上がりかけると、行く手を宏が遮っ た。

「ご安心ください。もう、お役人には知らせてあ ります」

「いや、しかし、今朝店を出る時は、確かにあい つは店の前に居たではありませんか」

「ですから、日中、佐島屋さんを屋敷の外でお待 ちしている間に、之春さんと、知り合いのお役人にお知らせしておいたのです」

「あいつの手柄になるのは癪だけど、ま、たまに は恩を売っておかないとな」

「伴ノ甫さんったら、またそのようなことを仰っ て」

「火盗改の役人のくせに、宏さんを小馬鹿にしや がってさあっ。宏さんも、ちゃんと怒りなよ」

「はい、はい」

 宏はほろほろと笑んでいる。この男に、怒るな どという感情は、似合わない気がした。

「……とにかく、店は安心ということだな……良 かった。ありがとうございます、宏さん」

 胸を撫で下ろし、奥太郎は再び、その場に腰を 下ろす。鴉堂を訪れて、まだ四半刻ほどだが、疲労は限界に近い。二、三度、深く息を吐き出す。瞼を閉じ、ゆるりと開けると、之春を真正面に見据えた。

「――そろそろ本題に入ってくれ。娘の文が、な ぜ、甲士郎に届けられることはなかったのかを」

「まだ分からないのかい? 沖緒屋の息子は、賭 場で借金をこさえて、盗人の手助けをしている。甲士郎は長崎に修業に出ると言い出した。許嫁であるあすかの文は、おなえの手で出されることなく、佐島屋の 旦那はそれを気に病んで破談までお考えのようだ、と。まさに、沖緒屋の狙いはそれなんだ」

「つまり……こちらから婿取りの話を断るよう、 仕向けたということか。しかし、どうしてそんな回りくどいことをしたのだ。あすかが嫌なら、端っから断れば良かったのだ。盛市が悪事に加担していたとて、 婿入りする甲士郎に、非はない。……事情があった。そう思い、儂とて甲士郎を無碍にするつもりはないぞ」

「おやおや、お優しいことで。けど、あたしは盛 市が借金をこさえていたとは言ってないよ。むしろ、甲士郎が盗人に加担していると思ってるんだけどねえ」

「まさか――賭場の奴らは盛市の具合を案じてい たのだろう。盛市が借金をこさえたのだ。それに、甲士郎はもうじき、婿入りをする身。沖緒屋を大きくしたいと躍起になるなら、盛市しかおらん」

「降って湧いた、佐島屋との縁だよ。甲士郎も考 えたんだろうさ。せめて店構えくらいでも、佐島屋とつり合うようにしたいってさ。なけなしの金を持って賭場に行き、いい鴨にされ、盗人に利用された。甲士 郎は、焦ったろうねえ。佐島屋との縁組は進んでいくのに、盗人からは逃れられないんだから。佐島屋の婿に納まっちまえば、もっと悲惨だよ。奴ら、婿の悪事 をネタに、あんたからも金を脅し取ろうとしただろうし。だから、甲士郎は長崎に修業と称して、姿をくらましたのさ」

「だったら、こちらにきちんと縁組を断ってから 行くべきだ」

「縁組を断られたら、あんたは怒らないのか?  店の大きさは佐島屋のほうが上。たかだか小さな料理屋の息子に縁組を断られたなんて世間様に知れたら、娘の評判にも傷がつくんだよ」

「訳を知れば――」

「そう、それさ。あんたのことだもの。きちんと 得心のいくような訳を知りたがるはずさ。だけど、沖緒屋は真を話すことができるかねえ? 話しちまったら、沖緒屋もお終いさね。佐島屋から断ってくれたほ うが、あっちもこっちも傷は浅い。それで、沖緒屋は一計を案じた。顔見知りでもあったおなえを使って、娘の文が戻って来るっていう、幼稚な悪戯を仕掛けた んだよ」

 悪戯という台詞が勘に障った。之春は人を不愉 快にする、天賦の才を持っているに違いない。

 ――なるほど、天賦の才ならば、いちいち相手 にするのも馬鹿らしい。

 込み上げる怒りはぐいと堪え、聞き捨てならな い一言を確かめる。

「沖緒屋とおなえは、互いに見知っていたのか」

「おなえの母親は浅草寺脇の茶屋で働いていたん だろ。その辺りで料理をとろうと思ったら、沖緒屋を選んでも不思議はない。それに、現におなえは、沖緒屋の言いなりになってるんだ。疑う余地はない」

「お前は――すべてを知っていて、儂らを謀って いたのだな」

 怒鳴り声と共に、おなえは身を竦めた。すかさ ず、伴ノ甫がその身を挺して、奥太郎の視界からおなえの姿を隠す。

 雷のような声にも動じていないのは、之春と、 宏だけであった。

「落ち着けって。この娘は、甲士郎が盗人に加担 してるなんて知らなかったんだから。ただ、文を飛脚へは渡さずに、こっそりと戻しておくようにと、頼まれただけらしいよ」

「そんな頼みを承知するなんて……」

「……お嬢さんの……あすかお嬢さんの為だと、 言われました」

 伴ノ甫の後ろで小さくなりながら、おなえはど うにか声を絞り出した。鼻声なのは、涙を流しているせいだろう。

「あすかお嬢さんと、佐島屋を救う為だと……そ うと言われて、何を迷うことがありましょうか」

「この子はねえ、お嬢さんを本当に好いているの さ。だから、あすかの為と言われりゃ、一も二もなく、やっちまう」

「好いているなどと、ふざけている場合かっ」

「女が女に惚れちゃいけないのかい? この子 は、己が主を謀るって罪を犯してまで、あすかを守ろうとしたんだ。こんなに深い情はないよ」

 おなえがあすかに向ける好意。奥太郎はそれ を、妹が姉を慕うそれのように感じていた。家族が持つ好意――親愛。同じ屋根の下で寝起きしていながら、おなえが秘めた感情に気付いていなかった。

 ――娘を大事に思っていたのは、儂だけではな かったということか。

 娘の為にと言われ、それ以上、何を言うことが できるのか。

「分かった……おなえのことは不問にしよう」

「物分かりが良くて、何よりだ」

 おなえに代わり、之春が憎々しげに応える。

「それよりも、許せんのは長崎に逃げた甲士郎 じゃ。盗人が捕まったからといって、易々と帰って来られると思っているのか」

「ああ、甲士郎が長崎に行ったってのは、間違い かねえ」

「何?」

「沖緒屋としては、盗人たちとの縁こそ、本当に 切りたかったんだ。それには、生半可な場所じゃあ、すぐに探し出されるし、途中で悪党の仲間に見つかることもあり得る。裏切る素振りを見せたら、相手だっ て甲士郎を捨て置かないだろう。だから、婿入り前の料理修業と見せかけて、長崎へ発つと言い出したのさ。暫くしたら、流行り病か何かで亡くなったことにで もすりゃ、万事、上手くいくってもんだ。盗人も、地獄までは追っていけやしないもの」

「甲士郎め……儂がこの手で、息の根を止めてや りたいくらいだ」

「じゃあ、止めに行くといい」

「店を放り出して行けるものか。ああ、腹立たし いっ」

「あんた、考え無しにも程があるってもんだ。悪 党は、どこへでも追って行く。長崎に行ったと分かっていれば、長崎へ行って、甲士郎を探し出し必ず報復する。そんな恐怖に、あんただったらひとりで堪えら れるかい。逃げ続けても地獄を見るのなら、いっそ、どっかへ逃げたと見せかけて、元の所でひっそりと息を殺すのがいい。――甲士郎は長崎へなんぞ行っちゃ いない。我が家で身を隠しているよ」

「分かったぞ。盗人の一味が沖緒屋の様子を窺っ ていたから、そう分かったのだな」

 盗人たちは、甲士郎が長崎へ発ったと聞き付 け、追手を差し向けたに違いない。だが、実際に出向いていない者の形跡を、辿れる訳がない。疑念を抱いた連中が、沖緒屋に目をつけるのは当然に思えた。

「そこまで分かっているなら、沖緒屋へ乗り込ん で、よもや見逃すことはないでしょうなあ?」

 意味有りげな口調の之春に、奥太郎は首を傾げ る。

「見逃す? 捕り逃すの間違いだろう」

「ふん。こんなんで、大丈夫かねえ。ねえ、伴ノ 甫。あたしをこの旦那と一緒に連れてっておくれ。目の前でむざむざと甲士郎を逃がすのを、見届けてやらなくちゃ」

 あからさまに馬鹿にした言い方だった。伴ノ甫 も慣れた様子で、溜息だけを零す。

「すっかり引きこもって姿を消しちまうっての は、難しいことさね。いずれ遠くの地で死んだってことにする気なら、甲士郎の気配は微塵も残しちゃいけない。だから、甲士郎は別人になったんだ。――奴の 兄の盛市は、顔を火傷したそうじゃないか。元々、兄弟なんだから、顔の作りは似ているんだろう。互いに同じ火傷を作りゃ、傍目には区別つきやしない。多 少、声が違っていても、火傷のせいだと言い逃れできる。宏が騙ったように、声が出ないってことにしたって構わないさ。そうやって、盗人たちが諦めるまで、 盛市と称して養生してればいい。しばらくしたら、湯治とかなんとか訳をつけて、盛市の姿で、江戸を離れる。甲士郎はそのまま、どこかで人知れず暮らす腹積 もりだったんだろうさ」

 どうだい、と得意になってにやつく。

 奥太郎は、小さな唸り声を上げていた。

之 春が言うことは、筋が通っているようにも思えるし、絵空事のようにも聞こえる。鴉堂というこの店の雰囲気が、どこか、常と違うからなのかもしれない。

 ――飲み込まれてなるものか。

 流されそうになりつつも、奥太郎は己を奮い立 たせた。

「しかし、それほどの大事が、上手く運ぶもの か」

「沖緒屋の思惑通り、運ぶところだったじゃない か。あんたが信心深いおかげで、あすかと甲士郎の縁談を破談にするつもりだったんだから」

「儂が信心深いなどと、どうして――」

「ここへ来た時から、察しはついてたよ。熊野の 守り札を携えていたり、罰だなんだと騒いでみたり。よっぽど阿呆じゃなけりゃ、分かることさね。だから、宏を丁重に迎え入れてもくれたんだ。ほら、仏が遣 わしてくれた、とか思ってさあ」

「人の善意を逆手にとって……ほんに、呆れた悪 党だな」

「こちとら、怨まれる筋合いはない。さあ、文の 真相は明らかにしてやったんだ。後はあんたが、その目で確かめることだ。言っておくが、盗人が捕まれば、甲士郎も沖緒屋も、無傷では済むまい。娘の縁談は さっさとやめちまうべきだ。盗人の許嫁は、あの佐島屋の娘だって、讀賣に書かれちまう前にな」

「そ、それは困る」

 立ち上がりかけるや、

「お待ちよ。後金を忘れてる」

 フフフ、と之春が笑う。

「後金、二百五十。置いてから店に帰んな」

「後で必ず持参する」

「戯言も大概にしろって。なんの為に、今夜、あ んたをここへ連れて来たと思ってるんだい。懐に、金、入ってるんだろう」

「これは店の金だ。儂が勝手に出来るわけなかろ う」

「金を払う気があるんなら、今だろうと構わない はず。後々、嫌な心持ちでここを訪れるよりも、今夜でさっさとケリをつけたほうがいいんじゃないのかい。――おっと、金が足りないって嘘も通用しないよ。 昼に回った屋敷を聞きゃ、懐の膨らみ具合も知れようってもんだからねえ」

「……どこまでも、見透かしたようなことを」

「二百五十両ってのは、佐島屋の暖簾の値でもあ るんだ。そこんところ、よおっく考えてから答えな」

 ――嫌な奴だ。

 人の裏を探り、悪びれるどころか、さも己が優 位に立っていると言わんばかり。

 奥太郎は懐に手を突っ込むと、封も切っていな い五十両包みを五つ、之春へと放った。高質な音で夜の帳を揺する。

「これで文句はあるまい。こことの縁も、これっ きり。今後、佐島屋には近付くことはならんぞ」

「ええ、ええ。萬屋のほうはこれで縁が切れまし たがねえ。もうひとつ、忘れてるよ」

「なんだっ」

「宏への礼金さ。まさか、タダで用心棒にしたっ てことは――」

 皆まで聞く気もしない。

 己の紙入れを出し、一両金を鷲掴んだ。宏の足 元に投げ付けたのが、一体何枚だったのか分からない。数えもせず、今度こそと、戸に手をかけた。

「ちょいと、あんた。また忘れもんだ」

 無言で振り返る。泣き腫らし、赤い目をしたお なえが立っていた。

「旦那様……お許しください。お許しくださ い……」

 店を追い出されることも、覚悟しているのだろ う。必死になって謝るおなえを、奥太郎は憎むことができなかった。もっと憎い相手が、胸の内にいる。

「……店に帰るぞ、おなえ」

「旦那様――」

「黙ってついて来なさい」

 背後で、はい、と小さな声が聞こえた。

 店の外は、闇が深々と降り注いでいるかのよう な、新月の夜である。提灯を忘れたことに気付いたが、引き返しはしなかった。

 二度と、振り返るものかと、心に誓う。再びあ の――鴉堂の明かりを目にすれば、今度は金だけでは済むまい。生気を吸い取られ、無事に帰り着くことはできないだろう。

 奴らは屍に群がる鴉ではない。

 奴ら鴉が、屍をつくるのだ。

 闇夜の鴉は、姿が見えない。店の明かりは、藁 にも縋りたい者たちへの、餌だ。その戸を潜れば、まんまと鴉の餌食である。

「気ぃ付けな……か」

 夜が明ける前に、沖緒屋と話をつけよう。あす かにも、事の次第は告げねばなるまい。

 慌ただしくも、決してやり直しのきかない一日 が始まろうとしていた。

 

壱 『恋文』了