あの娘が来て以来、伴ノ甫は何となく、不機嫌 だった。どうしようもなく苛々とし、宏にさえ、良くない顔を見せることもあった。優しい宏は何も言わない。だが、ひとりになった時、伴ノ甫は決まって後悔 した。

 ――なんでひどいこと、言っちまうんだろ。

 自問したところで、口にした言葉は決して返っ てくることはないのだ。

 ある日の昼下がり、井戸端でせっせと洗濯をし ていると、いつの間に居たのか、宏が後ろの縁側に座っていた。

「今日は大川で花火が上がるそうですね。お天気 もいいし、今夜は人出が多いでしょう」

「ふうん、それが」

 素っ気なく返してから、またやっちまった、と 思う。バツが悪く、顔を上げることが出来なかった。

 一方の宏は、そんなことなど気にしている気配 はない。

「今夜、店は私が居ますので、伴ノ甫さんは花火 でも見ていらしてください」

「でも……そんなこと、旦那さんが許しちゃくれ ないって」

「之春さんは、まだ起きていらっしゃらない?  でしたら、私から言っておきます。商いに支障がなければ、文句も言わないでしょう。私、今日は何も言い付けられていないのです」

「だったら自分が行けばいいじゃないか。……も しかして、近頃、おれがおかしいことを言うから?」

「これ以上、之春さんを喜ばせることもありませ んよ、伴ノ甫さん」

 之春は、本当に底意地の悪い悪人だ。人が苦し み、悩んでいる姿が、何よりの娯楽なのである。今の伴ノ甫を見るのは、さぞ面白いことだろう。

 濡れた手を着物の裾で拭う。勢いをつけて立ち 上がり、宏と向き合った。

「それも癪だし……花火、行って来ようかな」

「そうしてください。これは、些少ですが」

 掌に一分銀を握らせる。十二の子にやる小遣い にしては、随分と大金だが、その辺りのことは宏には分からないに違いない。

「宏さん、これ――」

「分かっております。鴉堂では、伴ノ甫さんのほ うが、勤めは長いのです。私などに子供扱いはされたくないでしょうが、今日ばかりは許してください」

「違うよ……一分もなんて、多すぎる」

「おや、そうでしたか。ですが、多いに越したこ とはありませんよ」

「おれみたいな歳の餓鬼に、これだけ渡したら、 一体何に使うか。宏さんってば、分かってないなあ」

「伴ノ甫さんならば、大丈夫でしょう。何せ、あ の之春さんに鍛えられているのですから。お金を無駄にすることは、ありませんよ」

「信用されてるの?」

「信用しています。そして、いつも助けられても います。これは小遣いというより、今までのお礼の気持ちなのです」

「それだったら――少ないよな」

 ニヤリ、笑うと、宏は涼やかに微笑みを返す。

そ の笑みに送り出されて、家を出た。思えば伴ノ甫は、之春と共に、鴉堂の内で多くの時を過ごしている。行ってらっしゃいと誰かを見送ることはあっても、逆は 滅多に経験がなかった。なんだか、こそばゆいものだと思う。

陽 が暮れるまでは、まだまだ時がある。家を出て、何をしようかと思案した。友と呼べる者は居ない。行きたい場所も、見たいものも、特に思い付かない。之春の 世話で日々が過ぎて行き、遊び方がよく分からないのだ。

―― 旦那さんのことは言えないや。

せっ かくの機会だ、存分に遊んでやろうと、永代寺へと向かった。

門 前には、多くの細々とした屋台が並んでいる。団子を売っていたり、甘酒を出していたり、面や風車の店もある。通り過ぎる者たちの手元を覗き込んで、自分も 冷やし飴を求めた。

風 鈴の音が、あちらこちらでわずかな風を示している。冷やし飴の次は瓜を頬張り、喉の渇きと空腹を満たした。じんわり、道の端に陽炎が浮かぶ。見つめている と、視界まで揺らいだ気がした。

―― ほら、あの娘までゆらゆらって……。

通 りの先を歩く娘の背が、急に小さくなったように見える。己の目が回ったのかと思った。

 ――いや、違う。

 本当に、娘がその場に座り込んだのだ。付き 添っていた女中が、すぐに駆け寄った。しかし、

「大丈夫ですか。どうしましょう……どうしま しょう」

 女中と呼ぶには幼すぎだ。あたふたとするばか りで、充分な介抱ができていない。

 周囲に、娘の異変に気付く者はいなかった―― 伴ノ甫以外には。

「……しょうがないなあ」

 瓜の汁で汚れた手を拭きつつ、しゃがんでいる 娘を見下ろした。

「あんた、大丈夫かよ。すごい汗だぜ」

「あんたって、誰に向かって――」

 娘が、血の気の引いた顔を上げる。途端、言い かけた言葉を飲み込んだ。

「ああ、あんた――あの夜の」

 之春から、腹の子をおろす薬を買った、いけ好 かない娘だった。額に冷や汗をかき、目は虚ろに伴ノ甫を見上げる。

「どうして……ここに、あなたが……」

「鴉は夜にしか飛ばないと思ってたのかよ。おれ だって、陽が高いうちに出歩くんだ。それより、どうしたんだよ。具合、悪いんじゃないのか」

「放っておいて……お鈴、手を貸しなさい」

「は、はい」

 お鈴という小女が、娘の背に手を添える。だ が、立ち上がるのもやっとの様子では、わずかばかりも歩くことはできないだろう。

「しょうがないなあ……」

 再び、同じ呟きを洩らす。頼られてもいないの に、手を出すのはお節介というもの。それは之春の世話で嫌というほど、肝に銘じていることなのだが、声をかけておいて見ぬふりをするのは後味が悪い。

「こっちだ」

 小女に手を貸して、すぐ脇の茶屋を示す。店の 女に金を握らせてから、奥の小上がりに娘を横たえた。小女が水と濡らした手拭いを持って来る間、伴ノ甫は衝立を移動し、外から娘の姿が見えないようにして やる。

「……慣れてるのね」

 弱々しい声で、娘が言った。

「あの、妙な店主の世話をしているんですっ て?」

「あんた、旦那さんの足のこと、知ってたんだ な」

「わたしたち、道弦先生の所で会ったのよ」

「ああ、そっか。だから、おれには見覚えがな かったんだ」

「……何も聞いてないの?」

「旦那さんは、わざわざ商いのことを、おれには 喋んないさ。そもそも、おれは商いの為に雇われてるんじゃないから」

「そういえば、丁稚でもないって言ってたわね」

「おれは、なんだろうな……旦那さんの世話をす るのが仕事だからさ。あんたんとこでいえば、女中とか、そういうもんだろ」

 ちょうど、お鈴が水を持ってきた。急須から湯 呑みに移し、娘はひとくち、ひとくち、確かめるように喉を湿らせる。

「あの、お医者様を呼んで参りましょうか」

 お鈴が、怖々といった調子で切り出した。

「要らない。休んでいれば治るわ」

「ですが、あの――」

「大丈夫だから、お鈴が外で休んでなさい」

「でも、旦那様に――」

「いいからっ。行ってっ」

「ヒッ」

 小さく飛び上がったかと思うと、お鈴はすぐさ ま、茶屋の外へ飛び出した。

 小女が居たところでどうにもなるまいが、傍目 には相当な癇癪持ちの娘と見られたに違いない。

「じゃあ、おれも」

 こんな面倒な女からは、一刻も早く離れるのが 上策。通りすがりの己こそ、さっさと帰れるものと踏んでいたのだが、

「お待ちなさい」

 ピシリ、厳しい声が背を叩いた。

「あなたの所の薬を飲んで、こうなってしまった のよ。介抱しなさい」

「うちから買ったのも、飲んだのも、あんたの意 志だろう。それに、旦那さんと約定を交わしたはずだろうが。何があっても、こっちは関わりないな」

「交わしたわ。確かに、鴉堂之春とは。でも、あ なたは別だもの」

「そんなの、屁理屈って言うんだ」

「五月蠅い。ちょっと、静かにして」

 ふうと大きな息を吐く。ゆっくりと瞼を閉じ た。話すのも辛くなっていた様子だ。見れば見るほど、顔色が悪い。

 それほど危ない薬を、之春は軽々しく、娘に売 りつけたのか。

 ――否、旦那さんをとやかく言うのは筋違い だ。

 薬を欲したのは、娘自身。欲しがりもしないも のを、たった十両っぽっちで誰かに譲るなど、之春は断じてしないのだから。客が求めるものを売って、金を得る。鴉堂の商いは、実に単純だった。

 この娘は、子をおろそうとしている。命を危う くする薬であることは、百も承知だったろう。ならば、ここで伴ノ甫が案じてやることはないはずだった。

 蒼白い顔を見下ろす。

 言いようのない感情が浮かんでは、また、消え ていった。

「あなたって、不憫ね」

 唇だけを動かして、娘が呟く。

「あの店でずっと奉公しても、店を継がせてもら える立場ではないのだから。主が替われば、あなたなんて用済みでしょ。女だったら嫁ぐこともできるけれど、男はねえ。その時になって別の店で働こうとして も、一から奉公ってわけにもいかないわ」

「……よく喋るな。寝てろよ」

「その隙に逃げる気?」

「そんなこと、しねえよっ」

「それなら、話に付き合ってくれてもいいでしょ う」

 ――我が儘なお嬢さんだな。

 今度は、伴ノ甫が大きな溜息をついた。

「あの店に比べりゃ、他の店で小僧から働くのな んざ、苦でもなんでもないな。第一、あの店の旦那になんて納まりたくもない。熨斗つけて断るってもんだ。危なっくて、この身が持たねえよ」

「あの人は平気そうだった」

「旦那さん自身が充分危ない人だから、いいん だ。危ない者同士で潰し合ってりゃ、他は平安だしな」

「そうなら……あの人は、危険な人を引き寄せる のね。わたしみたいに……」

 ふと、言葉を切る。

 伴ノ甫は、娘の傍らに腰を下ろした。

「お鈴って子には、薬のこと、言ってないんだ な」

「言ってない……言えるわけないもの」

「……まさか――親にも言ってないのか」

 小さく、頷く。

 伴ノ甫は天を仰いだ。仰ぎ見たところで、筵掛 けの汚い天井があるばかりだが、そうせずにはいられなかった。

「ばっかじゃねえの。こういうことは、まず、親 に相談するもんだろ。男に捨てられたって言うのが、そんな恥ずかしいのかよ。まったく――」

「違うっ」

 娘が振った手の甲が、伴ノ甫の頬を叩いた。

 娘はハッとし、視線を落とす。

「……なんなのよ、あなた。偉そうに……子供の くせに……」

「餓鬼が口出ししちゃ、いけねえのかよ」

「何も知らないわ」

「あんたは分かんのか。親に殺される餓鬼の気持 ちが、さ」

 一瞬にして、その場から音が消えた。

 外は人で溢れ、賑やかであるのに。

 蝉も、耳を劈くように鳴いているのに。

 伴ノ甫は、相対する娘と――否、母と二人だけ のような気がしていた。

「……何よ……」

 娘のか細い声。眦に、涙が滲む。

「何よ……どうして責められるの。わたしは何も 悪くない……どうしてわたしだけが、こんなに傷付かなければいけないの? こんなに辛くて、苦しくて、死んでしまいたいのに――」

 両の手で拳を作り、顔を覆った。わずかな隙間 から涙が滑り落ちている。

 茶屋の女たちは、厄介事を厭い、奥の小上がり には近付く気配もなかった。懸命な判断であると共に、状況を取り繕う手間が省けて、たいそう助かる。

「おれは、あんたを責めてやしない。だけど、子 をおろすとか騒ぐ前にさ、もう一回、ちゃんと相手の男に話してみたら良いっておも――」

「わたしに、誰か分からない男の子供を産めとい うの」

 噛み締めた奥歯の間を縫うような、憎しみが 籠った口調だった。

 一寸、息を飲んだ伴ノ甫は、軽い眩暈を感じ る。

「……何か? あんた、腹の子の父親が誰か分か らないのか」

「……分かるはずない……いきなり、暗がりに引 き込まれて――」

 乱暴された――。皆まで聞かずとも分かる。

 苦痛に歪む、娘の顔。蒼白な唇を強く噛み締め る。

 ――ああ、それでか。

 娘が鴉堂を訪れた際、宏から飛び退いた訳が やっと分かった。

 男、特にあの歳格好の男を見ると、恐怖が蘇る のだろう。

「ほんの近くだからって、ひとりで家を出たわた しが悪かったんだって、思った――そうなんだって思おうとしたわ。だけど、どうしても……子供が出来たって分かって、でも、誰にも言えなくて……死のうと も考えたけど、わたしが死んだら、あの男に、二度、殺されるような気がして……。わたしが死ぬことない、あの忌まわしい男の子供を殺すしかないって……」

「あんた……鴉堂にひとりで来たよな。よく、旦 那さんの言うことを信じたな」

「恐ろしかったわ……決まってるじゃない。だけ ど、一刻も早く、始末しなくちゃって、それだけを思って、お店まで行った。――わたし、今ほど、自分が女だってことを呪ったことはない。今、まさに、子を 殺そうとしているのだから」

 目の前で、消えゆこうとする命。伴ノ甫には、 どうすることも出来ない。手を伸ばしたところで、触れることも出来ないのだ。

「あんたは、自分を殺そうとしてんだよ」

 膝の上で拳を握る。口を出た声が意外なほど落 ち着いていて、伴ノ甫は冷静さを取り戻す。

「子をおろそうとしてること、辛いんだろ。苦し いって、痛いって顔だ。そんなの、憎い相手への感情じゃない。自分を半分、殺そうとしてるから、苦しいし、辛いんだ」

「……どんなに言い訳したって、事実は変わらな いのよ。わたしは……わたしは――」

「生まれる前に殺されたほうが、いっそ楽なのか もな。望まれずに生まれて、親の手で殺されるよりも」

 大人びた台詞を言うものだと、気にかかったの か。娘は震える瞼を、そうっと開けた。

「あなた……親はどうしたの」

「さあ。知らない」

「……捨てられたの?」

「そうなんだろうな。おれの母親は、おれの始末 を金で頼んだ――鴉堂に」

 娘の顔に、驚きの色が広がる。一度、口を開き かけ、わずかに逡巡する。

「だってあなた……生きているわ」

「あんたみたいに、腹の子を殺してくれって頼ん だわけじゃない。おれが生まれてすぐ……よく覚えちゃいないけど、それっくらいの頃のことだもの」

「怨んでいるのね……だから、わたしを責めてい るんだ」

「あんたに怨み事を言うのは、筋違いだったよ。 おれを産んだ奴とは違うんだ。あんたのほうがずっとマシ。あんたは自分の子を、自分の手で始末しようとしてる。おれの母親は、それすら投げ出した――おん なじことなのかもしれないけど」

 水を満たした湯呑みを、娘の手元に置いた。こ れで終わりとばかり、伴ノ甫は立ち上がる。

「ねえ」

 草履を引っ掛ける背に、振り絞るような娘の声 がぶつかった。

「はんのすけ、って名は誰がつけてくれたの」

「鴉堂の先代と、今の旦那さんだ。それが?」

「……変な響き」

「半人前だから、伴ノ甫だって言ってたな。ふざ けてつけたんだ。いつか、一ノ甫にでも改めようかと思ってる」

「いちのすけのほうが良いわ。伴ノ甫じゃ、締ま らない」

「おれは、やくざ者じゃないっての」

 唇の端が、微かに歪む。

 娘が力尽きたように瞼を閉じるのを見届けて、 外へ出た。表の床几の端に腰を下ろし、肩を落としているお鈴に、宏から貰った一分銀を握らせる。

「駕籠を呼んで、医者に連れてってやんな。近く に道弦ってのが居るから、そいつなら、大事なお嬢さんも顔見知りだから怒られやしないだろうさ」

「こんなにたくさん――頂くことはできません」

「いいって、いいって。おれには不要のもんなん だから。ほら、さっさと駕籠を見つけて来いよ。大事なお嬢さんが苦しんでんぞ」

「は――はいっ。ありがとうございます」

 ちょこん、頭を下げる。石に躓きながら、通り の人混みの中に消えた。

 ――赤子を助けてやろうなんて、思ったわけ じゃない。

 小さな命が助かるか否か、伴ノ甫が見極めるこ とでもない。ただ、ほんの少し、見てみたくなったのだ。

 道弦が処置をして、腹の子が無事なら、あの娘 は子を産むだろうか。

 そして、その子の始末を、どうつけるのだろう か。

 余計なことをしたと、娘は怒るだろう。しか し、ここで娘まで死んでしまったら、それこそ彼女を貶めた男への敗北に他ならない。

 それに、子をおろしたとしても、彼女を苦しめ るものは変わらない気もする。

 ――可哀想だな。

 ふと、娘の蒼白い顔が、頭を過った。次第に知 らぬ女の顔となり、それが思い出せもしない母親なのかと思う。

 チッと舌打ちして、空を睨み据えた。

 青く青く、どこまでも青い空に、怨み事のひと つでも言ってやりたくなる。

 

 

 

「あれ、お帰りなさい。伴ノ甫さん」

 夕方になり鴉堂へ戻ると、之春が散らかしたと 思しき紙屑を片付けていた宏が顔を上げた。

「花火はご覧にならなかったのですか」

「うん。なんか疲れちゃってさ」

「戻ったんなら、さっさと商いの用意でもしな」

 之春はいつもの調子で、素っ気ない。

「今日くらいはいいではありませんか。お店の用 意は私がしますから、伴ノ甫さんは奥で休んでください」

「宏には別に、頼んだことがあったじゃない。例 の掛け軸、早く取り戻して来てよ」

「佐島屋さんの件で、ご足労かけたからと、火盗 改めの守尾様にお渡ししたと思っていましたが」

「勝手に持って行きやがったんだ。あいつ、画を 眺める気もないくせに、値のあるものばっかり目をつけやがって。忍び込んででも良いから取り返して来るんだよ」

 火付盗賊改め相手に盗みを唆すとは、神も鬼も 恐れぬ男だ。彼が真に恐れるものとはいったい何なのか、いつか絶対に知りたいと思う。

「いいよ、宏さん。片付けはおれがやるから、ど うか旦那さんの我が儘を聞いてやってよ」

「そうですか。では、よろしくお願いいたしま す」

 足が自由にならない之春と、その世話に追われ る伴ノ甫に代わり、表立って動くのは宏の役目であった。彼が居なければ、鴉堂の商いはもっとこじんまりとしたものだったろう。

「では、行って参ります」

「取り戻すまで、帰って来るんじゃないよ」

「旦那さんってばっ」

 いつものやり取りで宏を見送る。

 伴ノ甫は、宏が片付け半分にしていった紙屑を 拾い上げた。何かと思えば、くしゃくしゃに丸められた讀賣だ。宏が買い求めて来たのか、お節介な誰かが置いて行ったものかは分からない。墨が滲むその中 に、沖緒屋の屋号を読み取ることが出来た。春先に、鴉堂に持ち込まれた一件の、その後の顛末が書かれているらしい。

 之春は、鴉堂が関わった一件に関しても、決着 を見てしまえば途端に興味を失い、その後のことは知ろうともしない人だった。伴ノ甫も、沖緒屋のことは風の噂で聞いたくらいだ。

 讀賣を一所に片付け、之春のために茶を淹れ る。

 帳面を繰っていた之春は、湯呑みを掴もうとし て、

「あちっ」

 思わぬ熱さに、慌てて手を引っ込めた。

「伴ノ甫っ、なんだい、この煮え立った茶は」

「お返しだ。ありがたく、飲み干せよ」

「なんだって?」

「惚けんじゃないよ。おれをダシにして、楽しん でやがったろう」

「なんの話だ」

「この前、腹の子をおろす薬を買ってった女だ。 あの女に亭主が居ないってこと、知ってたろ」

「おや、どこへ行ってたかと思いきや、お前、あ の娘に惚れたのかい」

 湯呑みを脇に退けつつ、再び帳面に目を落と す。平然とし、まるで動じる気配がない。

「偶然、会ったんだ。おかしいと思ったよ。旦那 さんが自分から、店に客を呼ぶなんてさあ。あれは何? おれへの当てつけのつもりか?」

「随分、肩入れしてるねえ。こりゃ、本当に惚れ たな」

「おれが、あんな女に肩入れするもんか。知って んだろ。おれの母親も、あの女とおんなじだ」

「ああ。だからお前は伴ノ甫なんだもの」

「はあ? おれの名は、半人前からきてるんだ ろ」

 伴ノ甫は、之春の父親からそう教えられてき た。随分とふざけた名だと思ったものだ。

「半人前。ふむ、それもその通り。だが、もうひ とつ――」

 意味有りげに言葉を切り、ニヤリ、片頬を歪め る。こんな顔をする之春の次の言は、必ず、相手を傷付けるものだ。それを重々知っている伴ノ甫は、ぐっと、腹に力を入れる。

「親が半分って意味だ。お前には、父親が居な い。母親だけ、片親だけ、半分だけだ。だから、伴ノ甫と」

「ああ、そうかよ」

 ――意外と、大丈夫。

 己の心に、言い聞かせる。真正面から、之春を 睨み据えた。

「別にどうも思わねえな」

「強がり」

「強がってねえよ」

「だったら、あの娘のことでそんなに腹を立てる こともないだろ? なぜ、そんなに苛立ってる?」

「そりゃ――旦那さんが、あんな危ない薬を渡す からだ。腹ん子より、あの娘のほうが死にそうだったぜ」

「そうかねえ。あたしが渡したのは、ただの腹痛 の薬だったんだけど」

「は……はらいた?」

 思わず、自分の腹を抑える。

「だって……十両、貰っていたじゃないか」

「あの道弦が渡していた薬が、効かないと言って た。それ以上に強い薬は、本当にあの女の命を奪いかねない。あたしは、子をおろす薬をくれと言われたが、自分の命を奪う薬をくれとは言われなかったからね え」

「じゃあ、旦那さんは嘘をついたんだな。ただの 腹痛の薬を十両で売って――」

 ハッと、口を噤む。

 伴ノ甫の様子に、之春は小さく眉を上げた。

「気付いたか。ただの腹痛の薬で、あの娘は死に かけたんだ。そこらに生えている草を、万病の良薬だと言ったって、あの娘には効くだろう。思い込みってのは厄介なもんさ」

「いや、でも……腹痛の薬で子はおろせないんだ から、いくらなんでも騙されたと気付くさ」

「気付くもんか。だいたい、孕んだってこと自 体、ないことなんだから」

「はあ? 何言ってんの。そりゃ、自分自身が一 番、分かることだろ。本人が言ってるんだから」

「怪しいねえ。実際、腹痛の薬で流産しかけて る。おかしいじゃあないか」

「だったら、どうして子ができたなんて言い出し たんだ」

「すべては思い込み。いや、そうだと信じきって いるのさ。道弦の話じゃ、あの娘、去年の夏から道弦の下に押しかけているらしい。子ってのは、母親の腹で十月十日過ごして生まれるってのは、聞いたことく らいあるよな。去年の夏に孕んだと知ったら、もう、子は生まれてるはずさ。あるいは、臨月に近い。あたしには、あれが生まれる寸前の腹には見えなかったが ねえ」

「それ……分かってて、騙したのか」

「腹痛の良薬で幻の子を始末出来るんなら、十両 も安いってもんだ」

「だったら、わざわざここへ呼び出さなくたっ て。道弦先生のとこでも、同じことが出来たろ」

「あの娘は、道弦を信じちゃいない。だったら他 の医者に行けばいいものだが、医者に対する不信感ってのは、付き纏っていたんだろうさ。医者はあてにならん、とね。あたしは医者じゃあないし、金さえ貰え れば毒薬だって売り渡す、萬屋鴉堂の主だ。よもや、偽物の薬を渡されたとは思うまいよ」

「なんか……得心いかないな」

 ぶつくさ、唇をすぼめる。

 之春が両手を広げて見せた。

「あの娘は、居もしない子を始末したいと頼んで 来たんだ。あたしは、それを叶えてやった。十両は、安いくらいだ」

「じゃあ、今度はおれにも手間賃をくれるんだろ うな?」

「何を言ってるんだい。図々しい」

「だって、旦那さん、充分に楽しんでたろう」

「おや。あたしはいつも、お前にくれてやって ばっかりだと思うけどねえ。飯、布団、屋根のついた家、仕事だって、誰のお陰だい?」

「う……」

「むしろ、進んであたしを楽しませてくれるくら いでなくて、どうする。そういうところが、気が利かない子だよ」

「誰が育てたんだよ、誰がっ」

「五月蠅いねえ。納戸の整理は終わったのか」

「また納戸っ。いい加減、綺麗になってるって」

「さっき、宏に本を探させた。きっと、ものの見 事に元通りになっていると思うが?」

「――宏さんにっ」

 あちゃあ、と額を叩く。宏は、人柄も剣の腕も 良いのだが、如何せん、炊事洗濯、掃除が恐ろしく不得手なのだ。幾度教えても飯を焦がし、庭掃除を任せれば、己が枯葉まみれになっている。そんな宏が納戸 に入って探し物など――いったい、中はどんな惨状になっていることやら。

「ああっ、もう。これも嫌がらせだな。そうだ ろ、え?」

「嫌なら出てってもいいんだ。そしたら、あたし も清々する」

「飯も作れないくせに」

「誰か雇うさ。口煩くない奴を」

「絶対、出てくもんか。先代に、旦那さんの面倒 をみてくれって、頼まれたんだからな。きっちり世話してやるから、覚悟しとけっ」

 わざと足音荒くして、自室へ向かう。

開 け放した障子に己の影が映った。振り返れば、月が中天に近い。月光で、庭を淡く照らしている。

部 屋の隅に、葛篭が置いてある。着物や手拭いの類を入れていた。

蓋 を開ける。之春の着物を仕立て直した袷の着物の下から、一枚の紙切れをそっと取り出した。黄ばんで、触れると容易に破れてしまいそうだ。

紙 には、文字と呼ぶにはあまりに拙い字が並んでいる。寺子屋に通う餓鬼でも、もう少しまともに書けるだろうにと思う。

そ れは、鴉堂の先代に宛てた文だった。赤ん坊を始末してくれと、そんなことが書かれている。

男 に乱暴された挙句、子が生まれた。だが、自分には育てることも出来ず、また、親子の愛情よりも男への憎さのほうが先に立ち、赤ん坊を憎まずにはいられない ――だから、始末してくれろ、と。

 文と共に、三朱、置かれていたそうだ。

 三朱――それが、伴ノ甫の、命の値だった。

 先代の頃、鴉堂は今よりもまともな店だった。 だから、幾ら払ったところで、赤子を殺すなど考えもしなかったろう。先代は、赤子を育て、之春の面倒を言い付けた。父親として、之春のこの先も、案じてい たところだったのだ。

 こうして、不運な伴ノ甫は之春の世話に勤しむ ことになるが、そのことに、苦は感じなかった。どこにでもある家族とは違っていても、伴ノ甫にとって、鴉堂で共に暮らす者は家族に等しい。

「置いてった金が小判だったら、あっさり水に沈 めてやったのになあ」

 軽口で、之春はそう言う。

 本気かもしれないが、だったらこっちは飯に毒 を混ぜてやろうかと、脅すことにしている。之春を大人しくさせる方法は、たんと学んできたのだ。

 母親が、唯一残した文字を見つめてから、葛篭 の中に戻した。廊下に出、月を見上げる。

 ふわり、ふわり、小さな瞬きと共に飛び交うも のがあった。

 蛍だった。

 

弐 『半分の事』了