暗夜の鴉〜鴉堂雑記〜
                    深町 蒼

四『春、之也(はる、これなり)』

 

 鴉堂は萬屋である。故に、面倒な代物をおっつ けられることも多々ある。

 他に売り手が見つかりそうな品は、幾ばくかの 銭で買い取りもするが、どうにもならぬガラクタは大金をせしめて引き取るのを常としていた。その、どうしようもないガラクタの中には、たいそうないわくが ついた品が、たまに混ざっている。そこらの道具屋では始末におえず、最後の最後に、鴉堂へと回ってくるものだ。特に、道具にまつわるいわくは、値を上げる ものと、そうでないものがある。

 鴉堂が引き取るものは、たいてい、後者であっ た。

 そればかり扱っていたのでは、到底、商いにな らないのは、年端もいかぬ子どもでも分かる。これを大金に代えるのが、鴉堂主、之春(ゆきはる)の腕なのだ。

 以前、恩を売った旗本に、掛け軸を買わせた り、望みが叶う代物と口八丁で売り付けたり――伴ノ甫に、よくもまあ、手が後ろへ回らないもんだと呆れられる始末。これまで、誰も訴え出ないところを見る と、之春の口八丁は露見してはいないのだろう。伴ノ甫などは、いつか必ず罰があたると思っている。

 この日も、いつも通りの不穏な夜だった。

「弟だって?」

 客を前にして話半分に聞いていた之春が、思わ ず声を上げる。茶を持って来た伴ノ甫も、奥で刀の手入れをしていた宏も、目を丸くするほどの大声だ。

「どうしたのさ、旦那さん。そんな大きな声出し てさあ。ほら、お客さんがびっくりしてるじゃないか」

「お前ねえ……びっくりしたのは、あたしのほう だって分かるだろ」

「だって、話が全然聞こえなかったんだもん。 弟ってなんだよ」

「こいつが、あたしの弟だなんてぬかすから…… あたしとしたことが、間抜けな声を出しちまった……」

 額を押える之春の前では、卵のような形の顔を した男が、真剣な眼差しを向けていた。脚絆に手っ甲の旅姿のまま、伴ノ甫が差し出した茶をガブリと飲む。

 その横顔を、宏がまじまじと見つめた。

「之春さんとは似ていないような。叔母様のお紋 さんでしたか。あの方とは似たところがございましたが」

「種が一緒で、腹だけ違うんだと」

「言葉を選んでください。伴ノ甫さんの前です よ」

 眉を顰めると、隣で伴ノ甫がヒラリと手を振っ た。

「ああ、気にすんなって。おれだって、ガキをど うやって作るかくらい、知ってるから」

 大人びたというより、どこか捻くれた言い方 だった。之春の言葉の悪さにひと睨みしてから、客に向き直る。

「腹違いの弟だって? 本当に? 胡散臭いった らありゃしない」

「胡散臭いとは、失礼な奴っ。俺は兄と話してい るのだ」

「兄だって。へえ、旦那さん、慕われたもんだな あ」

 肘置きに寄りかかる之春は、面白くもなさそう に男を眺めていた。

「あたしに弟がいるなんて話は、聞いたことがな いんだけどねえ。えっと……名はなんといったか」

「久吉(きゅうきち)だ」

「そうそう。そんな名、親父殿の口から出たこと はないよ」

「それは、兄さんの――俺達の親父が隠していた からだろ。さすがに、外に子が出来たなんて言えやしない」

「お前の母親ってのは、どこの誰だね」

「尾張の宿場で飯盛り女をしてた、お滝」

「ああ、宿場女郎かい」

 宿場町では、様々な人や物が行き交う。侍も商 人も、酒も細工物も、男も女も。それを世話する者たちも大勢居て、大きな宿場町には色町も出来ていると聞く。

「なんだ。じゃあ、先代の子ってことはないよ。 だって先代に限って、女を買うなんて」

 伴ノ甫が胸を撫で下ろした。しかし、その先代 の子である之春は、クッと片頬を歪める。

「おやおや、お前の先代信仰をなんとかしないと いけないねえ。知ってるだろ。親父殿は、フラリと家を出ては、湯治場で一年も二年も過ごす人だ。その間に、女の影が一度もないとお思いかい。父といえど、 男だからねえ。子の目が届かないところで何をしていたんだか」

「旦那さんってば、自分の父親だろっ」

「そこまで言うなら、親父殿に確かめてみろ」

「だって……先代がどこに居るのか、皆目、分か らないんだ」

 糸の切れた凧とは、鴉堂の先代のことを言うの だと、この辺りの者は噂している。特に店を之春に譲ってからは、どこを放浪しているものやら。たまに届く文は、あちらの湯治場、次はこちらと、長く一所に 留まっている様子はない。店の主などには向いていないと、常々言っていたのだ。本当は旅役者になり、方々の町や村を周りたかったという。しかし、親から継 いだ店もあり、生まれた子は足が悪く、外で生業を探すのは困難。せめて、子に店を譲るまでは――その我慢が、五年前、店を之春に譲った途端に爆発したとみ える。今や、糸の切れた凧どころか、風となってしまったようだ。遠いお江戸の向島で、己の隠し子が店を訪ねているなど、夢にも思うまい。

「二十年前に、どこの宿場に寄ったかなんて聞い たって、本人も覚えちゃいないだろうしねえ。まあ、嘘か真か、確かめようがないわな。それとも、あんたが何か、証になるようなものを持ってるのかい」

「ここに、ある」

 そう言って、久吉は懐を探る。小さな守り袋を 取り出した。中には、小さく畳んだ紙が入っている。

「これ。見ておくれよ」

 黄ばんで、今にも擦り切れそうな紙だ。そこ に、お世辞にも綺麗とは言えない、釘を並べたような字で、「命名、久吉」とある。それだけならば、なんのことはない。問題は、その後ろに書かれた名だっ た。

 鴉堂、春次――之春の父であり、先代の鴉堂主 の名が、しっかりと記されていた。

「こいつは、母さんから持たされていたもんだ。 それって、親父の字だろ?」

「そうだねえ。親父殿の手と、一緒だ」

「それなら、決まりじゃねえか。俺は鴉堂春次の 息子で、之春の弟」

 久吉は、小躍りでもしそうな勢いだ。しかし、 伴ノ甫と目が合うと、途端に表情を険しくする。

「なんだよ。何か文句でもあんのか」

「おれは信じないぞ。先代は、旅に出る時は必 ず、お内儀さんの位牌を持って行くんだ。そんな人が、いくら旅先で羽目を外したからって、遊女との間に子を作るなんて考えられない」

「さっき、兄さんも言ったろ。親父も、男だっ たってことさ」

「万が一、そうなったとしても、先代はきちんと 旦那さんには話す。不義理はしない方なんだからっ」

「母さんが、兄さんには言わないでくれって頼ん でたんだ。こちらは、色々大変だからって」

「大変? 大変ってなんだよ。お内儀さんが早く に亡くなったこと? それとも、旦那さんの足が悪いってこと? そんなの、今のあんたの出現に比べりゃ、どうってことないっての」

「こいつ――丁稚の分際でっ」

「丁稚じゃねえっ」

 一触即発。掴み合いになれば、体の小さな伴ノ 甫に勝ち目はない。すかさず、宏が間に入った。

 その様を見、之春は鼻で笑う。

「うちの小僧は、ズケズケと物を言うよ。あたし の弟なら、覚悟しておくんだね」

「旦那さんっ。おれは絶対に、認めないぞ。こん な奴が先代の隠し子だって? まさか。そんな馬鹿な話があったら、おれは丁稚にだってなんだって、なってやるっ」

「へえ。そうかい。でもねえ、お前なんか丁稚に なれるもんかね。ただの居候のくせに、いったいいつまで居座る気だい」

 これには、之春の暴言に慣れているはずの伴ノ 甫も閉口した。ぐっと、唇を噛み締める。

「どうしたね? 悔しいのかい? お前は、親父 殿に言われて仕方がなく、あたしの面倒を見ているんだろ。そこから解放してやろうってんだ。久吉がいりゃ、伴ノ甫の手は必要ないしねえ」

「そんな奴に、旦那さんの面倒がみれるか」

「力は、お前よりもありそうだよ。――ああ、そ れに宏の代わりも出来そうだねえ」

「旦那さん……宏さんまで、お役御免にする気か よ」

「だって、久吉ひとりで二人分働いてくれりゃ あ、手間賃が浮いていいじゃないか。伴ノ甫、お前、商人の才覚ないねえ」

「うっせえっ。もう、今日という今日は頭にきた ぞ。先代やおれたちより、こんな奴の話を信じるなんてなっ」

 力任せに床に手をつき、勢いだけで立ち上が る。之春と伴ノ甫の間で視線を行き来させている宏に、手を差し出した。

「何してんだ。宏さん、行くよ」

「しかし、之春さんをひとりにするのは――」

「大丈夫だよ。この人には、たった今、会った ばっかりの弟がいるんだもの。世話は全部、やってくれるってさ」

「私は、鴉堂からお金を借りている身ですので ――」

「だから、前にも言ったよな。ここの手伝いより も、もっと身入りの良い仕事があるって。早く金稼いで、一刻も早く、こんな店とは縁を切るんだっ」

 まるで、道楽息子を叱る母親の小言だ。

 之春が、ちらりと辺りを見回す。

「伴ノ甫」

 ようやっと、宏を立たせた少年が、怒りの形相 で振り返る。

「なんだよっ」

「出ていく前に、やることがあるだろ。ここに、 火鉢を忘れてるじゃないか」

「火鉢って――」

 キョロリ、伴ノ甫の目が動く。火鉢はいつも、 店の真ん中に置かれていた。瑞雲の間で龍が泳ぐ姿が描かれた火鉢は、伴ノ甫の両腕が辛うじて回るくらいの大きさがある。

「――しょうがねえなあ」

 火鉢と、情け容赦ない主とを見つめた少年か ら、深い溜息が洩れた。不貞腐れながらも、ひと抱えもある火鉢を、之春の傍へと押しやる。赤い色を大きくしたり、小さくしたり、炭は呼吸を繰り返す。

「これでいいだろ。さ、宏さん。行こう」

「あの、荷物は」

「後で取りに来りゃいいって。じゃあ、どうぞご ゆっくり」

 厭味たっぷりに言い置いて、伴ノ甫はさっさと 店を出る。宏も草履を履いたが、思い出したように、ふと立ち止まった。

「私も、これにて失礼いたします。お気をつけ て」

 最後の忠告は久吉に向けられていたのだが、当 の本人がそれと気付かなければ、いくら忠告したとて意味がない。案の定、伴ノ甫と宏が居なくなると、あからさまに安堵の息を吐いた。

「足を崩して良いかい、兄さん」

「ああ、好きにおしよ」

「すまねえ。こっちは、問答無用で話も聞いても らえねえんじゃないかと、冷や冷やしてたもんだからさ。体が痛くなっちまった」

「前に訪ねた所は、話も聞かずに追い返すような 店だったのかい」

「は?」

「なんでもないよ」

 面倒そうに口にした後、之春は手文庫を引き寄 せた。中から、煙草でも入っていそうな、巾着袋を取り出す。だが、煙管は煙草盆に載せたまま、見向きもしない。

「ところで、聞きたいんだけどねえ。あんたの母 親だっていう――お滝とか言ったか。その人は、一緒に来ちゃいないのかい」

「死んじまった。去年、風邪をこじらせてさ。 あっと言う間だったぜ」

「苦労したんだろうねえ。うちの親父殿は、色恋 に関しちゃ不得手なお人だから」

「そりゃ、周りからは良い目で見られなかった な。母さん、何も言わなかったが、夜な夜な泣いてたんだ」

「かけなくてもいい女に、要らぬ苦労を強いたも んだ。で、母親が亡くなってひとりになったから、親父を頼って来たってわけか」

「それじゃあ俺が、いかにも集りに来たみてえ じゃねえか」

 一瞬、声に険が混じる。すぐに気付いて、取り 繕うような笑みを浮かべたが、之春は知らぬふりで火鉢の炭をいじり始めた。

「気を悪くしたのなら、謝るよ。ただねえ、守り 袋に鴉堂の名があったとしても、この店を訪ねるには相当の覚悟が要ったろうと思ってさあ。探し尋ねた時、誰かに言われたろ。鴉に喰われるから、行くのはよ したほうが良いって」

「ああ。だが、どうしても身内ってやつに会いた くなったんだ。親父は、いつも旅をしてるって母さんに聞いてたから、せめて兄さんに一目会えたらと願ってた。……でも、まさか、店の者を追い出すなんて思 わなかったぜ。俺のせいだよな。ごめんよ、兄さん」

 頭を下げる。

 だが、之春は久吉を見ようともしなかった。手 にしていた小袋の封を破り、中身を火鉢にくべる。やがて、細い煙が一筋、天井へと登っていった。

「兄さん、それはなんだい」

「香みたいなもんさ。ほうら、良いにおいだろ う」

「あ、ああ。そうだな」

 明らかに気に入らないにおいのようだが、久吉 は懸命に愛想笑いを浮かべる。懐から手拭いを取り出すと、額の汗を拭く素振りをみせながら、口と鼻を覆っていた。

 之春が、クツクツと喉の奥で笑う。

「……何が可笑しいんだ」

「いやねえ。そんなに暑いかい。春が近いとはい え、今夜は冷えると思っていたんだけど。炭を消そうか」

「い、いや。兄さんが風邪をひいちゃ大変だ」

「おや、優しいこと。伴ノ甫とは、えらい違い だ」

「そりゃ俺は、正真正銘、兄さんの身内だから よ。それより、俺なんかの話じゃなくて、兄さんのことを教えてくれよ」

 ずい、と膝でにじり寄った。

「あたしの、何を知りたいんだい」

「そうだな。商いのことでも、教えてもらおうか な。正直、兄さんがどんな商いを生業にしてんのか、良く分からなくてさ」

 店の中を見回しても、商いの手掛かりになりそ うなものが並んでいるわけでもない。畳敷きに設えた一角の床の間には、春を先取りしてか、梅が描かれた掛け軸が飾られ、その前には白磁の壺が置かれてい る。茶室かと思えば、内蔵の扉があったり、先ほどまで居た優男は刀の手入れをしていたりと、どれもひとつには繋がらない。初めて訪れた久吉が戸惑うのも、 無理からぬことであった。

「鴉堂は、簡単に言っちまえば萬屋さ。金さえ頂 ければ、なんだってやる」

「それにしちゃあ、随分と大きな蔵があるようだ が」

「ああ。あれはね、いわく付きの品々が入ってる のさ」

「いわく付きだって? なんだい、そりゃあ」

「そこらの古道具屋が、手をつけない代物だよ。 たいてい、怪異を引き起す品って言われてるものだけどねえ。――抜くと、血を見ずにはいられない刀だとか、水を張ると己の顔以外の者の顔が映り込む桶だと か。そういえばこの火鉢も、いわく付きの品だよ」

 と、火鉢を久吉のほうへと押しやった。

「これは、さる大名屋敷から譲り受けた品でね え。ここに、龍が描かれてるだろ? この龍が、夜な夜な、火鉢を抜け出しては人を喰い殺すんだよ」

「喰い……殺す? だって、こりゃ、ただの絵だ ろ」

 久吉はカラカラと笑う。しかし、薄い笑みを浮 かべる之春を見ていると、徐々に不安が大きくなったようだ。口元だけ、引き攣った笑みを作り、火鉢の龍を注視する。

「嘘だと思うなら、それでも良い。だけど、あた しン所に来て、どうかこれを百両で引き取ってくれろと頭を下げて行った大名が居ることは、間違いないんだ。ほうら、龍の足に絡みついてる雲、うっすら朱色 が混じっているだろう。こいつはねえ、人を喰らった龍の足についた血が、滲んだ跡だ」

「これが、百両」

 思わずといった様子で、生唾を飲み込んだ。額 に、本物の汗が浮いている。

「だ、だけどよう、そんな危ない代物なら、寺か 神社にでも納めりゃ良かったんだ。わざわざ百両つけて引き取ってくれだなんて、おかしかねえかい」

「ほう。良い所に気付くねえ、お前さん」

 ニヤリ、唇の片端を歪める。凄味のある笑み に、久吉の背筋に悪寒が走った。

「そうだねえ。これが最初に持ち込まれた時は、 三十両出すから引き受けてくれと言われたんだ。古い蔵から出てきたとかで、気味が悪くて屋敷には置いておけないからと。うちがいわく付きの品を扱ってると いっても、始めっから金を出して引き取らせようって客は珍しいのさ。それでちょいと調べてみた。そしたら、その大名家では、五年で三人の奉公人が死んでい ることが分かった。皆、病死ってことで届けが出てたんだけどねえ」

「それが? 流行り病でポックリなんて、妙なこ とでもねえけどな」

「届けは出ていても、その亡骸が親兄弟にも引き 渡されず、葬られていたとしてもかい」

「うつる病だったのかもよ」

「そうかもしれないよ、確かにね。それを確かめ るためにさ、墓を掘り返したんだ」

「――は?」

 之春が何気なく言った一言に、久吉は首を傾げ た。当人は気付いていないが、之春の話を聞き始めてからというもの、常にはない金の値を口にし、常にはない行動を聞かされ続けている。

「亡骸を見りゃ、何か分かるかと思ってさあ。宏 に、墓を掘り返させた。それで、すべてが分かったのさ」

 もちろん、墓を掘り返すことなど、許されるこ とではない。商いのためとはいえ、見咎められれば只では済まされない。

 しかし、今でもこうして商いを続けていられる のは、

「――相手の動きを封じりゃ良い。それには、弱 味を握るのが一番、手っ取り早い方法さね」

「つまり、亡骸を検分したことで、お大名家の弱 味ってやつを握ったんだな」

「宏が見たところじゃあ、どの亡骸にも傷があっ たそうだ。犬か、大きな獣にでも噛まれたような傷跡が。ま、昔の亡骸は骨になっちまってたらしいが、その骨にだって跡が残っていたって言うからね。皆、何 者かに噛み殺されたのは明白さね。――さあて、何に噛み殺されたのか?」

「まさか……そいつらを殺した下手人っての が……この龍だって言うんじゃねえだろうな。そんなの、単なる迷信だろ」

 馬鹿な、と言いつつも、久吉の顔から血の気が 引いていく。火鉢の龍と目が合い、一瞬、金縛りにあう錯覚に陥った。

「信じないんなら、それでもいい。だけど、こい つを持ち込んだ大名家の奴らは、火鉢の龍が下手人だと信じていたよ。だから、下手に寺に預けて、万が一にもお家の不祥事が明るみに出ないように、うちへ引 き取らせようとしたのさ。うちなら、金次第で一生口を噤むし、よしんばこの龍が再び暴れたとしても、死ぬのは怪しげな店の者たちだからねえ。不気味がっ て、誰も調べようとしない。うっかり、寺の住職なんかを喰い殺した日にゃ、お家にどんな罰があるか、分かったもんじゃないしねえ」

 己の屋敷で出てきた火鉢が原因で、人が死んだ となれば、大変な不祥事となる。大名家での不祥事は即、お家断絶、藩の取り潰しに繋がる大事。家臣たちは、藩と領民を守るためという名目で、その事実を隠 したのだ。

 いわくが分かれば、脅すのは容易い。そのすべ てを突き付けると、相手は口封じの意味も込めて、之春が提示した百両の値を了承した。

 かくして、百両の持参金付き火鉢は、鴉堂預か りとなったのである。

「あんた……なんて、命知らずなんだ」

 久吉の表情は、どこか怯えているようにも見え た。

「ただ脅したって、相手が他に持ち込もうとした らお終いさね。それこそ、あたしを手討ちにしたって良かったんだ。脅しってのは、それが確実に効く相手にじゃなきゃ、意味がないんだよ」

 いわく付きの品の扱いに慣れ、絶対に他言はせ ず、いざとなれば容易くこの世から葬り去ることが出来る――その条件に、鴉堂は当てはまった。

 久吉が、掌を額にあてた。わずかに体が傾いで いる。

「なんて、危ない橋を渡って……」

「別に、無理してやってる商いじゃないさ。火鉢 に、百両の持参金付きでいただけたんだもの。他に売っ払っちまっても良かったが、伴ノ甫が五月蠅くってねえ」

「待てよ。他に売るって……もしも、また龍が人 を襲ったらどうするんだ」

「そりゃ、龍が悪いんであって、あたしが直に手 を下すわけじゃないもの。それに、こんないわく付きの品、他に欲しいって人は数多居ると思うけどねえ。憎い憎い恋敵を始末するのに、相手の女の家に置いて くるとかさ。ならず者の、下らないいざこざを治めるのにも、使えそうだ」

 傍で聞いているだけで、不穏な空気が漂う。久 吉の顔が、どんどん蒼ざめていった。

「震えているねえ。大丈夫かい」

「あ……ああ。平気だ……」

 まだ、肌寒い夜だというのに、額の汗は頬を伝 うほどになった。対して之春は、何事もない素振りで煙管に煙草を詰め始める。

「どうだい。鴉堂の商いは、分かったかい」

「そうだな……とても、まともじゃねえってこと が、分かったよ」

「まともな商いで、いったいどれだけ稼げるって いうんだよ。金を稼ぐためなら、あたしはなんだってする」

「その考えには、賛成するぜ。兄さん」

「――やめておくれな」

「……何を」

「その、兄さんっての、やめてくれって言ってん だよ。あたしとあんたは、これっぽっちだって、血が繋がっていないんだからさあ」

 ふうと、煙草の煙を久吉に向かって吹きかけ た。纏わり付く細い煙を、久吉は必死になって拭い去ろうとする。

「何言ってんだ。兄さんだって認めたろう。守り 袋の名を書いてくれたのは、父親だって――」

「確かに、あれは父が書いたもんだ。それは認め るよ。だけど、ありゃあ、久吉の名を記したもんじゃない」

「だったら……誰の名だってんだ」

「あたしの名だよ」

 之春は煙管を銜えたまま、擦り切れた紙に目を 落とした。

「父はなんでもやる人だが、字を書くのだけが苦 手だった。これを見れば、下手くそさが分かるってもんだ。いくら練習しても上達しなくってねえ、その字で証文なんかも書くから、後で読めなくって周りが困 るんだ。それでも、父の代の頃はまともな商いしかしてなかったから、損をすることはなかったんだろうさ。ほうら、この帳面、あんた読めるかい」

 文机の横に掛けられた大福帳を放る。久吉が震 える指で一枚捲るが、そこに書かれていたのは、まるで子供の落書きだった。

「釘で書いたほうがマシだって言われたこともあ る。自分では、真面目に寺子屋に通っていなかったからだなんて言い訳をしていたが、そんなんじゃあないんだ。あの人は、字を形として見ているのさ。だか ら、書き方もおかしいし、何かが足りなかったり、反対に多かったりする。それらしく見えりゃ、あの人には同じ字なんだ。――ご覧な」

 之春が手元の紙にサラリと書いたのは、「之 春」と「久吉」だ。親子とは思えないほど、流れるような美しい手で書かれている。

「之は、最初の点が長いし、春に至っては日が口 になってるわ、払いが短いわで、吉って字に見えなくもない。あんたが、久吉と読むのも分かる。だけどねえ、親父殿の字を見飽きてるあたしなら、これが之 春って書かれていると分かるんだよ」

 書かれた名が違う――しかも、その名を持つ本 人は目の前に居る。

 今まで愛想笑いのひとつも浮かべていた久吉 だったが、途端に、その嘘くさい笑みまで剥がれ落ちた。鋭い目で、之春を睨みつける。

「端っから……気付いていながら、俺の芝居に付 き合ったってのか」

「随分、あっさりと認めるねえ。芝居もやり通そ うとするんなら、もうちょっと付き合ってやっても良かったのに。ああ――もう、もたないか」

 久吉の息が上がっていた。背中に圧し掛かる重 いものに耐えるように、両手を床についた。

「うちの金を狙ってるのは、察しがついた。あた しの足はこの様だし、他は餓鬼と、居るか居ないか分からないような若い侍――この二人を追い出すことさえ出来りゃ、後は好きに金蔵を漁れるってもんだ。そ う考える輩は、あんたが初めてじゃない。金がある店に目をつけたまでは良かったんだけどねえ。真正面から飛び込んでくるなんて、馬鹿の極みさね」

「馬鹿だとっ。俺はなあ、天下に名を知られた赤 蛇の――」

「声を荒げると力を使うよ。それに、あたしはあ んたがどれだけの悪党かなんて、興味はない。この店が、これまで一度も盗人に入られていない訳を、あんたは知らないんだねえ。――あたしは、この店の金が 目当てで入り込んで来る奴らには、容赦しないことにしている。あんただって、外で散々言われたはずだ。鴉に喰われる、近付くなってね。それを無視して来 たってことは、どうなっても構わないって気で、ここへ来たんだろ」

「違う――」

「何が違うもんかね。ここに狙いをつけたこと、 後悔するが良いさ」

 身の危険を感じた久吉が立ち上がろうとし、足 が縺れて、どうっと倒れる。更にもがくも、体が言うことをきかず、手足を惨めにバタつかせるだけだった。

 何かがおかしい――久吉もようやく気が付いた ようだ。

「まさか、茶に毒でも――」

「口にするかどうか分からないものに、仕掛けを するもんか」

「じゃあ、なんだってこう、体が言うことをきか ないんだっ」

「あんた、さっき、火鉢の龍と目が合ったね?」

 ニィっと、唇の端を上げる。ぞっとする笑み だった。

「あんたの体に、龍が巻きついてるよ。火鉢から 龍が抜け出したんだ。餌をやってないから、腹が減ってるんだねえ。あんたを餌だと思ってる。ほうら、見えないのかい」

「え――」

「足が動かないだろ。喉に、龍の爪が食い込むと ころだ。苦しいねえ……骨が折れちまうかも」

 久吉の目が己の体を見――そうして、息を飲ん だ。見開く視線の先に、何を見たのか。声にならない悲鳴を上げて、そのまま、後ろへひっくり返る。

「旦那さん――っ」

 音を聞きつけ、外に出ていた伴ノ甫と宏が駆け 込んで来た。二人共、口と鼻に手拭いを当て、まるで火事場見物だ。

 伴ノ甫が、伸びた久吉を見下ろした。

「旦那さん……こいつ、大丈夫かよ」

 久吉は、口から泡を吹いている。息はしている ものの、体が痙攣を起こしていた。

「あたしの身より、盗人を案じるとはねえ。ひど い奴だよ、まったく」

「ひどいのはどっちだ。先代に、妙な疑いかけや がって」

「本気になんかしてなかったんだから、良いじゃ ないか」

「いくら盗人を懲らしめるためだってなあ、いつ もやり過ぎなんだよ」

「このにおいは、なんですか」

 宏が辺りを見回す。店に漂うにおいの正体を探 ろうと、手拭いを外しかけ、

「ちょっと、駄目だってば」

 慌てた伴ノ甫に、顔面を押えつけられた。

「まだ煙が出てってないから、口と鼻は押えてお けよな。本当に、危ない代物だからさ」

「火鉢に仕掛けをしたのは分かりましたが、何を 燃やしているのです?」

「えっと……なんとかって草から作った――」

「曼陀羅華だ。阿呆」

 文机に肘をつき、之春が呆れた様子で伴ノ甫を 見ていた。

「そうそう、曼陀羅華やら麻黄やら、とにかくい ろんなものを混ぜた、香だってさ」

 手文庫の蓋を開ける。中には、口を固く縛られ た小袋がいくつもあった。

「林松寺の和尚さんが、この手の香を作るのが得 意なんだ。狐の憑き物を落とす時なんかに使うんだって言ってたけど、他にも良からぬことに使っているのかもしれない。一応、門外不出らしい」

「そんな代物が、ここにたくさんあるのですね」

「なんでだろうな。旦那さんが脅し取ったんじゃ ないの」

 矛先を向けられた之春は、平然と小袋を摘み上 げた。

「わずかに煙を吸っただけなら、頭がぼうっとす るだけだが、多く吸いこむと幻が見える。こいつ、きっと龍に喰い殺されでもしたんだろ」

「旦那さんが火鉢を傍に置けって言った時に、ま さかとは思ったけどさあ。本当に使っちまうなんて。……この人も不憫だよなあ」

「何が不憫なもんか。人の金に手をつけようなん ざ、本物の妖に祟り殺されても文句なんか言えるものか」

「この男よりひどいことを平気でする人が、よく 言うよ」

「せっかく二人を外に出してやったってのに、ど うやら伴ノ甫も幻が見たいらしいねえ」

「幻よりも、旦那さんのほうが怖いって」

 モゴモゴと口の中で呟く。

 宏は、すっかり感心した様子で頷いていた。

「香で相手の動きを封じるとは、考えましたね。 これなら、之春さんは動かずともいいわけですから。しかし、之春さんも煙を吸ってしまったのではありませんか」

「あたし? あたしは大丈夫さ。己でした仕掛け に、己で嵌まるもんかね。あたしは、風上に座っている。煙は――」

 ふう、と煙草の煙を吐く。一筋の煙は久吉の上 を通り、開いた表戸の外へ消えた。

「後ろの障子戸から、隙間風が流れていてねえ。 あたしと客の座る位置は決まっている。ここで香を焚いたとしても、煙は全部、そっちへ流れるように出来てるのさ」

 良く考えられていると言うべきか、悪知恵が働 くと言えばいいのか。

 ようやく、香のにおいが薄れてきたところで、 伴ノ甫が久吉の顔を覗く。

「こいつ、どうして旦那さんの名が入った守り袋 を持っていたんだろう」

「この守り袋は、親父殿が持っていたものだ。ほ ん子供の頃は、あたしが身に付けていたがねえ。あたしが物心つく頃には、親父殿が取り上げちまった。おおかた、旅先でこいつに追剥にあったんだろうよ」

「大変だっ。それじゃあ、先代ったら、今は一文 無しかも」

「でも、どこに居るかも分からない人だからね え。金を届けることも出来やしない――」

 その時、表の戸口に人が現れた。六十半ばの男 は、大柄な体をいっぱいに広げ、満面の笑顔を見せる。

「やあ、参った参った。荷を、すっかり奪われて しまってね」

「先代っ。今、お戻りに?」

「ああ、箱根の山からようやく帰還だ。伴ノ甫は 変わりなさそうだな」

「はいっ」

 鴉堂の今の主である之春には、平気で乱暴な口 を聞くのに、先代の春次には実に礼儀正しく受け答えをする。育ての恩を感じているからのことだろうが、それなら之春への態度も改めなくてはならないところ だ。

 伴ノ甫の次に、宏へと話の矛先を向けている父 親を、之春は溜息混じりに眺めていた。話し好き、世話好き、人当たりの良い春次は、行く先々の湯治場で、さぞ人気者になったに違いない。今も、将棋勝負で 何人に勝った、などと自慢話を繰り広げている。その、どの性格も、之春は譲り受けていないのだが。

「ところで、親父殿。親父殿の荷を盗った男を、 捕らえてあるんだけどねえ」

「何? そりゃ、凄い」

 春次がようやく、伸びている男に気付く。恐る 恐る顔を覗いて、眉を顰めた。

「また、無茶なことをしたな」

「多少はね。飛んで火に入るなんとやらって奴 だ。火のほうが消えてやる義理はない」

「それで、この男はどうするんだね」

「金目のものは返してもらおうよ。もとは親父殿 の金だしねえ。あとの身柄は、大川端で晒し者にしても良いし、裸で日本橋を歩かせるってのも良い考えだ」

「おいおい、之春。せめて奉行所に引き渡すくら いで勘弁しておやりな。しばらく牢に留め置かれりゃあ、改心するだろうよ」

「今は、奉行所の拷問のほうが酷いことをするん だ。あたしに捕まってたほうが、幸せかもしれないのに」

 しかし、春次は頑として承知せず、あとは奉行 所に任せることとなった。

 あからさまに、伴ノ甫が安堵の息を吐く。

「また、鴉堂に妙な噂が立つところだった」

 内心のぼやきが口から出ていることに、本人は 気付いてもいなかった。

「今さらこの店にどんな噂が立とうが、変わらな いけどねえ。――それより、親父殿。これ」

 鉤なぐりの字が並ぶ紙と、守り袋を見せる。途 端、春次の表情が変わった。わずかに震える手で、守り袋を受け取る。

「取り戻してくれたのかい。ありがとうよ、之 春」

「大事なもんなら、人に見せびらかすんじゃない よ」

「……お前は本当に、さも見ていたように言うな あ」

「ちぃと考えりゃ分かることだもの。高が守り 袋。盗人にとっちゃ、なんの価値もない。捨てられるのがオチだってのに、こいつ、わざわざ店を探して訪ねて来やがった。おおかた、親父殿の自慢話を聞いて いたんだろ。うちに金があると踏んで、擦り切れた守り袋なんか大事に持ってたのさ」

「ああ……お前の話は、たいそう評判が良くて な。皆、聞きたがるもんで」

「外で商いの話はしないでおくれな。こういう厄 介は、面倒でいけないよ」

 どちらが親か子か、分からぬような言い合いを した後、不意に、之春が目を細めた。

「約束しておくれな、親父殿。今後一切、外であ たしの話はしないって」

「どうしてだ。お前の悪口を言ってるわけじゃあ ないのに」

「言ったろう。厄介事はご免なんだよ。親父殿 は、無駄な厄介事を拾って来ようとしている。それが、あたしは我慢ならないのさ」

「無駄とはなんだ、無駄とは。儂は、良かれと 思って――」

「誰の為の、良かれ、なんだい」

 父親といえど、その口調は容赦のないものだっ た。他の客に対するのと同じ、すべてを見透かした目をしている。

 すぅと、手が動いた。煙管の先が、守り袋を示 す。

「中の紙には、足りないものがあるねえ。親父殿 は、それを探す旅に出ているんじゃないのかい」

「ただの湯治だ。歳をとると、腰やら足やら、痛 い所が増えるのだ」

「だったら、箱根なんて山は辛かろ? 老体に鞭 打って旅を続けるには、それなりの訳が要る」

「心ゆくまで旅がしたかったのだと、前に言った ではないか」

「そん時は、別に何も思わなかったよ。でも、そ れを見ちゃあ、ねえ」

 何が足りないのか分からぬ伴ノ甫と宏は、顔を 見合わせて首を傾げている。之春が言うことを、承知しているはずの春次だったが、

「これには、お前が万が一、迷子になった時、家 に帰れるように名を記してある。それだけのことではないか。お前、小さい時分、首から下げていたのを忘れたのかい」

 守り袋を、強く握り締めた。

「覚えているよ。その後、物心つくようになる と、親父殿がこの首からそれを取り去ったんだ」

「五つも六つもなって、迷子もなかろうと思って のことだ。それに、お前は外で遊ぶこともなかったし、不要だと思ったまで」

「それだけかい? 読み書きが出来るようになっ たあたしに、中身を見られたくはなかったんじゃないのかい」

 春次が、唇を引き結ぶ。否と言わないことで、 肯定をしているようなものだ。

「之春の名と、父親の名はあるのに、どうして母 親の名はないんだ――そう聞かれるのが、怖かったんだろう」

「之春――」

「その守り袋は目印の代わり。旅の空であたしの ことを話しているのは、あたしの名をダシにして、誰かを探し出そうとしているからだ。随分長いこと、探し彷徨っているもんだよ。そろそろ、諦めちゃどうだ い」

「諦められるのか、お前は。……自分を産んでく れた人だぞ」

「別に、あたしは気にしない。産んだ人と育てて くれた人が別だったからって、あたしの何が変わったわけでもないんだから」

 誰の元に生まれていたとしても、きっと足は悪 くなっていた。これは己が持っていた病のせいだ。足のことで卑屈になったり、まして、悲観したりはしない。之春にとって、この足が当たり前なのだ。

 だた、亡くなった鴉堂の母親のことを想うと、 さすがに胸が痛くなる。

「親父殿は、どうして今でも、その女を探してい るんだい。探し出して、どうするつもりなのさ」

「償いがしたいのだ」

「償い?」

「ああ。儂と女房の間には子が出来なくってね。 お前は、いわば、妾の子だ」

 己の息子に、面と向かって言う台詞ではない。 だが、不思議と之春は驚かなかった。

―― どこかで聞いた話だし、どこにでも転がっている話さね。そういえば、さっきの盗人も、同じような作り話をしていたじゃないか。

「子の為、店の為と、之春を儂ら夫婦に預けて姿 を消した。儂らは本当に酷いことをしたと、後悔したものだ。後悔したからこそ、之春よ、お前を大事に大事に育ててきたつもりだよ」

「そんなことは、分かっているさ。足の悪いあた しが困らないように、店を直したり、伴ノ甫を育ててみたり。金だって、相当使ったはずだ。だから、あたしは充分なんだよ。今さら、産みの母なんて出てこら れても、迷惑なだけさね」

「之春、これはな、儂の償いだと言ったろう」

 春次が、手にした守り袋を愛おしそうに撫で た。

「儂には、之春と、之春を産んでくれた女の行く 末を見届ける責任があるのだ。幸せに暮らしているなら、何もすまい。金に困っているようなら、手を貸すことくらい造作もない。もしも……死んで、この世に なかったとしたら――」

 探す相手が、生きているとは限らない。歳を とっていようし、病で呆気なくということもあり得る。

「もしも死んでいたら、あの世で夫婦になろうだ なんて言うつもりかい、親父殿」

 茶化して言う之春に、春次は優しい目を向け る。

「墓に手を合わせて、自慢話をしてやるのさ。お 前の産んだ子は、今や泣く子も黙る鴉堂の主だとなあ」

「そいつは自慢なのかい? 悪評のような気がす るけどねえ」

「悪評も評判のうち。儂は胸を張って、之春は儂 の子だと言える。立派に育ってくれて、ありがとうよ」

 言うや、之春の両頬を両手で摘まんだ。幼子に するような仕草で、之春は心底苦々しげに首を振る。

「あたしはもう、餓鬼じゃないんだ。やめとくれ な」

「照れるな、照れるな。久々に帰って来たんだか ら、よく顔をお見せ」

「伴ノ甫っ。この人を内蔵にでも放り込んでおき なっ」

 之春の慌てふためく姿は、珍しい。伴ノ甫はニ ヤニヤしながら、親子のやり合いを微笑ましく眺めている。

「旦那さんは、人の裏を見透かすのは得意でも、 それが表にひっくり返った途端に腰が引けんのさ。その点、先代は旦那さんの上をいくお方だよなあ。裏だったもんを容易く表に返して、旦那さんを褒め殺しに しちまうんだから。旦那さんの天敵は、先代だよ。先代が居る間は、無茶な商いもしねえだろ。それに、先代が帰って来ると、店の中が賑やかになっていい」

「ああ、そうですね」

 宏が、腕組をしながら頷いた。

「春次さんは、春のような人ですから」

「違うぞ、宏。もっと相応しい奴が居る」

 息子にちょっかいを出しつつ、春次はにこやか に振り向く。

「春、之也。――之春の名の由来だ。つまり、之 春自身が春なのだよ」

「よくもまあ、恥ずかしい名を付けてくれたもん だね。いっそ、名を変えちまおうか」

「恥ずかしいものか。赤子のお前がここへ来た 日、二人だけだった儂らの生活が明るく、華やいだものに変わった。お前は儂らにとって、正しく、春そのもの」

「やめとくれってばっ」

 恥ずかしさで死ねるとしたら、之春にとって は、今がその時だ。

 父親の春次に手を出すことも出来ず、かといっ てこの苛立ちか怒りか分からぬ感情を、どうにか吐き出さねば、病となって倒れてしまいそうだ。

 ――誰か、餌食となる者は。

 ふと、之春の視線が、伸びたままの盗人に向け られる。

「――決めた。やっぱりこいつ、裸にして日本橋 を練り歩かせるよ。伴ノ甫っ、もたもたしないで、さっさと着物を剥ぎ取っちまいな」

「そんなっ――。嫌だ。誰が好き好んで、男の裸 なんか見たいもんか」

「あたしだって見たかないっ。しょうがないね。 じゃあ、宏――」

「私も、ご免です」

 と、取り付く島もない。

 主としての威厳は、どこへ行ってしまったの か。

「……頼むから、旅に出てってくれ、親父殿」

 ――あたしの名のいわれなんて、一文にもな りゃしない。

 春次の荷を奪った盗人を、心から憎んだ之春で あった。

 

四 『春、之也』了