宏には、千草の話で気になっていたことがあっ た。闇討ちが、月夜に行われたということだ。特に、要人を暗殺しようとするなら、ひと気のない場所で、闇に紛れて襲うのが鉄則だ。それなのに、竹興を斬っ た男は、月が天に昇った晩に襲撃している。更にはその面まで晒し、千草に顔を見られていた。

 普通に考えれば、闇討ちに慣れておらず、闇雲 に相手を襲ったように見える。だが、宏は反対のことを考えていた。

 明るみの中でも、相手を逃がさないという自 信。

 顔を晒したとて、そこから素性を探られること はない、確信。

 ふと、千人首という名が浮かんだ。闇に紛れ、 時には月が皓々と輝く夜にさえ、狙った相手を仕留める討手の名だ。

 剣士と呼ぶ人もいれば、辻斬りと呼ぶ者もい る。その名は、千人もの人の首をとったと言われているからだが、真相は分からない。千人首を見た者がひとりも居らず、当然、捕らえられたという話も聞かな いからだ。

長 年、不意に思い出したように人々の口の端に上ってきた、ささやかな噂のような名。それは鴉堂の噂にも似ている。

竹 興を襲った男は、果して千人首なのだろうか――。

宏 は疑念を抱きつつ、行く手に立ちはだかる男の様子を注視した。

 月は丸く、提灯が要らないほど足元は明るい。 開けた道では、己と、隣を行く駕籠の影が、くっきりと地に貼り付くほどだった。

 鴉堂は、金貸しまがいのことまで商いにしてい る。元手は萬屋の仕事で得た金であるが、今では数千両が之春の手元にあるという。彼の商才に驚くと共に、このような怪しげな店から金を借りる者たちの心境 に付け込んでいるような気がして、素直に称賛できないのが厄介なところである。今夜も、之春に命じられ、愛宕下の道場に金を届ける途中であった。

駕 籠の中では千両箱が鎮座している。その脇を守るのは、道場から遣わされた若い門人ひとりと、宏だった。大金故に、門人だけでは心許なかったのだろう。必ず 金を道場へ届けて来いと、之春に念を押されていた。

駕 籠の中身を知る者でなければ、夜更けに急ぐ駕籠を誰も止めようとはすまい。門人は、そう考えているようだった。

 しかし、広小路から橋を渡り、近道になってい る店の裏手に入ったところで、宏は確かにその気配を感じた。

道 は狭い。月明かりも遮られる。夜には人が通らない道だ。風が吹き、どこからか乾いた音がさらさらと舞い落ちる。

「不気味な場所だ。急ぎましょう」

 門人が不愉快な顔で先を促した。すると、

 ざ、ざざざ。

 右手の竹林が、枝を揺らす。風が揺らしたもの ではない。明らかに、何者かが竹林を揺らしている。

宏 たちは足を止める。暗さに慣れた目が、飛び出してきた男の姿を認めた。

長 身でたすき掛けをし、袴の足を踏ん張って道を塞ぐ。顔は頭巾で覆われ、右手に槍を構えていた。

「な――何奴」

 声を上擦らせながら必死に問うたのは、若い門 人だ。このような場面に慣れていないらしく、刀に添えた左手が小さく震えている。

「お前らのその命、貰い受ける」

荒 々しい息遣いの低い声が言った。頭巾を通しているせいで、ひどく聞き取りにくい。

「い、命だと――戯言を申すな。我は、愛宕下、 伊東道場の門人ぞ」

「それがどうした」

「愛宕下にその剣士在りと言われた、伊東先生よ り直々に手解きを受けているのだ。お前のような辻斬り風情に、負けるはずがなかろう」

「辻斬り風情か。良かろう。儂の名を、教えて進 ぜよう」

言 うや、辻斬りは携えた槍をひと薙ぎする。風が切れ、草が横に流れた。

「人は我を、千人首と呼ぶ」

「せ――」

 門人と駕籠かきたちは、言葉を失っていた。

 人の噂でしか聞いたこともないような男が、己 の目の前に現れたのである。しかも、狙われたら最後、助かった者はいない。

宏 の頭に、竹興を殺害した下手人のことが浮かんだのは、この時である。わずかに襟巻きを引き上げ、口元を覆った。

「そうですか。千人首と出遭うとは、稀なことで す。しかも、千人首の得物が槍だったとは、存じ上げませんでした。随分と目につくものをお持ちなのですね」

 加えて、明るい夜に黒装束。

 千人首という名と併せて考えれば納得できそう な気がするが、宏の頭には之春の言葉が浮かんでいた。

「ところで、ひとつお伺いいたします。私たち は、いったい、何人目になるのでしょうか」

「お前――愚弄しているのかっ」

飄 々とした態度に、男が激昂した。相手の挑発に激しやすく、感情に容易く心を乱される。そんな奴が千人首を名乗るとは、いったい、どちらが馬鹿にしているの か。

 宏は小さな吐息をつく。右手だけで、刀を鞘ご と抜いた。

「申し訳ありませんが、悪あがきをさせていただ きます」

 丁寧な言葉遣いのわりに、上目に睨み据える視 線は鋭い。相手のほうが、明らかに圧倒されていた。

「今夜は静かな夜です。こちらも、ゆるりとやり ましょう」

「ふざけるなっ」

男 が走り来た。

 宏は、わずかに後ろを振り返り、駕籠かきと、 同行している門人に笑みを見せる。

「少し離れていてください。それと、手出しは無 用ですので」

 言うや、襟巻きの端を懐に入れた。

 間合いが縮まると同時に、槍を振り翳す。上段 から斬りかかる体勢だ。柄が長い分、遥か上から切っ先が降ってくる。

 ブウンと、風が鳴った。

 それを聞きながら、宏は素早く足を踏出し、更 に間合いを詰める。

 槍は離れたところから相手を狙えるものである が、反面、懐は無防備になりやすい。攻撃の隙をついて踏み込めば、槍もただの棒になる。

 しかし、宏が相手の間合い深く足を踏み入れた 途端、男の動きが変わった。柄に添えた左手を、強く引く。一瞬にして、振り下ろされようとしていた槍は男の胸前に戻った。

 たたらを踏んだのは宏のほうだ。飛び退いて間 を空ける。

「振り回すだけかと思いましたが、なかなか、隙 を与えてはくれませんね」

「ふざけた形のわりに、お前もなかなかの腕。刀 も抜かず、よくもまあ、素早く応戦できるものだ」

「こう見えても、用心棒を仰せつかっていますか ら。ここで斬り殺されでもしたら、主に面目がありません」

「死ねば、そんなこと気にもなるまい」

「引いてはくださいませんか。抵抗する相手な ど、面倒なだけでしょう」

「安心しろ。三途の河の渡し賃くらいは、残して おいてやる」

「二文、三文では足りないかもしれません。大盤 振る舞いは覚悟してください」

「ならば、大人しく死ね」

 再び、槍がしなる。

 わずかに湾曲した柄を、横目に捉えた。刀で受 けるには位置が低すぎる。

 宏は左に重心を傾け、後方へ飛んだ。一瞬前ま で足首があった辺りを、槍が掠めていく。

 体勢を立て直す間もなく、次の槍が繰り出され た。今度は確実に急所を狙っている。顔、胸、腹と突き出されるのを、際どい位置でかわし続けた。

 槍と、刀の鞘が交わる。月光がキラリと光っ た。黒塗りの鞘に、槍の刃を滑らせる。槍が地を叩いた。

 すかさず、宏が鞘を振り翳す。一気に槍の柄を 叩き折った。

「――っ」

 男が上体を崩す。前のめりになった体は、どこ もかしこも隙だらけだ。

 しかし、宏は男の体を避けると、そのまま鞘を 腰に戻していた。

「大人しく命を差し上げることができず、申し訳 ありません。では、通していただきます。――さあ、参りましょう」

「え――あ、はい」

 門人は呆気にとられていて、茫然とした返事を 寄越す。駕籠と共に、膝をついた辻斬りの横を通り過ぎた。

「待てっ――」

 背後から、辻斬りの声が追ってくる。

「待てと言われますが、疚しいことをしているの はあなたのほうです。早くお逃げになったほうが、身の為ではありませんか」

「お前、なぜ俺を見逃すのだ。今なら簡単に殺せ るだろうに」

 地に手をつきながら、顔は真っ直ぐに宏を見据 えている。

相 手は辻斬りだ。容赦してやる筋合いもない。普通ならば、番屋に連れて行くのが筋というもの。

 宏が辻斬りに相対する。口元を覆う襟巻きを、 人差し指で押し下げた。

「私のお役目は、この駕籠を目的の場所に届ける ことのみです。それに、人斬りをしたくて、刀を差しているのではありませんので」

「ならば、お前が刀を差す訳はなんだ」

「見栄というやつかもしれません。このような身 形です。人様からは、あまり良い目で見られたことがありません。せめて刀を差していればと、浅はかな考えをいたしました。このようなふざけた相手を斬った とて、あなたの憂さは晴れますまい。今夜は月が美しい。月見酒と洒落込むのも一興かと存じます。それに――千人首の得物に、やはり槍では無理がございま す」

「……最初から、気付いていたのか」

「これにて失礼いたします。先を急ぎますので」

「待て――」

 再び引き止められたが、宏は二度と、振り返り はしなかった。

 少し歩いたところで、右の袖口に触れる。指先 で裂かれた袖を確かめた。

 ――腕は良いのですが……どうして、千人首な ぞ、名乗るのでしょうか。

「どうかしましたか」

 黙した宏を気遣ってか、何か話していないと落 ち着かないだけか、伊東道場の門人がこちらを窺っている。宏は、清々しい微笑を作った。

「いいえ。何も」

 

 

 

 伊東道場は、武家屋敷が並ぶ道添いにある。夜 更けでは、どの屋敷も固く門を閉ざしていた。どこにある闇もひっそりとし、その道を行く宏たちの足音が、遥か遠くにまで聞こえてしまいそうだ。

「こちらです」

 門人の案内で木戸を潜る。他の屋敷内と同じ、 道場も静かであったが、わずかに胸をザワリとさせる感覚がある。皆、寝ているわけではなさそうだ。

 表口から離れた植木の間に、曲がった小道が続 く。小道を辿ると、広い庭に出た。

 濡れ縁に、蝋燭が二本、灯されている。その間 に、頑強な体躯の男が静かに座していた。歳の頃は四十後半だろうか。首は太く、着物を通していても、その腕の力強さが分かる。大太刀を揮っても、軸がズレ なそうな体つきだ。

「伊東利昌先生とお見受けいたします。私は、向 島鴉堂の宏と申します」

「金は」

「ここに」

 目配せすると、駕籠かきたちが千両箱を取り出 した。怖々と、敷石の上にそれを置く。

 顔を上げた先。伊東と目が合ったのか、駕籠か きはすぐに引き返した。

 宏はにこやかに、彼らの手に銀の粒を握らせ る。

「ご苦労さまでした。今夜の手間賃です。これで 一杯、飲んでください」

「あ……こいつは、多過ぎまさあ」

「遠慮はしないでください。その代わり、今夜こ とは、ご内密に」

「へいっ。そりゃ、もちろん」

 このような剣呑な場所に、長居は無用だ。駕籠 はそそくさ、小道の闇に消えた。

 微かに揺れる明かりの中、宏と、若い門人と、 伊東の影だけが地に貼りついている。沈黙を破ったのは、気まずそうな門人だった。

「では、わたくしも、これで失礼を――」

「待て」

 伊東のその一言で、踵を返しかけた門人は、瞬 時に動きを止める。傍目にも、彼が震え出すのが分かった。

「お前は何をしていた」

「わたくしは……言われた通りに……」

「まんまと運び入れさせるとは。失敗しおって」

「……申し訳ございません」

「お前など、門人でもなんでもない。即刻、出て 行け。二度と、当道場の敷居を跨ぐこと。成らん」

 容赦なく破門を告げられた若者は、口を開きか け、すぐに何も言わず唇を噛む。

「……失礼いたします」

 ようやっと言えたのは、別れの一言だけだっ た。地を見るように低く頭を垂れる。そのまま、姿は見えなくなった。

「さて、鴉堂の者」

「はい」

「千両を借り受ける形(カタ)は、主と交わした 約定にあるが、知っているか」

「万が一、返済のない場合は、道場の看板を貰い 受けると聞いております」

 伴ノ甫は、そんなものに千両出すなんてと、怒 鳴っていた。確かに、道場の看板を手にしたとて、之春にはなんの価値もない代物である。

「ふむ。お主も帯刀する者なら、道場にとって看 板がいかに大事なものか、分かっていような?」

「存じております。ですから、之春さんも千両、 お貸ししたのです」

「あのような男に、真の価値は分かるまい」 

 伊東の呟きは、聞こえぬふりをした。それが、 証人としての之春を貶しているものか、足が悪いことを蔑んでいるのか、分からなかった。

 黙した宏に、同じ想いを見たのだろう。伊東は 厚い唇を歪めた。

「看板の代わりに、いいものを形に渡してやろ う。――丙左(へいざ)」

 不意に、廊下の先から足音が近付く。黒袴の男 が、姿を現した。

「これは、辻斬り殿」

 宏が気安く呼び掛ける。相手はビクリ、怯えた ように立ち止まった。

 伊東は目を眇め、宏を注視する。

「分かっていたか」

「之春さんに忠告を受けましたので。必ず、金を 道場へ届けるように、と」

 それは暗に、金が狙われていることを示してい た。誰に、とは分からずとも、駕籠の中身が千両箱だと知ることが出来る者は限られている。

「千両が途中で奪われてしまえば、もう一度、鴉 堂に金を出させることが出来ます。奪った者と手を組んで、つごう、二千両を手にしようとしていたのですね」

「あの男、ただの萬屋かと思えば」

「そこらの商人とは違うでしょうね。共に居る者 にも、真意のすべてを知るのは難しいですから」

「喰えぬ男だ」

「喰うには、腹を壊す覚悟が必要ですね」

 張り詰めた空気の中で、宏だけが微笑みを浮か べる。

「では、あの男に渡しておけ。これが看板の代わ り――借金の形だとな」

 おもむろに立ち上がったかと思うと、伊東は辻 斬りの襟を強く引き、庭先に引き倒した。

宏の前に、辻斬りの背が転がり来る。

「こやつも、我が道場には不要のもの。下働きと して使うなり、殺すなり、好きにして良い」

 伊東の声は冷やかに響く。

 これには珍しく、宏のほうが困り顔をした。

「鴉堂は、人を形にして金を貸すことはしていま せん。それに、之春さんと交わした証文があるではありませんか。そちらはどうなさいます?」

「看板より、そやつのほうが物になろう。そう、 あの男に言え」

「ですが、この方は門人なのでしょう。それを、 殺しても良いなどと――」

「言ったであろう。期待に添えぬ者は、二度と敷 居を跨ぐことはならんと。――そもそも、そこな者は下男のようなもの。命じたことも出来ぬ下男など、使い物になろうか。居なくなったとて、困る者などおら ぬ」

「先生……」

 辻斬りの――丙左の口から、吐息と共に、絶望 の呟きが漏れる。地面の小石を鷲掴みにして、拳を握った。

「金は確かに受け取った。お主も、それを持っ て、さっさと去るが良い」

 伊東が、鋭い目で睨み据える。容易には動けぬ 気配が、辺りを包んでいた。


→続く