―― 妖筆抄奇譚 こぼれ話――

 

卯の花くだし                      深町 蒼

 

 

 

 

穏 やかな春の日をわずかに過ぎ、空は朝から一面の曇り模様である。空気もどこか湿っぽく、間近に梅雨の気配を感じさせていた。

こ の日、御影(みかげ)はひどく不機嫌だっ た。というのも、昼餉を拝借とばかりに出掛けた、友人の榊慶吾が留守だった為である。しかも、普段は鍵などかけないくせに、どういう訳か今日は玄関にも裏 の木戸にもしっかりと鍵がかかっていた。訝しんで戸を押したり引いたりしてみれば、ヒラリ、折り畳まれた紙が一枚、足元に落ちた。そこには几帳面な慶吾の 字で、

「急な用で三日程、留守にする。何かあれば、穂 栄堂さんを頼るように。慶吾」

 宛名はなかったが、明らかに御影に向けての言 葉だ。

 ――なんだい、俺に一言の断りもなしに。

 そもそも長屋暮らしの御影は、気が向いた時に しか慶吾の家を訪れることはない。断りを入れる必要もないのだが、慶吾の飯を期待していただけにむかっ腹だった。

 ――鍵かけてくくらいなら、俺に留守を頼んで くれたら良かったのに。酒と肴さえ用意してくれりゃ、何日でも留守番してやるのにさあ。

 内から鍵をかけ、穂栄堂から身を隠すこともで きたのに……と、本気で思う。

 紙を手の内で丸め、袂に入れた。ぐう、と腹が 鳴る。蕎麦でも食おうかと懐を探ってみるも、金は微々たるものだった。ここしばらくの間、穂栄堂から逃げ回っていた報いである。

「チッ。だから、慶さんに昼を貰いに来たの にっ」

 理不尽な怒りを戸にぶつけ、御影はさっさと踵 を返した。顎の辺りで切り揃えた髪を、ぐしゃぐしゃと掻き乱す。

慶 吾がいない間の飯をどうするか。大人しく穂栄堂に絵を献上して、わずかばかりでも手間賃を貰うか――などと思案に耽っていると、厚い雲の間から雨粒が落ち て来た。それは絹糸のように視界を流れ、やがてすべての景色を薄い絹布で覆い尽した。道を歩いていた者は、急ぎ足で屋根の下に逃げ込む。

霧 雨は髪をしっとりと濡らす。御影はフンと鼻で笑いながら、手を懐にしまいこんで歩き出した。

「今日は本当、ついてないねえ」

 慶吾は留守で飯にありつけないばかりか、雨に まで降られて濡れ鼠だ。こうなりゃ、長屋に戻って寝ているのがいいと、来た道を帰りかけた時だった。

「もし。絵師の水蔭(みかげ)殿とお見受けしたが」

 唐突に声をかけられ、思わず立ち止まる。振り 向くと、破れ笠に袈裟を着た、旅僧らしき男が立っている。歳は四十を回った頃だろうか。痩せてこけた頬に、まばらな無精髭を生やしている。数少ない顔見知 りの記憶を辿ってみたが、御影に思い当たる者はいなかった。

 塒の長屋や穂栄堂ならまだしも、こんな往来で 声をかけられることなど一度もなかったこと。御影はうんと剣呑な目で相手を睨みつけた。

「あんた……誰?」

「拙僧は信導(しんどう)と申す。そなたの力を借りたいのだが」

「力? ……こんなひょろっちい絵師に、どんな 力を借りたいっていうのさ。――ああ、呪いの絵を描けとか、そういうことかい? だったら、穂栄堂って店に絵があるからさあ、そっちから買っておくれな」

 姿無き、異形のものの姿を見る御影の化生絵 は、異界のものを「呼び寄せる」と言われている。それを目当てに買い求める者もいるようで、御影の絵を扱う穂栄堂などはそんな噂を案じてもいた。

 しかし、当の御影はといえば、

「どいつもこいつも、好き勝手に言いやがって。 絵で誰を呪い殺そうだなんて、悠長な話だよ。橋から転げ落としたほうが、よっぽど手っとり早いと思うけどねえ」

 自分は見えるだけで、描いた絵にはなんの力も ない。その絵を見、心を乱すのは、そう見えているほうの心にこそ闇が潜んでいる証だ。そんなアテもないことに期待される御影は、たまったものではない。

 辟易としながら言うと、僧侶は首を振った。

「絵が欲しいのではない。そなたの、その、人で はないものを見る力を貸してもらいたいのだ」

「……あんた、なんでそんなこと、知ってんだ よ……そもそも、俺を見知ってるのだっておかしいじゃないか」

 化け物の子――そう呼ばれたこともある。妙な 力があると分かれば、離れていくのが人の常だった。わざわざ直に、この力を求めてくる者など居はしなかったというのに。

 鋭い目を向ける御影に対し、

「なんと疑り深い目をするのか。拙僧の知り合い に、そなたを知る者がいただけのこと。よく話を聞いておって、もしやと思うて声をかけたのだ」

 朗らかに笑った。

「俺を知る奴……ねえ」

 御影の力を知るのは、生まれた村の者か慶吾の 他には、異形のものたちくらいである。

―― さて、どいつの知り合いだろうねえ。

目 をすぅっと細めた後、御影は唇の端を上げた。

「力を貸せって言うからには、礼は期待していい んだろう?」

「何をするかの前に、もう礼金の話か」

「こっちは、今晩の飯にありつけるかどうかの瀬 戸際なんだ」

 言う間にも、腹は鳴る。僧侶が呆れた様子で苦 笑した。

「事は容易いのだ。ある者の霊魂を見つけてほし い。それだけのことだ」

「霊魂ね。そんなもん、徳を積んだ坊主にもでき ることだと思うけど?」

「生憎と、拙僧はそのような法力を持つことがで きなかった。哀れな坊主の頼みと、笑ってくれ」

「別に、あんたがナマグサ坊主だって構わないけ どさあ」

 睫毛についた雫を一払いする。僧侶の胸の辺り に目を据えて、薄く笑んだ。

 

 

 

 

 信導が案内したのは、人家から離れた寺だっ た。周囲は鬱蒼とした松に覆われ、敷地の中は薄暗い。ジメジメと空気が湿気ているのは、先ほどから降り続いている雨のせいばかりでもなさそうだ。

「ひどい臭い」

 黴と埃と、何かが腐ったような臭いが鼻につ く。お堂を見れば、半分以上が崩れていた。人が離れて久しいのだろう。築地の瓦は苔生して、小さな松まで根をはっている。

 前を歩く信導は、慣れた様子で奥へ奥へと歩を 進めた。ついていく御影が、段々と眉根を寄せる。

 ――嫌な場所だよ。

 あちこちに、見えるものがある。ある男は子を 抱いて、ある女は木の枝に吊り下がっている。その誰もが生きる者ではなかった。

 寺は、あまり好きではないのだ。墓の下には亡 骸があり、霊と呼ばれるものも少なからずいるのだから。人が頻繁に墓参りに来る寺なら、まだいい。こうした人の出入りのない場所は、ただでさえ嫌な気が溜 まりやすい。それに呼応するように、悪しきものたちが集まってくる。その気配が御影の神経に障る。鬱陶しそうに辺りを一瞥した。

「それで? こんな所で、誰の霊を見つけてほし いって?」

 無縁仏でも放り込まれていそうな寺だ。こんな 剣呑な場所からは、さっさと立ち去りたい。

 荒れた墓所の真ん中で、信導は足を止めた。

「二十の女の霊だ。このどこかに墓があるのだ が、見つけることができない。霊の姿を見ることができれば、そこがあの娘の墓ということになろう?」

「ああ……そういうことか」

 おおかた、卒塔婆が朽ち果てでもしたのだ。し かし、それで霊を見つけようとするなど、聞いたこともなかった。僧侶だからこそ、余人には思いもよらないことを考えるのかもしれない。

「残念だけどさあ、この世に留まるような奴は、 未練を残す場所にいるもんなんだ。亡骸があるからって、墓の前に立ってるってことはないんだよ。そもそも成仏してたらどうすんのさ」

「成仏しているはずはない。……実は、その女と いうのは、拙僧が修行に出る前に将来を約束した女なのだ。拙僧が修行から戻ったら一緒になろうと……。拙僧も未熟者だった故、よくこの寺の片隅で逢瀬を重 ねていたのだ。必ず戻ると約束し、修行に出たのが五年前のこと。……だが、拙僧が修行に出た直後に、彼女は亡くなったという。きっと――いや、必ず、今で も拙僧を待っているはず。この寺に葬られたと風の噂に聞き、どうしても手を合わせなければならないとここまで来たが、この荒れた様ではどこに彼女が眠って いるのかすら分からぬ。水蔭殿、頼む。拙僧の願いを叶えてくれ」

「女がいたとしても、あんたに姿を見せることは できないよ。俺が見ている女があんたの想い人だって、どうやって確認すんのさ」

「彼女はいつも銀の簪を挿していた。まずはそれ を目印に」

「あんたは見えないからいいけどさあ、この寺、 けっこういるんだよねえ。目印が銀の簪って言うなら、先は長そうだぜ」

 ――そうか。見えないんだから、適当なこと 言っとけばよかったのか。

 誰の墓なのか、そもそも墓なのかすら分からな いものがたくさんある。適当に探すふりをして、手ごろな墓を指差してもバレはしない。

「ま、とにかく探してみようかねえ」

 さっさと終わらせようと、踵を返しかける。す ると、信導は紙の束と筆を差し出した。

「これと思う人が見えたら、絵に描いてほしい。 そうすれば、拙僧にも分かる」

「チッ……その手があったか」

 そっぽを向き、舌打ちする。信導が御影に目を つけたのも、絵師だったからというのも理由のひとつかもしれない。見えぬ者にとっては御影の絵を通してしか、目の前にいるものを共有することができないの だ。

 所詮、金につられてのこのこついてきた身。文 句を言える立場でもない。それに慶吾ならきっと、この力を他の為に使ったことを喜んでくれる。

 ――見てろよ。俺だって役に立つって、証明し てやるっ。

 筆の先を小さく噛んだ。ぐるりと見渡して、そ れらしい女の姿を探す。

 最初の女は本堂の脇にいた。髪を振り乱し、茫 然と空を見上げている。右手には血のついた銀の簪を握り締めていた。

 サラリ、筆を走らせる。霧雨で湿気た紙に女の 姿が滲んだ。

「こいつかい」

 絵を見た信導は目を見開き、本堂の脇を凝視し た。

「本当に……このような女がそこにいるのか」

「ちょっと。それを信じられないんじゃあ、あん たの願いも叶わないじゃないか」

「そうだ……いや、すまぬ。こんなに容易に見え るとは思わなかったのだ」

 御影には、生きている者と同じように見える。 いや、――他人に関心がない御影にとっては、それ以上に小五月蠅く映ってしまうのだ。区別がつかなくなることはないにしても、生きている者より身近に思う こともしばしばあった。

 ――俺って、死人に近いのかも。

 自分の周りには死臭が付き纏う。それは、見え る力がある限り、どうあがいても拭うことができない。

 望んで手に入れた力ではないからこそ、御影は ずっと苦しんできた。慶吾に出会うまでは、生きることにも投げやりになっていた。

 そうすることでしか、折り合いをつけることが できなかった。

 信導の顔に一瞬見えた、奇異のものを見る目。 独りだった昔を思い出しそうになり、御影は乱暴に絵を押し付けた。

「で? こいつはあんたが探してる人なのか、ど うなんだよ」

「いや――ち、違う」

「あ、そう。じゃあ、次だ」

 紙を丸めて放り投げる。

 細かい雨に濡れた睫毛を、小さく瞬かせた。

 

 

 

 

 ぬかるんだ小道に、丸めた紙が点々と落ちてい る。その先で、御影はうんざりとした顔で描いた絵を信導の前に広げた。

「今度こそ、どうだい」

「いいや。違う」

「……ちょっと……また違うの? いったい、何 枚描いたと思ってんだよ」

「違うものを、そうだとは言えぬ」

「……勘弁しておくれよ。やっぱり、成仏しち まってんだってば」

「必ずいる」

 先ほどから、同じ問答を繰り返している。御影 は悪態をつく気力も萎えていた。

 そもそも、成仏したか否かなど、見える者以外 には知りようがない。見えぬ信導がいくら「いる」と言っても、それだけを頼りに探し回るのも限度がある。

 ――こいつ、意地になってんじゃないのか?

 自分はそれほどまでに女に愛されていたと、思 い込んでいたいだけなのかもしれない。その想いばかりに囚われているとしたら、

 ――面倒な奴に、引っかかっちまったねえ。

 今さらながら、礼金に目が眩んだことを後悔し た。

「そういえばこの寺って、いつから和尚がいなく なったんだろう」

 霊探しに飽き飽きしていた御影が、他を探すフ リをして辺りを見回す。後ろをついて歩くばかりの信導は、小首を傾げた。

「さあ。詳しいことは知らないが……それが、何 か関わりあるのか」

「だってさ、あんたが修行に出た直後に、想い人 が死んだんだろう? その墓がここにあるってことは、それまでは確実に廃寺じゃあなかった。あんたが修行に出たのって、五年前だったっけ?」

「ああ」

「じゃあ、和尚がいなくなったのは、それより 後ってことになるよねえ」

「だから、そんなことがどうかしたのか」

 信導が、わずかに苛々しながら問いを重ねる。 手っ甲で、頬についた雨を拭い落とした。

「だってさあ、たった五年かそこらで、墓がこん なに荒れるもんかねえ」

 お堂の荒れ方はもとから古かったか、手入れを 怠っていたのだろうが、墓場のほうはもっとひどい。土はあちこち盛り上がっているし、墓石もいくつか倒れている。その倒れた墓石にも苔が生え始めていた。

「まるで墓荒らしでもあったみたいじゃないか」

「まさか。そんな罰当たりなこと、このご時世に する奴がいると思うか」

「さあてね。――で、娘の顔なんだけどさあ」

「娘?」

「あんたの想い人のことだよ。なんだよ、素っ頓 狂な声出して」

「ああ――いや、突然、話が変わったものだか ら」

「このまま闇雲に探してても埒が明かない。娘の 顔を教えてくれよ。その顔した女の霊がここにいるかどうか、探せばいいんだろう。似た奴がいて、そいつが銀の簪を挿してたら、簪の形を描きとるよ。あんた の想い人が挿してた簪かどうか、絵を見れば分かるよな」

 名案とばかり、勢い込んで言う。しかし、信導 は急に落ち着きを失くした。しきりと顔を擦り始める。

 御影が、笠の下の顔を覗き見た。

「汗がひどいねえ。そんな厚着の旅支度なんかし てるからじゃないのかい。手っ甲なんて取っちまえよ」

「触るなっ――」

 手っ甲に指をかけようとした御影から、素早く 体を離す。顎を伝う汗を乱暴に拭った。

「墓参りをしたら、すぐに、また旅に出るつもり なのだ。拙僧のことよりも、早く彼女が眠っている場所を探してくれ」

「分かったよ。じゃあ、ほら、娘の顔の特徴を 言ってごらんな」

「それが……これといった特徴のない娘でなあ。 説明のしようがないと言おうか……特徴のない顔は描きにくかろう?」

「別に。描こうと思えば、なんだって描けるさ」

「しかし――」

「ああ、もうっ。分かったよっ。特徴のない女だ ね。見つけてやろうじゃねえかっ」

 ウダウダ言う奴は嫌いだ。髪を描き乱し、視線 を一点に集中させる。筆を紙に走らせた。

 ――ああ、酒が飲みたいねえ。

 礼金が入ったら飯よりも酒が欲しい。慶吾の手 料理がないのは残念だが、この纏わりつくような暑さから早く解放されたい。

 ――なんの特徴もない顔。なんの特徴もない 顔……。

 念じるように描き、信導の前に晒した。

「あの植え込みの陰にいる女だ。銀の簪もして る」

「――これだっ」

 絵を見た途端、信導が叫び出す。御影が指し示 す場所に膝をついた。

 念仏でも唱えてやるのかと思いきや、素手で土 を掘り返し始める。雨で湿った硬い土が爪の間に入ることも構わず、まさに一心腐乱だった。

 御影は、静かにその背を見つめる。さらさら、 雨が木の葉を叩く音。そのさやめきに交じって、泥を掻き出す歪な音が響いた。

 ――なんだか、哀れだねえ。

 泥まみれになりながら我を忘れる信導は、取り 憑かれているようでもあった。

 ――いや。ありゃあ、立派に取り憑いてるよ。

 紙と筆を放り投げる。

 信導が不意に動きを止めた。ゆるりと、振り返 る。

「何か見つかったかい。お坊さん?」

「……てめえ……騙しやがったな」

 それまでの雰囲気が消えていた。御影の目の前 にいるのは、袈裟を纏っただけの薄汚れた男でしかない。

 落ち窪んだ目。こけた頬。ヤニで黄ばんだ歯を むき出しにして、御影に詰め寄る。

「どこだ? え? 女はどこに埋まってんだ よっ。てめえには分かってんだろっ」

「分かんないよ、そんなこと」

「見えてるはずだっ。お前の絵には、ちゃんと銀 の――蔦模様の簪が描かれてるじゃねえかっ。この簪を挿してる女が見えてなきゃ、描けねえ絵だっ」

 泥で汚れた紙に、面長の女が描かれている。一 重の目に小さな口。感情がひとつも読み取れない絵だ。それもそのはずで、絵の女は御影が想像で描いたものだった。

だ が、

「――ああ。確かに、簪は見えた。あんたの胸ん とこに突き刺さってるもん」

 声をかけられた時から見えていた。男の胸の真 ん中に刺さる、銀の簪が。その簪を手にした腕は、男の背面から、まるで抱きつくようにして回されている。腕の先は霞かかって見えなかった。

「な――」

 信導が慌てて自らの胸を見下ろすも、汚れた袈 裟があるだけ。

 からかわれたと思い、御影の胸元を掴み上げ た。

「てめえっ――殺されてえのかっ」

「見えてなきゃ描けないって、そう言ったのはあ んたじゃないか」

「どこに見えたっ。言えっ」

「ちょっと……苦しいってばっ」

 信導の手首を掴む。胸元から手を引き剥がそう と力を込めると、信導の手っ甲がズルリと滑り落ちる。

 両の手首に、鮮やかな色の蜘蛛が這っていた。

 禍々しい、毒蜘蛛の刺青だ。

「坊さんが彫るには毒々しいんじゃないのかい。 まあ、そもそもまともな坊さんだったら、刺青なんて彫らないだろうけど」

「……まさか……これも見えていたのか」

 ――見えるわけ、ないっての。

 端から、男の旅衣装が形だけだと分かった。ボ ロの笠に汚れた袈裟を纏ってはいたが、足元の下駄が長旅をしてきたようには見えないほど、綺麗だったのだ。語った話に信憑性を持たせるための小道具だった のだろう。それにしても、この暑い時期に手っ甲をはめたままというのも妙な気がした。だから、少しだけ、鎌をかけてみたのだ。手っ甲を外したがらない信導 を見、その手っ甲の下には見られたくないものがあると思うのは、難しいことではない。

 そんなつまらない種明かしは腹にしまい、御影 はさも意味有りげな顔で嘲笑した。

 信導が瞠目する。後退ろうとし、掘り起こした 泥の山に躓いて尻餅をついた。

「じゃあ……俺の胸には、本当に簪がっ――。 取ってくれっ、取ってくれっ」

「うるっさいねえ。自分に害が及ぶかもって分 かった途端に、臆病風に吹かれるんじゃないっての」

「そうだ。俺を助けてくれたら、お前にも分け前 をやるっ。どうだ、売れない絵ばっかり描いてたら、到底手にできないくらいの大金だ」

「分け前?」

「あ、ああ。この墓場のどこかに、金が埋まって んだよ。仲間が五年前に盗んで隠した金塊がっ」

「どこかって……この、だだっ広い墓場のどこに 埋まってるってのさ。目印くらい聞いときなよ」

「聞けるかよっ。仲間の金、かっ攫おうとしてる んだぜ」

 この墓場の荒れ様は、信導が金塊を探し回った からだ。しかし、見つけることはできず、切羽詰まった信導は藁にも縋る思いで御影を頼ったのだろう。

「女と銀の簪だけが目印――ってことは、あんた の仲間、金塊を埋める時に銀の簪挿した女を一緒に埋めたのかい」

「そういう話を、自慢気に話してやがった。警邏 に追われて金塊を隠そうとした時に、女に見られたんだ、と。その女ごと、どっかに埋めたって。女が挿してた蔦模様の簪のことだけは聞き出せたが、あんまり しつこく聞いてこっちの企みがバレたら元も子もないからな。……そろそろ、ほとぼりもさめる頃だ。奴が掘り起こしに来る前に、俺が……俺が……」

「泥棒の上前をはねようだなんて、おっかないこ とをしやがる。殺された女にしてみりゃ、あんただって、自分を殺した男の仲間と同じさ。そりゃあ、簪を突き立てたくもなるってもんだ」

 金を横取りしようとしている信導に対しても、 怨みの念を抱くような女だ。恐らく、女自身は、自分を殺した男の傍らにいる。

 その心を、もっとも強く残す場所――理不尽に 命を奪った男の傍に。

 

 

 

 

 御影は、馴染みの屋台で酒を飲んでいた。

 昼から降り続く霧雨は未だ止まず、月を朧にす る。暑い盛りには早くとも、ジメジメとした夜気は不快だった。目の前に銚子が一本だけという光景も不愉快極まりない。

 盃に酒を満たす。いつもなら煽るところを、ち びり、ちびりと舐めるように酒を含む。

「……これじゃあ、下戸の慶さんだよ」

 つまらなそうに呟いた時だった。

「お前にしちゃ、随分控えめな飲み方じゃない か、御影」

 シャツを腕捲りにした青年が、隣に座す。あま りの驚きに、御影は手にした盃を、危うく取り落としそうになった。

「慶さんっ。なんで? しばらく留守にするって 書いてたのにっ」

「いつの話だ。私が急用で出たのは四日前だぞ。 お前に知らせる間もなかったから走り書きを残していったというのに、帰って来る日にそれを読まれていたとはな」

「そうだったんだ……いや。でも、どうしてここ に慶さんが来るんだよ」

「穂栄堂さんから連絡を貰った。御影――お前、 墓荒らしに間違われたそうじゃないか」

「う――穂栄堂めえ……さっそく慶さんにチクリ やがったな……」

 昼間、信導と墓場で対峙していると、突然、巡 査が乱入してきたのだ。廃寺に出入りしていた信導が、人目についていたらしい。警邏の途中で寄った巡査が目撃したのは、あちこち掘り返された土と、泥まみ れの僧侶、斜に構えた御影の姿だった。巡査の目には小生意気そうな少年が首謀者で、気弱な僧侶に命じて墓荒らしをしている様に映ったに違いない。

「違うって言ったのに、全然信じてくれないんだ よう。俺は、あの男に頼まれて、仕方がなく手伝わされていただけなんだからっ。慶さん、信じておくれよう」

「仕方なくっていうのはどうだか知らんが、身元 を引き受けてくれた穂栄堂さんの所から、黙っていなくなったことは許せないな」

「だって……無理やり、絵を描かせようとするん だもん……」

 穂栄堂が目をつけたのは、御影が描き散らした 女たちの絵だ。それらすべてを描き直し、連作にしようと言い出した。そんなことになったら、これまで以上にせっつかれ身動きができなくなる。穂栄堂が本気 になる前に姿を消したつもりが、普段の行動範囲の中で逃げ回っていたのでは、こうして見つかっても文句は言えない。

「ねえ、慶さん。もう少し、ここにいていいだろ う? どうせ戻ったら、穂栄堂にがっちり絵を描かされるんだもの。少しくらい息抜きさせておくれよ」

 眉根を寄せていた慶吾は、銚子を見、ふと表情 を柔らかくした。

「それが空になるまで、な」

「ちぇっ。そんな返ししかできないから、慶さん はモテないんだ。この雨がやむまでは――とか風流な台詞は浮かんでこないのかい」

「生憎と、お前にモテようとは思っちゃいないか らな」

「俺だったら、『ここの払いは私が』とか言って くれたほうが嬉しいんだけど」

「ばかたれ」

 頭を小突かれつつ、御影は小さく微笑した。酒 が尽きるまでと言うなら、できる限り時をかけて飲もうと思う。

 ――ああ……でも、あんまり時をかけ過ぎる と、この心地よさも腐っちまうのかねえ。

 五年の歳月、死んだ女は、自分を殺した男に怨 みを抱き続けていた。他に戻りたい場所もあったろう。家族や恋人がいたかもしれない。それを振り切ってしまうほどの強い怨みは、きっと長い時が培ってきた ものだ。どんなに綺麗に咲いた花でも、長雨に打たれれば萎れ、腐る。

 花を腐らせる長雨の中、御影はそっと慶吾を見 た。

 ――この一時だけ、心地よさに浸ってもいいよ ねえ?

 ぐっと、盃を煽る。

 上げた顔に、小さな雫がひとつ落ちた。

 

 

 

 

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