暗夜の鴉 〜鴉堂雑記〜   
                               深町 蒼




弐『半分の事』

 

「もし……鴉堂さん、鴉堂さん」

 それは、雪がちらつく、寒い日のことであっ た。

 遠慮がちに戸を叩く者が居て、鴉堂の主は顔を 上げる。蝋燭を手に、立ち上がった。

「はいはい、ただいま」

 心張棒もかけていない不用心な戸を、すっと引 き開ける。

「おや」

 彼を呼び寄せた者の姿は、そこになかった。道 を渡るのは寒風のみで、己の影以外に人らしき影もない。

「はて。狐にでも化かされたか」

 踵を返しかけ、ふと、足元に気配を感じて視線 を落とす。

「おやおや。こりゃあ……」

 鴉堂は、それを腕に抱きしめた。冷えた体が、 ほのかに温かくなるのを感じた。

 

 

 

 夏も盛りのこの日、之春は駕籠に揺られて他出 の最中だった。四月に一度、幼少の頃より世話になっている医者のもとへ出向いているのである。今日は、いつも五月蠅い伴ノ甫はいない。とはいえ、足が覚束 ない之春だ。この日だけは、馴染みにしている駕籠かきが、目指す場所まで連れて行ってくれる。伴ノ甫にとっても羽が伸ばせ、之春にとっても四六時中の小言 から解放される、気分の良い日であった。帰りには猿若町へと足を伸ばし、芝居を見、時には舟で川涼みと洒落込む。まったくもって、良い心持ちなのだ。

「いやあ、今日は天気が良くって、旦那の外出を 喜んでいるみたいですぜ」

「暑かったら言っておくんなさい。日陰の道を行 きますんで」

「喉が渇きませんかい? どこぞの茶屋で、休み ますかい?」

 駕籠かきがやたらと話かけてくる。手間賃を弾 んでくれる之春は、四月に一度ではあっても、彼らにとってかなりの上客だ。この日の之春を鴉堂の客が見たら、本当にあの守銭奴かと目を疑うだろう。たまの 息抜きに、金払いが良い之春だった。

 さて、目指す医者の屋に着くと、駕籠かきたち は慣れた様子で、之春の両脇を抱えた。そのまま奥へ進み、木の台の上に座らされる。医者が現れると、駕籠かきたちは外で一休みだ。

 顔もいい加減見飽きた医者は、名を道弦といっ た。目の間が離れていて、蛙に似ているといつも思う。六十も近いはずが、矍鑠として生気に溢れていた。

「来たか、この悪党め」

 くっくっくと、声を出さずに笑うのも、彼の癖 だ。

「悪党とは言ってくれるねえ。二十年以上、来て やってるってのに、あたしの足も治せもしない藪医者のくせにさ」

「てめえの足は、これ以上良くならねえよ。何度 も言わせるんじゃねえ」

「動かさずにいたら、いずれまったく動かなくな るってんだろ。こんな役に立ちもしない足、切って誰かにくれてやりたいね」

「てめえからその足取ったら、ますます金の亡者 になっちまうんじゃねえのかよ」

「五月蠅いねえ。ほら、さっさと済ましておくれ な」

「口ばかり達者になりおって。いったい、誰に似 たのやら」

 道弦はぶつくさ言いながら、之春の足を目視す る。おもむろに膝と踵に手を添えたかと思うや、十回ほど、曲げたり伸ばしたりを繰り返した。両足が終わったら次は、爪先を動かしてみろだの、足首を回して みろだの、あれやこれやと試される。前と同じなら良。少しでも動きが鈍いと、バッチンと平手で脛を叩かれた。

「ダラダラと寝てばかりいやがったな。目ん玉、 くり抜くぞ」

 子供の頃から変わらない脅し文句である。之春 も、もう三十に近い。脅しも鼻で笑い飛ばしていると、診立ては四半刻ほどで終わった。

 部屋に之春を残し、道弦は足の痛みに効くとい う薬を調合しに、屋敷の奥へと消える。ようやっと、静かになった。降り注ぐ蝉の声まで耳に心地良く聞こえるから、いかに道弦の濁声が耳触りだったか分かる というものだ。

 程良い眠気に、わずかにウトウトしていると、 何やら耳につく音が聞こえてくる。表のほうから荒い足音が近付いていた。

 顔を上げる。途端、障子の枠を、無遠慮に掴む 白い手が見えた。

「藪医者、居るんでしょ。出て来なさいよ――」

 怒声と共に姿を現したのは、荒々しい口調など とは無縁の、身形の良い若い娘だ。大きな目で部屋の中を見回す。

「道弦なら奥だ」

 娘は之春に視線を留めた。

「あなた、こちらの方?」

 こちらの方なら、百くらい小言を言うつもりか もしれない。

「いいや。ただの客さ」

「病人? そのわりに、元気そうね」

「あんただって、医者んところへ来るには、元気 が良すぎる」

「ふん」

 ツンと尖った顎を逸らした。気を悪くしたのも 一瞬らしく、すぐに廊下の先に標的を探しに行く。

「道弦もタジタジ、って感じの娘だねえ」

 己に害がない場所で揉めるのは、たいそう、興 味をそそられることであった。

 その後、いつもより長い時をかけて調合を終え た道弦が現れた。表情に見える疲れの色は、気のせいではなかったはずだ。

「居場所を教えやがって……黙って、知らぬふり をしておればいいものを」

「病人が居るのに、医者が居ないのはおかしいだ ろう。白を切るなんてできるもんかね」

「厄介な客だ。あの娘も、お前もな」

「病人は大事にしろ。病人あっての商いなんだか ら」

「病人なら、な」

「は?」

「あの娘、必死だ。去年の夏から、ずっと通って くる」

「病を治したいんだろうよ。そりゃ、必死にもな ろうってもんだ」

「いや、あれは病じゃねぇ……正気に戻ろうと ――」

 不意に口を閉じる。話過ぎたと思ったのか、急 に手を振り始めた。

「やめた、やめた。お前を相手に話しても始まら ん。ほら、さっさと帰りやがれ」

 不機嫌極まりない様子で、鼻が曲がる臭いを放 つ薬を、之春の袖にねじ込んだ。

「言われなくたって、長居は無用だね」

 道弦が駕籠かきを呼ぶ。之春は、来た時と同じ ように運び出された。表に出るや、日差しを受けた肌に、じわりと汗が浮かぶ。どこかで舟でも調達して、川遊びでもしていきたい気分だ。はて、そうなれば料 理や酒はどこからとろうなどと思案しつつ、ふと見れば、道弦の屋敷を囲む垣根の脇に、先ほどの血気盛んな娘が立っているではないか。力を込めた両手は、拳 を握っている。一心に、屋敷内を睨んでいた。

「おやおや、熱心だこと」

 足元に視線をやる。白足袋が、土で汚れてい た。どうやら道弦に、手荒く追い出されたらしい。

 之春は横目で一瞥し、クッと唇の端を上げた。

 駕籠に乗り、駕籠かきたちを用意させたまま、

「ちょいと、あんた」

 上体を傾けつつ、娘に声をかけた。しかし、怒 りに震える娘は、己にかけられた声に気付いていない。

「あんただよ。娘さん」

「……わたし?」

「そうそう、あんただ。どうだい。一緒に川涼み とでも洒落込まないかい」

「……あなた、誰」

 気易く話かけられ、ムッとしていた。気位の高 さといい、着物の仕立てといい、どこぞの大店の箱入り娘と、之春はあたりをつける。

「豪儀にもひとりで医者に文句をつけに来る娘 が、よもや男と舟遊びをするのが怖いのかい」

「当然でしょう。誰がそんな誘いに乗るもんです か」

「別に、取って喰いやしないけどねえ。あたしは 美味いもんしか喰わないからさ」

「ちょっと、何よ、それ――」

「この足で、何が出来るってんだい? ねえ?」

 ニイっと、目が三日月の形を作った。

 娘の大きな目は、その月に、しだいに吸い込ま れていった。

 

 

 

 伴ノ甫は、店の納戸が嫌いだ。出来ることな ら、近付きたくもないほどに。納戸には、之春が安易に引き受けた、怪しく不気味な品が押し込めてあるからである。

 伴ノ甫とて、物心つく前から鴉堂で暮らしてい る。そこらの餓鬼よりは、そういう類のものは多く目にしているはずだ。

 しかし――伴ノ甫には、この世で唯一、大嫌い なものがある。幽霊、というものが、それだ。これはもう、慣れる慣れないの問題ではない。頭で考えるより前に、嫌なのだ。

 鴉堂は萬屋である。金を積まれ、面倒を引き受 けることなど、日常となって久しい。納戸に入ったものもまた、始末に困った挙句、鴉堂におっつけられた品だった。

 やれ、遊女の怨念が宿った鏡だとか、描かれた 女が夜毎、姿を変える掛け軸だとか、誰も居ないのに動く算盤だとか、数えればキリがない。

真 偽はどうあれ、納戸からは確かに、禍々しい気配を感じる伴ノ甫だった。悪しきいわく通り、勝手に動いたり妙な影を見たことも、一度ではない。

―― 呪いや罰なんか、全然、怖くないってのに。

ど ういうわけか、幽霊だけは身の気がよだつのだ。

こ の家でそんなものを怖がるのは、伴ノ甫ひとりである。之春はもちろんとして、宏さえも、納戸と隣合わせの部屋で寝起きし、平然としている。よく、誰もいな いはずの納戸から物音が聞こえるとは言うものの、

「鼠だと思えば、五月蠅い音も気になりません」

 幽霊より、眠りを妨げる音を気にするとは、宏 は神経が図太いのか、それとも鈍感なのかと、首を傾げずにはいられない。

 本来、この手の品は、早々に然るべき寺に預け てしまうべきだ。鴉堂には、暇と金を持て余した酔狂な坊主が、時たま、冷やかしで顔を出す。伴ノ甫としては、わずかばかりでも寄進して、このどうにもなら ない品をさっさと押し付けたいのだ。

 だが、之春は云と言わない。

「なんで、わざわざ金を出して頼まなきゃならな いんだい。あいつの無駄話に頭を痛めてるってえのに。あの地獄耳が拾って来るどうでもいい話を、一晩中聞かされちゃあ、こっちが金を貰いたいくらいだ」

 散々な言い草だが、要は金を出すのを渋ってい るのだ。誰かに頭を下げるくらいなら己でやる、生臭坊主に出来てあたしに出来ぬはずがないと、塩を持ち出すこともあった。

「あんた、素人だろ」

 伴ノ甫にどう言われようと懲りないのだから、 主は幽霊の次に、伴ノ甫の悩みの種であった。さらに厄介なことに、近頃、納戸の掃除を言い付けられることが多い。

「ちくしょう、ちくしょうっ。ここんとこ、面白 いことがないからって、おれに嫌がらせしやがって」

 月夜の庭で悪態をつきつつ、血文字が浮かぶと 噂される座布団を力任せに叩いていた時だった。

「小僧さん――そこの小僧さん」

 裏木戸の辺りから呼ばれた気がする。

 夜も更けているだけに聞き間違いだと思った が、

「小僧さんってば」

 苛立った女の声だ。伴ノ甫は、座布団を叩きつ つ、そちらへと足を向ける。

 板塀が破れ、裏の小道が覗ける穴がある。そこ から、こちらを覗き見ているのは、若い娘のらしい。

「小僧さん。ここは鴉堂かしら」

「違う」

「あら、では鴉堂という店を知らない? 夜遅く に開くらしいのだけど――」

「おれは、ここの小僧じゃないって言ってんだ」

 一瞬、何に対して言われたのか分からなかった ようだ。大きな目が瞠目したかと思うと、すぐに険のある目付きになる。

「では、何なのよ。丁稚さんって呼べばいい の?」

「丁稚でもない」

「まさか、その歳で手代だっていう気じゃないで しょうねえ。ああ、この店の子なのかしら。こんな遅くに用を言い付けられるなんて、仕事の出来ない奉公人かと思ったものですから」

 鼻で笑ってでもいるのだろう。伴ノ甫を傷付け てやろうとする意志が、見え見えだ。

 伴ノ甫とて、之春の厭味に鍛えられてきた。こ れしきのこと、心を乱すものでもなかった。

「表へ廻んな」

「え? なんですって」

「表が鴉堂だ。用があるなら、そっちに廻ってお くんな」

「早く言いなさいよ」

 不機嫌そのものの声を残し、女は板塀から体を 離す。小さな足音が、小道を辿っていった。

 伴ノ甫は顔を空へ向ける。無数に輝く星に、己 の溜息を吹きかけた。

「ありゃ、客だな。旦那さんが面白がるに違いな いぞ」

 座布団を放り出す。小走りで店へと戻った。

 

 

 

 鴉堂を訪れる者は、自ら名乗ることがない。夜 更けに人目を忍んでこのような店を訪れるということは、後ろ暗く、やましいことがあるからだ。自ら好んで、恥を晒そうとは思うまい。

 この夜、客となった娘もそうだった。供も連れ ず、夜道の危うさの中、鴉堂に辿り着いたのである。

何 より驚くべきは、

「さあ、来てやったわよ。これで、わたしの決心 が分かってもらえたかしら」

「別に、端っから疑っちゃいないさ」

之 春と娘は、すでに顔見知りらしい。

伴 ノ甫が首を傾げた。

「こんな娘、来たことあったっけ」

 之春には、竹馬の友や朋友といった類は、ほと んど――いや、皆無である。足が悪いからという訳ではなく、ひとえに彼の性格の悪さが招いた結果だ。故に、之春が他人と関わるとすれば、この鴉堂を介して に他ならない。自然、伴ノ甫も顔を覚えてしまうのだが、この娘は明らかに初めて見る顔だった。

 娘は何が気に入らないのか、伴ノ甫に鋭い視線 を向けてくる。

「ちょっと、外してくれないかしら」

 人に聞かれることを嫌がる客も多い。伴ノ甫が 言われるまま、立ち上がろうとすると、之春がそれを制した。

「伴ノ甫はここにおいでな」

「客が嫌だって言ってんだよ」

「お前は、あたしの世話をするのが仕事だろう。 そのあたしを放っていくのかい。ああ、なんて非情な子なんだろ」

 己のことは棚に上げ、よく言えたものだ。だ が、之春の言う通りでもある。伴ノ甫は、之春の世話をし、商いを滞りなく済ませることが仕事だ。

 自分の意が通らなかったと見るや、娘は一層、 表情を険しくした。

「客の言うことに、否と言うわけね」

「ここは、あたしの店だ。どうしようと、あたし の勝手さね」

「こんな人が主だなんて、どうかしているわ」

「気に入らないなら帰っておくれな。こちとら、 客はあんただけじゃあないんでねえ」

「嘘よ。こんな店、誰が来るっていうの」

「そうだとしたって、あんたに関わりないこと。 さあ、さっさとお帰りな」

 来て早々、追い返されるとは、よもや娘も思っ ていなかったに違いない。強く、唇を噛み締めた。

 しかし、之春も伴ノ甫も引き止める気配がない と見、渋々、口を開く。

「気にしなければ、居ないのと同じだわ」

 ――いちいち、言うことが引っ掛かる女だな。

 之春とは別の意味で、癇に障る。

「……例のもの、本当に分けてくれるの」

 娘が声を低めた。盗み聞きする者も寝ている刻 限で、いったい誰を憚っているのか。

 恐らく、自分自身に対してやましさがあるのだ と、伴ノ甫は思う。そういう者ばかり、見慣れていた。

「言ったはずだ。金を持って来たら分けてあげる と。金は持って来たのかい」

「ええ……ここに」

 手にした巾着から出てきたのは、十両ほど。歳 若い娘が持つには大金だが、鴉堂の商いからすると、遥かに値が下がる。

 嫌な予感がした。

 こういう金にならない商いを引き受ける時、決 まって之春は、暇なのだ。道楽のつもりでホイホイと引き受けてしまうのである。この娘との取引も、一種の賭けのつもりだったのだろう。

 娘が、たったひとりで鴉堂まで辿り着けば、望 むものを与える。それがどのように値の張るものであったとしても、十両ぽっちで売る気だ。

 ――可哀想にな。旦那さんの暇潰しにされちま うなんて。

 うっかり、同情してしまう。

 金をろくに数えもしない之春は、懐からたいそ う古い鍵を取り出して、伴ノ甫に投げて寄越した。

「蔵の百味箪笥、右から二列目、上から四つ目の 薬を持って来ておくれ」

「へいへい」

碁 盤の目をいくつも並べたような引出しの配置を、よく覚えているものだ。

 店は、奥に内蔵がある造りであった。錠前に鍵 を差し込むと、夏だというのにひんやりとした風が吹き上げてくる。小さな蝋燭を灯し、中へ足を踏み入れた。

 左の壁一面には、何に使うものやら分からぬ道 具や、手にしただけで崩れてしまいそうな書物が積まれている。萬屋の商いをやめたとしても、食い扶持には困らなそうだ。どんな商いをするかは、非常に問題 になるところだが。

 ――こんな怪しい店なのに、役人が手を出して こないんだから、大したもんだよ。うちの旦那さんは。

 密かに鴉堂を訪れる客には、役人もいる。之春 に弱味を握られている者が、ひとりではないのだ。しかも之春ときたら、同業と感違いして店へ来た盗賊を言葉巧みに酔い潰し、気紛れで役人へ引き渡したこと もあった。その盗賊が、その筋の世では名の通った者だったから、町奉行所も火盗改も、之春に借りが出来てしまった。役人にとっては、不本意極まりないこと だったろう。

し かし、無闇に藪を突かなければ、中の蛇は大人しいもの。あちらから何か言って来ない限り、之春が好き好んで役人と関わることはない。

鴉 堂は、静観すべし。そのうち、誰かが滅亡に追いやってくれるだろうから――なんてことが、ひそやかに囁かれているとか、いないとか。

百 味箪笥は、蔵の右壁に据えられている。小さな引出しのひとつひとつには、之春が興味本位で集めた生薬や、処分に困った客が置いていった薬が入っている。引 出しに番号も、薬の名も書かれていないものだから、全てを把握しているのは之春だけだ。

言 われた引出しを開け、折り畳まれた薬包紙を摘まむ。これが何に効く薬なのか――あるいは毒薬であるのか、見当もつかない。うっかり触ると恐ろしいことにな りそうな気がする。

「そもそも薬ってのは、毒でもあるんだ」

 之春に言わせれば、同種のものらしい。それで も、之春自身はこの百味箪笥の薬を使わないから、無責任だとも感じる。

 毒が眠っているかもしれない蔵に、しっかりと 鍵をかける。

 待ちかねた主の掌に、薬包紙を乗せた。その瞬 間、娘の目が輝いたように感じたのは、気のせいだろうか。

「ほら、これがあんたが欲しがってた薬だ」

 ぽいっと、娘の手元に放り投げる。

 娘はそれを、震える手で握り締めた。

「これで――本当に、子をおろせるのね」

 ――子を、おろすだって?

 伴ノ甫が顔を上げる。その耳に、之春の感情の ない声が聞こえてきた。

「女郎屋で使っていたもんだからねえ。そこらの 医者に掛け合うより、ずっと確実さ」

「あの道弦という医者、腕はいいって話だったの に、渡す薬は全く効かないんですもの」

「効かない薬を調合して、何度も通わせ、金をせ しめるのが奴の手なのさ」

「ありがとう。あなたに会えて良かったわ」

 この店で礼を言ったのは、彼女が初めてだ。何 事もなかったように立ち上がり、戸口に手を掛ける。

 そこで、ちょうど外から戻った宏と鉢合わせ た。

「っ――」

 娘が驚き、飛び退いた拍子に、足元が揺らい だ。倒れそうになるのを、宏が抱き止める。

「申し訳ありません。大丈夫ですか」

 宏らしく、穏やかな口調で尋ねたのだが、

「放してっ――」

 娘が叫んだ。怯えた様子で宏を押し退ける。そ のまま小走りに、店を出て行った。店は急に静かになった

「ああ、明かりも持たずに……。追いかけたほう がいいでしょうか」

 宏は、自分が手にしていた提灯と、娘が消えた 夜の道を見比べる。

「いいよ、放っておきな」

 と、之春が首を掻きつつ、欠伸を噛み殺した。

伴 ノ甫がムッとした表情で、主に向き直る。

「……どういうつもりだ」

「何が」

「おれを、わざとこの場に居させたな」

「面倒なことを、ごちゃごちゃと考えるんじゃな いよ」

「だったら、腹の子をおろす薬なんて渡すんじゃ ねえよ」

「あの娘が、どうしても欲しいって言うもんで さ。良いだろ。あんなもの、後生大事にしてたって、男所帯には不要なものなんだから」

「だからって、薬種の知識もない旦那さんが、 売っちまっていいのかよ」

「どうなっても責任はとらないと、証文は書いて もらったさ。これがないと、お前にとやかく言われるからねえ」

「いつの間に……」

「とにかく、あの娘は子をおろしたくて必死なの さ。女ひとりで、道弦に因縁つけようって気の強い奴だ。ここまでひとりっきりで来たんだって、それだけ本気だってことだろ。金は貰ったし、商いに支障がな けりゃいいじゃないか」

「本気だったら、子を殺してもいいのか」

「伴ノ甫さん――」

 いつになく険悪な雰囲気に、宏が仲裁に入ろう とする。だが、宏が言うより早く、

「いいんだよ。あの女は、母親じゃないんだか ら」

 之春が言い放つ。

 伴ノ甫の問いに対して、明確な答えではない。 子を生したなら、あの娘は母に違いないのに。

 分からない――考えたくもない。

 胸糞が悪くなった。

 之春は何も言わず、意地悪くほくそ笑むだけ だった。


→続 く