暗夜の鴉〜鴉堂雑記〜
                  深町 蒼



参『心ひとつ』

 

朝 日が昇り、目を覚ます。まだ眠たい目を擦って、宏は布団の上に起き上がった。呆けた頭を振る。布団に入ってから二刻ほどしか経っていないのに、なぜ目が覚 めたのかを考えていた。

明 け六ツを過ぎてしまえば、巷では寝坊と言われるが、鴉堂の内と外では流れる時が違うようだ。之春は夜商いのせいで、昼近くにならなければ起きて来ず、伴ノ 甫も四ツ頃まで夢の中にいる。

 一旦、目が覚めてしまうと、どうにも頭が冴え てしまった。着替えて、水屋に向かう。火を熾し、飯のしたくを始めた。不慣れな手付きで煙にまかれながらも、どうにか米と味噌汁を用意する。

「おはよう、宏さん」

 眠い眠い顔で、戸口に伴ノ甫が立っていた。四 ツまでにはだいぶ時がある。

「おはようございます。早いお目覚めですね」

「……ねえ、なんか焦げ臭い」

「そういえば、めざしを焼いていました」

 急いで表に出、七輪の上のめざしを取り上げよ うとしたのだが、慌てていたせいでポロリと取り落とし、さらには猫にそれをくわえられてしまった。猫は宏を見上げた後、塀を飛び越え視界から消えた。

「あーあ。いつも言ってるだろ。火を使ってる時 は目を離しちゃいけないって。あ、飯も焦げてるじゃないか。本当、宏さんってこういうことが苦手だよなあ」

「すみません」

「いいよ。あとはおれがやっとくから。それよ り、店で旦那さんが呼んでる」

「之春さんも起きていらしたのですか。今日は皆 さん、お早い」

「おれは叩き起されたんだ。まったく、勝手なん だからさあ、あの人は」

 子どもらしからぬ物言いに、思わず苦笑する。

 宏は店へと続く廊下を急いだ。早く目覚めたわ けにも得心がいく。離れで寝ているはずの之春の気配を、無意識のうちに感じ取ったからだ。習性とは面倒なものである。

 店に顔を出す。日中は閉め切られている雨戸が すべて開いていて、夜ほどの不気味さはない。

「之春さん、私にご用とか」

「こっちへおいでな」

 そう手招きする之春は、店の脇、畳敷きに設え た場所に座っていた。すでに来客がある。妙に婀娜っぽい、年増の女だ。近付くだけで、強く、白粉のにおいがする。化粧が濃く、赤々とした紅が目についた。

「この人が?」

 女は宏を認め、わずかに眉根を寄せる。

「なんだい、期待外れだったのかい」

「いや……そうじゃあ、ないんだけどねえ……。 なんて言うか」

「おかしな身形だって? まあ、否とは言えない ねえ。髷も結わない、二本差しだもの。朝でも昼でも、家の中でだって、襟巻きは外さない。――宏、あんた、本当に変わってるよ」

 初めて気が付いたかのように言う。惚けた調子 に、宏は微笑を返した。

「こちらのお客様は、どなたですか」

「おや、値踏みしてるような目が気になるかい」

「之春さんが、朝早くからお客様を迎え入れると は、珍しいと思いましたので」

「あたしらは、この刻限が、一番暇なもんでね え」

 宏の問いに、女が答えた。うなじの後れ毛を直 しつつ、小首を傾げる。流し目が之春に向けられているが、当の本人は文机に肘をつき、今にも眠ってしまいそうだ。

「冷たい男だよう。誰に似て、こんな男になっち まったんだか。父親にも、母親にも、ちっとも似ちゃいない」

「だったら、捨て子でも拾ったのかね。それと も、あんたんとこの廓で始末に困った女郎の子だったか? おばさん」

「之春さん、いくらなんでも失礼です」

 女を目の前にして「おばさん」などと。

 しかし之春は、宏の言を鼻先で笑い飛ばした。

「何、言ってんだい。この人は、あたしの父親の 妹。叔母にあたる人さ。そうじゃなけりゃ、こんな朝っぱらから来る客なんざ、締め出してやるよ」

 最後のほうは、心底、憎々しげに呟く。

 ――言われて見れば、目の辺りが似ているよう な。

 まじまじ、見比べていると、

「あたしは捨て子らしいから、叔母さんと似ちゃ いない」

 まるで、似ているところなどあるもんか、と言 わんばかりである。

 子供の駄々を聞き流すように、之春の叔母は小 さく笑んだ。

「身内なんだもの、似てて当たり前だと思うけど ねえ。あんたは小っさい頃から、変わらないんだから」

「何を言う。あんたが吉原の瀧峯楼に嫁入りした のは、十九か二十だったか? そん時、あたしはまだ生まれちゃいなかった。嫁入りしてからろくに会ったこともないのに、どうしてあたしの性格が分かるもん かい」

「分かるさ。こんな変てこな店をやってるくらい だもの。兄さんは、息子のあんたに甘い」

「親の話はいい。さあ、役者は揃ったんだし、早 いとこ終わらしちまおう。眠いったらありゃしない」

 大欠伸をし、ついでに眦に涙まで浮かべてい る。

 女は、之春から宏へ、視線を移した。

「あたしは、吉原は瀧峯楼の楼主で、お紋だ。探 し人がここに居るって知って、呼んでもらったんだけど……しっかし、このお人が宏さんだとは」

「不信な身形で、申し訳ありません」

「あたしみたいなもんに、何を申しひらきするこ とがあるんだね。いや、でもねえ……そうかい。あんたなのかい」

「何か?」

「宏に、縁談を持ってきたんだ」

 ひどく、どうでも良さそうに、之春は言う。

 何事につけ飄々としていると、伴ノ甫に太鼓判 を捺されたこともある宏だったが、この時ばかりは目を何度も瞬かせた。

「縁談――ですか」

「そうさ。良かったねえ」

「ですが、それは――」

「宏。これは、鴉堂の商いじゃあない。だから、 受けるも受けないも、あんたの心ひとつで決めて良い。店には、ビタ銭一枚、入ってきやしないんだから」

「あら、話を受けてくれるってんなら、持参金く らいは付けてあげようと思ってるんだよ」 

 お紋は、心外とばかり、声を上げた。

「あの、私が決めていいのでしたら、やはりこの お話は――」

「ちょいとお待ちな。これを預かってきたんだ」

 宏の言葉を遮ってお紋が差し出したのは、小さ な文だった。ほのかに、香が薫る。

「相手は、うちの女郎さ。若草って名だ。一年前 にうちに来たんだけどねえ……これから、稼いでもらおうって矢先に、病だってことが分かっちまって。もう長くはないって医者の診立てだ」

「その方を、嫁に迎えろと仰るのですか」

「こっちも、おっつけるみたいで、気が引ける さ。けどねえ、あたしだって鬼じゃない。死に際の願いのひとつくらい、叶えてやりたいって思うじゃないか」

「それはつまり……若草という娘が、私と夫婦に なりたがっていると?」

「最後だから、我が儘も聞いてやろうと思った ら、鴉堂の宏って男と夫婦になりたいなんて言い出すから、あたしはてっきり、そういう約束をした仲だと思っていたんだが……」

「残念ですが、お会いした覚えはありません。廓 にも行きませんし、どこで私のことを知ったのでしょうか」

「さあねえ。まあ、考えてみておくれな。夫婦に なるからって、この先、長く面倒を看るわけじゃない。医者の話じゃ、もってひとつきか、ふた月。それだけ我慢してくれりゃいい。死んだら、無縁仏として 葬ってくれと頼まれているんでね」

 よいしょ、と立ち上がる。宏の答えを待たず に、下駄を履いた。

「お待ちを――。私が否と言ったら、その方はど うなりますか」

「どうにもならないねえ。助かる訳でもない。廓 の中で死ぬか、大門の外で死ぬか。それだけの違いさ。うちは訳ありの子たちばかりだから……いや、他も同じか。何の苦もなく、廓へ来る子は居ない。だから せめて、死ぬ時くらいはきちんとしてやりたいのさ。――大事な商売道具だからねえ。気が向いたら、店においで」

 自嘲気味な笑みを残し、お紋は店を出て行っ た。

 途端、

「あーあ」

 之春が、思いきり伸びあがる。

「あの人の相手をしてると疲れる」

「之春さんに、ご親戚がいらしたとは知りません でした」

「変わり者のあたしは、親戚にも見捨てられた と?」

「いえいえ、そのようなことは」

「ふん、その通りさ。あたしは、親戚とは上手く 付き合えない。付き合いたくもない」

 眠気が限界にきたらしい。大声で伴ノ甫を呼 び、肩を支えられて、離れへ消えた。

 宏は、店にひとりきりになった。

 鳥の声に、風が天を渡る音。どれも、夜とは違 う、清々しさを持っている。この店には、もっとも似つかわしくないものだ。

 ふと、手にした文をみつめる。

 知らない女が、自分に宛てた文。明らかに恋文 と見えるその文を開け、静かに読み進めた。

 

 

 

 冴え冴えとした月夜のこと。覚えておいでで しょうか。

 蒼い月光が頬を照らし、冷酷さも高揚感もな く、ただそこに佇んでいらした。

 二年前の、あの夜から、あなたのお姿を忘れた ことはありません。

 無理なお願いとは存じております。ですが、間 もなくこの世を去る、哀れな女と思い、どうか一目でも会っていただけないでしょうか。

ど うか、どうか――どうか。

 

 

 

 宏は瀧峯楼の前に居た。

 昼に訪ねるのがいいかとも思いはしたが、日中 は女郎たちが体を休める、唯一の時。そのような時に訪ねるのも気が引ける。夕方、まだ人通りが疎らな刻限に、宏は大門を潜ったのである。

 暖簾を潜り、お紋を呼び出す。

「あらあら、本当に来てくれたのかい。ありがた や、ありがたや。さ、お入んなさいな」

 腹に一物ありそうな笑みは、之春に似ている。 そんなことを言えば、お紋も之春も、心底から深い溜息をつくに違いない。

 病の若草は、他の女郎たちとは別に寝かされて いるという。一階の、納戸脇にある小部屋だった。

「情がないなんて、言わないでおくれな。うつる 病じゃないのは承知だが、他の女郎の手前もあるしねえ」

「どのような病なのですか」

「心の臓が弱くなっているらしい。ここへ来る前 から自覚はあったみたいだが、隠していたんだよ。……まったく、これだから、お武家の娘って奴は。我が強くっていけないねえ」

 わずかに苦笑する宏を見、お紋がカラリと笑っ た。

「そう案じなさんな。若草の借金まで肩代わりし てくれとは言わないさ。金は、あの子の面倒をみていた花魁がもつから、安心おし。見たとこ、そう金があるふうでもなさそうだしねえ。あの之春だ。気前良 く、手間賃を払っているとも思えないし」

「察していただけると、ありがたいです」

「我が甥ながら、金にしか興味がない男だからさ あ。ま、近くに居るあんたたちが、一番分かってると思うけど」

 こういう時、金を貯めておけば良かったと思 う。浪費はしていないものの、之春の手伝いをしていると雑多に金がかかるのだ。お紋が言うように、懐に入る金もわずかだから、必然、宏に女郎を身請けでき ようはずもない。

「さあ、若草だ。優しくしてやっておくんな」

 お紋に促されて、ひとり、小さな部屋へ足を踏 み入れた。淡い行燈の明かりの下、薄い布団をかけた背が見えた。白粉と酒と、汗のにおいが混じり、滞った部屋。戸の外で嬌声が聞こえはしたが、ここだけ取 り残されているかのようだ。

 布団の傍に座す。こちらに背を向けた若草は、 微動だにしない。寝ているのかもしれない。

 辺りを見回し、枕元に盥と手拭いを見つけた。 手拭いを硬く絞り、若草の額の汗を拭く。 

 若草が、うっすらと瞼を開けた。

「起してしまいましたか」

「いえ……」

 体を起そうとするのを止め、宏は小さく首を 振った。

「どうぞ、横になっていてください。体は大事に しなくては」

「わちきは――」

「例え、長くないと言われている体だとしても、 です」

 若草の呼吸は浅く、早い。布団を通していて も、体の細さが手に取るように分かった。飯も、それほど喉を通らないのだろう。これでは弱っていく一方だ。

「お紋さんにお聞きしました。私宛ての文も、読 ませていただきました」

「あなた……」

 焦点の合わぬ目で、こちらを見つめる。部屋は 薄暗いものの、目の当たりにするぶんには、充分な明るさがあった。

「私は、鴉堂の宏と申します」

 そう告げた途端、若草の表情が変わった。初め に驚きの色を見せ、しだいに、こちらを訝る顔に変わる。

 対して、宏はすべて承知といったふうに、ニコ リ、微笑みを浮かべた。

「やはり、あの文を宛てたのは、私ではないので すね。あなたが夫婦にと望んだ相手は、別の方なのでしょう」

「どうして……」

「お相手に、嘘をつかれましたか」

「嘘なんかであるはずがありません」

 言葉遣いが、廓のそれから武家娘のものへと 戻っている。

 宏は、わずかに眉根を寄せた。

「その方を信じていたのですね。ですが、鴉堂の 宏は、私なのです」

「いいえ……信じてなぞ――信じてなぞ、おりま せん」

 はっきりと言い放つ。

 ――はて、どういうことだろう。

 夫婦になりたいとまで願った相手だ、それなの に、信じていないとはどういうことか。それどころか、若草の口調には憎しみさえ感じられた。

「あの……本当に申し訳ございません。お人違い で、このような場所にお呼びたてしまして」

「いえ。どうぞ、お気になさらずに」

「ですが、お人違いと分かっていて、どうして来 てくださったのですか」

「だって、気になりませんか。私の知らない方 が、私と夫婦になりたいとおっしゃっていると聞けば、放っておくことはできません」

「お優しい方……」

「優しさとは違うのでしょう。現に、こうしてあ なたを苦しめてしまいました」

「それは、わたくしの身勝手でございます。宏様 のせいではございません」

「身勝手の為に、そのように苦しまないでくださ い。お体に障りますよ」

「この身がどうなろうとも、構わないのです。あ の人に会わなければ……あの人に……」

 すっと目を細め、宏は若草の細い手を、己の両 手で包み込んだ。

「あなたがそれを願うのは、夫婦になりたいから というわけではなさそうですね。よろしければお話いただけませんか」

「ですが、これ以上はご迷惑になりましょう。ど うか、今宵のことはお忘れくださいませ」

「実は、今夜はあなたにお会いするというので、 休みをいただいてきたのです。今、戻ってしまったら、きっと仕事を言い付けられるでしょう。私を助けると思って、どうぞお話ください」

 ほろほろと、笑む。

 宏の屈託のない笑みに安堵したのか、若草も、 小さく笑った。

「鴉堂の宏様……あなたのような方を、今まで怨 んでいたなんて、わたくしは恥ずかしい」

「そんなに、ひどい男でしたか。あなたが想う宏 は」

「……ええ、ひどい人です。わたくしの……父を 殺した男ですから」

 若草の目が、暗い天井を見つめる。瞳が揺らめ く。

「二年前の月夜のことでございました――」

 

 

 

「それで、二年前に何があったんだよ」

 今夜も今夜で、之春はまた、得体の知れないも のを預かったらしい。魔窟となりつつある納戸に、新たないわく付きが増えてしまうと嘆く伴ノ甫が、夜な夜な嗤い出すという掛け軸を不気味そうにしまいなが ら、宏に聞き返した。刻限は、丑三ツ刻に近い。之春はいつもの場所に座し、つまらなそうに煙管を銜えている。

「若草さん――遊女になる前のお名前は、千草様 とおっしゃるそうですが、お父上は郷右近竹興様という方です。ご老中の側近のおひとりでいらしたとか」

「ご老中って、今の?」

「ご存じですか」

「存じてるも何も、今の政は実質、そいつが操っ てるって、もっぱらの評判だもの」

 天下の老中を「そいつ」呼ばわりなのだから、 伴ノ甫も、そうとうの怖いもの知らずである。将軍のこととて、目の前にしながら、「おい」と呼び掛けることだろう。

「竹興様が亡くなったのは、二年前です。それ が、千草様が文に書いていらした、月夜の晩のことだったそうです」

「それじゃあ、娘の目の前で父親は殺されたって こと?」

「そうです。病に倒れた伯父上を見舞った帰り道 で、何者かに襲われたようなのです。千草様は竹興様の機転で暗がりに隠れ、難を逃れましたが、竹興様は立ち合いも虚しく、命を落とされました」

「何者かにって言うけど、下手人の心当たりはな かったのか」

「竹興様は、温厚で真面目な方だったそうです。 人の怨みをかうこともなかったと」

「でも、下手人の顔は見たんだろ」

「見たことがない男だったと言います。竹興様を 害する理由からしても、下手人には、まったく見当もつかないそうで」

「真面目ってのは――」

 煙管を銜えつつ、何気ない口調で之春が言う。

「それだけで厄介なこともある。融通がきかな いってことだもの。政ってのは、まっつぐなだけじゃあ、やっていけない。万事、持ちつ持たれつさ。それに、あのご老中の傍に居た男なんだろう。そっちの怨 みを向けられたって考えるのは、難しいことじゃあないと思うけどねえ」

「恐らくは、之春さんの仰る通りだと思われま す。ですが、例えそうであったとしても、やはり、下手人を捕まえることは難しいのです。竹興様を亡きものにしたのは、闇討ちを生業とする者でしょう。その ような者たちをお役人様が見つけ出すのは、至難の業。よしんば下手人を捕らえたとしても、殺害を命じた方は顔も素性も晒していないというのが、常道です。 辿る道は、困難かと存じます」

「だが、宏の名に辿りついたじゃないか。遊女の 身で、さ」

 宏が、仇と間違われたのが面白いらしい。こち らを見る目の奥で、ニヤニヤ、笑っている。ただの縁談話より、よほど金になりそうだと踏んだのだろう。他人の不幸で飯を食うのを、何より楽しむのが鴉堂の 之春なのだ。

 そんな性格は、伴ノ甫も、当然、宏も承知して いる。伴ノ甫は喜色を窘めるように睨んだが、宏は小さく微笑を返した。

「お客様に、鴉堂の噂を聞いたそうなのです。向 島には、金しだいでどのような面倒も引き受ける店があるのだと。金を積めば、人殺しも厭わない、それは恐ろしい店だと教えられたそうです」

「そりゃあ随分と、噂がひとり歩きをしちまった なあ。その期待には応えたほうがいいのかねえ、伴ノ甫」

「旦那さん、人殺しは萬屋の範疇じゃないから なっ。絶対、手を出しちゃいけないんだ」

「ああ、もう。五月蠅いねえ。戯言に、いちいち 本気で怒鳴るんじゃないよう」

「本気だろ」

「ふん。旦那を信じないのかい」

「信じられるようなこと、何かしたことあんのか よ」

 と、いつものやりとりが始まり、宏は冷めた茶 を啜る。宏が鴉堂に厄介になる前は、どちらかが飽きるまで言い合っていたという。しかし、どんな暴言を吐こうと、足の悪い之春には伴ノ甫が必要で、伴ノ甫 も、己が他の店の奉公人として馴染めないことは重々分かっている。気が置けない二人を、少し、羨ましいとも思った。

「あの、お話の続きをしてもよろしいでしょう か」

 放っておくと夜が明けそうなので、悪いと感じ つつ話を戻す。

「千草様に鴉堂の噂を吹き込んだお客様は、そこ に剣士が居ると伝えたそうなのです。そのお話の剣士と、千草様が見た下手人と、歳格好が近かったようで」

「なるほどねえ。父親に手を下した下手人が金で 雇われた奴なら、鴉堂の剣士ってのは、まさに仇にはうってつけってわけだ。しかし、誰なんだろうねえ。鴉堂をネタにして遊女の気を引こうとした奴は」

「お知りになりたければ、お紋さんに伺って参り ましょうか」

「あの女が、客のことをベラベラ喋るもんかね。 良いよ、察しはついてる」

 明日あたり、宏は新たな面倒を押し付けられる かもしれないと、覚悟した。

 不穏な気配の之春をしり目に、伴ノ甫が行燈の 油を足しながら、

「でもさあ、宏さんを仇だと思ったんなら、どう して夫婦になんか? 仇に一目惚れでもしたのか」

 宏も、千草に同じ問いをした。

 仇と言うからには、本心から夫婦になろうとは 考えていなかったろう。余命を賭けて、下手人と刺し違える気だったのかと。

 しかし、

「千草様は、竹興様殺害を命じた黒幕を、知りた かったそうなのです。千草様にとって、本当の仇はその黒幕のほう。……己の手で、仇を討ちたいとお考えなのです」

「遊女の仇討だって? 芝居にでもかかりそうな 話だ」

「ですが、仇を討つにも廓のしきたりがございま す。大門を出るには、身請けか、自身が亡骸となるかしかありません」

「その為に、自分の親を殺した下手人と夫婦にな ろうっての? その女、病でおかしくなっちまったんじゃないのかい。無謀だよ。下手したら、自分が殺されるかもしれないのに」

 あの文は、相手への脅し文のつもりだったのだ ろうが、そもそも、そういうものを生業としている者には、ただの紙切れに過ぎない。

「千草様は、それほど切羽詰まっていたのです。 このまま、遊女、若草として死ぬのは堪えられない、あの世で竹興様に合わせる顔がないと……」

「結局、鴉堂の宏は人違い、仇も感違い。これか らどうすんの、その遊女は」

「実は、もう、身請けして来ました」

「――は?」

 伴ノ甫は、危うく油を取り落としかけた。

「だって――宏さんとは、なんの関わりもない人 だよ。それを――なんで?」

「身請けしたと言っても、実際には、千草様の付 き添いのようなもので。千草様の借金は、瀧峯楼で千草様の面倒をみていた花魁が、肩代わりをしてくださるそうです」

「いや、そうじゃなくてさ。宏さんが、遊女の面 倒をみる義理なんてないんだよ」

「分かっていますよ、伴ノ甫さん」

 いくら世情に疎いとはいえ、それくらいの事情 は知っている。無知でそうしたのではなく、考えがあってのことだ。

「千草様は、道弦先生にお願いしました。道弦先 生のお見立ても、余命、幾ばくもないということです」

「で? 宏は、遊女の仇討に手を貸してやるつも りなのかい」

 緩やかに、煙管の煙が流れる。視線でそれを追 いながら、宏は頷いた。

「たいそうなことは出来ないでしょうが、探して みるつもりです。私と、歳格好が同じ剣士を。もちろん、之春さんにお許しいただけるのであればの話ですが」

「うちの商いに障りがなければ、別に、何をやっ たって構わないさ。あたしには、まったく関わりない話だもの。しかし、江戸に居るとは限らない下手人を探そうって気が知れないよ。それも、なんの所縁もな い女の為に、見返りもなく、やってやろうってか。宏らしいねえ」

「いえ、見返りは期待しています」

「おや、珍しい。金かい? もしや、あの叔母が 持参金でもつけてくれたのかい」

 と、之春の表情がパッと明るくなる。だが、す ぐにつまらなそうに宏を見た。

「いや、金じゃあないねえ。宏なら飴ひとつで引 き受けそうだ」

 答えず、ただ、唇に微笑を浮かべる。伴ノ甫が 心配そうに、顔を向けた。

「宏さんが、そっちにかかりっきりになるなら、 商いのほうも考えなくちゃな。旦那さんも、無茶な頼みは引き受けるなよ」

「伴ノ甫さん。お気遣いは無用です。之春さんに 言いつけられたことは、何をおいても真っ先に取り掛かりますので」

「それじゃあ、宏さんが休む間がない。体を壊し ちまうよう」

「陽が高いうちは、何もすることがないと思いま す。闇討ちをするような手合いは、夜に紛れて動くもの。夜の商いは、それこそ、好都合です」

「おれとしちゃ、ありがたいんだけど……あんま り、無理はしないでおくれ」

「お約束いたします」

 微笑む宏に、伴ノ甫は尚も訝しげな視線を向け ていた。

 無茶を通そうと言うのだ。多少の無理はしよう がない。

 ――見返り、か。

 二年前の月夜の晩。千草の父が斬り殺された夜 に思いを馳せ、静かに息を吐き出した。



→続く