――妖筆抄奇譚こぼれ話――

 

  春 暁 しゅんぎょう〜                  深町 蒼

 

 

 

 

 

とっ ぷりと夜が深くなってから、慶吾は家に帰りついた。父親はまだ研究所に残っている。一区切りついた慶吾だけが、十日ぶりに軍の研究所を出ることを許された のだ。

 鍵もなしに玄関の戸を開ける。

 どれだけ留守にしようと、近頃は戸に鍵をかけ ないようにしていた。父親と二人暮らしの男所帯。盗られるものなどないし、この家には勝手気ままに入り込んでは、飯や酒を腹に入れて行く者がいるからだ。

 ――そうでもしなければ、あいつは飢え死にし ても気付かないだろうから。

 ふと、困った表情になる。

 靴を脱いだ。廊下を真っ直ぐに、自室へと向 かった。

 ふと、その足を止める。

 小さな月の明かりを受け、庭に面した濡れ縁に 座す厳つい背を見つけた。

「そうか……勝手知ったるは、捺さんも同じか」

 ぽつり、呟く。

 海軍将校であり、三つ年上の友人でもある香上 捺瑪(かがみ なつめ)は、手にした盃をちょいっと傾けた。

「裏木戸が開いてたぞ。不用心だな」

「裏は捺さんのために開けてあるんだよ」

「?」

「この縁側は捺さんの定位置だ。表から来るより 直に裏から来た方が面倒がないだろう」

「まったく……俺は、あの化け物絵師と同じ扱い か」

「まさか。少なくとも捺さんは、酒は自分で持っ て来てくれるから、大変ありがたい。それと、御影は化生絵師であって化け物ではないんだが」

「ふん。気分の悪くなるような絵ばっかり描きや がって。俺に言わせりゃ、おんなじことだ」

 随分、景気よく盃を煽る。飲み干した後で、チ ラリと慶吾を一瞥した。

「あの絵師の面倒を看ている気分はどうだい」

「皮肉でも言うつもりか?」

「単なる興味だよ」

「興味って……面白がるな」

「こっちは心配してやってるっていうのに」

「心配なんか不要だ。面倒を看ているといって も、長屋を世話したくらいで、大したことはしていないんだから」

「家に無断で入り込んで、酒を飲み尽くされても 平気にしているんだから……お前はそうやって、いつも好んで苦労を引き受けている。何を言っても聞きやしない」

 呆れた顔で溜息をつく。

 御影は、たったひとりの肉親であった姉を、病 で亡くしていた。独りぼっちになった少年の手をとった時、慶吾はそれを面倒などとは思わなかった。

 これは自分の勝手なのだ、と――今でもそう 思っている。

 その優しさで、いつも貧乏くじを引かされてい るのではないか。捺瑪は、そんな慶吾を心配してくれているのだ。

 慶吾は上着を脱ぎ、隣に腰かける。捺瑪の傍ら には空の盃と酒の瓶が置かれていた。だが、捺瑪は注ごうとしない。下戸の慶吾も、盃には手もつけなかった。

 互いに口を噤んでいた。ひどく静かな時が流れ ている。暖かい春の風が頬を撫でた。

 捺瑪はこの場所で庭を眺めながら、酒を飲むの が好きだった。たまにふらりと来ては、ひとりで好きなだけ飲んで行く。酒の肴に、御影をからかって怒らせるものだから、慶吾にとっては迷惑に思うこともあ るのだが。

 今夜は肴になる御影もいない。

 静けさに浸りつつ、慶吾は庭に咲き始めた野花 を見つめる。捺瑪の手が幾度目か、瓶を掴んだ時、

「珍しく無理な飲み方をしているように見える が、どうかしたのか」

「そうか?」

 慶吾の視線を軽くかわした。

 だが、こちらが引かないと見ると、小さな溜息 をつく。

「そんなに見られちゃ、酔えるもんも酔えなくな る」

「ちっとも酔っているようには見えないけど?」

「だったら、好きに飲ませてくれ。たぶん……し ばらくここには座れなくなる」

 なぜか。

 理由に心当たりがあった。

大 陸での戦況が芳しくない。海軍が出兵するのも時間の問題だろうと、研究所内で囁かれていたのだ。

「そうか。行くんだな」

 あっさり口にした。

 捺瑪は薄く笑う。

「もう少し、驚けよ」

「捺さんがここへ来てそんな飲み方をする時は、 必ず何か不本意なことがあった時だ。何を言ったって、どうしようもないだろう」

「まあ、なあ」

「行くなとでも言ってほしいのか」

「やめてくれ」

 即答し、身震いする素振りを見せた。

 表ではおどけた様子でも、内心は違うと、長年 付き合いのある慶吾は知っている。だから、いつも気の済むようにさせていた。

 ――だが、今回は……。

 戦争に行くという。しかも、捺瑪の様子を見る 限り、前線に向かうのだろう。捺瑪が言った「しばらく」という言葉が、心に重くのしかかっていた。

 生きて帰れるか分からない――。

 それを暗に含んでいるようで、怖かった。

「行って来いよ、捺さん」

 捺瑪の横顔をしっかりと注視する。

「行って、そして、ここへ帰って来いよ」

「そりゃあ……約束はできないな」

「捺さんが帰って来なきゃ、ここは御影にあけ渡 してしまうぞ」

「なんだ、それは」

「いいのかい?」

 一寸、口を噤む。慶吾の目を見、ふっと穏やか に笑った。

「俺が戻るまで空けておけよ。その裏木戸と…… この場所も」

「ああ」

 ここに、捺瑪の帰る場所がある。

 慶吾は共に行くことはできない。せめて、この 共にある一時を、胸に留めていてほしいと願った。

 心が折れかけた時、その添え木になってくれれ ばいい。

 どこにいようと、友の無事を願うこの想いはす ぐ傍にあるのだと。

 

 

 

 東の空が明るくなり始めている。薄くたなびく 雲の輪郭が、陽に透けて淡く色付く。

 ゆらゆらと、陽光が盃の酒に反射し始めた。

「春は曙と言うが、俺は月見酒のほうがいいね え。あと、お前が作る酒のアテなんかがあるとありがたい」

 にやり、唇の端を上げた。

 つられて、慶吾も微笑する。

「用意しておこう」

 捺瑪は春の暁と共に、酒を飲み干した。

 

 

《了》